第20話 したたる

「馬鹿にしやがって、あのデブ。お前もだ、材料のくせに、ブスのくせに、逆らうな。お姉ちゃんを苦しませるな」


直樹は私を引きずりながら何度も小突いた。

洞窟の奥から咆哮が聞こえる。私は、今からあのサカナのエサになるのか。こんなところで。もう少しだったのに。もう、流れる涙を拭うこともできなかった。


「もうああなったお姉ちゃんは、俺の話を聞いてくれない。前にも一度こうなった。早く食われろ。食われて一部になれ。そしたら抱いてやる。嬉しいだろう」


「直樹さん、こっちです」


声がする方を見ると、黒川が洞窟の壁にぽっかりと空いた小さな部屋のようなところで手招きしているのが見えた。直樹は私を突き飛ばし、もう振り返ることはなかった。私も這いずってその部屋に向かおうとしたが、黒川が唇で『ごめんな』という形を作り、扉を閉めてしまった。

ゆっくり、だが確実に、サカナが近付いてくる気配があった。

さっきまで鳴りを潜めていた海の臭いがまた濃くなってゆく。私は、敏彦が捨てていったパイプを見つけ、しっかりと握りしめた。

何度も殴られたり蹴られたりした体は、もうどこが痛いのかも分からないほどだ。こんなものを持ったって、あんなバケモノに敵うわけがない。


「おとうさあああああんおかあさあああああんなおきああああああああもうやめえてえええええええええああああああたすけてえええええええええ」


サカナは頭を左右に振りながら、悲鳴とも、人の言葉ともつかない声で喚き続けた。眼球は絶えず動き、大きな口からは大量のよだれが流れているのが見えた。

サカナが顔を近付けてくる。一口で呑み込もうとしているのか、口を今まで以上に大きく開けた。人間のそれより明らかに多い本数の歯が見える。その口に、私は思いっ切りパイプを突き立てた。


「あああああああああああああああああああ」


サカナが身をよじって苦しみだした。長く細い手が私の首を捉え、すぐに呼吸がうまくできなくなる。それでも私は同じ場所を刺し続けた。何度目かに、サカナが私を放り出した。苦しむサカナを見ると、不思議と元気になれた。私は、このバケモノに勝てるかもしれない。もう体の痛みもどうでもいい。再び立ち上がってパイプを握りしめると、サカナは私のいる方とは逆の方向――直樹と黒川が入った部屋へ這って行く。

サカナは、粗末な板でできた扉を、いとも簡単に突き壊した。そのまま摘み上げられた直樹の顔が歪む。


「お姉ちゃん、やめてくれ。栄子を食べるんだ。そしたらまた綺麗になれるから!俺が、愛してあげるから」


直樹がすがるようにサカナの醜い顔に口づけをした。一瞬のうちに直樹の首は胴体から消えた。ヒッと情けない声を上げて部屋から出てきた黒川は、叫んだ甲斐もなく足から肩のあたりまで食いちぎられた。ぐちゃぐちゃ、ばりばりと咀嚼音が洞窟中に響く。何故かその光景から目が離せなかった。

私は、ヒトを食べるそのバケモノを美しいと感じていたのだ。いや、確実に美しくなっている。咀嚼が終わるころには、そのバケモノは、もうサカナなどと呼べるようなものではなくなっていた。


今まで見た中で最も美しい女性が、生まれたままの姿でそこに立っていた。

女性が微笑むと、何か熱いものが体の奥から突き上げてくるような感じがして、思わず吐息が漏れる。女性が私へ手を伸ばした。そして愛おしそうに頬を撫でた。

そのまま、女性の指は私の口の中へ進んでいく。不思議と不快感がなく、私はそれを受け入れた。

意識がどこか遠くへ飛んでいくのが分かる。天上の悦びとはこういうものかと思いながら、私は絶頂を向かえた。





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