黒衣の策士
牛若丸は飛び退いて 持った扇を投げつけて 来い、来いと欄干の上へ上って手を叩く(文部省唱歌)
橋は意外と遠かった。
その全体が見えるところまでくると、随分と大きい石橋であるのが分かった。
雨風にさらされてきたせいか、ところどころ薄汚れてはいる。
だが、普通に歩いただけではすぐには渡れそうもないほどの長さである。
つまり、川幅もそれだけ広いことになる。
遠目にもりっぱな彫刻が施された欄干は、おそらく僕の肩まであるだろうと思われた。
近づけば近づくほど、轟々たる水流の音が次第に大きくなってくる。
呪文詠唱の連続で疲れ切っているせいだろうか、その響きがなんとなく恐ろしく感じられてならなかった。
急いで渡ろうと足を速める。
だが、僕を引きとめるかのように、背後から馬の駆ける音が聞こえた。
……おいでなすったな。
見つかった以上、逃げても無駄だ。
振り向いたところで、石畳の道を突進してくる黒い鎧の戦士が見えた。
乗っている栗毛の馬と比べれば、随分と小柄だった。兜をかぶっていないので、その色が黒いのも分かった。髪や鎧の色ほどではないが……。
黒髪と、黒いラメラー・アーマー。
反りを打った剣の鞘には、太陽の光に煌めく装飾が施されている。
さっきの「白旗隊」と呼ばれる戦士たちは、僕をたった一騎で追ってきた男に率いられている。
魔法使いを嫌い、異界の戦士の力だけで第1次アトランティス戦争を生き抜いた男。
「無傷のジョセフ」が、たった一騎でやってきたのだ。
第1次アトランティス戦争で対立する魔法使いたちは、互いに異界の戦士たちを使って戦った。
ここへ来る前にザグルーが一通り与えてくれた情報によれば、その中でも活躍したのが「無傷のジョセフ」と呼ばれる身軽な策士であったという。
それほど腕力はないが、神速の剣と宙を舞うかのような跳躍力に恵まれ、対立勢力の戦士たちと闘っても一太刀も浴びることなく相手を斬り伏せてきたのだった。
武勇がそれほどまでに優れていても、東洋では兄に疎まれ、追われる身であったらしい。
アトランティスに招かれた事情を知ると、ここぞとばかりに非魔法使いの戦闘部隊である「白旗隊」を結成した。
そこに集められた戦士たちは、洋の東西を問わず一騎当千のツワモノぞろいだった。
ただし、最初、白旗を降伏の意思表示と勘違いしたヨーロッパの戦士を一方的に虐殺したため、「卑怯者の一団」と呼ばれていたこともあった。
その一方で、ザグルーが最初に招いた東洋の戦士たちを屈服させ、戦争を終結させたのもこの男だ。
「俺のもとにいればいいものを! 公文!」
僕を本名ではなく「キンフミ」と呼ぶジョセフの叫びを聞きながら、馬との距離を目で測る。
そして、超高速で考える。
……これなら、かわせるか?
