荷馬車引きと不思議な荷物

 坂は照る照る 鈴鹿は曇る……(馬子唄)


 ここで立ち止まるのは危険だとは思っても、いったん「疾走」の呪文が効果を失えば、その反動は全身に来る。

 そもそも、肉体強化系の魔法は肉体的な代償を伴う。魔法女子プロレスで伊能カリアが「腕力倍増」を使うのは、最後の大逆転のタイミングだけだ。

 ときどき、番組改編期の大番狂わせで、カリアがタイトルを一時的に奪われるときがあるが、この場合はたいてい、相手を押さえ込んでも3カウントがとれないというイベントが発生する。

 これは、呪文の効果がなくなって、手足の力が常人よりもはるかに弱体化しているからだ。「疾走」の呪文も同じことで、使った後は足が鉛か鉄の塊のようになって、膝はおろか爪先だって上げることができなくなる。

 そんなわけで、魔法高校では、特に女子に対してこういう指導が為される。

 曰く、「変質者に出会ったら、魔法で逃げたり戦ったりせず、まず近くの民家へ助けを求めなさい」と。

 相手が1人ならなんとかなるが、これが屈強な男だったり、数人がかりだったりすると、逃げ切るのに魔法の効果が十分持たないことがある。かえって女の子を危険に晒してしまうことさえもあり得るというわけだ。

 でも。

 もう、限界だった。一歩も動けない。無理すれば何とかなるが、僕の体力も無尽蔵というわけではない。いや、どっちかというと、そもそもたいしてないといったほうがいい。

 道端に膝を突いて、そこに崩れ落ちる。夜露に濡れた石畳の道が、頬に冷たかった。たぶん、まだ日の出には遠い。

 このまま横になって転がっていれば、間違いなく白旗隊の追手に見つかる。動けないにしても、せめて姿ぐらいは隠さなければならない。

 空間を切り裂く「狭間隠し」の呪文なんか夢のまた夢だけど、相手から自分が見えないようにすることはできる。

 空気の密度を操作して、光を屈折させてしまえばいいのだ。

 僕は「屈光」の呪文を唱えた。こうすれば、呪文が効いているうちは光そのものが身体を避けて通るので、相手から見えることはない。

 だが、それは自分で確かめられることではなかった。

 僕が来た方角から、馬の蹄の音が聞こえてくる。おそらくは、白旗隊だろう。これでやりすごすことができれば、歩ける程度に体力が戻るまでの時間を稼ぐことができる。

 近づいてきた蹄の音に身をすくめていると、やがてそれは僕の前を通り過ぎていった。

 どうやら、呪文の効果はあったようだった。1頭の馬がゆったりと歩み去っていく。

 ゆったりと……ということは、白旗隊じゃない!

 僕はとっさに身体を起こして、渾身の力で叫んだ。

「待ってくれ!」

 馬が引く荷車が、遠ざかっていく。聞こえていないのか、聞いていないのか。

 だが、これだけの力を振り絞って叫んで、聞こえないわけがない。聞いていないのだ。

 いや、それどころか警戒されているのだろう、多分。

 考えてみれば、こんな薄暗い中で姿も見せず、声だけが聞こえるのだ。迷信深い時代のことだから、幻聴でなければ、何か化け物の類だと思われても仕方がない。

 それでも僕には、この荷馬車の助けが必要だった。

「行かないでくれ!」

 自分でも情けないと思ったが、こう叫ぶより他はなかった。土下座ついてでも泣いて頼んででも、この荷馬車に乗って逃げたかった。

 それでも、馬蹄の音は夜明け前の闇の中に消えていく。僕はほとんど絶叫ともいうべき声で哀願した。

「助けて……!」

 微かな風だけが、耳元で唸った。あとは、何の音も聞こえはしない。目の前にはただ、真っ青な闇があるだけだ。 

 いや、一言だけ聞こえた声があった。風と同じ響きだったのですぐには分からなかったのだ。

「ここまでいらしたら、お答えいたしやましょう」

 無茶を言う。立ち上がる力もないのだ。だが、その声には人をからかうような様子はない。生き延びたかったら、応じるしかないのだった。

 石畳の継ぎ目に指をかけて、僕は腕の力だけで這った。馬車はもう、どこにいるのか分からない。その場所は無限に遠いような気がしていたが、僕の手はいきなり誰かに掴まれたかと思うと、ぐいと引き上げられた。

