最終話




 その日の夜はいつも以上に静かで人通りも全くなかった。まるで街全体が無意識に「彼」の存在に気付き、この場を避けているような、そんな雰囲気だった。


 深夜二時頃、その「彼」は僕の前に現れた。金物屋の角からその姿が見えた時、僕はすぐにそれが「彼」だとわかった。なぜわかったのか、それは自分でも説明できない。本能で感じたとしか言いようがない。彼は特に目立つ格好はしていたわけではなく、半袖の白シャツに学生ズボン、至って普通の学生の姿だった。それなのに彼は異様だった。眼には見えないオーラというか威圧感のようなものを纏った彼と眼があった瞬間(もちろん僕に眼はない。でも眼があったとしか表現できない感覚だった)、僕は寒気を感じた。それがあちらにもわかったのか、彼はニヤリと笑いながら僕に近づいて来た。


『やあ、やっと会えたね』


 彼が桜ちゃんと同じようにテレパシーで語り掛けてきても僕は自分でも意外なほど驚かなかった。ふと皐月さんが言っていたことを思い出す。大塚が「薬局前のアイツに誑かされたのか」と龍一さんに言ったという話。皐月さんはその「アイツ」を桜ちゃんのことだと思っていたようだが、たぶんそれは僕のことを指していたのだ。大塚を目の前にした僕はそう確信した。


『君が大塚か。君にも僕の声が聞こえるんだね?』


『はっ? 当たり前じゃないか』


『当たり前!? どういう意味だ?』


『そうか……。なんだ、おまえ、昔の記憶が無いんだな?』


 そう言った大塚の顔からニヤニヤ笑いが消えていた。一転して冷たく無表情な視線を送ってくる彼に僕はドキリとした。


 昔の記憶? こいつは何が言いたいんだ? 


『な、何だよ、その言い方は? 僕が記憶喪失みたいな言い方しやがって!』


『やはりな。本当に覚えていないのか。そいつは残念だな』


 僕とこいつは以前会ったことがあるっていうのか? いや、こんな特徴的な奴を忘れるわけはない。きっと如何にもそれっぽいことを言って混乱させるつもりなんだ。


 そう確信しているのになぜか僕は先程からドキドキが止まらなかった。


『おまえと会ったことなんてないはずだ。適当なことを言って惑わせようとしても無駄だぞ?』


『やれやれ。おい、貴様の一番古い記憶はなんだ? どこからなら覚えている?』


『なっ……』


 心臓を鷲掴みされたような(もちろん僕にそんなものがあればの話だが)気がした。瞬間的に、あの時の、僕が自分という存在を始めて認識した時の、雨の記憶を思い出した。


 まさか、あの時よりも以前に僕はこいつに会っているというのか? 僕にはっきりとした意識が芽生える前に? でもそれは僕であって僕じゃない。くそ! わからない! 


『う、うるさい! そんな手に乗るもんか! 騙されないぞ! おまえなんか帰れ!』


 僕は何かに焦っていた。おかしい、こんなはずじゃなかったはずだ。「彼に会ったら彼の罪を糾弾して説得して改心させよう」、彼に会う前の僕は確かにそんな決意をしていたはずだ。それなのになぜか僕は逆に追い詰められている。これではまるで僕の方が罪人のようじゃないか。


『あーあ、くだらねえ。今のお前は実に惨めだな。願いを叶える都市伝説の樹なんてみんなに持ち上げられて浮かれていたってとこだろ? 現実から逃げ回っているくせに神様を気取るような恥知らずのおまえとはこれ以上話しても無駄らしい』


『逃げまわっている? 動けない僕が逃げるってなんだよ? 無駄って、まだ話は……』


『話さなくてもわかったんだよ。おまえなら俺の苦悩を少しは理解してくれたかと期待していたんだがな……。仕方ない、おまえはもう燃やすことにするよ』


 えっ? 今、こいつはなんて言った?


『残念だが今日は何も用意して来なかったんでな。明日の夜にでも派手に焼いてやる。それまでせいぜい残りの短い時間を大切にするんだな』


『ま、待て! 燃やすって僕を?』


『そりゃそうだ。他に何を燃やすっていうんだ? この辺じゃお前が一番よく燃えそうな感じだろ?』


『そ、そんなことは止めろ! おまえの言うことはよくわからないけど僕の存在が面白く無いっていうなら僕には何をしてもいい。切り刻むなり穴を開けるなり好きにしろ! でも僕が燃やされたらこの薬局や周りのお店にも被害が出てしまうかもしれないじゃないか。それだけは止めてくれ!』


 僕がそう懇願するとなぜか少しだけ大塚の表情が変わった。閉じ篭っていた感情が戻った、そんな風に見えた。そして彼は思わぬセリフを呟いた。


『薬局……、完子さんか……』


『お、おまえ、完子さんを知っているのか? それなら彼女がどれだけ明るくて良い人なのかも知っているんだろう? それなら彼女に迷惑をかける馬鹿なことは止めて……』


『うるさい! おまえが指図をするな。どうするかは俺が決めることだ。動くことが出来ないおまえはそこで指を咥えて俺のやることを見ていればいいんだよ。まあ、咥える指も口もおまえにはないだろうがな。アッハッハ』


