VI; The Lovers



<正位置; 愛の強さ 決着 迷いの解消のとき>



 八月十一日の金曜日の午前五時半に北朝鮮の平壌国際空港から弾道ミサイルが発射され、その四分後には、わたしたちのスマホが一斉にアラートを鳴らした。


 ついさっき寝たばかりのわたしは、初めて聴くけたたましいミサイルアラートの音で目を覚まし、急いで階下に降りてテレビを点けた。すぐにお母さんと嶋中優子も起きてきて、ソファーのわたしの隣に座った。テレビは真っ黒な背景に赤い帯と白い文字の「国民保護に関する情報」いう画面のまま動きがなくて、アナウンサーが深刻な口調で「北朝鮮からミサイルが発射されたもようです。いますぐ頑丈な建物の中か、地下に避難してください」と、繰り返している音声だけが流れていた。


 そんなことを言われても、わたしの家には地下なんてないし、この家がどれくらい頑丈かなんてことも分からない。でも、今からどこかに避難して、ミサイルが到達するまでに、ここよりも安全な場所に辿り着けるかどうかなんて分からない。


 つまり、なにもできることなんかない。


 お母さんが、わたしに覆いかぶさるように抱きついてきて、唐突に「睦深、愛しているわ」と言ってきた。いったいどうしたんだろう? と思ったけれど、いつまで経ってもお母さんはわたしをしっかとを抱き締めたまま退かなくて、わたしはようやく、お母さんがわたしをミサイルから守ろうとしているのだということに気付く。


 仮に空からミサイルが降ってきたとして、お母さんが覆いかぶさっている程度のことでわたしを守れるとも思えなけれど、でも、お母さんは不意に廻ってきた、ここぞという場面で、命を賭してでもわたしを守ろうとすることを選んだわけで。


 それは確かなお母さんの意志だったのかもしれないし、ドラマチックな物語がお母さんの脳裏に囁いた結果の行動だっただけかもしれないけれど、そんなことは客観的に区別のつけようがないのだから、ただシンプルに、お母さんはわたしが思うよりもずっと強く、わたしのことを愛してくれていたのかもしれないと思っておく。


 わたしはお母さんの背中に手をまわす。


 ひょっとしたら、もうこれで死ぬのかもしれないとも思ったけれど、不思議と、わたしもお母さんも、嶋中優子も、誰もなにも喋らなかった。いろいろなことが次々に起こり過ぎて、疲れ切ってしまっていたのかもしれない。


 なんとなく、こんな風になんの脈絡もなくいきなりミサイルが飛んできてそれで終わりみたいな、そんな終わりかたもあり得るんだなぁって、そのことを静かに受け入れてしまっていた。


 いつだって、最悪のことはなんの前触れもなく、唐突に起こる。

 わたしたちには、それを避ける方法なんか用意されてなくて、最終的にはただ受け入れるしかないのだろう。


 でも、わたしたちはいきなり空から降ってきたミサイルでまとめてドカンと死んでしまうなんてことはなく、ミサイルはその後、わたしたちの頭上を大きく飛び越えて、千キロメートルぐらい向こうの太平洋沖に落ちる。


 だけど、そういう終わりかたも常にあり得るのだ、という諦念のようなものは、わたしの頭から離れなくなってしまった。


 北朝鮮がミサイルを発射したというニュースは、頭のおかしい男がひとり、ステップワゴンで夜の中学校に突っ込んだなんてニュースよりもずっと重大で、世間のみんなの関心も高くて、槍男(わたしは報道で槍男が菊池重徳という名前だったと知った)が器物損壊と吾妻理人への傷害の罪で逮捕された後(幸いなことに、リヒトの頭を殴りまわして気絶させたのも菊池重徳ということになったらしく、わたしと嶋中優子は居合わせた被害者という扱いで、お咎めナシだった)、いろいろな証拠から吾妻理音の事件にも関わっているらしいと判明して再逮捕されたりしたことは、すっかり押し流されてしまった。


