第8話 眠り姫
仲間内の飲み会の席で、「自身に一番影響を与えた恋人のエピソード」を披露しようという流れになった。
なぜそんな話になっているかと言うと、少し前にヒットした恋愛もの邦画の話題になったのがきっかけだ。原作は少女マンガであり、そのアニメ版の主題歌に演奏で参加していたドラマーの田中(第一話参照)が「あんな綺麗でときめく恋愛なんて世の中に存在しないっすよ」と言い始めた。さらには「いくら大好きだからって、影響受けすぎじゃないですか?あのヒロイン」と続いたので、「じゃあどんな恋愛ならいいんだ」と言うおっさん(第三話参照)の質問を受けて、あれよこれよとそんな流れになった。
ちなみに、一番唸らせたエピソードを披露したヤツは本日の飲み代が免除されるという勝利条件が掲示されたので、皆必死になって恥ずかしエピソードを熱弁するという異様な空気になっている。若いって素晴らしい。
そんな席での話だ。
「なぁ。俺達ミュージシャンにとって、睡眠不足ってのはついて回るもんだ。そうだろ?」
そんなキザな振りから語り始めたのは、ギタリストの鈴木(偽名)だ。あの鈴木のスイッチの入った語り口に、みんなが前のめりになっていた。
鈴木は愛すべきバカである。おだてられれば木にも登るタイプで、たいてい期待を裏切らない。
例えば、歩行者信号が青の時に流れるメロディーに伴奏を付け、アコギをかき鳴らしながら熱唱、横断歩道を渡りきるという離れ業を、都内の大型交差点でやって抜けた。飲み会で終電を逃し家までのタクシー代が無いことに気がついた時は、駅前でレット・イット・ビーを歌ってその代金を稼いだり、私が夜な夜な車で迎えにいった時には、駅前で黒人のナイスガイと警察官と共にスティービー・ワンダーを熱唱してそれなりに盛り上がっていた(警察官が感動のあまり泣いていた)。飲み会で隣の席に居合わせた女子大生集団にバースデーケーキが運ばれて来たのを見て、アコギを取り出しハッピーバースデー(熱唱)を無料でプレゼントしてその場で連絡先の交換をせがまれたり、それをおじさん三人組にかましたこともある。絶対音感を持っていて、電車のアナウンスの音程をとってそれをギターで再現し、なおかつ自分はそれにハモるという無駄な凄技を終電まちのホームで見せてくれたこともある。
とにかく彼はアコギを常に持ち歩き、彼と楽器は一体化してしまっているのかというくらいで、形容するなら、彼自身が音楽、と言うほどの男だった。
そんな彼は普段はへらっとしているのだが、スイッチが入るととたんに演技派俳優に化ける。
「俺たちミュージシャンってヤツは、不規則な生活の中に夢というでっかい花を咲かせるために、毎日体張ってる。だから睡眠が二の次になっちまうのはしょうがねぇってもんだ」
この時点でメンバーは笑いをこらえている。
「だから俺にとって、それはとっても衝撃だったんだよ。あんな考え方があるなんてな……」
話を要約するとこうだ。彼の当時の彼女と付き合い始めの頃、一人暮らしをしていた彼女の家に泊まりに行った時のこと。他愛のない会話、初めての二人での宅飲み、そして交わり。若い男女が行うひとしきりの事を堪能して、ふと時間が気になった。朝9時からは遅れるわけにはいかない授業が待っており、十分な睡眠時間が取れるか心配になった彼は携帯電話に手を伸ばして時計を見た。時刻は夜三時を回っていた。
その時である。
『あーもう! 時計みちゃだめだよー! もー』
と彼女が残念そうに怒り出したとのことだ。彼が何がまずかったのかを問うと、
『寝る前に時計を見ないほうが、幸せな明日を送れるから』
と答えたそうだ。言われた彼はどういうことかわからず、それはもちろんこうして話を聞いているメンバーも同じだった。一同がより一層前のめりになる。いじけてしまった彼女のご機嫌をとって理由を聞けば、
『睡眠ってさ、睡眠時間より睡眠の質の方が大切でしょ? 翌日体が調子悪かった時、「昨日遅くまで起きていたからかな」とか「おかしいな、昨日は早く寝たのに」とか考えるけど、それってこじつけじゃん。早く寝ても遅く寝ても調子が悪い時はあるし、逆にすっきり気分が良い時もある。ぶっちゃけ、何時に寝たからどうだなんて、体の感覚だけでは測れないよ。だから、寝る前に時計を見ない。今日みたいないいことがあった日は特にね。その方が気持ちよく眠りに入れるし、翌日も気持ちよくいられる。だって良い眠りをしたって実感だけが残るから。それって幸せな一日になるよ』
と言ったそうだ。
「おおおおお」
これにはさすがのメンバー全員が唸った。なるほど、確かに。
時計を気にしなければ、不摂生にも遅くまで起きていた自分を責める必要は無いし、気分や体調が優れない理由を寝不足のせいにすることも無くなる。自分が眠たくなってから寝るというリズムを肯定的に受け入れる事ができる。
そんな彼女の部屋には時計が無いのだそうだ。
「へー。それで鈴木くんはいつもそれを実践してるんだ」
と仲間の子がビールを飲みながら問うも、鈴木はやれやれという顔をしている。
「それがさ、こいつが思いの外難しくってな。時計を見ないってすごいハードル高いんだよな。だって、目覚まし設定するとき、時計出てくるんだもん」
そしてやっぱり落ちがあるんだと知って一同は大笑いした。鈴木の話はたいていドラマチックで、役にたたない。
「しかも俺のスマホさ、目覚まし設定するとご丁寧に何時間後にアラームを設定しましたとか教えてくれるんだよね」
「それ余計に現実感出てるじゃないすか!(笑)」
「むしろ睡眠時間がわかりやすくなってる(笑)」
その後、どうやったら寝る前に時計を見なくていい生活を送れるかが議論される事となった。結局導き出された答えは、携帯を始めとした電子機器の一切を部屋から除外することだという事になり、それって世の中から隔絶されてるよねということで、結論はちょっといい話だけど役にたたないいつもの鈴木の話、という事になった。
彼はいまでも、派手なステージングで聴衆を沸かせている。
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