V; The Hierophant
<逆位置: 押し付け 視野の狭さ 周囲からの無視>
人ひとりが死ぬことなんて、たぶんそんなに珍しいことじゃない。
階段から足を滑らせて頭を打っても死ぬし、プールで足が攣っても溺れ死ぬだろうし、風邪も甘く見ればこじらせて死ぬかもしれない。歩道を歩いていたらブレーキの壊れたトラックが突っ込んでくるかもしれないし、武装したテロリストが突然学校に襲撃してくるなんてこともあるかもしれないし、頭のおかしい通り魔がいきなり切りつけてきて拉致されて暴行された挙句に山に捨てられるなんてこともないではないのかもしれない。
どんな理由でも人は死ぬし、理由がなくて死ぬこともある。
死は、ありふれた日常のひとつでしかない。
でも、佐々木葉子の死はわたしたちにとってははじめて遭遇する身近なクラスメイトの死で、そういうものが、死というものがこの世界に存在するのは知っていたけれど、まだ自分には関係のないどこか遠くの出来事だと思っていたのに、急に間合いを詰められたような感じで、たぶん、わたしたちはびっくりしてしまっていた。
まだ十四歳のわたしたちだって、死ぬときは死ぬ。けれど、まだ十四歳で、まだまだ子供で、これから勉強したりいろいろ経験したりして大人になっていく、人生の折れ線グラフを書くなら右肩あがりの真っただ中にいるわたしたちにとっては「死ぬときは死ぬ」というその当たり前の事実があまりにも重い。
いまやっていることのすべてが、ある日突然、完全に無意味になってしまうかもしれないのだ。傍からは気楽そうに見えるかもしれないけれど、そんな可能性を常に意識しながら取り組めるほどには、十四歳の人生というのは楽なものじゃない。
どれだけ今を頑張ってみても、明日にはなんの理由もなく突然に死ぬかもしれない。その可能性はなくはないのだろうけれど、でも、そんなことは起こらないと無根拠に確信していなければ、一歩も前に進むことができなくなってしまう。わたしたちは前に進むために、佐々木葉子の死を受け止めることなく目を逸らし、どこか遠くの出来事に押し込んでしまいたかった。センシティヴでは生きていけない。生きるためには鈍感にならなければならない。
けれど、佐々木葉子の死からちょうど一週間後の六月二十二日の木曜日の午後に、隣のクラスで園田友加里が同じようにぽっくりと死んでしまったせいで、わたしたちはまた、うまく死から目を逸らすことができなくなってしまう。
園田友加里が死んでいるのは多くの生徒が目撃しているけれども、誰も園田友加里が死ぬところは見ていない。園田友加里も佐々木葉子と同じように、授業中に気が付いたら死んでいたという感じだったらしい。
人ひとりが死んだのは偶然で片付けられるけれども、ふたりが続けて同じように死んだとなると偶然なんて言ってられなくて、なにか共通の原因があるんじゃないかと考えるのが普通の人間の思考回路だし、ちょうど一週間というインターバルにも誰かの意図を感じとってしまうのも自然な成り行きだと思う。
一週間というのは人間が定めた暦の区切りであって、人間以外にとってはそんなものは知ったことではないのだから、ちょうど一週間後というのがたまたまの偶然でないのなら、そこには「一週間」という概念を持った何者かの意志の介入があるということになって、そこから、佐々木葉子と園田友加里は死んだのではなく示し合わせて自殺したのではないかとか、いや、ふたりとも誰かに殺されたのではないか、これは連続殺人事件なのではないか、みたいに考えるところまでは一直線だ。
園田友加里の遺体は司法解剖で念入りに調べられるし、一度は行政解剖で「よく分からない」という結論が下された佐々木葉子の遺体も再び引っ張り出されて、また徹底的に再調査される。けれど、やっぱりよく分からない。病原菌や毒物は検出されないし、内臓に疾患も見られないし、血管も詰まってない。肉体は完全に健康な状態なのに、ただ心臓だけが止まっている。死因は「心不全」らしいけれど、それは「心臓が止まったので死にました」というだけの意味であって、どうして心臓が止まったのかを説明してくれるものじゃない。
