Act.7 約束。
01
(なんでこんなことに…………)
ティナは座布団の上に正座して、そんなことを思う。
膝の上に置かれた二つの拳が震えていた。握りしめられたまま、上手く開くことができない。
緊張のしすぎだった。唇も閉じたままで震えている。何か言いたいのに、吐き出したい言葉はいくらでもあるのに、上手く動かせない。
しかし、無理もない話ではある。
彼女は今、生殺与奪の権利を握られているのだ。
◆ ◆ ◆
ほんの三十分ほど前である。
いつか一発でもいれてやる――などという悲壮な覚悟をもって挑んでいた目的を簡単に果たしてしまったティナは、それで嬉しかったかというと別にそんなでもなく、自分がやらかしたことに驚愕し、恐慌し、つまり、混乱した。
「え? 嘘? 一体どうなってるの!? なんなの!」
変な幻覚でも見せられているのではないか、自分はいつの間にか夢の中にいるのではないか、もしかしたらここは死後の世界ではないか、ということを半ば本気で信じかけたティナが『魔法』を使って自分を正気に返そうかと考え出した時、
「ん……」
などと艶のある声が足元から聞こえた。
(生きてる!)
よかった――と、ここで反射的にそう言ってしまいそうになった彼女であるが。
次の瞬間に、腰に巻かれた腕の感触に気づき、硬直した。
「え。」
「動かないで」
耳元で囁かれた声に、背筋が震えた。
倒れていたはずの師範の姿がない。
いつの間に、どう立ち上がったのか、どのようにして自分に気づかれずに背後に移動したのか。
まったく、ティナには解らなかった。
解らなかったが。
(殺される)
そう思った。
むしろ、それ意外の答えなどありえない、とティナは思いこんだ。
自分はあの怪物に、あの魔人に、あの大兵法者の鼻っ柱に拳を叩き込むなどという恐ろしい所業をしてしまったのだから。
(死ぬ。殺される。斬り殺される。めちゃくちゃにバラバラにされて殺されて死ぬ)
混乱していた。
ティナは思い切り混乱していた。
めちゃくちゃに混乱して、恐怖して、とにかくもう支離滅裂なことを考えた。
無理もない話である。
ティナが拳を叩き込んだのは、あの御法真紀だ。単身で文字通りの一騎当千、万夫不当、《魔法世界》の戦場を駆け抜けた、地球生まれの大兵法者だ。
真紀がどれほどの恐ろしい存在なのかを、あるいはティナほどに思い知っている者はこの地球にはいないかもしれない。文字通りに真紀によって何もかもを失ってしまったティナ以上に、真紀の凄まじさを知る者は、もしかしたらこの地球にはいないのかもしれないのだ。
そのティナの耳元で、ティナに殴られたばかりの真紀が囁いている。
ティナの腰に腕を巻きつけて、囁いている。
これで混乱しないでいられる人間はいないし、恐怖しない人間はどうかしている。
「……………………話、聞かせてもらおっか?」
そう言われて、うんうんと頷くしかなかった。
漏らさなかっただけでも、自分自身を褒めてあげたい。
そうして部屋に連れ込まれて、応接間で座布団の上に座らせられているわけであるが。
(わたし、このあと、師範に、あの人に、どんな風に殺されるんだろう……)
逃げ出すという選択肢も思い浮かばず、ティナはただただ恐怖しながら部屋の主が帰還するのを待つしかなかったのだった。
(どうしよう……特に何も考えずに連れ込んでしまった)
そして当の御法真紀はというと、冷たいシャワーを浴びながらタイルの壁に両手をつけて唸り、こんなことを考えてやがったのである。
そうなのだ。
この女にはティナが考えているような意図などまったくなく、では何を考えているかというと、なんだか勢いのままに連れてきただけで、そこには思慮もなければ魂胆もない。
ティナにとっては、肉食獣の巣に運びこまれた獲物の気分であったが、真紀はティナを喰らうつもりなどない。あらゆる意味でそのような意志は真紀にはなかった。強いて言うのなら、あのまま放置するわけにもいかず、しかし消灯間近の廊下で説教などするわけにもいかず、とりあえず急場しのぎで連れ込んだだけである。
シャワーだって本当は浴びる必要はない。その気になれば酒気など九字切りの一つで消せる。
こうやって冷水を浴びているのも、時間稼ぎと頭を冷やすためだった。
何かこうしていれば、名案が思いつくかもしれない――と思って、すでに三十分経過していた。
(頭も冷えているし、酒気なんか欠片も残ってないんだけど)
自分のコンディションは完全に把握済みだ。
鼻の頭に痛みは遺るが、その程度だ。あれしきの打撃なんぞでどうにかなるような存在ではないつもりだった。目を廻しておいて説得力のないこと甚だしいが、強がりでもなく真紀は思う。ちょっと酒気の影響だとか過去のことを思い出していたせいで自我認識が緩んでいたため、核の部分に届いてしまった。
すでに跡すら残っていない。
