XV; The Devil



<正位置: 誘惑 心の弱さ 堕落>



 きっちり一週間おきというインターバルがなんらかの意図や作為の介入を感じさせるとはいえ、認定されている事実としては佐々木葉子と園田友加里と百瀬琢磨が死んだのはただの突然死で、つまり自然現象みたいなものだし、加藤修が死んだのだって不幸な事故であって、誰かが交通事故の犠牲になって死んでしまうなんてことは、この世界にはありふれている。


 一週間おきに四人が連続して死んだことで、わたしたちはそれらの物事を関連づけて、なにか特殊なことが起きているのではないかと考えていたけれど、それらを一連の出来事と捉えずに個別の事象として見てみれば、それぞれはそんな大したことじゃなくて、ありふれた死のひとつ×4でしかなかった。


 けれど、リオンの死は、この一連の出来事の中ではじめて起こった明確な殺人事件で、それは自然現象でも事故でもなく、確固とした誰かの悪意によってもたらされた死で、リオンの死はありふれていない特別なものになってしまって、警察も大々的に動くしマスコミも大挙してわたしたちの町に押し寄せる。


 ひとまず、七月十四日の金曜日は休校になって、普段ならこういう時はリヒトの部屋に四人で集まってお喋りをしているところだけれど、今回ばかりはそういうわけにもいかなくて、わたしは家のリビングのソファーのうえで膝を抱え、ジッとテレビを見ている。


 市内の女子中学生の吾妻理音さんが今日の未明、遺体で発見された事件で、警察は殺人事件と断定して捜査を開始しています。犯人は未だ逃走中とみられ、周辺の住民には不安が広がっています。現場から中継です。


 吾妻理音さんは14歳で、頭が良く、いつも友達のことを気にかける優しい性格だったそうです。将来は先生になって子供たちに勉強の楽しさを教えてあげるのが夢でした。その夢は、無残にも奪われてしまったのです。


 そんな風にテレビで紹介されるリオンは、生きていたときに持っていた形而上学的で哲学的な思考の複雑性や、それでいてフリスビーなんてバカバカしい遊びにも熱中して楽しめてしまうような、そういう人間的な深みを失って、とても平板でコンパクトな人間になってしまっていた。どこから調達してきたのか、画面いっぱいに引き延ばされた解像度の荒いスナップ写真も、リオンが持っていた超越的な美しさの、その一割も捉えてはいなかった。


 教頭先生が神妙な顔5割、半笑い5割みたいな表情でマスコミの取材に応じている。「ええ……とても真面目で、頭の良い子で、まさかこんなことになるとは……」


 ちょっと笑っちゃってんじゃん。なに笑ってんだよ。笑いごとじゃないよ。

 全然、笑いごとじゃないよ。


 教頭先生も、別に面白くて笑っているわけじゃないんだろうけれど、自分の限られたキャパシティーを超えた物事に直面すると、人間はときどき笑ってしまうのだろう。笑ってみることで、それを大したことではないと捉えてみようとするのだろう。


 でも、もちろん笑ってみたところで、どのように捉えなおしてみたところで、事実のほうは人間の認識の影響なんかすこしも受けない。人間の認識の総体が現実なのだとしても、現実とは無関係に、やっぱり事実は事実として厳然と冷徹にそこにあって、それは解釈や気の持ちようなんてものでは、どうにもならないのだ。


 この出来事について、リヒトの部屋に四人で集まって話し合いたかった。けれど、今はもう、一人足りない。わたしたちがそれをどのように認識したところで、リオンは殺されてしまったのだし、死んでしまったのだし、永遠に失われてしまって、もう二度とは戻らないのだ。


 それがとても悲しいはずなのに、わたしはまだ悲しみすらうまく実感することができなくて、そのことでますます悲しくなってしまう。そういう、結局のところ意識が自分の内側にばかり向いていて、リオンのことを思いやれていない自分の薄情さにも、また悲しくなって、無限に悲しさを再生産し続けてしまう。


 ローテーブルの上で、スマホがときどきブルブルと震えた。未読のメッセージがあることを知らせる青いパイロットランプが点滅しているけれど、わたしはそれを確認しない。テレビの朝のワイドショーでのリオンの事件の扱いはそれほど大きくなくて、すぐに芸能関係のゴシップに切り替わる。高齢の女優が夫の不倫を糾弾しているらしいのだけれど、本人の弁はかなり混乱していて何を言っているのかよく分からない。リオンの事件よりもいくぶん扱いが大きかったその話題も終わって、今は座って腰を振っているだけで腰痛が改善される健康グッズについて、おばさんふたりが延々と喋っている。


