良質なホラーですが、ホラーの枠に収まらない作品です。
前半、ある怪異が徐々に形を持ってゆきます。どのようにして人が心の闇に取り込まれ、怪異に力を与えてしまうのかが、洗練された筆致で丁寧に、しかし、おどろおどろしく描写されています。
おそらく中盤まで読み進めた時点で、誰もがこの作品を優れたホラーだと認めることでしょう。しかし、この作品の真骨頂はそんなものではありません。
後半まで読み進めた読者は、想定外の一撃を脳天に叩きこまれることとなります。
現実と物語の境目を揺らされ、破壊されます。そして引き摺り込まれる。
具体的にどういうことなのかは、読んで確認してみて下さい。
小説でも漫画でも映画でも、私たちが物語に触れている時、登場人物にどれだけ強く共感し、世界観に深く耽溺していようと、頭のどこかに「これは自分の現実とは関係ない」という感覚があるものです。
この感覚は一種のセーフティネットと言えます。この感覚のおかげで誰もが登場人物の痛みを他人事として俯瞰できる。「『安全』であることの愉悦」に浸っていられる。
そうした読者の喉元に、この作品は冷たい刃を突きつけてくるのです。
「物語に囚われているのは、お前も同じなのだ」
と。
凄い作品です。ただのホラーではない。もはやホラーと呼ぶべきかも分からない。
想像ですが、作者の大澤めぐみさんは、自身の作品及び登場人物に深い愛着を持って書いているのでしょう。だからこそ、このような発想が生まれてくる。そう考えています。今後も目が離せない作家さんです。
現実を侵食してくるタイプのホラーです。
疑わしいと思うなら読んでみてください……ただしどうなっても、保証はできません。現に大澤先生のTwitter、今大変なことになってます。
こんな連載作品、過去にありました?
しかも公式の連載ですって?
もうすごい。私はこの作品をリアルタイムで読めて幸運だったと思う。
ものの売れない昨今、物語を消費することに意識が向いている。私たちはプロダクツの向こうの物語を消費している。
物語消費には弊害もある。炎上、あれも物語消費の悪しき一面だと思う。火中の人物に物事の悪い面だけを押し付けて消費している。感動ポルノもそう。対象を切り取って、都合のいい物語を押し付け、ものを買うように消費する。私たちの感覚はそのことに慣れきって麻痺してしまっている。
けれども、この物語の主役は、消費されることを拒んだ。
物語ること、その恐ろしさを知ったうえで、それを拒んだ。
彼女に手足を与えたのは作者だ。なにも破綻していない。これはそういう”物語”なのだと、私は思う。
中学校で、ひとが続けて死ぬ。それを偶然と片づけるには、人間は賢すぎ、繊細すぎ、脆すぎる……
疑心暗鬼にとらわれた共同体が、狂騒と恐慌で沸騰してゆく学園ホラーです。
事件になにか意味を見いだし、解決しようとする者が、ことごとく退場してゆきます。それは、愚かな者でなくても。正義や愛情を抱いた者でも。ひいては、この物語を一生懸命に追いかけ、先の展開を予想している読者すら、物語の側から「物語を作ってはいけない」と否定される。
黙って最後まで見届けることだけが、この物語に読者が示せる、唯一の誠実さでありましょう。おそろしい小説です。だから、とてつもなく蠱惑的な小説です。
ある固定された状況が、人の行動や心理にどんな影響を与えるのか。
そうした思考実験そのものを物語にするジャンルには、例えば映画『SAW』や『CUBE』といった名作がある。
本作『ムルムクス』は、「木曜になると必ず人が死ぬ」という限定状況を設定することで、現代日本の学校という舞台に非日常的なホラーとスリルを持ち込んでいる。
そうした意味で、本作は典型的なソリッドシチュエーションの形式を踏襲していると言っていい。
一方で、本作の大きな特徴は、そうした限定状況の前提そのものが「本当にそれは確実な事実なのか?」という大きな疑問の中に投げ込まれている点だ。
「木曜に人が死ぬ」という状況は、異常ではあっても明示的な条件ではなく、作中の言葉を借りればあくまで “ジンクス” に過ぎない。
タロットをモチーフに、逆位置の「世界」から始まる暗示的な各話タイトルは、具体的に何を意味しているのか正体の見えない、不確実な不穏さをうまく演出している。
