第7話
悩みがあってそのせいで落ち込んでいる人間を励ますためにはどんな言葉を掛けてあげるのがいいのだろう?
悪いことばかりじゃないさ。これから良いこともあるよ。元気出して。
一見良さそうだが悪いことは意外と立て続けに襲ってくることが多いものだ。そんな修羅場の真っ只中の相手に「良いこともあるさ」なんて言葉を掛けるのは無責任だろう。相手によっては「おまえは無関係の第三者だからそんなことが言えるんだ! 人の苦労も知らないで。気休めはよしてくれ」とキレてしまうかもしれない。
それならば相手の立場に立って共感してやれば良いのだろうか。
大変だね、君も。その気持ち、僕にはわかるよ。僕もこんな体験をしたからね。
相手の悩みに似た自分の体験を話し共感していることを伝える。確かに良いかもしれない。但し、この場合、話す内容や話し方に気を付けなければならないだろう。それが下手だとただの自慢話になってしまう可能性もあるし、かえってお互いの立場の違いを浮き上がらせて妙な距離感を生んでしまう結果にも成り兼ねない。
ではどうすればいいのか? 思い浮かんだのはある一つの方法だ。
そうそう、こんな話を聞いたことがあるよ。どう? 悩んでいるのは君だけじゃないんだよ。
どうだろう? 自分の直接の体験から話すのではなく二人には関係ない第三者の苦労話を披露することで悩みを持つ相手が持ちやすい「孤独感」を緩和してあげるというやり方だ。「自分じゃなくて知り合いの話なんだけど……」と話すことで丁度良い距離感で相手を励ますことができるのではないだろうか? そう、これは「伝記」とか「故事」と同じ種類のものだと思う。「そうか、悩んだり苦しんだりしているのは自分だけじゃないんだな。他の人たちも同じなんだ」と思ってもらうことが重要なのだ。なかなか良い方法ではないだろうか?
はい、前置き終わり。
なぜ僕がこんな話をしたのか、聞いてもらいたい。今の話に実際の登場人物を当て嵌めて見ると励ます側は僕、励まされる側は杉松桜ちゃんとなる。つまり桜ちゃんを励ますために僕は第三者の話を披露して励まそうと思ったわけだね。この場合の第三者っていうのが誰になるのか、勘の良い人ならわかるだろう。そりゃあ、僕にお願いしに来た人たちのことに決まっている。
い、いや、悪かったと思っている。あの人たちは最後の神頼みという切羽詰まった気持ちで馬鹿馬鹿しい都市伝説を信じて僕の元へ来たわけだからね。その個人的なお願い事の内容を勝手に桜ちゃんに話してしまったわけだから配慮が足りなかったと言われても仕方ない。個人情報保護、プライバシーの観点から見ても許されることではないだろう。反省はしている。
でもさ、言い訳させてもらうけどね、人間のルールが樹の僕に当て嵌まると思ったら大間違いだよ? 「逆ギレかよ」とか「今更そんなこと言うのか」などの苦情は一切受け付けませんから。口が軽い奴だって? 残念でした、口なんかありませーんよ。
冗談はさて置き、でも本当に助かった。あの夜から一週間ほど経ったわけだけど桜ちゃんはすっかり元気を取り戻しているんだ。悩みを持っているのが自分だけじゃないってわかってくれたみたい。
ただね、予想もつかなかった副作用というのが出てしまってね……。
『おっす!』
おっ、ほら、来たよ。噂をすれば、って奴だ。桜ちゃんが学校帰りに立ち寄ってくれた。まだ昼間だから声には出さないテレパシー挨拶だが元気は良さそうだ。彼女はニコニコと僕の木陰に入ってきてポケットからピンクのハンカチを取り出すと汗を拭った。
『暑いねー。あっ、でも君はこのくらい太陽が照ってくれた方が良いのかな?』
『まあね。でもたまには雨が降ってくれないとね。もう一週間くらい降ってないよ』
『ああ、そういえばあの日の夜を最後に降ってないね。涙も枯れ果てたってことかな?』
『それは困った。今度は嬉し涙が降ってくれるように頑張らなきゃ』
『期待していますぞ、イチョウ殿。あっ、そうそう、昨日話した男の子のことだけど』