 おばさんたちにとっては、どこかの片田舎で十四歳の女の子がひとり、ぐちゃぐちゃに殴られてレイプされて殺されて農道の脇に捨てられていたことよりも、自分の腰痛の改善のほうが大事なのだろう。そういうものかもしれない。わたしだって、それがリオンでなければ自分の腰痛のほうが一大事だっただろう。


 スマホのブルブルもぜんぶ無視して、なにも考えずにただテレビを見続けていたら時間はどんどんと過ぎていて、昼前にインターホンが鳴る。モニターで確認するとキミヤで、わたしはそのまま玄関の戸を開ける。


「どうしたの、キミヤ」と、玄関の戸の隙間から首だけ出して訊くと、キミヤは「いや、ぜんぜん返信がないから、大丈夫かと思って」と、言う。


「ああ、ごめん。ブルブルしてるのは気が付いてたけど、なんか確認する気になれなくて」わたしは右を見て、左を見て、「上がったら?」と、キミヤを促す。よく分からないけれど、ひょっとしたら外は危険なのかもしれない。どういう種類の危険があり得るのかはよく分からないけれど、わたしたちは今、あまり安全でない状況に置かれているような気がする。


 リビングにキミヤを通す。そういえば、キミヤがわたしの家に入ったのなんて、小学校の低学年の時以来なんじゃないかと思う。わたしはまた元のソファーのうえに戻って膝を抱える。キミヤは、リビングの入り口のすぐ脇の壁際に座る。わたしとキミヤの間には、親しさを感じさせないだけの充分な距離があって、キミヤとふたりで同じ部屋にいると、リヒトの部屋でリヒトとリオンとキミヤとわたしの四人で居るときにはなかった居心地の悪さを感じる。


 元々は、わたしとキミヤは幼馴染だったはずだけれど、それはいったん疎遠になってしまって、今ではわたしとキミヤの関係性というのは、飽くまで、わたし→リオン→リヒト→キミヤ、という、リオンとリヒトを介したものでしかないのだろうと思う。リオンとリヒトが間にいないと、どう対応していいのか距離感に戸惑う。


「むっちゃんが、責任を感じるべきじゃないと思う」

 わたしがまた膝を抱えてテレビをぼーっと見たまま何も言わないでいると、不意にキミヤがそんなことを言った。意味がよく分からなかったから、わたしは「責任?」と、ただ鸚鵡返しに訊く。


「リオンが殺されてしまったことについて、むっちゃんが責任を感じることじゃないってこと。ひょっとしたら、そう考えてしまっているんじゃないかと思って」

「ああ」


 実のところ、わたしはそんなこと、これっぽっちも考えてなんかいなかった。というか、どのようなことも特に考えていなかった。わたしはなにも考えず、ただ朝からずっと、ぼーっとテレビを見ていただけだ。


 でも、言われてみるとそうなのかもしれない。わたしはちゃんとリオンを助けてあげるべきだったのかもしれない。わたしがすぐにリオンを見つけてあげることができていれば、もしかしたらリオンは死なずに済んでいたのかもしれない。わたしがグズで鈍くさくて、ちゃんと間に合わなかったせいでリオンを助けることができなかったのかもしれない。


「リヒト……」


 そう、わたしは呟いていた。キミヤがなにも言わないまま、眉の微妙な動きだけで「なんだ?」と問い返してくる。


「そういえばわたし、リオンに頼まれたんだよね。リヒトのことを気にかけてって」


 明け方にリオンがわたしの部屋にきて、そう言い残していったはずだった。お母さんに叩き起こされて、リオンが殺されたことを知って、そのせいですっかり忘れてしまっていたけれど、たしかそんなようなことがあったはずだ。


「でも、それは」と、キミヤがなにかを言いかけて、でもなにも言わなかった。


 言われなくても、わたしだってキミヤが言おうとしたことは分かる。それはたぶん、ただの夢だ。わたしが見た夢。だって実際は、その時にはリオンはもうぐちゃぐちゃに殴られてレイプされて殺されて農道の脇に捨てられていたはずなんだから。


 でも、それでも、たとえばわたしの中にあるなにかの不安がリオンのかたちをとってわたしに告げにきたのだとしても、そのことにはなにか意味があるのかもしれない。いま、わたしはリヒトのことを気にかけてあげるべきなのかもしれない。そうしないと、また次のなにか悪いことを防ぐことができなくなってしまうかもしれない。また、間に合わなくなってしまうかもしれない。


