喉元と背後に迫る絶対の危機
猪鹿は知らず、戦はただ平攻めに攻めて、攻め勝つたるぞ心地はよき……(平家物語)
「旦那、何ですかい、あの音は……」
どこからか、ぶっとくて低い音が聞こえてくる。どこかで聞いた覚えがあったが、その「どこか」が思い出せない。やがて、何の楽器かと思いを巡らすようになったところで、僕は思わず跳ね起きた。
日本の時代劇だ。
戦争のシーンで必ず聞こえるあの音。大きな貝を抱えて吹き鳴らす兵士の姿が思い浮かんだ。
「ほら貝だ……」
答えるともなしにつぶやいたが、荷馬車の主は金切り声を上げて言い返してきた。
「知ってますよ、そんなことは! 何でほら貝が鳴ったのかってことですよ!」
振り向いてみると、ぼんやりとではあるが、1騎の人馬が見える。こっちから見えるということは、あっちからも見えるということだ。
たぶん、僕が「疾走」の呪文を使って逃げたことはジョセフたちにも見当がついたことだろう。魔法がそう長くは続かないと知っていれば、砦の周りで倒れている者を探すのが普通だ。
それで見つからなければ、誰か第三者の介入があったと考えても不思議ではない。街道沿いに運ばれたと読んで、石畳の道の双方向に斥候を走らせたのだ。
今、ほら貝を吹いているのが、そのひとりだ。
僕が荷馬車に乗っているのは、もう勘づかれている。その主も、同じことを考えていたようだった。
「旦那ですかい? もしかして、追われてるのは!」
「……これで頼む!」
差し出した金貨がひったくられたかと思うと、手綱をはっしと打つ音がした。馬も一声いななくと、荷車はいきなり、凄まじい速さで走りだした。
「ひっ!」
僕が叫んだのは、荷馬車の加速に驚いたからではなかった。それはむしろ期待通りで、気持ちが高ぶったくらいだ。
白旗隊の接近よりも僕の背筋を凍らせたのは、別の何かだった。
それがどんなものなのかは、説明がつかない。
あの荷物が傍らでのそりと動いて僕にぶつかったところで、あの生温かい感触がまた、肌に蘇ったのだ。
「何! ナニこれ!」
「横になっててくだせえ、旦那! 舌あ噛みますぜ!」
甲高い声に叱りつけられて、荷車の上に伏せる。だが、それはそれで困ったことになった。
めちゃくちゃに走る荷馬車は、とにかく揺れたのだ。伏せている分、振動が身体にモロに来る。あっというまに頭がくらくらしてきて、胸もむかむかしてきた。
その上、ほら貝の音とは別に、遠くから聞こえてきた音がある。
石畳を駆ける、蹄の音だった。
「もっと……速く……」
口をひらくと胃の中のものがあふれだしそうだったが、ぼくはようやく、それだけ告げることができた。
「これが精一杯でさあ!」
そう答えられても構わず、僕はやっとの思いで身体を起こして金貨の袋を開く。
「ああっ!」
荷車がガクンと揺れて、つかみ出した何枚かが跳ね上がった。「疾走」の呪文を使って動体視力を上げれば残らず捕まえることができるけど、そんな余裕も体力もありはしない。
ところが、それらはいつの間にか、荷馬車の主にひったくられていた。
「仕方ねえ!」
できないと言っていたくせに、馬はますます速く駆けだした。僕の後ろで、あの荷物が右へ左へと転がった。
「ぐええ……」
呻く声が聞こえたが、それは荷馬車の主ではないようだった。もちろん、僕でもない。もう、喋るどころではなかった。
無理をしてでも、荷車の端に這っていかなければならなかったのだ。
「危ないですぜ、旦那!」
「ぞんなごとをいヴァれても……」
もう、限界だった。
石畳の上へ、思いっきりゲロを吐く。
荷馬車の主がため息をついた。
「あ~あ……」
そう言いながらも、手綱を叩いて馬をけしかける。荷馬車はますます速度を上げたが、どうやら、鍛えられた軍馬には及ばないようだった。
苦しい息の中で、僕は思わずつぶやいた。
「もう、だめだ……」
そこには、2つの意味がある。
再び喉元まで迫ったゲロと、今にも背後に迫ろうとする白旗隊の馬だ。
