深夜の脱出
石川や 浜の真砂は 尽きるとも……(歌舞伎『楼門五三桐』)
僕は思わず笑い出した。ジョセフがあの偃月刀を持っていたら、鉄格子越しに刺し殺されていただろうと思いながら。
だが、「おかしいか」と問い返すジョセフも愉快そうだった。
「いいか、アトランティスにはイングランドとヨーロッパ中の魔法使いが集まってきたという。ということは、魔法使いはここにしかいない」
そう切り出したジョセフの読みは、こうだった。
魔法は魔法使いではない者には効かないとはいえ、人間でないものには影響を及ぼすことができる。それこそ、動物の感情から天地自然に至るまで。
そして、その力は現在、アトランティスが独占している。
魔法使いへの迷信や恐怖を利用すれば、かつて彼らを迫害した連中に一泡噴かせることができる。
「仕返しで勝てるとなれば、アトランティス中の魔法使いが協力するだろう」
その「勝てる」戦をするための準備をしているのが、今だというのだ。
つまり、僕がイングランドでやれと言われているのは、結界が解けたあとにジョセフの手引きをしろということなんだろう。
だが、僕には疑問があった。
「どこか一箇所を解けばいいんじゃないか、結界は」
そこは、結界破りを取り締まってきたジョセフだ。
このアトランティス中の誰よりも詳しい。
「解く者の力が上回らない限り、穴を開けても元に戻る」
それは何となく、イメージできた。
毎朝、アトランティス中の魔法使いが「狭間隠し」で空間を捻じ曲げているのだ。
結界自体が自己修復力を持っているようなものだろう。
だが、理屈の上では可能なことがある。
「ひとりで全部の結界を解こうとしたら?」
頭から覆いかぶさるような勢いで、ジョセフは僕を罵った。
「そんな奴を海岸まで何人も追い詰めた」
まるで僕が思いついて何度もやらかしてきたかのような口調だった。
あまりの勢いにきょとんとしていると、ジョセフは再び、鼻で笑った。
僕に対してではない。
遠い目をしていた。
たぶん、今までアトランティスから逃げ出そうとした脱走者の記憶をたどっていたのだろう。
彼らが考えていたことは、ジョセフにはお見通しだったようだ。
「海の向こうに見えるイングランドやフランスの船の力を借りようとしたんだろうがな」
それから少し、間があった。
吐き気をこらえているかのように、うっと唸る。
思わず尋ねた。
「それで……?」
今までの自信たっぷりな物言いとは打って変わって、荒い息遣いで答えた。
「空が一瞬ぴかっと光ったかと思ったら、黒焦げになって死んでいた」
これは意外だった。
ジョセフには似合わない。
今まで数えきれない人々を戦場や残党狩り、結界破りの取り締まりで惨殺してきたのに。
言い換えれば、それほどまでにむごたらしい最期だったのだ。
そう考えると、どうやら「結界の少女」は作り話らしい。
ジョセフは深く息をついて、僕から目をそらした。
「明日の朝までに返事をくれ。断る場合と答えない場合は、殺す」
そう言い残して、ガウン姿の「黒衣の策士」は鉄格子の前から去っていった。
もちろん、答えは決まっていた。
夜のうちに逃げ出すのだ。
アトランティス中央で睨みを利かす本拠地を抜け出すのは、わけもなかった。
この時代にも、すでに魔法使い除けのカギはあったが、現代のものに比べれば、知恵の輪を外すよりも造作ない。
迫害と弾圧の歴史の中で魔法使いが生き抜くためには、「解錠」呪文は必要不可欠だった。
力場をカギ穴に合わせて発生させ、幾通りものストッパーを外して回す基本的な方法は、今も昔も変わらないのだ。
ただし、現代には魔法を使うときの集中力を分散するための、もっと複雑なカギがあるし、そもそも電子錠を外す魔法はない。
本気でカギをこじ開けようと思ったら、捕まるリスクが高まるのを覚悟で壊した方が早い。
そんなわけで、現代では「解錠」呪文は魔法使いの伝統を受け継ぐ技として洗練されてはいるが、コンテストぐらいでしか使い道がない。
しかし、脱出できるわけがないとタカをくくっている連中相手に、この手の便利呪文は使い放題だった。
鉄格子から出たところで「暗視」の呪文を唱え、視界を確保する。
暗闇の中で、ぼんやりと周囲が見えるようになってきた。
左右と正面にずらりと並んだ牢獄には、暗がりの中に人生を完全に諦めたかのように寝転がったり、壁にもたれたりしているボロクズの塊のような姿がある。
全員解放してやったら面白いことになるのだが、騒ぎを起こすのは得策ではない。
その場を離れると、上へ向かう階段があり、てっぺんには扉があって、その窓から明かりが洩れている。
さてここからが魔法使いの腕の見せ所だ。
階段を登りきって窓を覗いてみると、ハルバードを手にした牢番の黒鎧の背中が見えた。
呪文を唱えて、「空耳」の魔法で、見当外れの方向に逃げ去る足音を偽装してやる。
そっちに注意が向いたところで、扉越しに「屈光」の呪文を使う。
僕の姿を黒衣の戦士に変えて投影したのだ。
早い話が、幻影である。
こうすれば、注意が逸れた隙に仲間が現れたように見えるのだった。
扉のすぐ向こうから話しても、この位置関係ならバレない。
「おい、何か聞こえないか」
「何も……」
牢番は答える。引っかかった!