 間違いない。この洒落のセンス。彼は完子さんと何か交流があるに違いない。僕はそう確信した。彼女と知り合いだというならまだチャンスはあるかもしれない。


『お願いだ、考え直してくれ!』


『うるせえって言ってんだろ! ああ、そうだ、それと最後に言っておくか。お前と話のできるお嬢ちゃんがいるよな? どうせそいつを当てにしているんだろうが、それは無駄というものだ』


『な、何だと! 貴様、桜ちゃんに何を……』


『そう慌てるな。まだ何もしていない。いや、「する必要がない」と言ってもいいだろう。今日の昼間、龍一の女がここに来て俺のことを話していったよな? おまえはそれを聞いてお嬢ちゃんに「危ないからここには暫く来ない方がいい」と言った。違うかな?』


 僕は絶句した。まさか、そこまでこいつは読んで行動していたのか? 僕たちはこいつにまんまと誘導されてしまったというのか。


『その女がお前の言うことを素直に聞くお利口さんなら明日の夜もここには現れないだろう。予定通りだ。但し、もし仮にそいつがとんだお転婆でお前の折角の忠告を無駄にするような馬鹿だった時は俺も容赦はしないぜ』


 それは先程とは違い、冗談を言っている眼ではなかった。その眼を見ているだけで金縛りにあったような気分になる。これが蛇に睨まれた蛙という奴か。一見普通の高校生のどこにこんな残虐さが隠れているのだろう? 僕は完全に彼に呑まれていた。


『おや、どうした? 止めろとか帰れとかもう騒がないのか? 諦めが早いな』


『……おまえは樹と話ができる。桜ちゃんも同じだ。他人と違う能力を持ったせいで感じる苦しみ、それはお前にだってわかるってことだろう? そんな彼女に危害を加えるっていうのか? もしおまえが怒りを持て余しているっていうならそれを全部僕にぶつければいい。だから他の誰かに危害を加えるのは止めてくれ』


『……ちっ、やはりおまえは何もわかっていない。もう飽きたよ。また明日だ』


 そう言った大塚は僕に背中を向けた。それは交渉決裂のサインだった。


『待ってくれ! なあ、もっと時間を……』


『明日の夜までにしっかり思い出すんだな。何もわからない奴を焼いてもつまらない』


 それが背中越しの彼の最後のセリフだった。何度も呼び止める僕の声を一切無視して一度も振り返ること無く彼は夜の街へと消えていった。


 大塚が帰り、一人になった僕は考えてみた。彼が言っていた「僕の無くした記憶」というものについてだ。本当にそんなものがあるのだろうか? もしそれが事実なら僕の過去の記憶のどこかが抜け落ちているということになる。それなら自分でもおかしいと気付いたはずだ。しかし僕の記憶に矛盾は生じていない。つまり大塚の言うことなんて全部デタラメで僕を精神的に追い込むための罠だと考えるのが自然だろう。うん、そうに違いない。


 ……それなのに僕にまとわり付くこの抗えない不安は何なんだ?


 考えればその答えは出るのだろうか?


 もっと悩めば何かを思い出すのだろうか?


 叫べば誰か教えてくれるのだろうか?


 ……そうだ! 叫ぶしかない。


 大塚の言っていたことがただのハッタリなのか真実なのかはわからない。でもあいつが明日の夜ここへやって来て僕を燃やそうとしていることは避けられない事実だ。それを阻止するには誰かに頼むしかない。一番良い相手は桜ちゃんだが大塚が言っていたように彼女は暫く来ない可能性が高いだろうし、正直に言えば彼女にはあいつと対決なんて危険なことをして欲しくない。


 つまり動けない僕に出来ることは叫んで助けを呼ぶことだけだ。僕の声が普通の人間に届かないことはもちろんわかっている。でも桜ちゃんやあいつのように僕と話のできる人間がいることも僕は知っている。可能性は低いかもしれないが僕の目の前を通り過ぎていく数多の人間たちに休まず呼び掛け続ければそのうち一人くらい僕の声が届く人間がいるかもしれない。


 うん、まだ希望は残っている。夜が明けて人が通り始めたら勝負開始だ。もう僕の言葉は独り言なんかじゃない。きっと誰かに届く。僕は桜ちゃんと出会えたんだから。きっとまた奇跡は起こる。


