第8話  床

――起きて、起きて。


従兄弟の拓也の声だ。


――起きて、起きて!


寝てるんだから、静かにして。拓也っていつもそう。私はもうお姉ちゃんだから、拓也とプラレールなんかで遊べないの。


――起きないと死んじゃうんだよ!!!


飛び起きた。拓也は10年も前に死んでいる。海水浴に行って、そのときに……今、どうして……

むせるほど濃い海の臭いが鼻をつく。

――ガリ、ガリガリ

木を削るような音がする。暗闇の中、音のする方に目を凝らす。

――ガリガリガリ、ガリガリ

人間のようなものが、床に這いつくばっている。暗闇でもはっきり分かるほどの巨躯。そこから伸びた長い腕が激しく動いているのが見える。床を引っ掻く音なのか、これは。

声を出したら気付かれる。息を吸っても気付かれる。心臓さえ今だけは止まれと思った。気持ちとは裏腹に動悸が激しくなり、うまく息を吐くことさえできず喉がヒューと鳴る。

――ガリ

音が止まり、それがゆっくりと首を振り始めた。

バサッバサッという、あの音は、あの日聞いた……

暗闇に慣れてきた目が、あの女の笑顔を捉えた。今にも裂けそうなくらい大きく開けた、真っ赤な口と、ガタガタの歯、むき出しの歯茎。


――私は、ここで死ぬ。



そう思った瞬間、急に明かりがついた。


「うるさくて起きちゃったよ。うえっ!なんだこの臭い、ひどいな」


兄が顔を顰めて言った。

あの女は……消えている。さっきまでそこにいたのに。

ありえないことだ。そう、絶対にありえない。ここは私の家だ。大学からは電車で1時間もかかる。あの女がここにいるはずはない。悪い夢だ。


「何をしてたのか知らないけど、お前、ヤバいよ」


兄がそれ、と言って床を指さす。


ブス殺すブス殺すブス殺すブス殺すブス殺すブス殺すブス殺すブス殺すブス殺すブス殺すブス殺すブス殺すブス殺すブス殺すブス殺すブス殺すブス殺すブス殺すブス殺すブス殺すブス殺すブス殺すブス殺すブス殺すブス殺すブス殺すブス殺すブス殺すブス殺すブス殺すブス殺すブス殺すブス殺すブス殺すブス殺すブス殺すブス殺すブス殺す


わずかな隙間もなく床にひしめき合う、大小様々なサイズの文字。ちょうど爪で削り取ったように、よく見るとうっすら血が混じっているものもある。


「明日付いていってやるから大学は休め。お兄ちゃんと心療内科に行こう」


兄は優しい笑みを浮かべ部屋に帰って行った。

行かないで、お兄ちゃん、一人にしないで。声を出そうとしたが、喉から空気が漏れるだけだった。

あの女が一心不乱に爪で床を引っ掻いていたのだ。確実に。家を知られた?いつ?ストーキングされた?いや違う、もっと恐ろしい想像が、私の中で確定的事実になりつつある。

あれはバケモノ。本物の。人間ではない。だから誰もどうすることも出来ない。

そして、あのバケモノはもう、私の家に入ってしまっている。


『簡単だよ』


そう、簡単に決まっている。あの女は、サカナは、簡単に私なんか殺せるのだ。ますます強くなる部屋の臭いが否応なしにサカナの存在を主張している。

私はどうやって殺されるんだろう。鏡に写ったのは、顔に大きい痣のある女。

確かにブスだ、と分かって、私は考えるのをやめた。




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