「リヒトに会わないと。今、リヒトをひとりにしておくと、良くないと思う。そんな気がする」


「でも、リヒトに会うって言っても、今のこの状況じゃ、たぶんそんなに簡単じゃない」と、キミヤが言う。キミヤも事件の後、何度もリヒトにLINEを送っているけれど、既読マークすらつかないし、電話もぜんぜん取らないらしい。それなりに親しく友達付き合いをしてきたつもりだったけれど、ただそれだけのことで、わたしたちの関係というのは簡単に詰んでしまう。学校が休みで顔を合わせることもなくて、メッセージの返信もなくて電話も取ってもらえないと、それでもう、リヒトにコンタクトを取る方法がほとんどなくなってしまう。


 でも、わたしもLINEも電話も無視していたけれど、というか、別に積極的に無視していたわけでもなくて、ただなんとなく、スマホを手に取って画面を確認するっていう、ただそれだけのことすら億劫に感じられていただけだったのだけれど、キミヤはこうして直接家を訪ねてきてくれて、キミヤが訊ねてきてくれたことで完全に停止していたわたしの思考も多少は動きはじめたわけだから、やっぱり、わたしたちは多少の無理をしてでもリヒトに会いにいくべきなんじゃないだろうかと思う。


 きっと今、リヒトは閉じてしまっているし、ひとりで閉じたままでいることは、あまり良い結果を生まない気がする。特に、リヒトみたいに頭が良くて物事を深く考えすぎてしまうタイプの人は。


「直接家に行くにしても、いまリヒトの家の周りはマスコミが陣取っているし、あれを突っ切って正面から訪ねていくのはなかなか難しそうだな。別に、訪ねていって悪いってことはないんだろうけれど、面倒なことになりそうな気がする」


 マスコミだって、別に訪問者をシャットアウトする権限とかがあるわけじゃないんだから、友達が友達の家を訪ねるぐらい、別に咎められることではないんだろうけれど、たしかに、たくさんのマスコミのカメラが向いている中で堂々と正面から訪ねていくっていうのはそれなりに胆力がいることのような気がする。そもそも、リヒトがインターホンを取ってくれるかどうかも分からない。もうすでに、かなりうんざりとしてしまうような目に遭っているだろう。


「でも、とにかく行ってみる」と、わたしが出掛ける準備を始めると、キミヤが「待て、そういうことなら俺も一緒に行く」と、ついてきてくれる。


 靴下を履いて外に出て、自転車でリヒトの家に向かう。空は馬鹿みたいに晴れ渡っていて、明るくて暑くて、すっかり夏って感じの陽気さなのに、どことなく町全体がひっそりと静まり返っていて、不穏な空気が漂っている感じがする。


 見慣れたはずのリヒトの邸宅も、前の通りにマスコミのカメラやら脚立やらバンなんかが陣取っているだけでなんだかまったく別の建物のように見えたし、オーラが余所余所しくて、何人たりとも近づけさせまいとする決意のようなものが感じられて、砦のように堅牢に見えた。


 すこし離れたところに自転車をとめて、通りの角から遠目に様子を伺ってみるけれど、やっぱり迂闊に近づけそうな雰囲気じゃない。不用意に近づいて、マスコミのカメラやらマイクを向けられるのは想像するだけでもげんなりしてしまう。


「裏に回ってみよう」

 わたしがこそこそと通りを横切ると、キミヤが黙ってわたしの後ろについてきてくれる。こういう時、背後に感じられるキミヤの現実的な重量を伴った存在感は頼もしく思える。


 裏手に回ると、さすがにマスコミもいなくて、石塀に開いた小さな穴から、リヒトの家の庭と、その向こうのリビングの掃き出し窓が見えた。レースのカーテン越しに、誰かがソファーに座ってテレビを見ている、その後ろ頭も確認できる。


 髪が長くて、頭の上のほうでお団子にしているから、たぶん、リオンとリヒトの母親だ。わたしも何度か顔を合わせたことがある。


「行ってみる」と、わたしが言うと、キミヤは一瞬「いや、行ってみるって……」と、なにかを言いかけたけれど、結局なにも言うことはなく、口をつぐんでスッと腰を落として、バレーボールのレシーブみたいなポーズを作る。わたしは意図を汲んで、キミヤの肩に片手をかけて組んだ掌の上に片足を乗せる。特に合図もなく、自然と呼吸を合わせて、踏み切る。キミヤが下からすこしわたしを持ち上げてくれて、それでわたしの手が塀の上に届く。しがみついてよじ登り、塀を越えてストンと庭に降りたつ。


