結界の朝

 祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響あり 沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらはす 

 驕れる人も久しからず ただ春の夜の夢の如し 猛き者もついには滅びぬ ひとへに風の前の塵に同じ。(平家物語)


 浅い夢のたとえだ。

 夜明け前は、そんな夢をよく見るものだけど。。

 この時ばかりは、そうはいかなかった。

「うええええっぷ……」

 ひどい車酔いだった。

 町はずれの野原に敷かれた石畳の道を行く荷馬車の後ろに座って、一晩中揺られていたのである。

 我慢の限界。

 僕は擦り切れた灰色のマントのフードを目深にかぶり、後ろへ飛び過ぎていく道に向かってゲロを吐いていた。

 もう、胃の中はからっぽ。胃液も吐ききって、何も出なかった。

「大丈夫かね、旦那」

 甲高い声が、一応は気を遣ってくれた。

 一晩中寝ないで荷馬車を操ってくれていたのだから、文句も言えない。

「もう少し……ゆっくり」

 事情を考えれば無理な話だが、身体も参っているので、そう言うしかなかった。

「あっしも商売ですんで」

 すっぱりと断られた。

 僕としても本当に感謝はしているのだが、その物言いが実に素っ気ないのには腹が立った。

「お礼は弾んだろ」

 つい恩着せがましくなるが、そもそも荷馬車に、客を乗せる義理はないのだ。

 荷馬車に乗っているのは、農具や大小さまざまの麻袋。

 長さ2m位の長細い包みは、何か柔らかいものを包んでいるらしく、馬車が揺れるたびにゆさゆさ動く。

 荷馬車の主は、妙に押し殺した声でぼそぼそ答えた。

 鍔広の帽子をかぶり、縮こまって丸めた背中にみすぼらしいマントを羽織っている。

「だから急いでるんでさあ。近場ならもそっとゆっくり行くんですがね」

 口の減らない男だが、返事をしていれば気力が尽きることはない。

 どれだけぐったり疲れていても、これだけは忘れてはいけなかった。

 魔法対抗戦のために、父や母、学校の先輩たちから徹底的に叩きこまれてきたことだった。

 魔法使い同士が対魔法呪文でお互いの力を封じるとき、頼りになるのは自分の精神力である。

 魔法対抗戦でも、相手の気力が尽きたとき、魔法の効かない空間を解除して対人呪文で攻撃するのが持久戦のセオリーだ。

 というわけで、こちらも軽口で応じる。

「そんなら歩いたほうが安上がりだ」

 男はけたけた笑った。声は意外に甲高い。

「ちがいない。遠いんでしょう、どちらへ?」

 一人の少女の面影が浮かんだ。

 燃えるような赤毛。

 まっすぐ見つめてくる、輝く瞳。

 でも、口元はどこか、僕を小馬鹿にするように歪んでいる。

 答えるわけにはいかなかった。

 男が知るわけがないし、知られても困る。

「適当なところで降りるよ。残りはそこで」

 といっても、その場所はこの道の先、としか覚えていない。地図もなければ土地カンもない。

 検索しようにも、スマホもない。

「イングランドやフランスの金貨じゃ困りますぜ」

 男にとっての問題は、報酬の額にも増して身の安全のようだった。

「アトランティスのしかないよ」

 実はイングランドの金貨も持っているのだが、それは口にできなかった。

 海に落ちたときも、これだけはしっかり懐に残っていたのだ。

 他の者は何一つ持たせてくれなかったザグルーが、魔法でもかけたのだろう。

「まあ、それでも仕方ないですがね」

 ありがとうございます、の一言はないのだろうか、12世紀のアトランティスには。

 まあ、12世紀のヨーロッパ各国から魔法使いが集まってできた国だから、それぞれ何語を喋っているのかよく分からないけど。

 どっちみち現代の日本語の他は片言の英語くらいしか知らないんだから、それは別に関係ない。

 実際には、言葉を介してはいないのだ。

 なぜこんなことができるのか、よくわからない。