『……また調べてきたのかい?』
『何よ、その嫌そうな言い方。君が動けないから私が走り回っているんじゃないの』
『いや、だって、そんなこと頼んでないし……』
『わあ、そんな言い方ひどい。鬼畜! 樹の畜生って書いて樹畜め!』
『そ、そんなに怒らなくても……。悪かったよ、助かります。助かっています!』
『宜しい。じゃあ、早速調査報告するね。君の都市伝説の原因になった子なんだけど……』
はあ。僕は桜ちゃんの話を聞きながら密かに溜息を吐いた。これなのだ、副作用というのは。悩みを持った人たちの話を僕から聞いた桜ちゃんはどうも妙な使命感を持ってしまったようなのである。彼女曰く「願い事をされた以上、君にはそれを叶えるために努力する義務がある。でも君は動けない。それなら唯一、君の話を聞くことが出来る私が代わりに努力する必要がある」らしい。
僕は厄介事に首を突っ込まない方がいいと散々説得しているというのに、ボランティア精神に火が点いた桜ちゃんは毎日勝手に調査活動をしているようなのだ。まあ、高校生の彼女がやれる調査といっても限られているだろうし危険はないと思うが、世の中には色んな人間(いきなり蹴りを入れてくる少年とか釘打ち女とかね)がいるから油断は禁物だろう。正直そんな活動は一刻も早く止めてもらいたいところだが、彼女にとってそれは気を紛らわせるのに丁度いい時間なのかもしれない。人のことを心配して動いている方が自分のことを考えなくて済むのだろう。そう考えると無下に止めろとも言えず僕は歯痒い気持ちを持て余していた。
『……って、聞いているの? ぼうっとして! 木だから「棒」ってわけですか?』
『えっ、何? あっ、聞いてますよ。えっと、足が棒になったとか何とか』
『そんなこと言ってないよ? やっぱり聞いてないじゃん。この辺の小学生に聞き込みしてみたけど財布を持っていった男の子のことはわからなかったって言ったの』
『ああ、まあ、仕方ないね。近所の子とは限らないし。市内全部を探すとか無理でしょ?』
『それはそうだけど……。でも必ず探し出して財布返させなくちゃ。今なら間に合うよ』
『うん。あの子、またここに来てくれれば良いんだけどな』
『もしその時に私がいたら通訳してあげてもいいからさ。目指せ、非行防止!』
『ついでに僕の頭のカラスにも飛行防止したいけどね。完子さんも困っているみたいだし』
『昨日言っていた奴でしょ? 「カラスめ! 卑怯者、降りて来い!」って、ウケるよね』
『顔に糞の直撃を食らったからね。さすがに温厚な完子さんも怒っていたな』
『ウグイスの糞なら美容に良いんだけどね。お母さんに聞いたことある』
『へえ、そうなんだ。糞を顔に塗るわけ?』
『洗顔に使うの。もちろん加工した物をだけど。皮膚に良い酵素が入っているらしいよ』
『ウグイスの糞だけどカッコウ品か。怪しいな、何か「托卵でいる」んじゃないか?』
『企んで? ああ、「托卵」ね、カッコウだけに。君の洒落ってわかりにくいなあ』
『わかりにくいって言いながら理解してくれるそんな君が好きだよ』
『わあ、また告白された。樹が人間を口説いてどうすんのよ?』
いつもどおりのくだらない話。そんな時ふいに薬局のドアが開いた。
「お嬢さん、こんにちは」
それは完子さんの発した何気ない挨拶だったのだが、僕との会話に夢中だった桜ちゃんは文字通り跳び上がるほど驚いていた。
「えっ! あっ、私ですか? こ、こんにちは」
「あら、突然声掛けてびっくりさせちゃったわね」
それを聞いた桜ちゃんが「い、いえ」と言いながら心の声で『肥(こえ)を掛けられたのはあなたですよ、完子さん』と言ったので僕は大笑いしてしまった。
「あのね、最近よくあなたを見掛けるから気になっていたのよ。それで今日は思い切って声を掛けてみようかなと思ってね」
「あっ、すいません。ここ、お店の前ですもんね。毎日来ていたら気になりますよね」
「いえ、別にいいのよ。でもあなたが毎日この樹に寄り添って楽しそうに微笑んでいるのを見ていたら、あなたと一度お話してみたいなあって思ったのよ」
