思わぬ追撃
オットーは手紙を持って馬に乗ると、夜の闇の中へと消えていった。
やかましくて暑苦しいのがいなくなった山奥の隠れ家は、急に静まり返った。
そうなると、どういうわけか心細くもなってくる。
ミカルドは魔法が使えないし、僕の魔法に殺傷力はない。
唯一の戦闘要員であるオットーがいなくなった今、もし、白旗隊がやってきたらひとたまりもない。
「どうしても、今じゃなくちゃいけなかったんですか、あの手紙」
ミカルドは、当然だという顔で答えた。
「今夜でなければ意味がない」
だが、このアトランティスにミカルドの味方は誰もいないはずだ。
「いったい、誰への……?」
これも事も無げな答えが返ってくる。
「ジョセフだ。おぬしが逃げ出した、あの場所へ矢文を射込む。遠矢にすぐれたオットーでなくては叶わぬこと」
ムチャクチャだ。
というか、人の気持ちや後先を考えて行動しているとはとても思えない。
さすがに、僕もミカルドを怒鳴りつけないではいられなかった。
「何のために……何のためにカリアが僕たちを逃がしてくれたと思ってるんだ!」
僕を捕まえるまでジョセフがカリアを生かしておくとしたら、救出のチャンスが巡ってくるまで、事を荒立てるのは得策ではない。
無理に危険を冒すことはないのだ。
だが、ミカルドはひと言だけで切り返してきた。
「逃げるつもりか」
短いけど、厳しい響きを持つ言葉った。
僕が答えられずに困っていると、ミカルドはさらに畳みかけてきた。
「ジョセフはカリアを人質にしてお前を呼び寄せにかかっている。応じないのは勝手だが、その間、あの娘はお前の背負うべき苦しみを肩代わりすることになる」
そんなことは分かっている。
でも、負けると分かっている戦いにわざわざ臨むことはない。
僕はさらにまくし立てた。
「挑発してどうするんですか! 勝算もないのに!」
すると再び、ミカルドはひと言で答えた。
「逃げていては勝てない」
そのとき、僕は何かたまらなくいやな予感を覚えた。
理屈抜きに身体の底から湧き上がってくるような、どうにもならない恐ろしさだった。
ミカルドは、怪訝そうに眉を寄せる。
「いかがした?」
魔法使いである僕に分かって、そうでないミカルドには分からないもの。
それが、アトランティスという場所が蘇らせた、魔法使いの血がもたらしたものかもしれない。
僕はそれにある確信をもって、「顕示」の呪文を唱えた。
海の向こうのアトランティスだって見つけられたのだ。
接近してくる何騎かの白旗隊が、ぼんやりの魔法のオーラを放っているのを見つけるくらい、何でもなかった。
僕は思わずつぶやいた。
「見つかった……」
それだけでミカルドは、何が起こったのか悟ったらしい。
再び、ひと言で告げた。
「逃げるがいい」
僕も再び、ムキになって言い返す。
「さっき、勝てないと言ったばかりでしょうに」
戦えと言ってみたり、逃げろと言ってみたり。
どういうつもりなのだろうか、この若様は。
だが、ミカルドは平然と答えを出した。
「本来は私の戦いなのだ。戦う気のないおぬしを巻き込む気はない」
そういうミカルドにしても、あの白旗隊と渡り合うことができるとは到底思えない。
苛立ちと心配とが入り混じった気持ちで、僕は尋ねた。
「残ってどうするつもりなんですか」
ミカルドはまた、あっさりと答えた。
「ジョセフの前で言うてやるのよ。おぬしにはもう、あの娘のために戦う気はないと」
そう言われてしまったら、僕はわざわざ不利な戦いに臨まないわけにはいかなかった。
「ここから出ないでください」
ミカルドに釘を刺しておいて、僕は隠れ家の外へ出た。
白旗隊は、まっすぐこっちへ向かってくる。
夜空のてっぺんに昇りつめた満月のせいだ。
これが僕をアトランティスに呼び寄せたザグルーくらいの魔法使いなら、日月星辰の力を使った魔法をかけることもできるだろう。
だが、そういった魔法が全て封印されている時代からやってきた僕に、そんな真似ができるわけがない。
せいぜい、「屈光」の呪文で自分と隠れ家を見えなくするのが関の山だ。
あとは、馬には可哀そうだけど、「転倒」の呪文を使って接近を食い止めるしかない。
だが、その作戦はあまりにも虫が良すぎた。
東洋から招かれた戦士たちの馬術は、800年ちょっと後から来た僕の乏しい知識をはるかに超えていたのだ。
「嘘だろ……」
馬たちは、最初のうちこそ魔法で足をとられはしたけど、すぐに体勢を立て直した。
それどころか、呪文の効果が及ぶ辺りを正確にかわしたり、飛び越したりして、見る間に僕の目の前へと迫ってきていた。
今にも蹄で蹴り殺されるかと思ったときだ。
「あれ……あいつらは?」
振り向くと、僕の両脇をすり抜けていった馬たちが、黒いラメラー・アーマーをまとった白旗隊を乗せて走り去っていく。
その先には、ミカルドが潜んでいる隠れ家がある。
少しでも早く、馬の尻に取りつかなければならない。