読者は、この「正体の見えない不穏さ」そのものが「ムルムクス」なのではないかという予断を抱きつつ、あるいは来週には物語の前提から覆るような破滅的な展開がもたらされるかもしれないという恐れ/期待に引きずられるように物語を読み進めていく。
そんな本作にとって、Web連載という形式はその魅力を十二分に引き出してくれるよい戦場だ。
さらには、書籍になったときにはまるで異なる物語に変わっているのではないかという期待をも抱かせる奇妙な力がこの物語にはある。
そうした虹の色のように変転する性質こそ、本作の魅力であるように思う。
ただ、その虹の色は、あくまで暗く、人を嘲笑うように輝いているのだけれど。
木曜日になると誰かが死ぬ。
この世界で起きている事実は、ただそれだけである。
しかし人は、事実の背後に物語を求める。
ただ理不尽に人が死ぬ、という事態に耐えられないため、なんらかの理由付けをせずにはいられないのだ。
そして登場する「ムルムクス」という悪魔の名。
そんなものが本当にいるかわからないし、とうぜんこれを笑うものもいるのだが、しだいにムルムクスの存在が日常を侵していく。
皆が信じれば、悪魔はそこに顕現する。
我々は誰も、ムルムクスと無縁ではいられない。
ここで描かれている恐怖は、決して絵空事ではない。現実と地続きのものだ。
だからこそ、我々はこの物語に怯えつつ、続きを待たずにはいられない。
最初はよくある設定の話だなと思っていた。
よくある青春劇の導入。
よくある連続殺人事件の謎。
よくある探偵役の学生の活躍。
毎週起こる事件はどうせ思い込みとかただの偶然で終わると思って居て、やっぱりこういう対策をすれば大丈夫じゃんと作中のキャラと同じように考えた。
でも、
その後の惨たらしい死に方で何かが可笑しいと気付く。
その何かは作中の人物も感じている何か。
読んでいる自分が『こうだろう』『こうなるに違いない』と予想しているのは、その反対の事が起きて欲しくないから。
誰かが死ぬ。それは物語の中ならよくある事で珍しくはないんだけど、だからってこんな死に方は無いじゃないか。
こんな事は現実に起きない。これは物語の中でだけ起きるような事で、現実じゃない。
それはむっちゃんもそう思っていて、僕が思っている事とリンクしてる。
むっちゃんだけじゃなくてクラスの皆もそう思ってると思う。
ムルムルだかムルムクスだか知らないけど、今ではもうそいつが居るって事が当たり前になってる。
ネットでも沢山ムルムクスの事が語られていて、自分の周りでムルムクスを知らない人は少ない。
最初は何の事か分からなかったムルムクスが形を成して、みんなを支配しようとしているんだ。
ムルムクスは生まれてしまった。もう止められない。
だからこそ、始められた物語を、必ず終わらせて欲しい。
最後まで見届ける。意味があるようにと、応援している。
「連続殺人事件」という言葉がある。
言うまでもなく、同一犯によって短期間に連続して行われる殺人事件を意味する単語である。
ホラーやミステリなんかではよく耳にする、定番とすら言える概念ではあるが、現実でこれを耳にすることはあまりない。
「一人の人間が連続して誰かを殺す」ということは中々大変なことであり、そうそう起きることではないからだ。
しかし、殺人事件自体はきっと毎日、世界のどこかで起きているのだろう。
今日も明日も明後日も、どこかで誰かが殺されているのだ。
ならば「地球人類は常に連続殺人事件を起こしている」と言っても良さそうなものだが、そうは言われない。
何故か。
それが同一犯によるものではないからであり、起きる時間も場所もバラバラで、つまり連続していないからだ。
しかし、そもそも「連続している」とはどういう状態なのか。
人は何によってそれを「連続している」とみなすのか。
例えば、一つの場所で短期間に集中して起きた「同一犯によるものではない」殺人事件を、人はなんと呼ぶのだろう。
この物語は、恐らくそういう話である。
おにぎりスタッバー、ひとくいマンイーター、6番線に春は来る、と3冊の本を出しているプロ作家の新作。それもホラー。心霊現象でビビらせてくるスタイルではない。ホラーはホラーでもホラーサスペンス。ファイナル・デスティネーション系。見方によれば悪の教典。
初の公式連載ということだが、これもまた本になるのだろうか?