そこで「空耳」の呪文。牢の側に足音を立ててやる。
「誰かいるのか?」
尋ねているのは僕なのだが、牢番には突然現れた同僚の声のように聞こえるはずだ。
「いや、誰もいないはず……」
おろおろする牢番に、僕は最初の一押しをした。
「開けてみろ」
「いや、それは……」
断られるのは計算済みだった。
問題は、きっぱりと言い切るかどうかだ。
残念ながら、任務にはあまり忠実ではないようだった。
僕は、伝説の
「開けてみるだけだよ」
「でも……」
牢番は、「ちょっとだけ」の誘惑に必死で耐えている。
トドメを刺すのは、今だった。
甘い囁きは、
「脱走してたらどうするんだ!」
当然、この声は牢のほうに反響する。
だが、すっかり怯えている者には廊下をどこまでも揺るがす一喝に聞こえただろう。
牢番は慌てて、扉を開けた。
「屈光」による幻影が生じている間は、僕の姿も見えない。
その瞬間に外へとすりぬける。
「ちょっと中見てくる」
牢番はランプを手にして扉の中に入った。
……今だ!
手前の廊下を素早く曲がり、早足にその場を逃げ出す。
問題は、出口だ。
そもそも、どこにある?
迷路のような石造りの廊下をつかつか歩きながら、「顕示」の呪文を唱える。
これで放たれるオーラは物理的なものではない。
どれほどの距離があっても弱まることはなく、何があっても遮られることはないのだ。
水平線の向こうのアトランティスが見えたくらいなのだから、行くべき方向から洩れてくる光を追えばいい。
黒い鎧を着けた男たちと何度となくすれちがったが、バレることなく廊下の終わりまで出ることができた。
目の前には、見るからに分厚そうな、大きな木製の扉がある。
長い金属製のカンヌキがかけられており、これまた頑丈そうな錠前が下りている。
カギは「解錠」の呪文でクリアできるが、扉は重そうだ。
一人で開けたら絶対に大きな音がする。
だが、こういうときの呪文もちゃんと受け継いでいるのが魔法使いだ。
重いものが動かせないのは、摩擦力が働いているせいだ。
また、凍った冬の道で転びやすいのは、摩擦力が失われているからだ。
その「摩擦」をコントロールする魔法がある。
僕は錠前のカギを外したうえで、カンヌキと扉に「摩擦調整」の呪文をかけた。
カンヌキと扉は音もなく動く。
やっと外へ出て振り返ると、夜明け前の冷たい風の中に、巨大な要塞がそそり立っていた。
ジョセフはここを拠点に、アトランティスからイングランド、ヨーロッパへと支配の手を広げようとしているのだ。
……そんなことに手を貸せるか。
僕は外部への出口を探した。
呪文を使うまでもなく、長く続く城壁の端に巨大な鉄扉が見えた。
たくましい黒衣の門番がひとり、ハルバードを手に立ち尽くしている。
これも問題だ。
さっきの扉もあれだけ頑丈にカギをかけてあったのだから、簡単に通れるわけがない。
よほどの緊急事態でないと、門は開かないだろう。
さらに、内側からカギがかけてあったということは、誰も中から出て来られるわけがないことになる。
僕は、姿を見られてもいけないのだ。
城壁に張り付いて、さて困ったと門を眺めていると、門番が通用口を開けて交代するのが見えた。
なんのことはない。
僕は「屈光」の呪文をいったん解いて、さっき出て行った門番と同じ背格好の幻影を再び作った。
鉄扉に近づくと、門番が、あれっという顔で僕を見る。
心臓がバクバク鳴るのを感じながら、努めて冷静に告げた。
「お前と交代だろう、出してくれ」
相手はきょとんとする。
「あれ、お前さっき……」
そこで僕は声を殺して言った。
「魔法使いの幻かもしれんぞ」
門番が息を呑むのが分かった。
「出してくれ、見てやる」
わかった、と通用口が開けられる。
そこをくぐると、僕が「化けた」門番がそこにいる。
唖然としているところで、僕は叫んだ。
「いたぞ!」
通用口を開けた門番が飛び出してきて、本物の門番にハルバードで襲い掛かった。
受ける方は何のことかわかるはずがない。
やたらめったらに打ち掛かる門番と、面食らって逃げる門番。
僕は加勢するふりをして、逃げる方の行く手を阻む。
逃げる者と追う者が共に通用口の戸の奥に消えた瞬間、「疾走」の呪文でその場から逃げ去った。
空を見上げると、オリオン座の三ツ星が昇るところだった。
その方角に背を向けて、石畳の道を走り出す。
呪文の効果が尽きる頃、西へと向かう道すがら、僕を拾ってくれたのは若い荷馬車引きだった。
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