「えっ、あ、あの、私、笑ってました?」
「うん。すごく楽しそうに」
「わっ、は、恥ずかしい」
そう言いながら桜ちゃんは心の声で『気付いてた?』と僕に聞いてきた。『もちろん』と答えたら『……後でね』という恐ろしい言葉が返ってきた。完子さーん、このまま桜ちゃんをどこかに連れて行ってください、お願いしまーす。
「恥ずかしがることないわよ。楽しいのは良いことだもの。あのね、ちょっと変なこと聞くけど、あなた、この樹が好きなの?」
予想外の問い掛けに「へっ?」と言ったまま桜ちゃんは赤くなった。そんな顔されたらこっちも恥ずかしくなるじゃないか。慌てて『好きか、ってそういう意味じゃないと思うよ』とツッコんであげたら『わ、わかってるわよ!』と少し怒ったような返事があった。
「す、好きっていうかですね、あの、その……」
「あらら、そんなに困らなくてもいいのよ。私もこのイチョウは大好きなの」
「へえ、そうなんですか。えっと、失礼ですけど、こんなありふれたどこにでもある普通のイチョウのどの辺が好きなんですか?」
桜ちゃんはわざと棘のある言い方でそう尋ねた。それを聞いた完子さんは大笑いした。
「アハハハ、そうよね、確かに普通の樹だものね。でもね、自分でもどうしてかはわからないけど、つい話し掛けたくなっちゃうのよ。あなたもそうなんじゃないの?」
そう聞かれた桜ちゃんは「そ、そうなんですよ、アハハ」と誤魔化しながら『完子さん、ひょっとしたら私と同じ才能が有るのかも』と僕に言ってきた。えっ、そうなのか? じゃあこっちから一生懸命話し掛ければいつかは完子さんとも会話ができるようになるのだろうか?
「そうでしょ? 良かったわ、お仲間がいて。実はこの前ね、この樹に一生懸命話し掛けている女の人がいたんだけど、その時は声掛けてあげられなくてね。ずっと後悔していたの」
ああ、御百度を踏んでいた女性のことか。そんなこと言っていたな。
「勇気を出してあなたに声掛けて良かったわ。ああ、そうそう、自己紹介がまだだったわね。私はこの薬局をやっている薬師完子っていうのよ。よろしくね」
「私は杉松桜です。こちらこそよろしくお願いします」
「すぎまつさくらさん? あら、良い名前ね。『木が付く名前を持つ子はよく気が付く親切な人になる』って言ってね、性格のいい素敵な大人になれるのよ」
「そうなんですか?」と桜ちゃんは半信半疑のようだった。僕もそんな話聞いたことがない。恐らく完子さんの創作だと思うが折角の誉め言葉だし桜ちゃんには黙っていよう。
「そうよ。良い名前だわ。そうそう、私なんか読み方を知らないと読めない名前だから子供の頃から苦労したのよ。『くすしさだこ』ってどんな漢字書くか、わかる? たぶん当たらないわ」
「薬局の『薬』に師匠の『師』、完成の『完』、子供の『子』、じゃないですか? どうです? 当たっていると思いますけど」
桜ちゃんがスラスラとそう答えると完子さんは眼を丸くした。
「え、えっ、えええ! どうしてわかったの? 偶然で当たるわけないし……、あっ、ひょっとしてあなたのお母さんがうちのお客さん? ああ、でも杉松さんっていうお客さんは聞き覚えがないのよねえ。もう降参! 教えて、誰から聞いたの、私の名前?」
そう問われた桜ちゃんは勿体ぶるようにいたずらっぽくニコッと微笑み、こう答えた。
「このイチョウからです、って言ったら信じます?」
その後、妙に意気投合した桜ちゃんと完子さんは僕の目の前で夕方まで二人だけの井戸端会議を続けていた。世代が違っても女性同士という奴は意外に話が合うらしい。
それにしてもあのセリフにはびっくりさせられた。桜ちゃんが自分の能力のことを打ち明けるのかと思ったからだ。しかし桜ちゃんは結局その後その言葉を冗談だと言って誤魔化して話を変えてしまった。完子さんの反応を見た上での判断だったらしい。
