第31話 一夏の序論

 サンライニの日差しは、ヴィクト王国に比べると強い。そのせいだろうか、見上げた青空はノースモアのそれより鮮やかに見える。人の気も知らないで晴れ渡る空を、ついうらめしく思ってしまう。


 「久しぶりのサンライニはどうだい?」


 私とは対照的に楽しそうな兄が、こちらを覗きこんで聞いてくる。


 「別に…特に感慨はないけれど」


 兄の空気を読まない所は、昔から変わっていない。雲ひとつない青空はまだ許せるが、ニヤニヤとして笑顔を隠そうともしないのは本当に意地が悪い。


 「痛い!表情をまったく変えずに家族の足を踏むのはよそうよ!怖いよ!」


 努めて冷静にしたつもりだったが、私の足は勝手に動いていたようだ。我ながら優秀な足だと思う。お兄ちゃんは悲しいよ…などと、芝居めいたことを言い始める彼を見ていると、ここしばらくの疲れがどっと出たような気がした。


 「あ!システィさん、お帰りなさい。お久しぶりですね!」


 そこへ明るい声がかかる。パタパタとこちらへやってくるルーさんとも久しぶりに会う。


 「ルーさん、ご無沙汰しています。兄がいつもお世話になってます」

 「いえいえ、そんなことは…。こちらこそファリエ会長にはいつも…」


 彼女はやや語尾を濁しつつちらっと兄を見た。苦笑しつつこの反応ということは。


 「兄さん」

 「なんだ…いっ!?痛いよ!せめて別の足にしようよ!同じところばっかりは性格が悪いよ!」


 自分のことを棚にあげてよく言ったものだ。むしろ血がつながっているのだから私の性格が悪いのは当たり前だろう。まったく忌々しい話である。


 「ルーさんは管理官でわざわざ来てくれているのに…。また色々用事を押し付けて自分は遊んでいるんでしょう。本当にすいません…」

 「いや、システィさんが謝ることではないですから…!あ、でももう少し踏んでおいてくださると嬉しいです!」

 「痛い痛い痛い!」


 クスクスと邪気なく笑いながら軽口を叩くルーさんに、思わず頬が緩む。

 柔らかで親しみやすい空気を持ちながら、貴族相手にも動じない所もある彼女はとても素敵な女性だと思う。兄のような人間の面倒を任せてしまっているのは、本当に申し訳ない。もう少し強く踏んでおこう。


 「一応荷物の検査させてもらいますね~」


 ルーさんに荷物を預ける。わずかな手荷物とはいえ転移扉を使った際の規則だ。個人的に交流があっても、こういう所をずさんにしないのが管理官である。


 長期の休暇をとったとはいえ、これといってやることは無かった。一般的な休暇の季節ではない。ただでさえ友人は少ないのだ、予定が合うことはまずない。家にこもっているとますます気分が悪くなりそうだったので、特に用があるわけでもなく商店街をぶらついていた。


 そんなとき、ノースモアの貴族との打ち合わせだったという兄を捕まえられたのは運がよかった。

 そこでとにかく気分を変えたくて、転移扉を使うことにしたのだ。兄と一緒である必要があるとはいえ、一応権利はもっているし、前回に使ってからは十分すぎるほど期間が開いている。管理官からも問題なし、との判断をいただいた。


 「ところで…兄さん、商工会はもうやめたの?それとも今日は定休日?」

 「ん?どうして?」

 「いや、どうしてって」


 本来なら依頼を持ち込む人が多く訪れる時間帯である。にもかかわらずルーさんと兄、私しかいない。これで商工会を営業しているというほうが無理があるだろう。

 そんな状況をお構いなしに、絶賛営業中だよ?という愚兄を見て、私は思わずため息をついた。



 兄が商工会を始める、というのは私が工房に入る少し前だったと思う。

 兄が唐突に何かを始めようとするのも、商売に興味関心が高いことも、私達家族は十分に承知していた。しかしさすがにこの宣言には驚いた。それもそのはず、商工会はもっとも難しい商売の一つとして有名だからである。