 当然のように、あの場でわたしがこの手で確かに殺したはずのあなたの死体は見つかっていない。現実には、あの出来事は起こってすらいないのだ、きっと。


 夏休み前に数件続いた不審死や、事故死や、中学生同士の喧嘩の果ての傷害致死なんか、北挑戦のミサイル発射よりも人々の関心を集めるなんていうことはなくて、ミサイル関連の報道が一段落するころには、すっかり誰からも忘れ去られていた。


 人の日常に回帰しようとする復元力はとてつもなく強い。

 頭の上をミサイルが飛んでも、数日もしないうちに世界はまるっきりの平常運転に戻ってしまった。わたしたちを苦しめ苛んでいた、ムルムクスを巡るお祭り騒ぎ程度のことは、最初からなにもなかったかのようで、誰かの噂話の種になることすら今ではもうほとんどない。


 北朝鮮からミサイルが飛んできたことまでをムルムクスと関連づけて考える人なんてあまりいなくて、だいたいの子は「いや、ミサイルはさすがに別でしょ」と思っていて、でも、じゃあどこにその閾値があるのかといえば、それはあまりにも恣意的で、感覚的で、捉えどころがなくて、わたしたちは不意に、ムルムクスについて考えることが馬鹿らしくなってしまったのだと思う。


 ある意味では、北から飛んできたミサイルが一連の騒動を収束させたと言えるのかもしれないし、あるいは単に、主だって煽動していた遠藤正孝たちのグループが放火やらなんやらの諸々の容疑でまとめて警察にしょっぴかれたせいだったかもしれない。いずれにせよ、それは波が引くようにスッと、一気に収束した。


 これまでのところ、わたしの周りでは誰も死んでいない。


 わたしの決意や決断や行動とは無関係に、唐突に大外から飛んでくる質量を伴った現実に、虚構の物語など、いとも容易く崩されてしまう。だからたぶん、わたしが物語を終わらせたのではなく、物語はたんに、終わっただけなのだろう。


 だけど、みんなから忘れ去られてしまっても、それで本当に事件がなかったことになるわけじゃない。死んでしまった人はもう戻らないし、誰かを殺してしまった罪も消えてなくなったりはしない。


 三度目にキミヤのお見舞いに行ったとき、明日、傷害致死で逮捕されることになったと聞かされた。


「そっか……。怪我ももう、だいぶ良くなってきたもんね……」と、わたしは言う。

 うん。まだ未成年だから、一生出てこれないなんてことはないだろうけど、でも幸田を殺してしまったのは事実だもんな。数年は、檻の中で過ごすことになるんだと思う。


「事情が事情だし……、それに、なんかそういう施設に入ってからもちゃんとしていれば、たぶん早めに出てこられるよ」

 そうだな。うん、そうだといいな。


 キミヤとは、そんな話をした。

 わたしはキミヤに戻ってくるのを待っているとは言わなかったし、キミヤもわたしに待っていてくれとは言わなかった。


 あんなことがあった後でも、わたしは何事もなかったみたいにぬけぬけと自分の日常に回帰するし、キミヤはあちら側に行ってしまって、当分は戻らない。それは、ただ檻で、物理的な距離で隔てられているだけのことではなく、なにかもっと概念的な部分で、決定的に所属する位相が異なってしまったような感じがする。


 この先、たとえキミヤが戻ってきたとしても、それは一緒にお花見をしながらフリスビーで遊んだ春の日の午後、わたしと同じように完璧な世界を共有していた、あのキミヤではないのだろう。あのキミヤは、もう決定的に失われてしまったのだ。


 そのことをすんなりと受け入れてしまっている自分の薄情さが、わたしはまたすこし悲しい。



 嶋中優子の両親は諸々の手続きを終えて、元の家の近くに借家を借り、長らくわたしの家に滞在していた嶋中優子も、それを機に両親のところに帰った。


 家だけはあるけれど、家以外はなにもないという嶋中優子のために、わたしは自分のいらない服とか、家に余っている食器とか、ギフト品のタオルなんかをまとめて譲る。あれもあげるこれもあげると、半ば我が家の大断捨離会みたいなことをしていたら、思いのほか大荷物になってしまって、それはそれで申し訳なくなってしまったわたしは、嶋中優子の引っ越しを手伝う。