はず。
後で鏡で確認した方がいいかなとぼんやりと思う。
もしかしたら、自分が殴った跡なんぞが残っていたら恐縮してしまってまともに話せなくなるかも知れないし。
…………ティナが自分に恐怖しきってる、などということに真紀はまったく気づいてなかった。
重ね重ね、本当に真紀にはティナをどうこうするつもりはなかった。本当になかった。本気でなかった。
真紀にとってのティナは、喰うつもりもなく巣に持ち込まれた、犬にとっての靴の片っぽうであり、烏にとってのビー玉だ。宝石、と言った方が適正かもしれないけれど。
宝石。
宝物。
あの少女は、そのように大切にされていた。そう、真紀は思い出す。むしろ、忘れたことなどないはずだった。ただ、あの少女も自分も、あまりにも変わりすぎていただけだ。
まさか、あの子が。
(あの子が、まさか、あの子が……ねえ)
まだ、確認していない。
まだ、確認はしていないけれど。
多分、間違っては、いない。
彼女には、ティナには《魔法世界》で会ったことがある。話したこともあった。触れてさえもいた。小さな白い手を真紀は覚えている。あの柔らかく細い手が、バストンを握り慣れて堅くなっていた。
(そうか。あの国が滅んでから、三年か……私が帰ってくる前か後だったか――)
多分、後だ。後だったはずだ。何せ彼女には、あの国の顛末についてはっきりした記憶がない。まったく、ではないけれど。
なんなら今ここで、当事者であるあの子に――ティナに、聞けばよい。
いや、それはあまりにも無神経すぎる行為だろう。
何せ、あの子の国は、もうないのだから。
そう。
ティナのいた国は滅んでいたのだ。
どうして滅んだのかはよく知らない。彼女は元々、そこから情報を得るルートを持っていないし、地球に帰還して後の真紀にとっては、たまに訪れる者から伝え聞く微かな物語が知る外の世界だった。
そして、彼女がどれほどに外界に対して興味がなかろうと、遮断しようとしても、《魔法世界》に対して絶対の無関心を貫くことも、また到底できぬ相談なのだ。
(つくづく、馬鹿だった)
そう、思う。
あの国がそうなるということが、まるで予想外だったかといえば嘘になる。
代表戦士を立てての決闘で敗北し、地球世界の日本の傘下に下った国がどうなるかなど、その時の真紀がどれほどに馬鹿だろうと想像できたことだ。実際、想像もしてはいたのだ。そう長くも保たないだろうことは、彼女にだって解っていたのだ。
なのに。
彼女は戦った。
御法真紀は、戦って、勝とうとした。それは即ち、遠からずあの国を滅ぼすことにすると、そう選択したのだ。
(もしも私が戦わなかったら……)
どうなっていただろうか。
そんなことを、思わなかった日はない。
あの日、自分が戦わないことを選ぶ、恐らくはそれこそが当時の日本軍総司令の土肥原大将にとっては望んでいた選択であったに違いなく、次善が真紀が負けることだったのだろう。今なら、それが解る。自分は戦うべきではなかったし、勝つべきでもなかった。
もっとも、そんなことは今となったからこそ言える後知恵もいいところで、当時の真紀が勝てるなどと思っていた人間は敵にも味方にも一人としていなかったに違いなく、真紀当人でさえも勝つつもりではあっても勝てるなどとは思ってなかった。なんなら今でさえも、あの時の結末は奇跡みたいなものだと思っているくらいだ。
それほどに、あの騎士は強かった。
今までの戦歴の全てを振り返っても、あれほどの強敵はいなかった。これからの戦歴がどういうものになるにしても、あれほどの者はもう立ち塞がることはないのだろうとまで思う。
あの時はさすがにそこまでは解らなかったが、遠目から見てもその技倆のほどは伺えたし、仮にも一国が代表戦士として立てるという、その一事だけでもただ者であるはずもないと解りきっていたことだ。
だから真紀にはどうやったら勝てるかまでは考えられても、それ以降にまでとても考えが及ぶことはなかった。
まったく、ではなかったけれど。
だが、もしも。
もしも今、こうなることがあの時の自分に解っていたら、決闘の話を受けただろうか。考えてみる。受けた、と思う。受けないという選択はない。受けなかった時のことは考えても、受けなかった自分は想像できなかった。受けない自分などあり得なかった。
受けるのは必然で、勝ってしまったのは奇跡だ。
だから、だから、だから、自分がここにこうしているのは運命だ、と思う。
運命なのだ。
(だったら――――)
御法真紀は顔を上げ、シャワーを顔に直接浴びる。
それからしばしそのままでいたが。
「――――よし」
キュッと蛇口を締め、真紀は脱衣所に向かう。
成り行きに任せよう。
…………真紀は、考えるのを辞めた。
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