02

 そして担々麺を食べている師範はというと、今日着任したばかりの御法真紀であった。

 今朝から来ている彼女であるが、『講武所』の所長と副所長との面談、そして同僚となる各師範たちの面通し――もほどほどに、何枚もの誓約書に署名を書かされた。『抜刀許可』やら『霊力制限同意書』というのを見て溜め息が出た。結局は自分は軍務規定違反の兇状持ちというわけだ。

『いや、あなたのレベルの兵法者が素でいられるはずがないじゃないですか』

 能力封印の儀式を執り行う神官はそう言っていたが、そんな大仰なものだろうかと真紀は思う。現実に、三年間、なんの封印もしないで蟄居していられたというのに。

 色々と納得はし難いのであるが、しないと仕事につけないというのであるから仕方ない。

 そういうことで真紀は霊力量を往時の五分の一にまで減らし、一部の能力の制限までつけさせられた。それだけに昼まで時間がかかった。

(こんなで指導できるのかなあ) 

 そんな風なことをぼやきながら、食堂にやってきた真紀は担々麺を頼んだ。理由は「懐かしい」というもので、《魔法世界》には真紀がくる以前から中華人が渡っていて、すでにその料理を広めつつあった。真紀も汁なしの本場風の担々麺を食べたのは《魔法世界》が初めてであった。あまり食べ物にこだわりかない真紀であるが、これはなかなか気に入っていた。こちらに帰ってからは、そもそも外食などしていない。

 そんなわけで、なんとなく懐かしく想いつつ食べた担々麺は《魔法世界》のものともまた違うが、なかなかに旨いと思った。

 おかわりなんか頼んでも変に思われないだろうか……なんてことを食べながら考えている。

 そうなのだ。

 御法真紀は、目の前の位置で今や今やとばかりにボルテージを高めている二人の生徒のことなんて、まったくこれっぽっちも意に介してはいなかったのだ。

 さすがに気づいてない、なんてことはないけれど、ああなんか揉めているなあ程度にしか思っていなかった。

(まあよくあることよくあること)

 いがみ合い、にらみ合い、戦場ではよくあることだ。それに案外と睨み合うだけで実際に殴るだなんだのという荒事に発展するということもそうそうない、とも真紀は知っている。

 世間的なイメージでは、前線になっているような地方では始終揉め事が起きて人が死んでいるようであるが、現実にはそんな単純でもない。

 なんだかんだと規律に厳しい軍隊では喧嘩なんかすれば厳罰は必至で、これが軍隊でなくとも、《魔法世界》は氏族単位や移民単位での抗争になりかねないこともあり、物騒ではあってもなかなか喧嘩なんかは起きない。

 そして御法真紀が忘れているのは、ここが前線でもなければ軍隊でもなく、《魔法世界》でもない、ということである。

 生徒たちは簡単に殴り合うし、下手すれば武器やらを持ち出しての殺し合いにまで発展することすらある。

 そういうことを彼女は知らなかった。

 知っていても、大して気にかけなかったかもしれないが。

 目下、御法真紀が気にしているのは、担々麺のおかわりを頼むべきか否かである。



(この人は何者なのかしら)

 と美緒は思っていた。

 ニコニコと挑発するように笑いながらティナを見つつ、その視界の隅で当たり前のような顔をして担々麺食ってる女性師範のことを、当然彼女は気づいている。

(この状況で、止もしないでただ食べているだけの師範)

 最初に気づいたときに考えたのは、邪魔に入られたらどうしようというもので、さすがに師範相手に勝つ自信は彼女にもない。師範がいるから喧嘩をやめようなどいうことは微塵も考えなかったあたりはさすがともいえるが、師範を相手にしての戦いも想定しているあたりで常軌を逸している。

 ――とはいえ、それを聞いても、あるいは彼女ならばとこの『講武所』の大半の人間は納得したかもしれない。

 榊美緒。

 神童、と言われた彼女ならば。

 相手が師範レベルの兵法者であっても、そう滅多に遅れは取らない、つもりだ。

 だが、そんな神童だのと言われる榊美緒にしても、現役かそれに近い兵法者と積極的にことを構えたいわけではない。彼女の目的はあくまでも今の時点では目の前にいるエルフ耳との喧嘩に勝つことであり、それ以外のことではないのだ。

(どうでるつもりかしら……?)

 あくまでもこのまま、自分らを無視し続けるならば、それはそれでよし。

 そうでなく、もしも自分らの戦いに介入してくるならば――

 美緒は見知らぬ師範の、前髪で隠れてよく見えない顔を一瞥してから、その下の胸に視線が吸い寄せられた。

(――、にしても、大きい)

 


(? ……何見ている?)

 ティナは美緒の視線が一瞬、自分から逸れたことに気づいていた。さすがにメンチ切り合ってる相手がそうすれば、彼女も気づく。しかし、それで自分がどうすればいいのか、ということは解らなかった。

 視線を外す、ということは戦いにおいてはいくつかの意味があるが、多くが誘導だ。相手が何処かを向けば、反射的にそちらに気を向けてしまう。

 勿論、そんなものは初歩の初歩で、こうして『講武所』に入るような人間がそんなのに単純に引っかかったりしない。

 しないつもりだ。

(けど気になる)

 視線誘導に引っかかってないからと、そこでこちらから仕掛けてもいいというものでもない。それ自体がフリということもあり得る。視線をそらすことでこちらの打ち気を誘うという手だってあるのだ。

(今更、こいつがそんな手を使うとも思えないけど……)