 そう僕は信じていた。


 一時間後。


『……あっ、お兄さん! 新聞配達のお兄さん、ちょっと、ねえ、聞こえないの?』


『おっ、そこのセーラー服を来た君! 頼む、ちょっとでいいから立ち止まって!』


『おじさん! 聞こえないの? 待って、待ってったら!』


 二時間後。


『あっ、翔じゃないか! おい、大塚がやばいことをしようと……、なあ、待てって!』


『坊や、聞こえない? 頼むよ、気付いてくれ!』


 三時間後。


『ゆうちゃん! なあ、今度は僕の願いを……、なんで、無視するんだよ!』


『そこのおばちゃん、聞こえませんか? 僕の声、聞こえない? どうして?』


 四時間後。


『完子さん! 出て来てくれて良かった。そうだ、忘れていたよ、桜ちゃんがあなたには樹と話せる才能があるかもしれないって言っていたんだ。今だ、奇跡が起きるなら今しかないんだ。ねえ、聞こえませんか? 完子さん、頼むから返事してくれよ。今夜、僕は燃やされるかもしれないんだ。この店だって被害を受けるかもしれない。亡くなった旦那さんと作り上げてきた思い出の店だって話してくれたことあったじゃないか。……ねえ、そんな駄洒落を言っている場合じゃないんだよ! 神様! 彼女と話をさせてください。それが出来たらもう僕は枯れても構いません。……くそっ、いないのか? こんな大事な時に限って手を貸してくれないのか? それじゃあ、何のための神様……、ま、待って! 完子さん、ねえ、完子さん! お願いだから振り返って……、畜生!』


 午後。


『やった、振り返った! 君、僕の声が聞こえ……、何だよ、後ろから友達が呼び止めたのか。くそっ、紛らわしいんだよ!』


『完子さん! ねえ、出掛けないで! あなただけが頼り……、行っちゃった……』


『おじさーん、暑いだろう? ここで涼んでいけば……、くそ、喫茶店め!』


『お姉さん。おーい、聞こえないの? 聞こえない振りしているだけじゃないの? ねえ!』


『誰でもいいんだよ。僕の声を聞いてくれよ。立ち止まってよ。誰か!』


『……聞こえないのか。僕の声はもう誰にも届かないのか。誰か……』


 そしてとうとう夜はやってきた。


 ふと気付くと薬局の電気がいつの間にか消えていた。完子さんがいつの間にか帰ってきて店の戸締りも終わったらしい。夢中で叫んでいた時なのか、絶望して頭が真っ白になっていた時なのか、僕には全く記憶がなかった。


 つい先程のことすら覚えていないなんて……。


 自信が失われていく。やはり大塚の言っていたことは本当だったのかもしれない。僕が失った記憶、それが本当ならそこには何があるのだろうか? もし僕がそれを思い出せたら大塚は考え直してくれるのだろうか? 彼がやってくるまでもう時間はないだろうが出来る限りのことはやらなくては。


 思い出せ、思い出せ、思い出せ、思い出せ……。





『随分と今日は静かじゃないか。どうだ、何か、思い出せたのか?』


 昨夜と同じく、いや、それ以上に静まり返った街。その薄暗い闇の中からニヤニヤ笑いを浮かべた学生服姿の彼がやってきた。しかし考え考えて考え過ぎた僕にはもう返事をする気力も残っていなかった。


『お返事は無しか? 何か企んでいるのか、それとも諦めたのか? まあ、どっちでもいいや。おまえが消し炭になることは変わりないんだからな』


『……色々考えてみた。でも答えが見つからなかったんだ。なあ、お願いだ、考え直してくれ。時間をもっとほしいんだ。頼む』


『それが人に物を頼む態度か? 土下座しろよ。出来るものならな。アッハッハ』


『桜ちゃんみたいなこと言いやがって。出来るのならとっくにしているさ』


『ほお、あの女と同じとは。こいつは心外だな』


『何が心外なんだ? 桜ちゃんもおまえも樹と話ができる、同じ境遇の仲間みたいなものじゃないか? 偉そうに』


『ふっ、やはりおまえはわかっていない。あの女と俺では決定的に違うんだよ』


『だから僕のわかっていないことって何なんだよ? 教えてくれよ!』


『教える必要など無い。もう終わりなんだよ。これでも俺は待ってやったんだ』


『たった一日じゃ何も思い出せないよ。もう少し時間を……』


『一日? 俺が待ってやったのはもっと長い期間だぜ?』


 長い期間? 一体こいつは何を言って……。


『……やはりわからないか。もうお前には何も期待できそうにないな。いっそわからないままの方がいいんじゃないか? どうせおまえは燃えて消えてなくなるんだ』


 そう言いながら彼はズボンのポケットからライターを取り出した。どこにでもあるそのライターに彼が火を付けた時、それはどんなナイフや銃火器よりも恐ろしい武器に見えた。彼の顔を不気味に照らし出しているあの火が僕の足元に移り、僕の全身を焼き尽くし、完子さんの薬局や周りの店まで燃やしてしまう。恐ろしい想像が僕を縛り上げ声を失わせた。


『助けを呼ぶ気も失せたのか? じゃあ、これで永遠にさようならだ』


 彼は僕の足元に屈み込んだ。僕は覚悟した。


 ……最後に桜ちゃんと話したかったな。


 思考を停止した頭で唯一僕がそんなことを思った時だった。


「やめなさい! そんなことしてもあなたの恨みは晴れないでしょ!」


 桜ちゃんの声!?