内容は相変わらずの自意識が高くて面倒な秀才たちの物語。
頭を使うのが好きというか、どんな些細なことにも頭を使って論理武装しないと生きることができない全身性感帯の不器用な奴。メモリを無駄使用して肝心なことが疎かになる奴。でっかい穴の開いた鋼の貞操帯みたいで、それなんのためにつけてるの?なにを守っているの?ファッション?重いしかぶれるだけだよ?と突っ込みたくなる奴。
端的に言うと、由緒正しき純血のオタク思考がベース。当然、劇中での会話やモノローグもゴリゴリにオタク。二次元ネタは清潔感が無いからか出さないっぽいけれども。
なんにしてもコモンセンスを斜め上から見るところがあって、排他的で、そのぶん自分の狭いコミュニティへの帰属意識が高く、選民思想を抱きがち。まさしくオタク。劇中だとガワが美少年美少女だから限界レッドラインで許せる性格。
そういうの鼻につくよね~って言われると、わかる~って返すしかないんだけれども、そういう拗れた美少年美少女の物語って私好き~って言われると、わかる~って力強く頷くタイプ。
まあ、要するにオタクがオタクのために書いた物語。この作者の芸風ていうか、根差したものていうか、これまで食べてきたものがドスコォォォォォッッイッ!!!!ゴッチャンデスッ!!!!!!!って全裸にダイレクトに節操無く反映されているから、合わない人にはとことん合わないし合う人にはとことん合う。
でも、本読む奴ってみんなオタクなので、だいたい合うと思う。合わないのは同族嫌悪。君の中の大澤めぐみが、真の大澤めぐみを決めようとファイティングポーズを取っているだけ。いや、流石に冗談だけれども。近い感情はあると思う。
少なくても、俺は素直に好感を抱けた。キャラクターの思想。物語のテーマと魅せ方。描写の拗れた精緻さ。
あと、レズ。いや、百合?
ガチな奴では無いんだけれども。なんていうか、こう、自我が未成熟な思春期の少女が抱きやすい、同性への憧れが揺れて歪んで生まれた愛情。プラトニックレズ。思春期の少女だけが持つことを許される感情。一夜花みたいな。こういうの好きでしょ?って聞かれたら、好き!って答えちゃうの。オタクだから。
物語の根幹のジュブナイル部分も、なんていうか、こう、オタクが憧れて布団の中で想い描いた、もしくはワイワイ騒がしい教室の隅っこで想い描いた、理想のジュブナイルみたいなところがあって、ああ~わかるわかる、こういう妄想したわってノスタルジーな気もちになってくる。これが読んでいて滅茶苦茶居心地が良い。よく言う実家みたいな安心感。あれあれ。すっごいシンパシー。
それでいて変に生々しいところがあるから、妄想練度の高さが痛いほどに伝わってくる。つか痛い。
痛いって最高にオタクでジュブナイルだよね。そう思った。
これはとても良い物語だ。本になったら買いたい。本にしろ。
自分の頭の後ろに何か渦巻いている気がして振り向いてしまう。
このお話を読んだ方ならこの意味が解る──というより実感としてこれと似た感覚を肌で感じているはず。
よく出来た怖い話は、それを享受する人間の普段オフになってるスイッチをオンにする。
例えば、物音に敏感になる。
例えば、カーテンの隙間が気になる。
例えば、洗髪の時に浴室に自分以外の誰かの気配を感じる。
仮にこれを「霊感スイッチ」と呼ぶ。僕は文章でも映像でも、この霊感スイッチが入る作品は「いいホラーだな」と記憶する。
ところがこの「ムルムクス」は読者の霊感スイッチを入れるにとどまらず、読む者を物語世界の怪異に「直結」する構造になっている。
物語を読み、それについて語る我々はそうした時点で「ムルムクス」に取り込まれ、その一部となってしまう。
後からまとめて読んでもその独特の読後感は変わらず鮮やかだろう。
だがもし連載途中にこのレビューを目にした人は是非とも今すぐ読み始めて、「ムルムクス」についてイメージを持ち、語り、その名を呼んで欲しい。
「ムルムクス」に取り込まれリアルタイムに「ムルムクス」の一部となる体験をして欲しい。
それはきっと滅多にできない、想像以上の生々しさを伴った「物語の一部となる」という経験として、長く記憶に残るものになるはずだから。