馬上から矢を放たれたら、ひとたまりもない。
僕は急いで呪文を唱えた。
ジョセフの叫びは、裏返すとこういう意味だからだ。
従わない者は、殺す。
このやり方が、先に東洋からやってきた同胞たちを徹底的に叩き、ザグルーの思惑を挫いたのだった。
功績からすれば軍事長官ぐらいにはなれたのだが、残党狩りをしたり、結界破りを取り締まったりする査問官に甘んじている。
魔法使いなしでも、反乱分子を追い詰める自信があるのだ。
実際に、結界を越えてアトランティスにやってきたところで早々に捕まり、逃げ出した僕をたった一騎で追ってきている。
おそらくは、逃げた部下の報告を聞いてのことだろうが、素人が考えても普通は新手を率いてくるものだ。
それをしないということは、魔法の使い過ぎで気力が保たないのが読まれているのだ。
だが、矢は飛んでこなかった。
あっという間に背後に迫ったジョセフは馬上から、長柄の偃月刀で斬りつけてくる。
ジョセフは脳天から真っ二つにしたつもりだったろうが、その刃は、身体をすくめた僕の肩をかすめていった。
いまいましげにつぶやく。
「屈光の呪文か!」
小賢しい、と馬首を返し、再び斬りこんでくるが、紙一重の差でかわすことができる。
光の屈折を操って、自分の像をすぐ隣りに結んでいるのだ。
相手の目に見える僕の姿は、本来の位置からは微妙にずれて見える。
影は様々な方向から照明を当てたときのように幾条にも分散して、ぼやけて見える。
これでも、中1のときから日本魔法技能コンテスト入選の常連だ。
グランプリまでは程遠いが、僕はそこまでする気はない。
半径40㎝の円を描くように、僕の幻影を前後左右に動かしていると、鼻先を、ジョセフの刃がかすめていった。
とっさに、錯乱の呪文で馬を混乱させる。
日本魔法協会認定免許1級取得者に伝授される、精神操作系呪文だ。
もちろん、魔法使いに使ってはならず、そうでない人には効かない。
あくまでも護身が目的で、対人使用は免許召し上げでは済まない。傷害罪として扱われる。
馬は暴れた。
前脚を高く上げては振り下ろし、後ろ脚を蹴り上げ、乗り手を振り落とそうとする。
だが、馬が甲高くいなないて駆け去ったとき、地面に叩きつけられたジョセフは高々と跳んで逃れていた。
僕の前に爪先から音もなく、ひらりと舞い降りる。
「逃げ回るより、闘うのが性に合っているんだろう?」
その声は、頭の中でこだまする。
さっきの呪文で、気力は限界に達していた。
身体はふらつくが、何とか足を踏ん張る。
目を凝らしてジョセフを見据えたが、おそらく口元に浮かべているであろう嘲笑は、ぼんやりと霞む視界に溶けてしまっていた。
それでも、はっきりしていたものがある。
意識の上に浮かんだ、この言葉だ。
……お前の野望につきあう気はない!
そう言いたかったが、もはや疲れで口を動かすことさえできなかった。
一気に呪文を使い過ぎたのだ。
魔法の持続時間には、限界がある。
ジョセフの偃月刀が命中しないうちに、逃げ切らなければならない。
どこへ?
背後には、橋がある。だが、渡ったところで、追いつかれたら同じことだ。
気力も体力も充実しているジョセフに、目を回して倒れかかっている僕が敵うわけがない。
しかも、自分より劣勢と見れば徹底的にいたぶる性分なのだ、この男は。
それは、第1次アトランティス戦争でやったことからも分かる。
ザグルーによれば、ジョセフに敗れたのは、「公子ミカルド」と呼ばれる美貌の少年が率いる、赤い旗の一派だったという。
その手に携えた「シャナン」と呼ばれる先祖伝来の剣は、死を除く全ての災いを祓う力があり、戦士たちの支配権を証すものとなっていた。
しかし、多くの戦士たちが少年を崇めたのは、その剣を受け継いでいるからではなかった。
ミカルドは聡明でしなやかなものの考え方をする温厚な少年で、同朋が二派に分かれて殺し合うことを望まなかったのである。
そのミカルドを守っていたのは、長弓の使い手である「強弓のオットー」だった。
人が豆粒ほどに見える距離からでも常に、その急所を正確に射抜く力と技を持っていたらしい。
オットーを相手にジョセフは苦戦したが、とうとう、その残虐さと狡猾さでミカルドの軍を大敗させた。
ミカルド側の命は、「シャナンの剣」と引き換えに助けられ、戦士たちは「白旗隊」に組み入れられた。
ミカルド側の戦士は、気骨のある者から歯向かっては粛清されたので、心の曲がったものと根性なししか残っていない。
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