 そんな馬鹿な! 幻聴か。


 そう思った僕の眼に鮮やかな桜色のシャツが飛び込んできた。


 そう、それは紛れも無く、怖い顔で大塚を睨みつける桜ちゃんの姿だった。


 桜ちゃんの登場に大塚は驚いた顔をしながらゆっくり立ち上がった。彼と桜ちゃんは一定の距離を保ったまま睨み合う形になった。


『桜ちゃん! ま、待って! 来ちゃ駄目だ。こいつは……』


「わかっている。こいつが大塚紀之なんでしょう? いや、大塚紀之の『ふり』をしている奴って言った方が正確かもね」


『えっ、「ふり」? それってどういう意味? 桜ちゃん、こいつの何を知っているんだ?』


 そんな僕と桜ちゃんの会話を聞いていた大塚は「ほお」と言った後、ニッと笑った。


「驚いた。おまえは真実に気付いたようだな。頭の堅いこいつに比べれば賢明なお嬢さんらしい。面白い。あんたに免じて少し時間をやろう。こいつも自分が何者かわからないまま燃やされても成仏出来ないだろうからな。あんたから説明してやれ」


 そう言った大塚はライターをポケットに仕舞い、少し僕から離れた。桜ちゃんが僕に駆け寄る。月明かりが彼女の顔を照らした。いつもの、僕が会いたかった桜ちゃんがそこにいた。


『良かった。最後に話がしたかったんだ』


『最後だなんて縁起でもない。言ったでしょ? 君と私が力を合わせれば誰にも負けないって』


『あいつを目の前にしてもそんなこと言えるなんて桜ちゃんはやっぱり強いなあ』


『君も強くならなくちゃ駄目なんだよ。君が戻りたいって強く思えれば……』


『戻りたい? 桜ちゃん、さっきから何を言っているんだ? 僕はさっぱりわからないんだ。君はあいつと僕の何を知っている? あいつが君と同じように僕と話せることと関係あるのか?』


 僕のその言葉を聞いた桜ちゃんはなぜか悲しそうな表情を浮かべた。


『……本当に全然思い出せないんだね。今から私は君に真実を話す。それを聞いても君が失っているものを取り戻せなかったら、たぶん私たちの負けだよ。私は残念だけど力ではあいつに勝てないもの。これは賭けなの。だから心して聞いて欲しいの』


 ハッとした。それは一つの覚悟を決めた女性の顔だった。僕もそれを見て覚悟を決めた。


『……わかった。どんな真実でも受け止める。話して欲しい』


 彼女は大きくひとつ頷くと話を始めた。


『私が君と初めて話をした時、こんなことを言ったの、憶えているかな? 「君みたいな若くてお喋りの樹は珍しい」って』


『うん、言っていたね。普通、話し掛けてくる樹は年寄りの樹が多いって』


『つまり私は君に違和感を持ったの。この樹は今まで話した樹と違う。なぜどこにでもいるような普通の経験の浅い若いイチョウがご神木みたいに話せるようになったのか。君と頻繁に話すようになってからも心のどこかにその違和感は残っていた。そしてある時ふと思ったの。「彼は本当にイチョウなのか?」って』


『えっ、どこからどう見てもイチョウでしょ? 柳に見える?』


『見た目の話じゃないの。中身、精神の話よ。見た目がイチョウだからといって精神がイチョウとは限らない。そう考えてみた時、私の思考はグッと進んだ。イチョウじゃないなら彼は何なのか? そして閃いたの。彼は「人間」なんじゃないかって』


『ぼ、僕が人間!? そんな馬鹿な! ありえないよ。どこにそんな証拠が?』


『私も最初は馬鹿馬鹿しい思い付きだと思った。でもあなたを観察しているうちにそれが確信に変わってきたの。あなたの言動はいつも人間そのものだったから』


『それは僕が人間の言葉を習得して人間の立場を理解したからで……』


『そういう意味じゃないのよ。考え方じゃなくて、もっと本能的な部分、五感、感覚の話なの』


『どういうこと?』


『君には眼がない。それなのに君はなぜか人間の視力の限界に縛られていた。なぜこんなに背が高いのに君が見える商店街の範囲は限られているの? 自分の体にカラスが作った巣、その中にあったペンダントに君は気付けなかった。それは君の精神が人間の体の中にいた時の視覚能力の限界を覚え込んでいるからじゃない? ねえ、君の「眼」は今、どの高さから私を見ているの?』


 ……なんてこった。僕は愕然とした。僕は今、いや、これまでもずっと桜ちゃんをほんの少し上から見ているに過ぎなかった。僕が生まれ付きの樹なら桜ちゃんのように小さな人間などもっと見下ろしていてもいいはず、むしろ、その方が自然な気がする。


 なぜ今まで疑問に思わなかったのだろう? 僕は自分の矛盾に次々気付いた。首がないのに僕は「振り返って」通行人を見る。根っこは地下まで伸びているのに僕は地面から出ている部分を「足元」だと自然に思っている。空を見上げる時、僕の頭……、そうだ、存在しないはずの「頭」を僕はその時だけ意識していた。それは枝葉のずっと下にあり、そこから僕は空を見上げていたんだ。


 そうか、僕は生まれ付きの樹じゃなくて樹の体に閉じ込められた、人間の大きさの魂なんだ。


『……ペンダントを取りに僕へ登った時、すでに桜ちゃんは気付いていたんだね?』


『確信とまではいかなかったけどね。でもあの後も君には内緒で色々調べていたの。君が本当に人間だとしたらどんな人物だったのか? 元々あった君の人間としての肉体はどうなったのか? もし体がすでに死んでしまっているのなら君はこれからも樹として生きていくしか無い。それを確かめるために図書館に行って、この地域で最近起きた事故が無かったか調べてみたの』


