第9話 敏彦
心療内科では軽い睡眠薬を出されただけだった。
「ストレスが原因でしょう。まずはよく眠って、体調を整えてください。気分転換に好きなことを沢山して、お友達と喋るのもいいですよ」
眠ってもどうしようもない。あの床の文字は私が書いたわけではないのだから。
大きな女が部屋に入ってきて床一面にブス殺すと書きました、なんて言ったら統合失調症扱いされるだろうから、何も言わなかったけれど。
全て妄想で、私が統合失調症なら、どんなにいいだろう。私を苦しめてきた異常者のうち何人かは統合失調症の診断が下りていた人間だった。幽霊が見える人のほとんどは統合失調症であるという見解の医師もいたような気がする。被害妄想、幻覚、幻聴、幻臭、あの女の異様な外見と行動は、むしろそれであった方が説明がつきそうだ。
私は家に帰りたくなかった。あの床の文字、何故か消えない強い海の臭い。それら全てがあの女の実在を物語っている。一人でいたらサカナはまたやってくる。
ぐるぐる、ぐるぐると近所を歩き回った。
「えっちゃん!」
やけに明るい声がした。
声の人物は息を切らして駆け寄ってくる。
「えっちゃん、ヤバイ顔に変わったなぁー、うちのババアが見たらビックリするぜ」
あんたに変わったなんて言われたくない。さっきまでの恐怖を忘れて、私はそう怒鳴りそうになる。
片山敏彦。そう、小さい頃はよく一緒に遊んでいたあの敏彦だ。
敏彦は近所の有名人なので友達のまるでいない私でも母の口からその名前をよく聞いた。
小学校のとき勉強もスポーツも一番で、女の子のように綺麗な顔をしていた敏彦は学校中の、いや学区で知らない人はいない人気者だった。私の「珠美から離れたい」というネガティブなモチベーションと違って、敏彦は「東大に行きたい」というポジティブなモチベーションで都内最難関の男子中学校を受験した。そして見事に合格。そのまま流れるように東大に進学を決めた。
そこから敏彦はおかしくなる。
突然大学に行かなくなった。体はぶよぶよと倍に膨れ上がり、綺麗な顔を脂肪が覆った。昼間は一切外に出ないのに、薄暗くなると外に出てきて家の近くを歩き回るようになった。予備校帰りの学生に不審者として通報されたことも一度や二度ではないと聞く。
「あんなにいい子だったのに」
近所の誰もがそう噂した。
敏彦の母親は明るく、女優のような美人だった。しかし敏彦が今のようになってからぐっと老け込み、外にも出なくなった。
その敏彦が、午後五時とはいってもまだ明るいうちから外に出ている。
「えっちゃん本当に顔が変わったなぁー疲れてるって感じー」
敏彦はくぐもった声でそう言った。笑い声が私を苛立たせる。
「会ったのは久しぶりでしょ、どうしてそんなことが分かるわけ」
敏彦と会った……というか、敏彦と目が合って軽い挨拶を交わしたのなんて彼がまだ自慢の息子だったときで、それは2年以上も前だ。勿論遠くから見かけたことは何度かあるけれど。
この大きな痣のことだろう。腹の立つことだ。
「この顔は怪我して化粧もできないだけ。それじゃ」
「待てよえっちゃん」
敏彦は私の腕を掴んで静止した。不快感で一杯になり、それを振り払う。
「離して」
敏彦は傷付いた様子もなくなおも笑みを浮かべる。
「最近えっちゃん、アレ、やんないから心配してるんだよ」
最近?何を言ってるんだこの男は。私が何も言わないでいると敏彦はゲラゲラと笑い出した。
「もー!しらばっくれちゃってぇー!!!アレに決まってるでしょ!ひとりエッチのことだよー!!!!」
何言ってるの……
驚きよりも、不快感よりも、羞恥心で心が支配され、何も話せなくなる。
「恥ずかしがんなくていいんだよー!みんなやってんだからひとりエッチなんてー!」
敏彦は太い指を丸めて筒のような形を作って上下に動かす。
そのあからさまなジェスチャーにほとんど倒れそうになりながら、私は必死に声を絞り出した。
「なんで……」
「なんでって……」
敏彦は笑うのをやめて私の目を真っ直ぐ見て言った。
「えっちゃんのこと大好きなんだ俺。えっちゃんのことならなんでも知ってるってだけ。俺は毎日基本的にえっちゃんのことを見てるから。だから言うんだけどさ、ここからは真剣に」
敏彦は脂肪の間から覗く綺麗な目を光らせた。
「えっちゃんの部屋にいたアレさ。オバケだよ」
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