後で聞いた話だが、桜ちゃんは子供の頃、正直に自分の能力のことを大人に話したことがあるのだという。そして彼女はひどく自尊心を傷付けられたのだ。詳しくは聞かなかったが、子供の言うことだというだけで話を聞こうともしない心無い大人が少なからずいたのだろう。そのせいで桜ちゃんは自分の力のことを滅多に人には話さなくなったらしい。それでも例外的に話してもいいかなと思った相手には今回のように冗談めかして伝えてみて相手のリアクションを見てみるのだそうだ。結果、「完子さんはまだ『樹は返事をしない』という常識が強いようだ。まだ真実を打ち明けるのは早い」と桜ちゃんは判断したということだった。
何を心配したのか、彼女は慌てた様子で「完子さんが信用出来ないって言っているんじゃないからね?」と念を押した。言われなくてもわかっている。完子さんが良い人だからこそ確信が持てた時にしか秘密は打ち明けられないってことだろう。親しき仲にも礼儀あり、ちょっと使い方が違う気はするが似たような感覚の問題なのだと思う。信じるというのは言葉でいうよりずっと難しいことだ。いつの日か、僕が桜ちゃんだけでなく完子さんとも自由に話し、さらに二人に通訳をしてもらい街中のみんなとも自由に話せる、そんな日が来ることを神様に願いながら、僕は茜空の中を家へ帰っていく桜ちゃんを見送った。
夜だというのに蒸し暑い。樹である僕はなんてことないのだが人間は大変なんだろうな。冷えたビールをちょっと一杯飲んで帰ろうって気持ちもわからなくもない。でも今向こうからやってくるのが見える「ご機嫌男」はまだ暑くない頃からあんな感じだったから、暑いから飲んで帰るというより、飲めれば理由など何でもいいという感じなのだろう。
「俺はツイてる、ノッてる男♪ ノッてるって言っても電車じゃねえぞー、ツイてるって言っても霊じゃねえぞー、運が良いってことなのさ、うん、うん、うん♪ ウハハハハーイ!」
ゆうちゃん、元気そうで何よりだ。財布を無くした時はこっちが心配になるほどガッカリしていたのに。良いことでもあったのかな?
「んー? おー、イチョウ君じゃないかー。どうだ、元気か? 俺はこの通りだ! ウヘヘー」
どの通りか知らんが素面の時の根城雄介さんに今のあんたの姿を見せたいよ。
「そうそう、聞いてくれよ。この前無くした財布ね、なんと戻ってきたんだ。中身も全部無事だった。いやあ、ほっとしたね。思わず部下に奢ってしまった。これじゃあ得したのか損したのかわからん。まあ、みんな喜んでいたからいいけどな。ガハハ」
えっ、戻ってきただって? どういうこと?
「警察から連絡あってさ。あなたの財布が見つかりましたって。何でも小学生くらいの子供が『落ちていました』って届けてくれたんだってよ。礼をしたかったんだが、急用があるからって言って名も名乗らずに帰ってしまったらしい。いや、偉いね。俺ならご褒美を期待して住所氏名きっちり言ってから帰るけどな。うん、それにしても助かったー!」
そうか! きっとあの子だ。良かった、ちゃんと財布返してくれたんだな。ナイス情報だよ、ゆうちゃん。お陰でこっちも上機嫌になれそうだ。
「いやあ、本当にツイてたなあ。ああ、そうだ、あとさ、ツイてるついでに娘のことも何とかならんかね? この前さ、なんか眼を真っ赤にして帰ってきたらしくて女房が心配してなあ。『あんたがぬいぐるみ拾ってきてから真奈美の様子がおかしいのよ!』って俺が責められるんだよ。俺、そんなにまずいことしたのかね? わっかんねえな」
うーん、それはゆうちゃんのせいじゃないんだよ、って教えてあげたいけどさ、まあ、色々事情があるんだよね。とにかく今は娘さんを信じて見守ってあげてほしいな。
「……まあ、考えても仕方ねえか。難しい年頃だからな。向こうから何か言って来るまで待ってみるかな。それまでは俺が悪役でかまわんさ。じゃ、そういうことでー。またなー」
そう言うと彼は来た時と同じ千鳥足で片手を振りながら帰って行った。
その背中を見ながらこの人が付いていてくれるなら真奈美ちゃんもきっと大丈夫だろうと僕は思った。
人はなぜ嬉しいと思うのか?