警察もたくさんやってきて、テレビドラマでしか見たことないような、鑑識係っていうの? なんか白いポンポンを使って指紋を採取したりする人たちもいて、あ~本当にああいうのやるんだって思ってちょっとテンションが上がったりもしたけれど、捜査の邪魔になるからと生徒はみんな下校させられて、やっぱりわたしは真っ直ぐに帰らずにキミヤと一緒にリヒトの部屋に上がり込むし、今回も飛び交うLINEのメッセージが四台のスマホからピコンピコンと通知音を響かせている。
佐々木葉子も園田友加里もどちらかというと大人しい生徒で、あまり目立つようなタイプじゃなかったから、意外と誰も佐々木葉子と園田友加里が具体的にどういう性格のどういう子だったのかっていうことをよく知らなくて、それが余計に好き勝手な憶測が飛び交うのを助長している感じがする。
飛び交う好き勝手な憶測には、連続自殺説とか、連続殺人説とかいろいろあるけれども、そのいずれにおいても「死因が分からない」というところがネックになってしまって、説得力がない。科学的な捜査が確立された現代において、警察が介入してもバレないような未知の毒薬とか未知の病原菌なんていうのは現実的じゃないし、どこかの国の要人を暗殺するとかならまだしも、そこいらの片田舎のなんてことない女子中学生を殺すのにそんなものを使うのは手が込み過ぎているし、もちろん片田舎のただの女子中学生が警察でも検出不能な未知の謎の毒薬を用いて自殺したって考えるのも難しい。
「なんか、友引って説が有力みたいね」と、スマホの画面をフリックしながらリオンが言う。わたしもわたしで自分のスマホを触りながら「友引って? あのカレンダーとかに書いてあるやつ?」と返事をする。
「そう。佐々木さんが死んだ十五日が先勝で、その丁度一週間後の二十二日が友引なの。友引だし、園田さんは佐々木さんと仲が良かったから、死んだ佐々木さんの怨霊が園田さんを連れていったんじゃないかって、そういう説」
「心霊現象ってこと? それって別に説とかじゃなくない?」
たしかに、園田友加里は佐々木葉子と仲が良かったはずで、そこにあと嶋中優子を加えた三人が同じグループという感じで、昼休みなんかに三人で固まって喋っているのを見たような覚えがある。でも、曲がりなりにも二十一世紀の日本国の中学二年生なのだ。全員、基礎的な理科教育は受けてきているはずなのに、心霊現象みたいなところで納得しちゃうのはどうなんだろう? って気もする。まあ、未知の毒薬とか未知の病原菌を使った連続殺人って線よりは納得しやすい感じはするけれど、でも現実的な説明がつけられないからといって、心霊現象だと結論づけるのもなんか違うのではないだろうか。近代教育の敗北では。
なんてことをぼんやりと思っていたら、リヒトが「そもそも友引っていうのは当て字で、友達を引っ張るって意味はもともとの六曜においてはないんだ」と、どうでもいいようなトリビアを開陳する。
「本来は留引って書くんだよ。それが訓読みで「ともびき」になって「友引」って字が当てられたの。その字面だけで、友達を冥土に引っ張っていってしまうみたいなイメージがついたんだね」
リヒトは「だからそんなの迷信だよ」って言いたいのだと思うけれど、わざわざそんなことを説明されなくても友引なんて迷信だってことくらいは普通に分かる。この世界に心霊現象なんてものはない。たぶんだけれど。
「でもさ、迷信ってのは成り立ちよりも、いま現にそれを信じている人がたくさんいるっていう、そっちのほうが本質なんじゃないか?」と、キミヤがぼそっと口を挟む。
「友引だって、実際に多くの人がその日の葬儀を避けているのなら、根拠のない迷信だろうとなんだろうと、それは実際に現実に作用しているわけで、それを信じる人が多くなれば、なんだって現実的な力を帯びるってことはあるのかもしれない」
リヒトはまだしも、キミヤまでそんな理屈っぽいことを言い出すのはちょっと、あんまりらしくないなって思ってしまう。らしくないことをしてしまう程度には、わたしたちはみんな動揺しているということなのだろうけれど。