 その理由は大きく二つある。


 一つは商売を始めることそのものが難しいことだ。

 商工会を起こすには、まとまった金銭と、公国からの信用が必要だ。公国の一定の基準を通過しなければ立ち上げることすらできない。


 私達兄妹の生まれは、イームス家という公国の貴族である。転移扉の管理と、諸外国との秘密裏の接触という重要な仕事が任せられる位には、公国からの信頼を得ている家系でもある。

 そんな背景のおかげで、イームス家は商工会を始めることに自体が問題になることはなかった。金銭的にも公国の信用的にも有利な状況ではあったからだ。


 ただ、商工会の難しさはもう一つある。それは金銭感覚の違いだ。


 商工会の運営には、まずは所属商店や職人が必要不可欠だ。とはいえ商店と一口に言っても、貴族が関係するような高級店は歴史ある商工会に所属しているのが普通だ。そうなると庶民生活に関わる商店の所属を狙うことになる。

 ここで大きな問題になるのが庶民の感覚が分からないことなのだ。

 これはある意味当然である。商工会を立ち上げられるほどの金銭を持つ環境で暮らす人間に、一般的な暮らしを理解することは難しい。理解しようと努力はするが、教育とともに刷り込まれた感覚がそう簡単に消えるわけではない。となると所属商店の経営に関する相談に、現実に即した回答ができないのだ。

 新規商工会のほとんどがこの問題にぶつかり商店に見放されてしまう。それが繰り返されたことにより、新規商工会は期待できない…という風潮を生み、まず信頼してもらえない空気ができあがってしまっているのだ。これはサンライニはもちろん、ノースモアでも似たような状況のようだった。


 まず立ち上げが難しい。仮に立ち上げができたとしても、所属商店を開拓するのが難しい。

 こういった事情に加え、競合となる商工会は淘汰を乗り越え実績も信頼も資金力もある。素人目に見ても、成功するほうが珍しい。それが商工会という商売の実態なのだ。


 愚兄とはいえ、頭の出来が悪いとは思ってはいない。むしろ私よりも回転は早いし、弁も立つ。今までも唐突に何かを始めたとしても、小規模ながら成果を残しながらやっていたように見えた。その様子を見ていて、どちらかと言うと安定的な利益を出していく姿勢なのかと思っていたくらいだ。

 だからこそ、驚きも大きかった。どうみても分の悪い賭けに、それを認識しながら飛び込もうというのだから。

 しかし意外なことに、このことを聞いた父はことのほか乗り気だった。普段は寡黙な父が、いつもより目を輝かせて前のめりになっていたのは印象的だった。いつもどおり言葉こそ少なかったが、息子の宣言を聞いて上機嫌になっていたのは家族ならすぐに分かっただろう。

 その後やや呆れつつ傍観を決めた私と母を差し置いて、父と兄は着々と準備を進めていった。

 気づけば転移扉の利便性を上げつつ、秘匿もしやすいとかなんとか言いくるめて、公国も絡む商工会になっていたのは驚きである。個人的には商工会のような人が集まる場所の奥に、転移扉があるのはどうかと思うけれど…。



 そこまで考えて、それはある意味正解だったのかもしれない、と私は商工会の惨状を見て思った。

 閑古鳥が鳴くどころか、巣をかけて暮らし始めるような所に、まさか転移扉があるとは思わないだろう。ノースモア側はそもそも商工会としての体を成していないので今更言うまでもない。


 「まあ…公国から叱られないならいいのかもしれないけど…」


 この商工会は重要機関であることは間違いない。とはいえ公国にとっては商工会であることは一種の隠れ蓑になればよいのだろう。


 「えっと…その信じてもらえないかもしれませんが、絶賛営業中というのは嘘ではないんです」


 そんな風に自分を納得させていると、ルーさんが言いにくそうに私へ告げた。兄より信用できる彼女の意見ではあるが…この様相を見て、絶賛営業中というのは無理があるような気がする。