 榊美緒がこんなケチな手を使うはずもない、と思う。こいつが使うのならば、もっと陰湿でしょうもない手だ。

 ふ、と。

 手がテーブルに伸ばされたのが見えた。その先にあるのが美緒が頼んだCランチのエビチリ定食だというのが解った。あの赤さは間違いない。美緒の手は自分の食事のお盆の縁へと伸ばされていた。

(まさか)

 ティナは慄然とした。

 榊美緒はそのまま少し自分の後方に置かれていた自分のお盆を真横まで滑らせて――

 お盆の縁を、勢い良く推した。

 エビチリが飛んだ。

(ヤバい)

 この軌道、間違いなく自分の揚げ鳥のくるみソースかけ定食を狙っていたものだ。どういう目算があってこんなことができるのか。相手の定食を生ゴミにするためだけにこいつは自分の部屋でお盆を勢い良くひっくり返す特訓でもしていたというのか。

 ……すでにこの時点でティナは美緒の術中に陥っていたのであるが、当然、その瞬間の彼女にそんなことが解るはずもなく、自分のランチを護るためにどうしたらいいのかということに一瞬意識が割かれてしまっていた。

 次の瞬間。

 美緒の踵がティナの鳩尾に入っていた。

(な――――ッ こいつ!?)

 前のめりに側転しつつ、勢いをつけた自分の踵を相手に叩きつけるという空手の大技、胴回し回転蹴りだ。

 反射的にガードはしているが、当然、こんな大技が入って無傷だなんていられない。ブーツの踵は重くて固い。そんなものを全体重に回転の勢いをつけてぶつけられるのだ。魔術防御ができない人間ならば命に関わる。

 ――勝負あったか!?

 食堂内部にいた八割の人間はそう思ったが、ティナはこの程度で倒れるほどヤワではない。それは何度となく拳を交わした榊美緒が一番知っていることで、蹴りを決めた直後の不安定な態勢からすぐに立ち上がり、反撃に対して備えていた。

(ここからが――、)

 ティナは予想通りに蹴りを叩き込まれて何歩か退きはしたものの、それ自体で倒れることはしなかった。すぐさまに態勢を整えて突きを打ってきた。ここから粘りつくような近接距離かからの攻防は、アーニスをメインにしたフィリピン武術の遣い手である彼女の独壇場だ。それでも鈍りがあるのは、最初の蹴りのダメージが残っているからだろう。

 この時のためにボクシングを学んだ榊美緒は受けて立ち。



 ずぅ。



 確かに、その時、食堂にいる全ての人間は、聞いた。

 その声が何処からしたのか、誰も解らなかった。解らなかったが、全員に聞こえて、全員がその瞬間に動きを止めていた。

 いや。

 ただ一人だけ。

 声を発した、ただ一人だけが、立っていた。

 担々麺の丼を片手に持ち、いつの間にか、ティナと美緒の中間に立っている。ついさっきまでテーブルの向こう側だったのに、座っていたのに。


 御法真紀が、そこにいた。


「………………師範?」

「………………アンタ、は、」

 二人はそれぞれがその横顔を見て何か感じたものがあったらしいが、それは言葉に出たのがかろうじてのもので、それ以上は何も言えず、何も考えられず、何も動けないようだった。

 デトロイドスタイルからのフリッカージャブをうちかけた姿勢のままで榊美緒は硬直し、それを受けて捌こうと二つの拳を顔の前に掲げようとしていたティナは不自然に停止していた。

 御法真紀は、ずずっと最後の麺をすすり込むと、丼と箸とをテーブルに置いた。

 そして両手を大きく広げ。

 美緒の後頭部に。

 ティナの肩に。

 それぞれ手を伸ばし、ぎゅっと引き寄せた。胸に。押し付けた、と言っても良かった。二人の顔面は御法真紀の豊満な胸に引き寄せられ、押し付けられて、その柔らかくも圧倒的な塊の中に埋もれた。

「……………ッッ? ……!?」

「△◎◆○▼…!? k@;l#%&!”!?」

 当然のように暴れだす二人だが、ホールドしている手はこゆるぎもしない。

「あなたたち……元気なのはいいけど――」

 私の食事、邪魔しないでくれないかなあ……。

 それが聞こえているか聞こえていないのか、二人はさらにばたばたと両手足を動かすのであるが、真紀は何も言わず何も聞こえている風でもなく、腕はそのままに押さえ込んだままだった。

 やがて、二分もたった頃、二人は動きを止めた。

 さすがに解放されてそれぞれ椅子に座らされたが、その顔面は真っ赤にのぼせあがり、目は虚ろとなっていた。荒い呼吸をして「おっぱい……」と榊美緒は呟き、「母様……」などとティナは夢見心地に口にしていた。何か、目にしてはいけないものを観たような気分がして、その場にいるほぼ全員が顔を逸した。

 真紀は二人を座らせてから振り向き。

「…………へえ」

 と言った。

 低い姿勢から抜刀の姿勢でいる、明を見ていた。

「…………ッ」

 顔中に汗を滴らせ、体中に震えを走らせながらも、必死の形相でいる明の顔を見ている。

 真紀は目を細めて。

「たぃん」

 と言ってから右手を上げ、そして明の額に寄せ。

「へつ」 

「――――っ!?」

 デコピンだった。

 その場で崩れ落ちる明を冷ややかに眺めながら、そして御法真紀は歩き去った。

 そして食堂から彼女の姿がなくなってから、ようやく生徒たちが騒ぎ出す。

「今のは初めて見る教官だったぞ!?」

「というかあの二人が瞬殺って……」

「明もいれて三人が軽く――」

「誰だよ、一体……」

 騒然とした食堂で、しかし椅子に腰掛けたままの二人はしばらく陶然としたままで、明は床に崩れたままだった。

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