『ん? ちょっと待って。最近っておかしくない? 僕が最近の人間とは限らないじゃないか。ずっと昔にこの樹に憑依した人間という可能性はないの?』


『それは君と話していて私が感じた雰囲気から推測したの。君と喋っているといつも私は同世代の男の子と話している気分になった。すごく歳上でもなく、かと言って子供でもなく、知識が豊富で頭のいい同じくらいの年齢の男子、樹という体にさえ惑わされなければ、それが君の印象だった。そういう意味では最初から君を「君」って呼んだ私の勘は正しかったのね。ずっと歳下なのに失礼だとか君は言っていたけど』


『じゃあ、「事故」って部分は? 病気が原因で意識不明になって体から精神が抜けた可能性もあるじゃないか』


『それも君の今までの言動から推測できたのよ。あのね、樹って人間と違って前後はないでしょ?』


『前後がない?』


『そう。動物にとっての「前」っていうのは眼、鼻、口っていう感覚器がある側なのよ。だから植物には前と後ろという概念自体生まれないはずなの。それなのに君は薬局を「前」だと勝手に思い込んでいた。文房具屋さん、時計屋さん、金物屋さんがある側を右手、ケーキ屋さんや印鑑屋さんがある方を左手、そう思っていたでしょ?』


『そうか、うん、確かに。ああ、でもそれはさっきからも言っているとおり人間としての感覚が僕にあるという証拠でしかないでしょ? それと事故と何の関係が?』


『問題なのはなぜ薬局の方が前なのかってこと。逆に言えば道路側が前だとまずい理由が君にはあった。君にはどうしても道路側を見たくない理由が無意識にあったんじゃない? そう考えてみると……』


『そうか、それが事故! 僕が人間だった時に自動車事故にあったから、その恐怖心が僕の心の深層、無意識の部分に残っていて、自分でも知らないうちに道路側をあまり見ないようにしていたってことなんだね? 確かに言われてみれば僕は自動車が好きじゃなかった。通行人と同じように自分の後ろを無数に通って行くものなのにどんなに暇でも見たいと思わなかった』


『うん。だから私は君が意外と最近事故にあった人間なんじゃないかと思って調べてみたの。そしてついにそれらしい地元新聞の記事を見つけた』


 人間だった頃の僕。その正体が桜ちゃんの口から語られようとしている。


 僕はドキドキが止まらなかった。


『びっくりしたよ。あんなに驚いたのは生まれて初めてだった』


 そう言うと桜ちゃんはなぜか振り返った。


 挙げられた彼女の右手の人差し指が真っ直ぐに彼を指し示す。


 それを見て僕は悟った。


 なん…、だと…? まさか、ありえない……。


「二ヶ月くらい前、すぐそこの交差点で自転車通学中の高校生が自動車と接触転倒、頭を強打して病院に搬送され意識不明の重体になっているって記事があったの。その彼の名前が『大塚紀之』だった。そう、あなたよね?」


 そう言われた彼はピクリとも表情を変えなかった。


「反応しないのね? そう、だってあなたは事故にあった『大塚紀之』じゃないんだから当然よね? 体は『大塚紀之』のものでも心は『彼』じゃない。なぜなら本当の『大塚紀之』、彼はここにいるから」


 そう言って彼女は僕をみつめた。僕はその時初めて「人間」として彼女と眼と眼を合わせた気がした。


『僕が大塚紀之……、いや、でも、そんなはず無い。僕が大塚紀之だとしたら今ここでその体を動かしているこいつは誰なんだよ?』


「そんなの決まっているじゃない。単純な交換よ。大塚紀之の体から魂が抜けてイチョウに入ったのならその大塚紀之の体に入ったのはイチョウの魂ってことよ」


 い、イチョウ! こいつがイチョウだっていうのか? おいおい、イチョウに魂なんかあるのかよ?


 ……あれっ、すごく矛盾したこと言ったね、僕。


 驚く僕を尻目に大塚、いや、元イチョウ(?)は薄ら笑いを浮かべていた。


「よくわかったな、小娘。如何にも俺は元々このイチョウだった」


「やっぱり。それならいのりさんの件にも説明が付けられるのよ」


『いのりさん? 彼女の元彼をこいつらが襲った件か?』


「そう。彼は都市伝説のイチョウとして君みたいに色んな人からお願いをされていたと思うの。たぶんその時もそれが叶えられないって逆ギレしてくる田尾みたいな人間がいたでしょうね。だから彼はお願いされたことは叶えてやらないとひどい目にあわされるという恐怖が無意識に刷り込まれたのよ。だからついイチョウに願掛けしていたといういのりさんの願いを叶えてやりたくなったんだと思う」


