明かされる奇策

 昼の明さにも過ぎて、光りわたり、望月の明さを十あはせたるばかりにて……(『竹取物語』)


 意識が戻るや否や、僕の頬に強烈な平手打ちが炸裂したのである。

「何するのよ……あ!」

 それは自分の姿にではなく、ここがどこか気づいたという驚きだった。

 頬はじんじんと痛んだが、そこに手を当てる僕は幸せでいっぱいだった。心の底で気になっていたことが杞憂だったとわかって、やっと安心できたのだ。

 この囚人服はもちろん、カリアのものではない。たぶん、ジョセフが配下を砦まで取りにやったのだ。

 問題は、いつ着替えたのかということだった。

 自分で着替えたのなら、問題ない。だが、あの誇り高いカリアが、自分で囚人服など着たりするだろうか?

 もし、意識を失っている間だったら、誰かが着替えさせたことになる。ということは、元の服は脱がされたということだ。

 その、誰かに……という理屈を心の奥底に抑え込んで、僕はこの戦いに臨んでいたのだった。

 だが、自分の姿に違和感を覚えなかったということは、目覚める前からこの格好だったということだ。つまり、カリアは自分で着替えたことになる。

 心配することなどなかったのだ……って、違うだろ!

 ひとりで悩んでひとりでツッコんでいる僕を、カリアはきょとんとした顔で見つめた。

 落ち着いて聞いて、と僕は囁いたが、どちらかというと神経をピリピリさせていたのは僕のほうだった。

 この一言に、勝負がかかっている。

「今、結界を破れば逃げられる」

 カリアの顔が、さっと強張った。無理もないことだった。結界に手を付けることの恐ろしさは、僕にもよく分かっていた。

 映画では、赤毛の少女カリアがアトランティス全体の結界を解くことになっている。だが現実は、そう上手くいくものではない。

 結界に穴など開けようものなら、外の世界から流れ込むエネルギーは奔流となって術者に襲いかかる。ひとりでそんなことをすれば、ジョセフが見た魔法使いのように黒焦げにされるのがオチだった。

 命を懸ける必要はない。

 だが、「解く」のと「破る」のは違う。実際に、ザグルーも無傷で結界を抜け出している。不可能なことではないのだ。

 だからこそ、ジョセフは鵜の目鷹の目で結界破りを取り締まっていたのである。いずれ自分の手駒として使うつもりだったのが、アトランティスの魔法使いだった。それがこぞって島を出ていったりした日には、ユーラシア大陸の反対側まで来てやってきたことが、全てムダに終わる。

 だが、僕はもう、アトランティスを暴君の手から解放しようなどという青臭い気持ちを持ってははいなかった。僕と一緒に逃げるために破った結界が、アトランティスを覆う強大な魔力によってあとかたもなく修復されれば、それでいい。

 だが、カリアは力なく首を振った。 

「外の世界じゃ生きていけないわ」

「僕が守る」

 すかさず答えた。

 本当にできるかどうかじゃない。僕がそうしたいかどうかが問題だからだ。

 カリアがグレーの瞳で僕を見つめた。目が潤んでいる。

 まるで母が子を叱るように(うちの母は例外だが)、彼女は僕をたしなめた。

「あなただって殺される」

 そこで口をつぐんだ。

 溜息と共に、「まさか、やっぱり」という言葉が洩れる。

 ……気づかれた。

 白旗隊の本拠地からオットーが戻った後に僕がミカルドも交えて謀ったのが、この猿芝居だった。

 最初、ミカルドは僕とカリアだけを逃がすつもりだったらしい。

 だが、「敵の敵は味方」ならばザグルーも、と考えた僕は、すべての事情を打ち明けた。

 そこでたどり着いたのが、このプロセスだった。


 1、カリアが結界を破って、僕と脱出する

 2、解かれた結界のあとを通ってザグルーの配下が集団で侵入する

 3、配下たちが時間をかけて仲間を集め、結界を破る


 オットーが、僕たちの密談をじっと見つめている。ジョセフに知られたらおしまいだからだ。

だが、僕がザグルーに送り込まれてアトランティスに来たことを知ったカリアが力を貸してくれるとはとても思えなかった。

 顔を背けた赤毛の少女の目から涙がこぼれるのが見えた。 

 すすり泣きが聞こえて、僕も目をそらした。

「もう何も信じられない」

 見方を変えれば、それまでは信じてくれていたということだ。

 一昨日会ったばかりの僕を。 

 それは喜んでいいことなのかもしれなかったが、今はそんな場合じゃない。カリアの自尊心は、深く傷ついているに違いなかった。だから、面と向かって話す勇気は、もうなかった。