 世界大会で実際に経験したことだが、魔法使いはお互いに違う言葉で話しているはずなのに、互いの意思はちゃんと伝わっている。

 ということは、このアトランティスは魔法使いの国なんだから、荷馬車の主もまた魔法使いということになるのだろう。

 とてもそうは見えないけれども。

 もしかすると一般人でも多くの言語を学べば、それぞれ違う言葉で意思疎通ができないことはないだろうが、まあ、生まれつきできるというのは得といえば得だ。

 そのせいで、現代の魔法使いは通訳の業界で重宝されると同時に一般人から嫌われてもいるという。

「イングランドの金貨使って捕まりたいか?」

 アトランティスは建国時から、そこに集った魔法使いたちが「狭間隠し」で空間をの入り口と出口をつなぎ合わせて作った結界で覆われている。

 外側からは破れないが、内側から魔法使いが「狭間隠し」を使えば、わずかな間だけ外界への穴を空けることができるのだ。

 外国の通貨を持っているだけで、結界を破った疑いがかかるのである。

「あれだってもともと魔女狩りのときに持ってきたもんでしょうに」

 彼の時代では、魔法使いが、そうでない人々と共存しているが、ここにはほとんど魔法使いしかいない。

 陸地を造った魔法使いたちは、もういない。海底を隆起させるのに、すべての力を使い果たしてしまったからである。

 結界を作ってそれを見守った者たちは、雨を呼んで地面を冷やし、上陸したのだった。

「アトランティスのはまがいもんだろうが」

 物の売り買いは、逃げてくるときに持ち込んだ貨幣で行っていたが、それは食料の増産ができるようになると共に不足するようになった。

魔法使いの中には、隆起した地面から鉱脈を探したり、雨で出来た川の砂金を自分で集めたりする甲斐性のある者がいたので、やがて貨幣の鋳造が始まった。

 ただし、着のみ着のまま逃げてきた彼らに製錬の知識はあっても十分な鋳造設備はなく、貴金属の純度は低かった。

「おかげで物が高くって仕方ない」

「魔女狩りに遭うよりマシでしょう」

 魔女狩りは、天地自然を操り、蓄財に長けた超人的な力の持ち主たちに対する、権力者たちからの一方的な迫害であった。

 魔法使い同士なら命の取り合いさえできる呪文の力が、自分たちに暴力を振るう普通の人間には及ばない。

 どれほど悔しかったことだろう。

だが、空間を閉じてしまえば、魔法が効く効かないは関係ない。イングランドとヨーロッパを往来する船は、アトランティスのある辺りを素通りしていくのだ。

 こうして、本物の魔法使いはアトランティスに去り、政治的謀略としての魔女狩りだけが残った。

「命があっても食えなくちゃ」

「食い物はあるんですから。稼ぎましょう」

 『植物の成長』で森林を繁茂させ、『動物との共感』で効率よく家畜を繁殖させた。

 人口が少ないため、この100年、海産物は結界で閉ざされた近海だけで足りている。

 結界の中で大気と水はどうなっているかというと、、無限に続く結界の中でだけ循環している。

 水平線の彼方めざして船を進めても海が延々と続くだけで、振り向いてもアトランティスの影が消えることはない。

 現代でも、姿を消しているときのアトランティスから宇宙へ向けてロケットを打ち上げると、どこかへ消えてしまうらしい。

そんなことを考えながら見上げた空は、そろそろ白みかかっていた。

「おや、夜が明ける。旦那もご準備を」

 荷馬車の主も魔法使いである。

 夜明けとともに心を研ぎ澄まし、結界に力を注ぐ。

 長い呪文を唱える。

 魔法使いたちが朝夕必ず力を注ぎこむのは、「狭間隠し」を応用した「この世の何人も入るべからざる」結界だ。

 僕も呪文を、耳コピで唱える。正確に発音しないと発動しないのだが。

 現代では「狭間隠し」そのものが、犯罪や戦争に利用させないために厳重に管理されている呪文だ。

 ましてや、それで結界など。

 12世紀のアトランティスでは、ぼくは劣化魔法使いでしかない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る