『そうか。親切でというよりもトラウマで仕方なく取った行動だったのか!』


「そうよ。でもわからないこともある。ねえ、なんであなたは大塚君の体を乗っ取ったの?」


「乗っ取った? ハハ、全然わかっちゃいねえな。そもそもここにある俺のイチョウの体へ先に入ってきたのはそこの兄ちゃんの方なんだぜ? 俺は追い出されたのさ」


『ぼ、僕が? 嘘だ、僕がそんなこと……』


「事故で魂が抜けたそいつは体から離れてこの辺を彷徨っていた。俺はそれを見て話し掛けたんだ。『お前の体はまだ死んでいないぞ。死ぬか生きるかはっきりしろよ』ってな。そいつは『まだ死にたくはない。でも生きていてもつまらない』、そんなことを言いやがった」


『僕がそんなことを?』


「俺がまだ若い樹なのに神木のような意識を持てたのはなぜだと思う? 人間は俺を勝手に都市伝説の樹に祭りあげて願いが叶わなかったと言っては暴言や暴力を浴びせてきた。そのどす黒い刺激を繰り返し受けたせいで俺の意識は誕生したんだ。いつか動ける体を手に入れて人間たちに復讐してやりたい。この街の人間に俺が味わったような痛みを与えてやりたい。そう思っていた俺にとって願ってもない奇跡が訪れた。そう、それがおまえさ」


 ニヤッと笑った彼を見て、僕は無いはずの胸をきゅっと締め付けられた気がした。


「俺は漂っていたおまえに体の交換を申し出た。『樹は楽でいいぞ。人間関係に悩むこともない。ただ突っ立っていればいいんだ』、そう言ったらおまえは驚くほどあっさり交換を了承したよ。おまえは俺の体、イチョウに入ってきて、俺は押し出されるようにそこを出た。そして約束通り救急車で病院へ向かう大塚紀之の体に潜り込んだ。まあ、それからが大変だったがな。植物の体から動物の体へ意識を移動させるってのは想像以上に難しい仕事だった。事故でダメージを負った体を覚醒させることがなかなか出来なくてな。何とか一ヶ月ほどで意識を取り戻した後も自分がイチョウだという記憶を暫く失っていた。イチョウの中の大塚紀之、おまえも同じ状態のようだな。しかし俺は自力で自分の記憶を取り戻した。おまえはまだ取り戻せていない。どちらが勝者か、誰が見ても明らかだろう?」


『おまえと僕にそんなことが? ……思い出せない。教えてくれ、なぜ僕は生きていてもつまらないなんて言ったんだ?』


「知るかよ。もういいじゃないか。自分が何者かわかってすっきり死ねるだろう?」


 そう言い放ったイチョウに桜ちゃんはさっと身構えた。


「あんた、まだ、そんなこと言っているの! 燃やすなんてそこまでやる必要ないじゃない!」


「目障りなんだよ! この元の体を見るたびに俺は人間にされてきたことを思い出す。だからこの世から消え去って……、な、なんだ!?」


 イチョウが話している途中、それは突然起きた。消えていた薬局の電気が突然パッと点いたのだ。驚き振り返った僕とイチョウの目の前で薬局のドアが静かに開いた。


「もう止めなさい。話は全部聞かせてもらったから。イチョウさん、あなたの痛みをわかってあげられなくてごめんなさいね」


 そう優しく語り掛けてきたのは完子さんだった。


「な、なぜ、あんたが俺のことを?」


「桜ちゃんから事情を説明してもらったのよ。昔から話し掛けていたあなたに意識があったなんてね。最初はとても信じられない話だと思ったけど、彼らからも色々話を聞いてみて信用できると思ったから協力したの」


 彼らだって? そう僕が疑問を持ったのと同時に答えは現れた。完子さんの後ろ、薬局の奥からぞろぞろと人が出てきたのだ。


「大塚さん、じゃなかった、イチョウさんか。どうりで俺が勝てないはずだぜ。正直あんたが人間じゃないと聞いてほっとしているよ。人間相手に勝てなかったなんて悔しいからな」


 それは右手にギプスを嵌めた龍一さんだった。その隣には付き添うように皐月さんも立っていた。二人は固く左手を握り合っていた。


「龍一、おまえまで!? なぜここに?」


「このお嬢ちゃんに事情を聞かせてもらったんです。昔の俺なら絶対信じないような話だったけど、なぜか今日の俺は素直にそれを信じられた。袂を分けたとはいえ、一度はその強さに惚れ込んだリーダーが間違った道へ進もうとしているのは見過ごせないんだよ。だからあんたを止めに来た。片腕は使えないが、いざとなったら警察が来るまであんたの動きを止めるくらいやってみせる。でもそんなことはしたくない。頼む、おとなしく引いてくれ」


「……おまえまで信じるというのか? 俺がイチョウだなんて滑稽なファンタジーを? 完子さん、あんたもだよ! なぜ、信じられる? そんな馬鹿げたお伽話をなぜ信じようと思う? 俺はいつも泣き叫んでいた。蹴らないで、傷付けないで、いつもそう人間たちに頼んでいた。でも誰も俺の言うことなど聞いてくれなかった。俺の恨みがましい独り言に耳を傾けてくれる奴なんて一人もいなかった。イチョウである俺の存在に気付いてくれる人間など、この世にはいないんだと思っていた。それなのになぜこいつは違う? なぜこの女を、話の出来る相手を見つけられた? なぜあんたらから信用された? なぜだ、神様! 俺とこいつのどこが違うと言うんだ!」


