第11話 憑依するタイプ
演奏者の中には、演奏を開始すると別人のようになってしまう人がいる。
普段のそれと楽器を手にした時のそれが、全く噛み合わなくなってしまう。
多くの人が目にするであろうミュージシャンの派手な演奏アクションは、たいていは不必要なものだ。あれはパフォーマンスであって、たいていの場合、出音と関係が無かったりする。
その証明として、レコーディング時のミュージシャンは椅子に座って演奏している。その上ほとんど微動だにしない。これはマイク距離がずれてしまうと収録する音が変化してしまうからという理由も大きくあるのだが、基本ミュージシャンの基礎練習は座って行う訳で、そうなると繊細な楽器コントロールが求められる収録現場では同じ姿勢の方が都合がいいということだ。
にもかかわらず、である。
中には楽器を手にしただけで、何かに取り憑かれたように人格が変わってしまう人というのがいるのだ。これを豹変と言わずして何というのだろうか。
彼女、織田(偽名)さんもその一人である。
私「おはよう、織田ちゃん」
織田「あー私ちゃん。おはよぅ」
夏休みの休校期間。朝一から現れた織田は、柔らかく甘くて女子力パーフェクトな所作で返事をする。その笑顔とメイクもバッチリだ。
私「練習?」
織田「そうなの。試験近いからねぇー。じゃあまた」
そう言って鉄格子の練習室に消えて行く。
織田ちゃんは校内一の有名人だ。その理由は彼女のスペックにある。
まず超美人である。顔は小さくて肌が綺麗、おっきくてパッチリなのにどこか憂いのある目元。身長は高めだが高すぎず、スラッとしていて、その上足が長くて美脚だ。にもかかわらず胸もそこそこある。髪の毛は明るめだがツヤッツヤで、更におしゃれさんだ。芸能人と見紛う雰囲気まで纏っている。メイクはいつだって完璧、笑顔も絶やさない。
それでいて、いいヤツである。おっとりとした口調と柔らかい雰囲気が彼女の魅力を増し増しにしている。誰に話しかけられてもフランクに対応するし、人の話は最後まで聞く。自身はタバコを吸わないのに友人の喫煙に付き合い、飲み会では良く気が利いて、テーブルマネージメントも完璧。くだらない話題でも笑ってくれるし、体調不良者にいち早く気が付き、サポートしてくれる。携帯番号だって聞けばその場で教えてくれるし、ちゃんと返事をくれる。美人だという事を鼻にかけたりしない。
そして、優等生である。彼女は数人しかいない特待生であり、学年を代表、というよりも学校を代表する演奏技量を持つクラシックピアニストだ。そのうえ英語がペラペラで、ネイティブスピーカーなのではないかと疑ってしまうほど発音が良く、留学生とも雑談出来る。文字も綺麗で、譜面を見ただけでトキメキそうになるくらい美しい。
完璧超人みたいな人が、実際にいるのだ。いたのだ。
そんなスーパーハイスペックな彼女だが、校内一の有名人と言われるほどになったのにはもう一つ理由だある。
そう、それは憑依である。
クラシック系ピアノ学科の試験会場は校内ホールだ。学校保有の楽器で最も高額なスタインウェイ製グランドピアノをこの日の為に調律し直し、高名なピアニストを試験官に招いて、本番さながらの雰囲気で執り行われるのだ。本校の生徒は、この演奏会にお客さんとして無料で参加できる。
このピアノ試験が満席になるにまで至ったのは、織田ちゃんの功績が大きい。皆、織田ちゃんを見に来るのだ。口にピアスをつけたロックな人や、レッスンを中抜けしてきたジャージー姿のダンサー。学科を超えて、ジャンルを超えて、多くの生徒や教師陣までもが集うのだ。
まずステージ上の彼女は美しい。「銀座のキャバ嬢」と良く揶揄されるが、ドレスとアップにした髪が決まっている。客席で座する友達を目が合うと、つい笑顔になってしまう所がまたかわいい。ここまでは普段の織田ちゃんだ。
そして椅子を引き、ピアノに手をのばす。会場が一瞬の静寂に包まれる、まさにその瞬間。彼女に「なにか」が取り付くのだ。
そこには普段のおしとやかで穏やかな彼女の面影は残されていない。難易度の高い現代曲を、頭を振り、鍵盤を叩きつけ、ペダルを蹴る。攻撃的なフレーズから高まっていく感情を、体全身で表現する。彼女から振り払われた汗が照りつけるステージライトによって
そしてそれは楽曲のフィナーレと共に解き放たれる。彼女が奏でた最後のフレーズが会場内にこだまする中、去っていく「何か」を見定めるように上空を睨めつける。額の汗が顎をつたい、その胸元へ吸い込まれていく。瞳を閉じ、弾かれたままの腕をゆっくり下ろす。
そして彼女が頭をさげてステージ袖へ歩き出した時はじめて、観客は開放されるのだ。わぁっと沸き立って、大きな拍手に会場が震えるのだ。
みな、この瞬間に立ち会うために試験会場に足を運ぶのだった。
憑依。感じのいい銀座のキャバ嬢が、阿修羅のように一心不乱になる様は圧巻だ。ギャップが半端じゃない。その動きだけを見たら、気でも触れているか、見る人によってはギャグにすら見えるかも知れない。
しかしそうならないのは、演奏にある。単純に彼女の演奏には音楽的な価値がある。放たれる雰囲気、表現、そしてその音圧。どれもが生徒としての次元に無い。聴いた人は飲み込まれるのだ。
私「ねぇ、織田ちゃん。聞いてもいい?」
織田「なぁに、私ちゃん」
ある夏休みの日の事である。休憩時間がたまたまかぶった私と織田ちゃんは、近くのお店までソフトクリームを買いに行った。そんな帰り道、私はかねてからの疑問を彼女にぶつけてみた。
私「織田ちゃんの家ってグランドピアノあるんだよね。家も◯◯でここから遠いじゃん。夏休みは授業無いんだし、練習なら家だってできるわけじゃん。なのになんでこんな朝はやくから練習しにくるのかなって」
織田「あー、それねー」
彼女は唇についたクリームを人差し指で拭って、それをぺろっと舐めた。
織田「集中して練習してる姿ってさ、なんか、家族に見られたくないかなーって。それに、今甥っ子が泊まりに来ててさ、余計に嫌で。怖いーとか言われたくないなーって」
私「あー」
織田「学校の練習室なら個室だから、それも無いしね」
なるほど。確かにあの様子を幼子が見たら、こわがるかも知れない。
私「一人の方が、人に見られてないときの方が練習に集中できるもんね」
織田「そう。だから――」
振り向きざまに、彼女の指が私の頬に刺さった。
「――私ちゃんも、練習中は覗かないでね」
火照っているのは、夏の日差しのせい、じゃないかも知れない。
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