「たぶんだけど、友引説がいま有力なのは、それが一番妥当な仮説だからじゃなくて、多くの人が一番安心できる仮説だからだろうね。園田が死んだのは佐々木と仲が良かったからだ、ということになれば、とりあえず佐々木と仲が良かったわけでもない連中は自分は関係ないって納得できる。安心できるだろう?」
重要なのは根拠とか妥当性とかじゃなくて、自分を驚異から切り離してくれるロジックかどうかってことなのさ、とリヒトが言う。
人は自分が見たいものを見て、自分が信じたいものを信じる。
きっとそうなのだろう。この時はまだ、わたしたちの大半はクラスメイトの連続不審死を、自分たちから切り離そうとしていた。自分には関係ないんだってことにして、やり過ごそうとしていた。それじたいはたぶん、悪いことでもないし自然なことなのだと思う。自分がもうすぐ死ぬかもしれない心配をリアルにしながら生きるのは大変だから、欺瞞でもなんでも、そんなことはないんだって信じてないと、自分で自分自身をも騙していないと今日を生き抜くことすらままならないから、わたしたちは意図的に鈍感になる。突然、間合いを詰めてきた死というものから、目を逸らす。
でも、やっぱり人間はそれぞれだから、そういう風にうまくやり過ごすことができない子も少しは居て、
「最初に死んだ2Aの佐々木葉子の席と、2Bの園田友加里の席を直線で結ぶとするだろ。その次に、園田の席から俺の席に線を伸ばすと、綺麗な正三角形になるんだ」
百瀬琢磨はノートに変な図を書きながら、しきりにそんなことを言っていたけれど、百瀬が主張する「綺麗な正三角形」は言うほど綺麗に正三角形でもないし、まあたしかに正三角形寄りではあるけれど、三人目が隣の席のキミヤだったとしてもだいたい正三角形になりそうだし、それに百瀬琢磨がノートに書いている図は教室の各座席を正方形と仮定して描いているっぽいけれども、実際には机はもっと横長だし教室だって縦長だし、だから実際に直線で三つの席を結んでみてもたぶんそれほど正三角形にはならないし、そもそも正三角形になるからなんなんだって感じもする。まだ死んだのはふたりだけで、そのふたりの座席を結ぶことで得られるのは直線一本だけなのだから、そこからどんな図形だって書けるわけで、正方形でも正五角形でも五芒星でもなんでもいいのだ。わざわざ正三角形を書く必然性がない。というか、そもそも死んだ生徒の座席を線で結ぶっていうアイデアがどこから降ってきたのかが分からない。
「これは見立てなんだよ。まだ完成していないから、どんな見立てをしようとしているのかは分からないけれど、なにかを見立てようとしているのは間違いない。だから、2で終わるってことはないんだ。2では線しか引けない。3以上でようやく面が描ける。だから、少なくとも3以上は続くよ。正三角形は平面を隙間なく埋めることのできる最小の図形で、正多面体を構成することもできる。正方形よりも外側からの圧力に強い」
はっきり言って、なにを言っているのかは全然分からなかったけれど、とにかく百瀬琢磨が「この突然死はまだ続く」と確信しているということと「次に突然死するのは自分だ」と思い込んでいるってことだけは伝わってきて、なるほどアホなんじゃないかと思う。
「百瀬は別に佐々木とも園田ともそんな接点もなかっただろ? 仮にまだこの突然死が続くんだとしても、百瀬が死ぬ可能性が特別に高いってことはないんじゃないか?」
最初のうちはそんな風に、キミヤとかがなんとか百瀬琢磨を言葉や理屈で説得して安心させようとしていたけれど、あまりにも頑なに百瀬琢磨が死ぬ死ぬもう死ぬこれはまだ続く次は俺が死ぬんだって言って騒ぐものだから、本人としては深刻なのかもしれないけれど、傍で聞いてるぶんにはふざけているとしか思えなくて、みんなもだんだん腹が立ってきて、とうとう遠藤正孝が百瀬琢磨をボカーンッ!! と、ブン殴って百瀬琢磨がドカーンッ!! と、ブッ飛ぶ。
「みんな不安なのは不安なんだよ。それでも、みんな不安を押し殺して我慢してんだろ!? 自分だけ好き勝手に不安を喚き散らしてスッキリしてんじゃねぇよ!!!」