「まあ、原チャリには追いついたことがあるし……」
失踪呪文を唱えながら、大きな一歩を踏み出す。
魔法の加護を受けながら全力で走って、なんとか見失わない程度に追いすがることはできた。
白旗隊は、馬の速さを緩めることなく、まっすぐに突進していく。
まるで、夜闇の彼方にそれがあると知っているかのようだった。
だが、月の光はやがて、隠れ家の影を僕たちの前に晒しはじめた。
見つかる……間違いなく。
失踪呪文の効果が切れる頃には、馬から下りた白旗隊が、隠れ家へと歩み寄っていた。
僕は萎えきった気力を振り絞って呪文をとなえる。
そのせいあってか、男たちの喚き声はすぐに聞こえた。
「なんだこりゃ!」
「ひどい蜘蛛の巣だな!」
「こんなところに人が棲んでるものか」
「いや、何が棲んでるか分からんぞ」
きっと隠れ家の周りをうろうろ歩き回って入り口を探すだろうと思っていた僕の読みは当たった。
予め『
全力を費やしたおかげで隠れ家は今、どこもかしこも分厚い蜘蛛の巣で覆われている。
こんな夜中に、身体にまとわりつく蜘蛛の巣を払いながら、人がいないと分かっている廃屋の中を探るなど愚の骨頂だ。
このままミカルドが隠れ家の隅で息を殺していてくれれば、白旗隊は諦めて帰っていくことだろう。
……常識で考えれば。
だが、意外とミカルドには、それが欠けていた。
蜘蛛の巣をかき分けて白旗隊の前に姿を現すなり、らしからぬ格好をつけてみせる。
「逃げることはを恥とは思わん。守る者さえあれば。性に合わんのは……守るのが我が身しかないということだ」
僕を追ってきたはずの白旗隊が、呆然とつぶやく。
「まさか、お前は……」
冷たい月の光の下で、鷹揚に頷く小柄な荷馬車引きからは、神々しいまでの高貴さが感じられた。
それだけに、アトランティスでの戦いで磨かれた僕の勘はミカルドの危機を鋭く感じ取っていた。
月下の貴公子が、鷹揚に答える。
「察しのとおりだ。我が名は……」
だが、その口は優雅な振る舞いとは裏腹に、ぽかんと開かれたままだった。
たぶん、自分の声が言葉になっていないのに気付いたのだろう。
僕が唱えた「沈黙」の呪文の効果だ。
空気の振動を止めることで、魔法使いの呪文を封じることもできる。
試験前の勉強中に近所で道路工事があるときなんかも便利だ。
白旗隊が降りた馬の辺りにこっそりと歩み寄った僕は、さらに「屈光」の呪文を唱えた。
ミカルドの姿が消える。
男たちが呆然と佇んだところで、僕は叫んだ。
「我はここぞ!」
白旗隊が振り向いたところには、ミカルドの姿が見えるはずだ。
曲がった光は本来の身体がある場所ではなく、僕のいる場所で像を結ぶのだ。
白旗隊の目がこちらへそれている隙に、ミカルドには逃げてもらう。
その狙い通り、黒い鎧の手甲が腰の白刃を引き抜き、槍を持っている者はその穂先を僕に向ける。
裂帛の気合と共に襲いかかってくるところで、僕はまた呪文を唱えた。
白旗隊の馬を、かわいそうに思いながらも持ち上げる。
馬は暴れたが、「筋力倍増」の呪文を使えば、このくらい抑えられる。
だが、がら空きになった胴体に向けて、白旗隊は短弓の矢を続けざまに放ってきた。
間一髪、唱えた「防御陣」の呪文が効果を発揮した。
矢はことごとく弾かれたが、僕の体力も限界に来ていた。
持ち上げた馬を、静かに下ろしてやる。
「筋力倍増」の効果が切れて、その重さで押しつぶされる前にと思ったのだ。
だが、その前に唱えた「屈光」も、そろそろ時間切れだろう。
僕は姿を現して捕まることになるが、ジョセフの宿敵ミカルドはもう逃げおおせている……はずだった。
「なんで……」
僕がつぶやいた理由はふたつある。
逃げたはずのミカルドは、僕の目の前にいた。
だが、白旗隊は馬に飛び乗ると、そのまま駆け去ってしまったのだ。
ミカルドが答えた。
「ジョセフの命令だろう。見つけたら手出しせず、居場所だけ伝えよといったところであろうか……余を自らの手で捉えたいのよ」
さっぱり分からない。
部下がご注進に走ったところで、その間にミカルドが逃げてしまったら何にもならない。
だが、当の本人は落ち着いたものだった。
僕のほうが慌てていたくらいだ。
「すぐにここを……」
「オットーが戻ってこられなくなる」
こっちの言うことも、わけが分からない。
つい、声を荒らげないではいられなかった。
「見つかってしまったんですよ!」
だが、ミカルドは平然と隠れ家へと戻っていった。
追いかけて中に入ると、さっさと横になる。
「いずれ見つかるのだ。それが早くなっただけのこと……まずは礼を言う。休むがよい」
他にどうすることもできない。
できることはすべてやったのだ。
言われるまま、僕は床に寝そべって深い眠りに落ちるしかなかった。
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