「なんか逆にごめんね。うちのゴミをまとめて押し付けているみたいで」

「ううん、そんなことないよ。助かるよ、すごく」


 嶋中優子の新しい家は、いや、新しくなくてすごく古いんだけど、でもわりと元々の素性がいいのか横開きの玄関の戸もガタがなくてスルスルと動いたし、全体的にミニチュア磯野家って感じで、なかなかチャーミングで悪くないと思った。


「おばあちゃんの家に遊びにきたみたいじゃない?」と、言って、嶋中優子が笑う。最近、わりとそんな感じで、わたしの前では自然に笑うようになってきた。


 引っ越しの手伝いを終えて帰る前、わたしは嶋中優子に「寂しくなるね」と、言ってみた。たぶん、それは本心から言ったように思う。嶋中優子と四六時中一緒にいる生活は、ちょっと息苦しくてやり辛い感じがあったのは確かだけれど、それでも、もう終わってしまうのかと思えば、寂しいという気持ちがまったくないわけじゃない。


「また学校で会えるんだし、うちにも、いつでも遊びにきてよ」


 むしろ嶋中優子のほうがサッパリしていて、全然わたしに未練(?)がなさそうな感じで、ひょっとしたら、嶋中優子がわたしに執着しているというのが、最初からわたしの勘違いだったのかもしれないと思う。自意識過剰だろうか。


 わたしの努力が嶋中優子を救ったのか、それともわたしはただ周りで右往左往していただけで、そんなこととは全然関係なく嶋中優子は生き残ったのか、それすらも分からないけれど、嶋中優子がまだ生きていることは、素直に良いことだと思える。


 それは、この物語におけるほんの少しの救いだ。


 けど、そういった物語てきな救いが、他の多くの悲劇や不幸や、救われなかった命を覆い隠し、押し流してしまうこともまた事実で、ああよかったね~と胸を撫で下ろすあなたは、きっともう、佐々木葉子や園田友加里のことはその他大勢に押し込んでしまって、覚えてすらいない。


 でも、それもまた人が普遍的に持つ欠陥。あるいは業なのだろう。物語を介さず、ありのままに受け止めるには、現実はあまりにも無慈悲で冷淡で、過酷すぎて、わたしたちはそこに物語てきな救いを求め、足し引きをして辻褄を合わせてしまう。


 そのことを責めることはできない。人はみな、それぞれの物語の中に生きている。これはもう、原理的にそうなのだ。



 超越的に美しかったリオンの身体は灼熱の炎で焼かれて永遠に失われ、しろい骨だけになって、無骨な四角い石のお墓の下に入ってしまった。


 夏休み最終日の午後、わたしがリオンのお墓参りにいくと、リヒトが先にきていた。


「リヒト」と、わたしが声を掛けると、リヒトは振り返り、力なく微笑んで「やあ、むっちゃん」と、返事をした。菊池重徳がステップワゴンで突っ込んできたあの夜以来、リヒトに会うのはこれがはじめてだった。憑き物が落ちたかのように、と言うべきなのだろう。あまり元気そうではなかったけれど、すこし前まで常に纏わりついていたピリピリとした緊張感が抜けて、リヒトはすこし、まともそうに見えた。


 やっと、ちゃんとリオンの死を悲しんで、その喪失を受け入れて、静かに悼み、冥福を祈ることができるようになったのだろう。たぶん、相対的には良い方向に向かっているのだろうと思う。


 どんなことが起ころうとも、最終的には、わたしたちはそれを乗り越えて、タフにハードに生きていくしかないのだ。 


「奇遇だね」

「そうでもないかな。僕はだいたいいつでも、ここにいるからね」

「……そうなんだ」


 いちおう、わたしも管理事務所で手桶を借りてきていたけれど、リオンのお墓はすでに掃除が行き届いていて、これ以上することはなさそうだった。線香に火を点けて、墓石にたっぷりと水をかけ、正面に向かい手を合わせる。