「それはね、彼が諦めなかったからよ。彼は人間を信じてくれたから」


 そう言ったのは桜ちゃんだった。イチョウは目を見開いて彼女を見つめていた。


「あなたは『どうせ人間となんか相容れない』と最初から諦めていたんじゃない? 彼は違った。誰も振り向いてくれなくても彼は独り言を喋り続けた。都市伝説になんかされて迷惑だと言いながらも人間を心配し、言葉が通じなくてもお願い事をしに来た人へ優しく話し掛けていた。そんな諦めない独り言を私は偶然キャッチできた。でもそれは運命だったって今は思える。彼は、大塚君はイチョウの樹の中にいてもいつも目の前の人と同じ視線に立ってくれたの。言葉が通じなくても大塚君の前に立った人間ならみんなそれを感じていたと思う。一方、あなたは人間をただ見下ろしていただけじゃない? そこがあなたと彼の決定的に違うところなのよ」


 参ったな。僕はただ好き勝手にブツブツ言っていただけだ。それをこんな風に褒められると照れるじゃないか。桜ちゃんは僕を過大評価しているだけなんだ。


 僕はそう思ったのだが意外なことにイチョウは反論してくることもなく俯いて何かを考えている様子だった。


「……見下ろしていたか。確かにそうだったかもしれない。色々ひどい目にあって俺は人間ほどくだらない生物はいないといつしか悟った気になっていた。よく考えてみると俺はわざわざ自分が蔑んでいたその人間になろうとしたわけだからひどい矛盾だな。傲慢だったのは俺の方か……」


「わかってくれたの? じゃあ……」


「もう一度樹に戻って人間と付き合い直してみるのも悪くないかもしれないな。だが俺だけがそう思ってもどうしようもない。俺とこいつ、二人ともに心の底から元に戻りたいという意思がなければ恐らく戻ることなど出来ない。つまり、後はお前次第なんだよ、大塚紀之」


 桜ちゃんや完子さんたちが一斉にこちらを見た。

 

 正直、僕は困った。こんなに説明されても僕には人間だった頃の記憶が戻らなかった。それ以上に「人間に戻りたい」という強い欲求も湧いて来なかった。


 樹としての自分に慣れすぎてしまったのか? 僕にその気がなければ戻れない? 僕はどうしたらいいんだ? 苦悩する僕の横で桜ちゃんが呟いた。


「……そろそろ来る頃なんだけどな。信じてもらえなかったのかな?」


 来る? まだ誰か来るのか? 唯花ちゃん? ゆうちゃん? 誰でもいい。僕の記憶を取り戻してくれるのなら誰でも。


「……あっ、来た! 来てくれた! こっちです! 玲香さん!」


 玲香? 聞き覚えがない名前のはずなのに不思議と懐かしい気がした。誰だ? その姿が僕にも見えてくる。あれっ、彼女、お百度参りの……。そうだ! 彼女の息子さんが意識を取り戻せなくて、それで僕の所に百度を踏みに来て……、えっ、じゃあ、まさか、その息子さんっていうのが!


「紀之! やっとわかった。そこにいたのね。ねえ、戻っておいで。目標なんかゆっくり見つければいい。だからそこから私の所に戻ってきてちょうだい!」


 彼女はイチョウが入った大塚紀之の肉体の前を素通りしてイチョウの僕にそう話し掛けた。懐かしい声。その声が僕の凝り固まった記憶の壁に穴を開けてくれた。


 思い出が次々と流れ出す。怒られたこと、泣かれたこと、一緒に笑ったこと。なぜあの時は気付けなかったんだろう? 僕は自分の母親から自分の体の回復を願われていたことになる。滑稽だ。神様はどこまでもイタズラ好きらしい。


「ねえ、大塚君、思い出した? 君がなんでイチョウになりたいなんて思ったのか?」


『……うん、思い出したよ。僕にはずっと目標がなかったんだ。昔から要領が良くて勉強は出来たけど、ふと気が付いてみたら自分のやりたいことがなくて生きている意味も生きていく意味もよくわからなくなって……。悩んでいた。そんな時にあの事故があったんだ』


『良かった。自分、取り戻せたんだね。それならもう帰ってきてよ。あなたのお母さんも来てくれた。それにこんなにたくさんの人が君を待っている。それって充分生きていく理由になると思うよ。……それに私も君を待っているよ。デートする約束したでしょ?』


 そうか。僕はもうあの頃と違うんだ。自由に動ける人間の時の僕は心を動かそうとしなかった。でも樹になって動けなくなった僕は逆にすごく心を動かせるようになったんだ。


 だから待っていてくれる人が出来た。


 戻りたい、心の底からそう思えた。


 その瞬間、体が強く引っ張られるような感覚があった。すぐにそれが違うことに気付いた。引っ張られているのは樹の体ではなく意識、つまり魂の僕だった。引っ張られて伸びた僕は一筋の流れとなって眼の前にある人間の体に注ぎ込んでいった。それとは全く逆の動きで人間の体から流れ出したものがイチョウに吸い込まれていくのがわかった。


 その後、僕は気を失った。

 

 どのくらい意識を失っていたのだろう? まだ暗い所を見るとそれほど大した時間は経っていないように思えた。薄く目を開くと母の顔がそこにあった。こんなに近くで母の顔を見つめるのは子供の時以来だろうか?