 「会長がとても腕の良い技師さんを捕まえまして…」

 「うんうん!我が商工会初の専属技師さ」


 専属…?そんなものは聞いたことがない。聞くところによると要は個人所属の技師、ということらしい。


 「それに所属工房が一件。加えて商店も一件所属が決まりました。所属料の他にも収入がありますし…。ここ短期間の業績だけを見れば、大手の商工会にも負けないくらいなんですよ」


 ルーさんが笑顔で教えてくれるが、兄から同じ内容を聞いたら信じなかっただろう。驚きに目を丸くしていると、兄がくすくすと笑う。


 「システィのそんな顔を見れただけでも、商工会を作った甲斐があったかもしれないね」


 ハンブル商工会初の所属工房は、グラス技師のキュリオさんの工房らしい。確かに兄とは親交があったが、彼はサンライニのグラス技師界隈で知らない人はいないほどの腕を持っていたはずだ。名が広まることや、面倒なやり取りを嫌って商工会所属を嫌がったと聞いていたけれど…。


 「その辺りは色々あってね。お情けや馴染みだからって理由ではないんだな」


 未だ驚きを隠せない私に、兄は嬉しそうに色とりどりの花が浮くグラス瓶を見せた。看板商品というには控えめで、主張の無い小さなグラス瓶。

 けれど鮮やかでどこか涼しげなそれは、私の目を奪うには十分すぎるほど綺麗だった。



 「お待たせしましたー!」


 快活な笑顔が印象的な女性が食事を運んでくる。

 昼を迎えた店内は大勢のお客で賑わっている。基本的に人が多い場所は避けているので、こういった店に入ることはほとんどない。それでもこの店を選んだのは、どうしても確かめたいことがあったからだ。


 「こちらが果実酒です。ちょっと今混雑していますけど、奥のテーブルに持っていくと冷やすことができますよ!お好みでどうぞ」


 テーブルに食事を並べた後、女性は愛想良くそう言うと次の注文を取りに行ったようだ。


 「…!」


 私はテーブルに置かれた果実酒を、正確にはその果実酒が入ったカップを見て思わず息を飲んだ。

 

 基本に忠実で、飾り気も面白みも無い回路構成。

 回路の彫り込みの深さで、流れ込む魔素を制御する独特の手法。


 「…間違いない…」



 ウーミィと呼ばれる花の入ったグラス瓶。ハンブル商工会で取り扱っているそれは、今やティーラ区外からも買い求める人が後を絶たないという。

 そのことを誇らしげに語る兄に、私は確かに驚きはした。けれどもっと衝撃的だったのはウーミィを作るための、エクペルという魔法道具の話だった。

 魔素に特性を乗せて、別の魔素を引っ張る。

 かつて回路に魔素が染み込まない方法を考えて、木製魔法道具を実現させようとしていた人間がいた。庶民でも扱いやすい魔法道具を広めたいんだと力説する技師だ。魔素が魔素を引っ張るという奇怪な理論を実現したのは、私の知る限りその技師一人しかいない。

 それでも私の知る限りというだけだ。交友関係が広くないのは今に始まったことではない。私の知らない優秀な技師の仕事である可能性だって大いにあるのだ。そう自分に言い聞かせていると、その技師が最近手がけた魔法道具があるという話をルーさんが教えてくれた。詳しく話を聞くと、私の古くからの友人との合作らしい。


 「そんなに気になるなら一度見てくるといいんじゃないかな。ご飯も美味しいから、昼食にでも行ってごらん」


 本当ならその時に、技師の名前を無理にでも聞くべきだったのかもしれない。それでも契約上話せない、と意味ありげに笑う兄は分かっていたのではないだろうか。そして自分の目で確かめてこい、と言われたような気がした。

 私は逸る気持ちを抑えつつ、その店に向かうことにしたのだ。



 そして私は今ハンブル商工会初の所属商店、レストロのルーシャを目にすることになった。


 「リアンの回路…」


 そこには彼の人格がそのまま現れたような、そんな魔法道具があったのだ。大声では叫ばないけれど、確かに主張をもった回路の構成。そして何よりその魔法道具そのものが、一等地の中でもっとも庶民的で、気軽に食事を楽しむことができる宿にある。