 足音を忍ばせてリビングの窓に近寄りコツコツとノックをすると、ビクッと振り返ったリヒトの母親がわたしの顔を認めて、訝しげな表情をしながらも、窓を開けてくれる。


「あなたは……」

「こんにちは、おばさん。リオンちゃんとリヒトくんの友達で、佐鳥って言います。その、リヒトくんのことが心配で、会わないとって、思って」


 わたしが一気にそう言うと、リヒトの母親はかるく左右を見回した後で、「さあ、入って」と、わたしを中に入れてくれる。


「ごめんなさい。非常識だろうとは思ったんですけど、でも、どうしても会わないといけない気がして。リヒトくんを、ひとりにしちゃいけないと思って」

「そうね、たしかに裏から塀を越えて勝手に入ってくるのはちょっと非常識だと、わたしも思うけれど」


 まあいいわ、と、リヒトの母親が溜め息をつく。超越的に綺麗なリオンとリヒトの母親なのだから、当然のように綺麗な人なのだけど、今はその美は色濃い疲労のせいで陰ってしまっている。


「リヒトはずっと部屋にこもっている。わたしも、会ってあげてほしいとは思うけれど、ひょっとしたら嫌な思いをすることになるかもしれない。たぶん、ちょっとあまり、普通じゃないから」

 わたしたちはまだ、とても混乱しているの、と、リヒトの母親は言った。


「大丈夫です。わたしが嫌な思いをするくらいのことは、たぶん、全然なんでもないことだから」


 毎日のように遊びにきていたはずの見慣れた間取りなのに、今はなんだか、とても余所余所しく感じられてしまう。この家に、わたしという存在が受け入れられていないのをひしひしと感じる。二階にあがって、リヒトの部屋の扉をノックする。返事はない。わたしは「リヒト。わたしだよ。睦深。入るよ」と、声をかけて、ゆっくりと扉を引き開ける。


 部屋は薄暗かった。窓には遮光カーテンが引かれていて、明かりも点いていない。わたしが開いた扉からの光でなにも見えないというほどではないけれど、たぶん、扉が閉じていれば真っ暗に近かっただろう。


 ベッドの上、いつものリオンの定位置で、リヒトは壁に背を預けて座っていた。「なんだ、むっちゃんか」と言って、こちらを見たリヒトの顔が、すこしいつもと違う。


「リヒト……髪、どうしたの……?」

 長かったリヒトの髪が、短くなっていた。いかにも自分で切りましたという感じに不揃いで、あっちこっちに奔放にハネている。

「ん、ああ、切ったんだよ。ちょっと気分転換が必要かもしれないと思ってさ」

 なに、大したことじゃない。ただの気分転換だよ。それ以上の意味なんてなにもない。そんな風に軽口を叩くリヒトの口調は普段通りだけれど、それが余計に異常に見える。見るからに様子がおかしいのに、口調だけは普段通りなのは、ただ様子がおかしいだけの状態よりも、なお悪いという感じがする。


「リヒト……大丈夫なの……?」

「大丈夫かって? ああ、もちろん。僕は大丈夫だよ。僕は正常だ。僕はまったくもって正常で、なんの問題もない」


 どう見ても、どう考えてみても、全然大丈夫じゃなかった。全然大丈夫じゃないし、正常じゃない。なにか問題が起こっている。


「落ち込んでいる場合じゃない。そいつは僕たちに攻撃をしかけてきている。考えないと。考えて、ちゃんと応戦しないと。だから、僕はいま、考えている。ここからどうするべきなのか」


 最初はリヒトの頭の後ろの壁に穴でも開いているのかと思った。でも違う。部屋が暗くてよく見えないけれど、リヒトの頭の後ろの暗いそのは、虚空に浮かぶもやもやとした不定形の黒い渦のようなもので、そいつは自分の意志でリヒトの頭の後ろでくるくると回っているのだ。


 そいつは笑っている。ただの黒い渦でしかないそいつが笑っているのが、わたしには分かる。人の失意や絶望が楽しくて仕方がないとでも言うように、嬉々としてリヒトの頭の後ろで回っている。なにかが、明確な悪意をもってリヒトに憑りついている。そいつは、リヒトが破滅するところを見たくて仕方がないのだ。



 そして、そいつこそが、その未だ不定形の名前を持たない黒々とした虚ろの渦こそが、いまわたしたちみんなを貶め、苛み、苦しむ様を見て喜んでいるなのだと、わたしは直感的に気付いている。



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