 なにか、祈りを言葉にするべきなのかもしれないけれど、特にどんな考えもわたしの中には浮かばなかった。ただ黙って目を瞑り、手を合わせていた。


 わたしがお参りを終えると、リヒトが「ありがとな、むっちゃん」と、礼を言った。わたしはリヒトに「ちょっと話せない?」と、切り出してみる。


「うん? 別にいいけど、なんだい?」

「リオンの墓前では、さすがにちょっと」


 わたしはそう言って、リヒトを墓地の外れの東屋まで連れ出す。「話ってなんだい?」と、リヒトが急かすので、わたしも焦らさず、単刀直入に切り出す。


「リヒトが、リオンを殺したの?」


 わたしがそう訊いても、リヒトは表情ひとつ変えなかった。穏やかに、すこし笑っているようにさえ見える。日陰に入ると、吹き抜ける風はもうわりと冷えている。夏が終わろうとしている。


「そうだよ」と、リヒトはあっさりと認めた。「僕がリオンを殺した」


「やっぱり、そうだったんだ」と、わたしは言う。とはいえ、いちおう確認しておきたかっただけだから、それ以上、特に言うべきことも思いつかない。


「どうして気が付いたんだ?」と、リヒトが問う。

「気付いた、わけじゃないんだけど」と、わたしは答える。


 気付いたというと語弊がある。わたしはただ、教えてもらっただけだから。虚ろな穴で繋がった別の世界の声を聞いてしまっただけなのだから。真犯人を指摘する探偵役が、推理によって真実に到達したのではなく真相を読者に教えてもらっているというのだから、ミステリーとしてはこの物語は落第だろう。


「リヒト、リオンが死んじゃった直後から、ムルムクスの実在を確信していたでしょう? 今でこそ、わたしもアレが実在していたんだと思っているけれど、なにしろ、実際にムルムクスの声を聞いてしまったから、なにかそういうものが本当に存在していたんだろうって、そういう風に考えているけれど、でも、そうでもなければ普通に考えれば、ムルムクスなんて馬鹿々々しくて、にわかには信じられないもの」


 嶋中さんを殺しちゃうところだったんだよね。と、わたしは言う。


「アレは、殺意を煽るんだね。心が弱って、判断力が鈍っている人の頭のうしろに憑りついて、囁きかける。ムルムクスに頭の後ろで囁かれると、自分がなにを相手に、なにをしようとしているのかも訳が分からなくなって、それで人を殺してしまう。アレはそういうメカニズムなんだよ、たぶん」


 リヒトはなにも言わない。黙ってわたしの話を聞いている。だから、わたしも話を続けるしかなくなってしまう。


「アレの声を直接聞いたから、リヒトは最初からムルムクスの実在を確信してたんだよね? じゃあ、いったいリヒトはいつムルムクスの声を聞いたんだろうって考えたら」


 たぶん、リオンを見つけたときなんじゃないのかなって、思って。

 

 実際に口に出して話してみると、全然理路は通ってなくて、ほとんどわたしの直感でしかないなって思う。どこにも、なんの証拠もない。だからリヒトも別に、それを認める必要なんか、全然ない。だけど、リヒトはあっさりとそれを認めてしまう。


「僕がリオンを見つけたとき、リオンはまだ生きていた」


 顔の形も変わってしまうほどボコボコに殴りまわされて、口の中には糞が詰まっていて、もう虫の息ではあったけれど、それでもまだリオンは生きていたのだと、リヒトは言った。


「ひょっとしたら、手を尽くせばリオンはまだ助かっていたのかもしれない。綺麗だった顔を台無しにされて、純潔も完膚なきまでに穢されて、口の中に糞を詰められてもなお、それでも生きながらえる道もあったのかもしれない。でも、耳元でアレが僕に囁いたんだ。リオンはきっと、それを望まないだろうって」


 美しさを徹底的に棄損されてしまったリオンは、醜い自分を受け入れて、命に縋りついて生き抜くことなど、きっとできないだろう。


 だから、僕が殺した。

 リオンが、綺麗なままで終われるように。


「簡単だったよ。ただほんのすこしの間、口を塞いでやるだけでよかった。それだけで、もうほとんど死にかけていたリオンの呼吸は完全に止まってしまった。なんの抵抗もなかったし、実感もなかった。いま、むっちゃんに訊かれるまで、自分でもそのことを忘れていたくらいだった」