 ミカルドとジョセフの様子をうかがうと、二人は睨み合ったままだった。まだ余裕がある。

 希望を失った少女の心を開く方法を、僕はひとつだけ知っていた。

「僕を信じてくれなくていい。だけど」

 要するに、カリアが逃げる気を起こせばいいのだ。逃げることで開ける未来があれば、彼女の誇りは甦るはずだ。

 僕は、知っている限りの「魔法史」を語りはじめた。


 結界が解けた後の魔法使いには、普通の人々に迫害されると共に、利用される生活が待っていた。

 その最たるものは、戦争だった。

 人を殺傷することこそできないが、天地自然を操る魔法使いは、人間の戦闘能力を飛躍的に向上させた。

 だが、その空しさに目覚めた魔法使いたちは、人々が自分たちなしでは何もできなくなっているのに気づいた。

 彼らは一部の連絡役を残して再びアトランティスに結集し、大陸を結界で閉ざした。

 そして、アトランティスは戦争や天災のたびに出現し、影響力を盾に、混乱を調停するようになる。

 魔法使いは、世界の調整役となったのだ。


 だから、と僕は語気を強めた。

「魔法使いはそうじゃない人には勝てないけれど、そうじゃない人を守る魔法使いになればいい」

 カリアはしばらく黙っていたが、ぽつりと尋ねた。

「どうしてそんなことが言えるの?」

 精一杯の笑顔で答えた。

「『この世の何人も入るべからざる』結界は、来るべき世の者なら越えられるのさ」

「出まかせよ」

 カリアは泣きながら言った。だが、その声には憎しみも怒りも感じられなかった。

 僕も涙声になっていた。

「そうさ、公子ミカルドも出まかせだった」

 手が痛い。足が疼く。

 寒い。

「バカにして!」

 カリアは、僕にすがりついて泣きじゃくった。囚人服越しに感じる身体は柔らかく、温かかった。

 悪寒や疼痛が和らいでいく。もう、思い残すことはなかった。

「案外、本当になったろ」

 カリアを抱く身体が透けていく。

 どさりと地面に落ちた少女は、「ひっ」と悲鳴を上げて自ら押し殺した。

 ぽかんと僕を見上げる。

「これ……」

 死ぬのが怖くないと言ったら、嘘になる。僕は平生を装って、多少裏返り気味の声で答えた。

「ギアスさ。秘密を喋るなって、ザグルーにかけられたんだ」

 それまでカリアの声は驚きと恐怖に震えていた。だが、最も憎み、軽蔑する相手の名を聞いた瞬間、その響きは変わった。

 凜とした、自信に満ちた答えが返ってきたのだ。

「わかったわ。でも、私は逃げない」

 白い衣に長く赤い髪を揺らめかせて、少女が立ち上がった。

 今まで気が付かなかったが、素足だった。その白い素足で岩場を踏みしめ、胸の前で両手の指を組み合わせて祈る。

 微かに動く唇から洩れているのは、おそらく「狭間隠し」の呪文だ。魔法で閉ざされた、空間の入り口と出口をもう一度切り離しているのだ。

 結界が解かれれば、フランスのフィリップ2世がアトランティスを取りに動くだろう。そうすれば、リチャード1世は十字軍からイングランドヘ帰還する。ジョンは、すぐにリチャード1世に寝返るだろうし、フィリップ2世も屈服する。

 だが、僕はそんなことを望んではいなかった。

 小声で引き止めにかかる。

「やめろ! まだ早い! まず逃げるんだ!」

 カリアは呪文を唱え続ける。僕はなおも説き続けた。

「あの船には何人もアトランティスの魔法使いがいる! 助けを求めろ!」

 呪文の詠唱が止まった。ほっとしていると、カリアは笑顔で冷ややかに言い放つ。

「いや。裏切り者の世話にはなりたくない」

 やがて、水平線の彼方が夜明けよりも明るく輝き始めた。結界が解け始めたのだ。

 映画みたいに。

 力ずくでも止めようと延ばした手は、カリアの身体を擦り抜ける。僕の身体も、実体がなくなりかかっているのだ。

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