人ではない僕がそんなことを考えてみる。
嬉しいとは喜びのことだ。ではどんな時に人は喜びを覚えるのか? 例えば君は毎日「生きているって素晴らしい!」といちいち喜びを覚えるだろうか? 「私は毎日自分が生きていることに感謝しているよ」という人もいるかもしれないが、穿った見方をすると、それは心の底からそう思うというより、そうするように習慣付けているだけなんじゃないだろうか? 何が言いたいのかというと当たり前のことに心から感謝するっていうのは意外と難しいということだ。逆に言えばそれが当たり前じゃなくなった時こそ人はその大切さに改めて気付くことが出来て真に心の底から喜びを覚えることが出来る。勘違いしないで欲しいが哲学がどうとか堅苦しい話をしているのではない。別にそれは「生きる」という大層なお題でなくても当て嵌まることが多いのだ。
太陽はなぜ眩しいのか? それは曇りの時を知っているから。
水はなぜ美味しいのか? それは喉の渇きを知っているから。
花はなぜ美しいのか? それは花が枯れることを知っているから。
月並みな例を上げればきりがないが、失った状態を知っているからこそ当たり前の状態を幸せだと感じられるのだということは伝わったかと思う。
ああ、思い出した、「桜は散るからこそ美しい」なんていうのもあったね。これが一番わかり易いだろう。
さて、なぜこんな話をしたのかというと、つい先程まで感じていた僕の喜びがたった今台無しにされたからだ。幸せは長く続かなかった。ゆうちゃんが帰って僅か数分後現れた人物は僕の束の間の上機嫌を一瞬にしてぶち壊す最悪の相手だったのだ。
最初は全く気付かなかった。あまりにもこの前とは姿が違っていたから。地味な色合いの茶系のスカートと白いシャツの眼鏡女子。初めて見る娘だと思った。しかしこちらに彼女が近付くにつれ、「あれっ、見覚えがあるぞ?」と思い直した。姿はまるで違う。でも見覚えのある部分があった。
眼だ。
以前ほどではないが血走った眼、射抜くような視線。
間違いない。そいつは丑の刻参り女だった。
僕に足があったなら逃げただろう。口があったなら大声で助けを呼んだだろう。しかし僕は待ち構えることしかできなかった。ついに足元まで来た彼女はじっと僕を見つめたまま口を開いた。
「あそこまでやれとは言わなかった」
はっ? 何のことだ? 訳の分からない僕に向かってさらに彼女は言葉を続けた。
「そりゃ死ねばいいって本気で思っていた。でもあんな形で復讐したいと思っていたわけじゃないの。あれじゃあ、私が真っ先に疑われるじゃない。どうしてくれるの?」
疑われる? まさか、君が呪いに来た二股彼氏に何かあったってことか? そうだ、そういえば君が落としていった彼の写真を偶然知り合いだという不良たちが拾っていったんだ。でも、なぜだ? あの写真を使って脅迫してやろうっていう話だったはず。それがなぜこの娘の仇討ちをしたような形になっているんだ?
「もちろん私は彼を襲った不良たちとはなんの関係もない。でも彼はそう思わないわ。ひょっとしたらもう警察に私のこと話しているかも……。ねえ、この前のお願いは無効でいいから何とかしてよ。お願い!」
そう言うと彼女は手を合わせ、目を瞑ると熱心に謎の呪文を唱え始めた。聞いても全く表記できない発音だった。
おい、どこの国の言葉だよ? それ。ここに何を召喚する気だ? いやいや、そんなことより今の話をもっと詳しく聞きたいんだが。
そう思っていると場にそぐわない陽気な声が金物屋の方向から聞こえてきた。
「あれー? 誰か、俺の財布知りませんかー? 戻ってきたばかりの俺のマイサイフー。あるでしょ? 俺、運良いんだからさー。またこの辺に落としたのかなあー?」
声を聞いた女は呪文を口ずさむのをピタリと止めてカッと目を見開いた。そして人間離れした動きで音もなく体を回転させて後ろを向いた。ようやくこちらに気付いたゆうちゃんの動きが止まる。距離を置いたまま固まった両者。今まさに「陽気」対「妖気」の直接対決の瞬間が訪れようとしていた。
「……誰? お嬢さん、何してんの?」
「見たな」
「はあ? 『見たな』って『何を』です?」
「見たなあああああああああああああ!」
「ええ! う、うわああああああああああああ!」
逃げるゆうちゃん、追う女。デジャブな追い掛けっこが始まった。追い掛けられる相手はジョギングおじさんからゆうちゃんに変わっているがこの前と同じ光景だった。
それにしても彼女はつくづくおじさんに邪魔をされる運命にあるらしい。いっそのこと二股男なんて綺麗サッパリ忘れて歳上の優しい中年男性と付き合ってみるというのはどうだろう? 「王子様」より「おじ様」というわけだ。「おじい様」では行き過ぎだろうが「おじ様」ならギリギリ良いんじゃない?