「あっ、気が付いた! 聞こえる? 紀之!」


 久し振りに感じる「鼓膜」の感覚。耳が痛いほどだった。


「き、聞こえているよ、母さん」


「……ああ、良かった。紀之、今度こそ本当の紀之なんだね?」


 涙を浮かべ僕を抱く母。もう起きられる状態だったが、もう少しこのまま甘えていたい、そう思ってしまった。


 ああ、でも桜ちゃんが見ているんだったな。恥ずかしいからもう起きよう。


 でもその前にどうしても言わなくちゃいけないセリフがあった。


「母さん……」


「何? どこか痛い?」


「久し振りに母さんのおにぎりが食べたいな」







【エピローグ】



「それでどこに入ることにしたの?」


「理学部に入ろうと思っているんだ」


「君は頭いいから楽勝だよね。突然の進路変更でもさ」


「そんなに甘くないさ。それに僕が研究したいのは現在の科学じゃ説明できそうもない分野だしね。誰でも植物と話ができるようになる方法を確立させる、それが僕の夢だから。一生掛かっても出来るかどうか。正直、自信がないよ」


「君なら出来るって。それに私もいるからね。私と君が力を合わせればどんな相手にだって勝てちゃうんだから。忘れたの?」


「勝ち負けじゃないんだけどなあ……。まあ、頼りにしていますよ」


「おーい、お二人さん! よお、デートか」


「あっ、龍一さん、こんにちは」


「あれからもう三ヶ月か。あんなことがあったなんて今でも信じられないな」


「そうですね。龍一さんはまだ今もボランティアで街の掃除とかパトロールなんかしているんですか?」


「まあな。この街には色々迷惑掛けちまったからな、チームが。いや、そもそもおまえがリーダーだったチームなんだけどなあ」


「ぼ、僕は関係ないですよ。今でもたまに僕を見掛けただけで逃げていく人がいて困っているんです。早く、みんな、僕の武勇伝を忘れてくれないかなあ……」


「アッハッハ、おまえも大変だな。喧嘩に巻き込まれそうな時は俺に電話しろよ。いつでも飛んでいくぜ」


「そんなことしたら皐月さんに怒られちゃうよね? 紀之君」


「そうですよ。……あっ、桜ちゃん、あそこ! ほら、道路の向かい側のレストラン」


「えっ、何、何? あっ、唯花ちゃんだ! それに……、あれが井田さん? あっ、手を繋いでいるじゃない! 楽しそうに話していたし本当の親子みたいだったね。良かった」


「なんだ、今の親子連れ、おまえらの知り合いか?」


「あっ、はい、イチョウだった時に……」


「いや、言わなくていい。俺みたいに色々あった奴らなんだろう? でも今は幸せそうだったじゃないか。それで説明は充分だ」


「はい、そうですね。ああ、もうこんな時間か。じゃあ、龍一さん、また」


「ああ、気を付けてな。またな、イチョウの使いども!」





『ごめん、お待たせ』


『また遅刻だぞ? なぜおまえら人間は時間にルーズなんだ?』


『いやいや、「人間は」じゃなくて「桜ちゃんが」ルーズなんだよ』


『あー、ひっどーい! 今日はたまたま遅れただけですぅー』


『ああ、もう、おまえら、イチャイチャすんじゃねえよ! 完子さんと丈夫の爺さんからも毎日見せつけられてんだぜ。駄洒落も二倍になって俺がどれだけ苦労していると……』


『あー、はいはい、イチョウっちは本当に愚痴っぽいなあ。要するに羨ましいんでしょ? そうだ、向こうのお寺に実をいっぱいつける健康そうなイチョウの雌株がいるんだけど紹介してあげようか?』


『ま、マジで! あっ、よく考えてみたら、俺、そんな所まで歩いていけないし』


『桜ちゃん、イチョウさんを茶化すのはもう止めな。可哀想だよ。僕、痛いほど気持ちがわかるんだ……』


『うう、そうだよな? さすがは紀之、マイブラザーだ。良いこと言ってくれる。世界中でおまえだけだよ、俺の気持ちをこんなにわかってくれるのは。泣けるぅー』


『……こいつ、なんかキャラ変わったよね? この辺で恐れられた不良グループのリーダーだったんでしょ? こんなにフレンドリーな奴だっけ?』


『それはね、たぶん君のせいだよ、桜ちゃん。君には人の隠していた部分を引き出す才能がある。僕は身に染みてそれを知っているんだ』


『そうなの? うーん、自分じゃよくわかんないけどなあ』


『君はそれでいいんだよ、いつまでもね。……ところでイチョウさん、何か、悩み事の相談はあったかい? 僕たちで解決できそうなことならまた力貸すけど』


『ああ、それがな、旦那のひどい酒癖を直して欲しいって『根城』とかいう名前の奥さんが……』


 この街の薬局前のイチョウの都市伝説はまだまだこれからも続いていく。





                 (了)






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