キミヤがすぐに遠藤正孝を取り押さえてそんなに大事にはならなかったし、遠藤正孝が言っている理屈も分からなくはないし、正直なところ遠藤正孝が百瀬琢磨をブン殴ってくれてせいせいしている気持ちもあって、遠藤正孝は誰からもそんなに非難されない。遠藤正孝にはわりとそういうところがあって、実際のところけっこうな乱暴者なのだけど、意外と空気を読んで教室のみんなを味方につけるのが上手い。
みんなが頑張って死の不安を押し殺し、目を逸らして日常を取り戻そうとしているのに、なにも我慢せずに自分の好きに不安を捲し立てる百瀬琢磨のことを、わたしたちは「我慢のできないやつ」「我儘なやつ」っていう風に感じていて、うっとおしく思っているのだ。不安なのはみんな同じだけれど、過剰に不安がることがさらに悪いなにかを引き寄せてしまいそうな気がして、わたしたちは我慢している。頑張って普通にしている。そういう気持ちが後押しして、自分勝手な百瀬琢磨をボカーンッ!! と、ブン殴ってドカーンッ!! と、ブッ飛ばした乱暴者の遠藤正孝がちょっと正義にさえ見えてしまう。
「次の木曜日にも、また誰かが死ぬ。それだけは、間違いのないことなんだ」
そんな言葉を捨て台詞のように、あるいは呪いのように残して、遠藤正孝にブン殴られて、わりとシャレにならない感じでボカーンッ!! とブッ飛んだ百瀬琢磨はパンパンに腫れた頬を押さえながら早退して、次の日からは学校にも来なくなる。百瀬琢磨が主張する謎の正三角形説(だからまだこの突然死は続く!!)が広まったせいかどうかは分からないけれど、だんだん学校に来る子も減ってきていて、問題の木曜日にはクラスの1/3ちかくが欠席している。
「また今日も、誰か死ぬのかな?」なんて、不安そうな顔をして大真面目に訊いてくるクラスメイトに、わたしは「アホくさ。そんなわけないじゃん」なんて返事をして、平静を装って普通に授業を受けるけれども、実は心の奥底では「また今日も誰か死ぬんじゃないか」と不安に思っているし、たぶん、他のみんなも似たようなものなのだったんじゃないかと思う。
二週続けて木曜日に同級生が死んだせいで、木曜日には誰かが死ぬっていうジンクスが生まれかけている。
木曜日に誰かが死ぬっていうジンクスは、誰も死なないままで木曜日を終えることで「やっぱりただの気のせいだった」ってことになって、一か月もすれば「あ~、そんなこともあったね~」って話になるだろうし、そのうち修学旅行の夜に布団にくるまりながら、みんなで頭を寄せ合ってする「本当にあった怖い話」のひとつになって、わたしたちの現実からは切り離されるだろう。
わたしは授業中もうわの空で、祈るような気持ちでただじっと、黒板の上の丸いアナログ時計を見ている。わたしは神様とか仏様とか、なにかそういう超越的な上位存在に対してじゃなく、黒板の上にかけられているなんの変哲もない、ただのアナログ時計に祈っている。
どうか、なにごともなく今日を終えることができますようにと、祈っている。
そんなわたしの祈りとはおそらくまったく無関係に、ごくごく当たり前に、誰も死なないまま木曜の授業は滞りなく六限目まで終わり、わたしたちはなんとなく胸を撫で下ろす。そりゃそうだ。人が死なないなんていうのは当たり前のことで、それはごく普通のことで、当たり前の木曜日は誰も死なないまま当たり前に終わるのだ。
ほら、やっぱり気のせいじゃないか。呪いとか心霊現象とか、あるいは未知の手段での連続自殺とか連続殺人とか、背後になにか、そんなわけのわからないものなんてなにもなくて、ただたまたまクラスメイトの突然死が二回立て続けに起こっただけじゃないか。それは珍しい偶然かもしれないけれど、絶対に起こり得ないということはなくて、この件はもうこれで終わって、後はただふたりのクラスメイトの死を悼み、わたしたちはこれからの人生をこれまで通りに送っていけばいいだけなのだ。
そんな一安心ムードも、欠席していた百瀬琢磨が自宅のベッドの上で眠るようにして死んでいたという話が連絡網で回ってきて、わずか数時間で打ち破られてしまう。
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