吐き気は止まらないし、白旗隊にもすぐに捕まってしまうだろう。
「旦那、ありゃあ……」
荷馬車の主も、気づいたようだった。
もちろん、ゲロではなくて、もっとヤバいほうに。
「知ってるのか?」
知らないわけはないと思ったが、アトランティスの魔法使いたちが白旗隊のことをどう思っているかは、もっと知っておきたかった。
甲高い声が、きゅうに重く沈む。
「知ってるも何も……とんでもねえ連中ですわ」
手綱の叩きようが乱暴だったのか、馬が悲鳴を上げた。荷馬車は速くもならなかったが、遅くもならなかった。馬の勢いが緩んだのを、主がけしかけてくれたのだろう。
切羽詰まっている時だけに、そんな無理をしてくれたことが僕の胸を痛くした。
「あなたも?」
聞かないではいられなかったのは、アトランティス魔法使いなら、両親を殺されたカリアと同じような思いをした人ではないかと思ったからだ。金貨を渡すほかにできることは、こんな気遣いしかない。
甲高かった荷馬車の主の声は、急に低く沈んだ。
「10年程前になりますかねえ……東の端の国で西の海に沈んだっちゅう戦士たちがたくさん、ここへ招かれてきましてなあ。もう殺生はごめんだとか言うておりましたわ」
「……ジョセフたちが?」
それはあり得ない。昨日、あの男がどんなヤツか、イヤというほどよく分かった。殺生をいやがるどころか、買ってでもするような男だ。
「違う違う違う!」
甲高い声が打ち消したのは、もちろん、僕の思いのほうではなく、言葉のほうだ。
聞き返す間もなく、荷馬車の主の話を一方的に聞かされる羽目になった。
「あれは沈めた方の連中ですわ! 東の国で……西の海を離れた後、北の果てから来たんだとか。何があったかは知りませんがな、当然の報いですわ。戦で味方が死ねば、それが親兄弟であろうとも踏み越えて戦う、夜戦だと言っては、罪もない民百姓の家に火をつける……」
東とか西とか来たとかいう事情はよく分からなかったが、ジョセフの極悪非道さはよく分かった。
主の話はなおも続く。
「生まれ育ちは気の毒といえなくもありませんがな、まあ、これだけのことをしでかしてくれては……」
「……どんな?」
悪態をつくわりに、ジョセフのことについては妙に詳しい。情報収集をするなら今だと思ったのだが、荷馬車の主はそれ以上は語らなかった。
「ほら貝の音がしませんな」
「そういえば……」
いつの間にか、蹄の音も聞こえなくなっていた。甲高い声が、何事もなかったかのようなムダに明るい声で言った。
「ゆっくり寝てくだせえな」
「そんなわけには」
油断はできない。あのジョセフのことだ。僕が見つかったのに、逃がすことは絶対にしないだろう。
「これから斥候が、ご注進に及ぶんですわい」
「やっぱりダメだろ!」
やっと回復した体力をこんなツッコミでムダにしたくはなかったが、どうもこの荷馬車の主は呑気すぎる。
僕の窮地が分かっているのか分かっていないのか、分かっていても気にしているのかいないのか、どうもはっきりしないところがある。
もしかすると、「鷹揚」というのかもしれないが、こっちにとっては迷惑この上ない。
「何とかしてよ!」
「馬がへばっちまいますんでねえ」
そう言われると、反論できなかった。確かに、馬がダウンしてしまっては元も子もない。
僕は半ば不貞腐れて、毛布をひっかぶって横になった。
やっぱり、荷馬車の振動は背中から身体の中に来る。よく考えたら昨日はほとんど何も口にしていない。それだけに、この微妙な揺れは胃にこたえた。
「やっぱり……ダメ」
馬車の外へゲロを吐こうと思って馬車の脇へ這っていこうとしたとき、あの生温い包みが目に入った。
やっぱり、微妙に動いているような気がする。
あさっての方向に注意がそれたせいか吐き気も収まって、僕は再び力を蓄えるべく、荷車の底で古い毛布にくるまった。
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