おっと、いかん、ふざけて適当なことを言っていると彼女に呪われかねんな。それにしてもゆうちゃん、さっきまで千鳥足だったのが嘘のように速いじゃないか。あれならうまく逃げ切ってくれそうだ。あっという間に見えなくなった二人がこれから幸せでありますように、と僕は神様に願わざるを得なかった。
そして次の日。
『あのさ、調べてほしいことがあるんだけど』
桜ちゃんに僕はそう頼んだ。すぐそこの洋菓子屋から買ってきた名物のカップケーキを頬張っていた彼女の眼がキラリと光った。ああ、仕方がないこととはいえ僕の方から探偵まがいの活動を頼むことになろうとは。自分で動けないというのは実に情けないことだと改めて思ってしまう。
『へえ、私が調べ回ること、あんなに反対していたのに。どういう風の吹き回し?』
『予想も付かない突風が吹いたんだよ。「かまいたち」と言ってもいいかもしれないな』
『ふーん、緊急事態ってわけね。じゃあ、お姉さんに詳しく話してみなさいな』
『お、お姉さんって、君、僕よりずっと年下でしょ? まあ、いいけどさ。それじゃ話すよ?』
僕は昨晩の騒動について彼女に話して聞かせた。ゆうちゃんのことも丑の刻参り女のこともすでにある程度は話して聞かせていたので説明は簡単だった。
『そっか。財布持っていった子、ちゃんと真奈美のお父さんに返してくれたんだ』
『うん、そのことは良かったんだけどね。問題は……』
『丑の刻参りさんの言っていたことでしょ? 不良が彼女の元彼を襲ったっていう話』
『そう、それなんだ。最初、あの金髪と茶髪は拾った写真を強請りに使おうとしていた。そこへ皐月さんの彼氏である龍一って奴が現れて、それを止めたわけだ』
『その人、男気があるっていうか、卑怯なことは嫌いなタイプみたいね』
『そうだね。でも金髪たちが大塚って奴の名前を出した途端に状況が一変した。その写真をどう使うかはその大塚というリーダーに一任しようということになってしまった』
『じゃあ、つまり今回の件はその大塚って奴の指図なのかな? 何のために?』
『それがわからない。あいつらにはわざわざ丑の刻参りさんの願いを叶えてやるメリットなんて無いはずなんだ。実際、事件になって警察も動いてしまっているわけだしね』
『うーん、その強請られた元彼さんが警察に届けてやるとか逆上しちゃったから金を取ることを諦めてボコボコにせざるを得なかったとかじゃないの?』
『その可能性もあるけどね。でも写真を使った強請りが先にあってそれから暴行したんだとすると丑の刻参りさんはとっくに警察から厳しい取り調べを受けているはずだ。でも昨晩の彼女の話だとそうはなっていないらしい。つまり不良たちは写真や彼女の存在をわざわざ伏せたまま暴行を行ったということになる』
『そうか。そうなるとよくわかんないね。不気味だね、なんか企んでいそうで』
『そこが心配なんだ。それでさ、桜ちゃんにその辺りのことを調べて欲しいんだ。あっ、一応言っておくけど、もちろん無理はしない程度に、ってことだよ。暴走しないようにね』
『えっ、何よ、その言い方! まるで私が暴走したことあるみたいじゃん。いつも安全運転よ』
『……桜ちゃんが安全運転なら暴走族でも表彰されちゃうじゃん。とにかく気を付けてね』
『ひっどーい! そこまで暴走したことないでしょ!』
『おっと、「そこまで」ということは暴走自体については認めるわけですね、被告人』
『裁判長、誘導尋問です! ふん、何よ、子供扱いして。気を付ければいいんでしょ、気を付ければ! もう帰る! じゃあね!』
怒った桜ちゃんはそう言うとぷいっとソッポを向き、呼び止める間もなく帰ってしまった。
あちゃー、逆効果だったかな?
反省。どうして僕はこう口が悪いんだろう? 桜ちゃんと話すのは楽しいのについ一言多くなってしまう。いや、楽しいからこそ余計なことをつい言っちゃうんだろうな。今度桜ちゃんが来たら怒らせないように気を付けよう。そう僕は心に誓った。たぶん守れないだろうけど。
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