第18話 弟

おかえりさんの話は小さなころ、まだ生きていた曾祖母に聞いた。ただただ恐ろしい話だと思った。祖父母も、父もそうされたように、悪さをすると「おかえりさんに連れていかれるよ」と脅されたりもした。

いい加減物事を自分で判断できる年齢になってきてからはそんな話は思い出になりつつあったのだが、完全に作り話だと断定することも出来なかった。曾祖母の遺品から、おかえりさんについて記した日記が出てきたのだ。

その日記が誰のもので、いつ書かれたものなのかは分からないが、海から来たおかえりさんと、呼び出した女の日々が綴られていた。


姉を取り戻そうと思い立ったとき、真っ先に思い出したのはそれだった。ところが、現在中学生のこの身ひとつでは、不可能なことがあった。

姉の体の一部と写真――それは難なく用意できた。櫛に絡んだ髪なら、すべて取ってあったし、写真だって何枚も持っていた。しかし、一番重要な材料が残っていた。そしてそれを手に入れるのは不可能に近かった。

姉に似通った背格好の女。これが用意できなかったのだ。日記によれば、おかえりさんを呼んだ女は、夫によく似た下男の体を使ったらしい。事業をやっていてそこそこ裕福ではあるが、進んで体を差し出す下男など今の時代にいるはずもなく、さらに従業員が突然姿を消しても問題にならないほどの権力がある家庭ではなかった。さらに、姉と同じ背格好の女がこの村にはいない。若者が少なすぎるのだ。例えおあつらえ向きの女がいたとしても、中学生ひとりで人を殺すのは大変難しいと思われた。

誰か協力者が必要だ。幸い、協力者には心当たりがあった。


黒川幹雄。この村から少し離れた場所には、やや大きめの街がある。黒川幹雄はその街の名士の家の三男坊だった。の常習犯だったが、国会議員にもなったこともある幹雄の祖父が、その度に被害者に金を払って揉み消していることは有名だった。そして幹雄が姉に恋慕していることも明白だった。恐らく街で姉を見かけてから、毎日毎日、欠かすことなく夜、姉の過ごす部屋や、風呂場の周りを歩き回っていた。姉との美しい時間が漏れ聞こえていたことがあるかもしれない。

姉の名前を使って呼び出すと、幹雄はすぐに現れた。早速おかえりさんの話をし、女を見繕うことを要求した。ところが幹雄は声を震わせてこれを拒否した。


「お前、狂ってるよ。俺はそんなことやらないからな!お前……気持ち悪いんだよ、自分の姉ちゃんとセックスしてたの知ってるんだぞ、爺ちゃんにも言うからな!」


「お前に拒否権はないよ」


冷たく言い放つ。幹雄が声を震わせながらも手を前に出し、自分を守るような姿勢を見せる。


「なんだ?殴る気か?そしたら大声出してやる」


「殴るわけないだろ。ばかばかしい。ただ、父さんに言うだけだ。お姉ちゃんが毎日のぞきに苦しんでたって」


幹雄の顔色が変わった。ただでさえ貧弱な体がさらに弱々しく震え始める。


「お姉ちゃんがお前のせいで死んだって知ったらどう思うかな。殴られるだけじゃ済まないだろうな。お前がのぞきの常習犯だってことはこの辺じゃ皆知ってるしな。お前が何を言っても、犯罪者のお前の言葉に説得力なんてない。偉い爺ちゃんも、さすがに殺人は揉み消せないだろうな」


幹雄がその場にへたり込んだ。


「俺に何をしろって言うんだ」


「やれと言ったことは全部やれ。それだけだ。お前もお姉ちゃんが還って来たら嬉しいだろう……たまになら、覗いてもいいぞ」


姉と永遠に過ごすには何人必要なんだろう。あの日記の女は還ってきた夫と一年ばかり過ごしていた。使った下男の人数は二人。やはり圧倒的にこの村には若い女が足りない。それに、少しでも捧げる人間の体が足りないと、おかえりさんは激しく暴れ、姿も本人とは似ても似つかなくなるのだとも書いてあった。


「高校を卒業したら東京へ行く。お前も来い」


幹雄は力無く頷くと、もうそれ以上何も言わなかった。


還ってくる。姉がまた還ってくる。むせかえるほど甘い汗の匂いと、触れると赤く染まる白い肌を思い出す。

またあの美しい日々を過ごせるのだ。死がふたりを分かつまで。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る