 「そう…」


 私が見ていたあの頃より、その回路はずっと洗練されたように思う。おそらくサンライニ特有の魔素の濃さに合わせてだろう、細かいところに工夫が施されている。無理がかかりやすい曲線を極力抑えた構成になっているのが見て取れる。


 彼は確かに燻っていた。かつての情熱は薄れ、酷薄な笑顔を浮かべるようになっていった。

 それでも彼は手を動かすことを辞めてはいなかったのだ。それはアローグ工房の成形機の件を考えればすぐに分かる。きっとぶつけようのない技術と想いを、憂さ晴らしをするようにそこにぶつけていたのではないだろうか。


 私はサンライニに逃げてきたのだ。彼と交わした最後の会話と、その後味の悪さから。そのはずなのに、逃げた先にはまた彼がいる。

 これは私への罰なのだろうか、自分の兄の商工会に彼が所属するなんて考えてもみなかった。彼と再会することはもうないと思っていたのに。そう思うことで自分を保っていたはずなのに。どこかそのことを嬉しく思ってしまうことを自覚して、心底自分が嫌いになる。今更どんな顔で彼に会おうというのだろうか。


 「あの…お客さん?大丈夫ですか?」


 自己嫌悪に沈みそうになっていると、不意に声がかけられた。顔を上げると、食事を運んでくれた女性が心配そうにこちらを見ている。


 「あ、いえ…大丈夫です…」


 店内を見渡すと、あれだけ混んでいたはずなのにもう食事客はいない。それなのに私は一切食事に手をつけないままだったし、何か食事に問題があったのかと心配もするだろう。とりあえず無理にでも笑顔を作ろうとした時、もう一人の女性がやってきた。


 「大丈夫じゃない人ほど、大丈夫って言って笑うのよ!お姉さんに話して御覧なさい」

 「ちょ、ちょっとお母さん!失礼だって!うちのご飯が気に入らなかったかもしれないんだから…!」


 どうやら母娘のようだったが、娘より母親のほうがお客との距離感が近いらしい。娘が慌てて止めに入る。とはいえ、口もつけていない食事に文句を言うつもりはない。どちらかと言えば注文しておいて一口も食べないのは、そちらのほうが失礼ではないだろうか。私は自分の行動が情けなくなった。


 「すいません…少し考え事をしていただけなんです。ご心配をおかけして…」


 まだ小さく言い合いを続けている二人に、一応謝罪を伝える。これで収まってくれれば、と思っていたが二人は私の顔をまじまじと見つめる。そして娘のほうが口を開いた。


 「何か辛いことでもあったんですか…?」


 この二人は一介の客に立ち入りすぎではないだろうか。それともこういった店では普通のことなのだろうか。私は心底心配そうな顔をする彼女を見て、言葉に詰まった。けれどそれは不快だったからではなく、真っ向から純粋な善意のようなものをぶつけられ、困惑してしまったからだ。

 私が答えに窮していると、いつの間にか椅子を引っ張ってきた母親がテーブルについた。


 「ひどい顔してるわ、せっかくの美人さんなのに」


 優しい笑顔を浮かべる彼女は、柔らかい声で私に告げる。それはどこか娘に語りかけるような温かさを含んでいた。


 「ちょっとだけで良いから、話してみたらどうかしら」

 「話せば少し、楽になるかもしれませんよ」


 お節介な店主は私が何かを話すまで、店から帰す気がないように見える。はじめは母親を止めていたはずの娘まで同じような様子だ。普段の自分ならこんな対応をされたら気分を害していたかもしれない。

 けれど、私の胸はもう限界だったのだ。悲鳴を上げている心をなだめるために逃げてきた先が、出口のない袋小路だったのだから。行き場を失った叫びはもう喉を突いていた。


 家族でも、友人でもない人に情けない気持ちをこぼしてしまうなんて思いもよらなかった。

 そしてこの時、この母娘と長い付き合いになるということもまた、思いもよらなかったのだ。

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