 そっか、僕はリオンを殺したんだったな。すっかり忘れていたよ。そう呟いて、リヒトはわたしの顔を見る。リオンによく似た、超越的に綺麗な顔で、わたしの目を見る。


「それで、そのことを確認して、むっちゃんはどうするんだ? 僕のことを、殺人者として糾弾するかい?」

「別に」と、わたしは答える。


 真相を明らかにしたところで、菊池重徳は不当な冤罪を被っている善良な人間なんかじゃ全然ないし、リオンの死の責任のそのすべてはあの男が背負うべきものだし、リヒトを糾弾してみてもリオンが戻ってくるわけでもなく、わたしはまたリヒトまでを完全に失ってしまうだけなのだ。


 ううん、リヒトはいま、わたしの目の前にいるけれど、でもあのリヒトは、わたしとリオンとリヒトとキミヤの四人でお花見をしながらフリスビーで遊んだリヒトは、もうとっくにいなくなって、完全に失われてしまっているのだ。いまのわたしは、壊れた世界の残骸を拾い上げて、それが完璧だった頃をなつかしんでいるに過ぎない。


 生きている人も、死んでしまった人も、みんな等しく、遠くにいってしまった。


 わたしだけがまだ同じ場所で、たったひとりでずっと取り残されている。けれど、わたしもそろそろいい加減に行かなければならないのだろう。リオンや、リヒトやキミヤがいってしまったのとは、また別の場所に向かって、自分の足で歩んでいかなければならないのだろう。


 言うべきかどうかすこし迷ったけれど「わたし、リヒトのことが好きだったよ」と、わたしはリヒトに告げる。

 リヒトはただ「そうか」と、返事をする。


「悪かったな、むっちゃん」

「ううん。こっちこそ、なんかごめん。それじゃまた、学校で」

「うん。また、学校で」


 最後にそう言葉を交わして、わたしはリオンが眠る霊園を出る。出たところで、リオンに遭遇してしまう。白のワンピースに鍔の大きな帽子を被ったリオンは、霊園の出口の大きな楡の木に背を預けてわたしが出てくるのを待っていて、そのあまりにもあっけらかんとした存在感に、わたしは思わず笑ってしまう。


「まだ出てくるんだ?」と、わたしが訊くと、リオンも「さすがに、これで最後よ」と笑う。


「いろいろと片は付いたみたいだし、結局、むっちゃんとはちゃんと顔を見て話すことができなかったから、最後くらい、ちょっと顔を合わせておこうかと思って」


 お墓参りしてくれてありがとうね、なんて、そのお墓に入っているはずの当の本人に言われてしまうと、どう反応すればいいのか、ちょっと困惑してしまう。


 まあでも、これもたぶんわたしが勝手に見ている幻影で、わたしがそう解釈しているだけの物語に過ぎないのだろう。それならそれで、リオンにはあっけらかんと笑っていてほしいと思う。そう願う。わたしは、そういう物語を自分の意志で選び取る。


「リヒトのことも、いろいろと気にかけてくれてありがとう。まだしばらくは不安定かもしれないけれど、でもそれはたぶん、あとはリヒトが自分の力でなんとかしていかなくちゃいけないことだろうから」

「そうだね。もう、わたしがリヒトに対してできることはなにもないのかも。わたしじゃあ、リオンの代わりにはなれない」


 ムルムクスが言っていたことは正しい。わたしはたぶん、リヒトのことが好きだったんじゃなくて、リヒトとリオンの関係性が羨ましかっただけなのだ。わたしはリヒトに好かれたかったんじゃなくて、リオンになって、リヒトに愛されたかったのだ。


 ううん、ひょっとしたらそれはリオンやリヒトである必要すらなくて、わたしはただ誰かに愛されたかっただけだったのかもしれない。恋愛感情だけじゃない、もっと大きな愛情で無条件に受け入れられたかっただけなのかもしれない。


 けれど、それはきっと誰かからただ与えられるものじゃなくて、わたしが自分で、ゼロから誰かと築き上げていくべきものなのだろう。だから、本質的に、わたしはないものねだりをして駄々を捏ねていただけなのだ。