「どちらさまで? あっしを呼んでいなさったのは?」

 妙に甲高い声が尋ねた。でも、答えている暇も気力も、もちろん体力も残ってはいなかった。

 黙っているしかない僕に、その声が追い討ちをかける。

「旦那、乗せないわけでもないですがね、それはご自分でなさってください」

 細い割に力の強い指がほどかれたと思ったとき、僕の身体は勝手に馬車へとすがりついていた。自分でもどこから出るのかと思うような力で、荷車に這い上がる。その上にごろりと横になると、主が手綱をひと打ちする音が聞こえて、荷馬車は動き出した。

「どうなさいましたね、そんな青息吐息で」

 うかつに答えるわけにはいかなかった。どこでどんなふうに白旗隊とつながっているか、分かったものではない。

 確かに、知らん顔をしていれば、怪しまれて馬車から捨てられてしまうこともあり得る。

 だが、今の僕には返事をしないという選択肢もあった。実際に、息もできないくらい疲れきっていたのだ。それが分かったのか、荷馬車の主はそれ以上何も尋ねなかった。

 少し横になろうと思って仰向けに寝転がる。空には少し、青い光が差しはじめていた。

 完全に明るくなるまでに、少しでも遠くへ行かなくてはならない。日が昇ったらどこかに身を隠して、結界を解く方法を探し出すのだ。

 そんなことをあれやこれやと考えているうちに、馬車がゴトンと揺れて、僕の頭は何か大きな荷物にぶつかった。妙に柔らかくて生温かい、気色の悪い感触だった。

「これは……?」

「何でもありやせん!」

 甲高い声をした荷馬車の主は、金切り声を上げた。

 その剣幕に思わず引いたけど、荷物が不気味で仕方がなかった僕は、尋ねないではいられなかった。

「もしかして、生きてるの?」

 横になれば、たぶん僕の身体の方が長いだろう。でも、人間くらいの大きさではあった。

 誰かがス巻きか何かにされていればこうなりもしようが、わざわざこんなことをしなくてはならない事情があるとも思えない。あるとすれば誘拐くらいのものだが、見たところ、この荷馬車の主にそんなことはできまいとも思われた。

 荷馬車の前に座っているからよく分からないが、どちらかといえば小柄で、それほど逞しくも見えない。声の甲高さからすると、子どものようでもあった。

 だが、その物言いは、どっちかというと年を食った大人のものだ。こんな朝早くから荷馬車を操れて、僕をそこへ引き上げるだけの力もあるのだから、そこそこオッサンなのだろう。

 僕の詮索によほど腹を立てたのか、年に不相応なその声は、最も恐ろしいことを告げてきた。

「降りていただきますぜ!」

「それは……」

 疲れと怯えとで言葉に詰まると、荷馬車の主は隙を突くかのようにまくしたてる。

「こっちから頼んだわけじゃありませんのでねえ!」

 押さば押せ、引かば押せとは魔法対抗戦の度にチームのリーダーがよく言っていたことだ。もともとは魔法使いが日本にやってくる前からある、相撲という格闘技の極意らしい。

 もっとも、このアトランティスのおっさんが、そんな言葉を知っているとはとても思えない。だが、そこそこの駆け引きが必要であることは間違いない。

「そこを何とか……」

 下手に出るしかなかった。

「ちょっとやそっとじゃあ、聞けませんぜ」 

 そう言われた以上、この場を凌ぐ方法は1つしかない。

 どうやら、ケチ臭いと思われたザグルーの餞別が、いちばん役に立つときが来たようだった。

「これで……」

 金貨の袋を開けて、中身を鷲掴みにする。じゃらりという音が聞こえたのか、荷馬車の主は手綱を操りながら、身体をひねって片手を伸ばしてきた。

 ロクに数えもしないでその上に乗せられたものは、一瞬で僕の目の前から消えた。それはまず指で弾かれたらしく、キーンと鳴ったかと思うと、続いてキッと噛まれたようだった。

「いやあ、本物の金貨とは!」

 掌を返すように態度を変えた荷馬車の主は、いきなり愛嬌を振りまき始める。

「ああ、そこで寝ていてくだせえ! 朝は寒うございます、ああ、汚い毛布ですが、そこにありますんで……くるまっていただければ、日の出まではなんとかしのげましょうて!」

 言われるままに、僕は荷馬車の上でしばしの眠りについた。揺れはひどいし荷車の底は固いし、寝心地は確かに悪かったけど、そんなことはどうでもよかった。 

 海の中からカリアに救い出されてから、真夜中にジョセフのもとを脱出するまで、心と身体の休まるときがなかったのだ。

 とにかく、少しでも寝ていたかった。

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