「むっちゃんなら、大丈夫よ。きっと、これから誰かと良い信頼関係を築いていくことができるわ。だって、むっちゃんは自分から逃げないもの」

「そうかな? そうだったら、いいな」


「それじゃあ、もう行くわね」と、言うリオンに、わたしが「元気でね」と声を掛けると、リオンは「それはもう死んでしまっている人間に対する別れの言葉としては、どうなのかしら」と、笑う。


「死んでたら、元気でいちゃいけないなんて道理もないでしょう? 物語は自由なんだから」

「それもそうね。じゃあ、むっちゃんも元気で」


 そんな話をしたような気がしたけれど、もちろん、改めて見てみれば楡の木の下には誰も立ってなんかいなくて、ただわたしがひとりで黙ってジッと楡の木を見つめているだけだ。



 家に帰る途中で、スーパーのビニール袋を両手にふたつずつ下げた嶋中優子がフーフー言いながら坂を上ってくるのを見かけて、わたしは反対車線から「嶋中さん!」と、声を掛ける。わたしに気付いた嶋中優子が「睦深ちゃん」と返事をして、笑う。


 わたしは左右を確認して、ガードレールを跨いで車道を渡り、嶋中優子に近づく。「重そうだね。半分持ってあげようか」と、声を掛ける。


「ほんと? ありがとう、助かる。正直、ちょっと絶望していたところだったの」

「おっも!! すごい量だね」

「うん。まだ家に調味料とかもなにもないから、必要なものを思いつくままにアレもコレもって買ってたら大変なことになっちゃって」

「え? カルピスの原液とかあるじゃん。これって、そんな喫緊で必要なもの?」

「そりゃあ、今日で最後とはいえ、まだ夏休みなんだもの。カルピスの原液がないと、話が始まらないじゃない」


 わたしは「そういうもんかな……」なんて返事をしながら、でも、そういうもんだよなって思っている気持ちもすこしある。夏休みなんだから、カルピスがないと始まらないし、それは氷を入れたグラスに原液を水道水で割ったものでなければならない。今年はずいぶんと殺伐としたものになってしまったけれど、夏休みとは、元来そういうものだったはずだ。


「せっかくだから、ちょっとうちでお茶していってよ」と、誘ってくる嶋中優子に、わたしは「カルピスの原液もあるしね」と答える。


 ふたりで荷物を分け合って、長い坂道をフーフー言いながらのぼっている途中で、どこかからニャーという猫の鳴き声が聞こえて、嶋中優子が足を止める。


「あれ? ひょっとしてメイ? メイ~~!」と、嶋中優子が曖昧に呼ぶと、バス停のベンチの下から小汚い猫がニャーと顔を出す。

「え? え? メイ? あ、すごい! 本当にメイだ! おまえ~~今までどこに行ってたの~? よかった~~生きてたんだ~~!」

 嶋中優子は感極まって猫に駆け寄ろうとするけれど、猫のほう嶋中優子の感動なんか知らん顔で、単純に勢いにビックリしてしまってバッ! と逃げる。

「あ! メイ! ちょっと待って! 待ちなさいってば!!!!」


 叫んで、嶋中優子は荷物をその場に放って、猫を追いかけ走り出してしまう。わたしはその背中に「え? ちょっと嶋中さん! これ! 荷物! どうするの!? こんなのわたしひとりで持てないよ!!!」と、呼びかけながら、なんかちょっと笑ってしまっている。


 ひょっとして、わたしと嶋中優子は友達になれたりもするのだろうか、なんて可能性についても、すこし考えてみていたりする。



 この物語はここで終わる。あなたとわたしを繋いでいた、黒く渦巻く覗き穴は閉じ、世界は再び断絶される。あなたはもうわたしのことを知ることはないし、わたしもあなたの影響を受けることは二度とない。


 だからせめて、わたしの突き刺した刃があなたの影につけた傷が、わたしが殺したあなたの一部の欠落が、そのほんの少しの喪失感が、いつまでもあなたの胸の奥深いところに残ればいいと思う。


 きっとそれだけが、わたしたちがこの物語を必死に生き抜いたことの、その証となるのだろうから。



 今日で長かった夏休みは終わり、明日から二学期がはじまる。





Murmux -The story has done-

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