第8話
『あー! 桜ちゃん! 良かった、生きてたんだ!』
印鑑屋の方からこちらに向かってくる制服姿の彼女を見つけた僕は思わずそう叫んでしまった。何しろお願いごとをしてしまった日から三日間も彼女は僕の所に来てくれなかったのだ。危険なことに巻き込まれたんじゃないかとずっと僕はハラハラしていた。
『勝手に殺さないでよ。ちょっと来なかっただけじゃん』
『ごめん。でも危ないこと頼んじゃったかもって心配していたんだ』
『大丈夫よ。私、結構世渡り上手いタイプなんだから。色々調べてきたから報告するね』
『うん、お願いするよ』
『それじゃあ、まず丑の刻参りさんのことから。彼女の名前がわかったのよ。「佐津川いのり」っていう人みたい。有名な某大企業に勤めているOLさんよ』
『えっ、名前までわかったの? 一体どうやって調べたんだい?』
『彼女、丑の刻参りの格好でここに現れたって言っていたでしょ? いくら夜とはいえそんな目立つ格好で街中を歩くなんて普通の精神状態とは思えなかったの』
『まあ、そうだね。僕もあの時は激しくツッコミを入れた覚えがあるよ。それで?』
『そうなると彼女は普通なら奇行と思える行動に抵抗がない人なんじゃないかと思ったわけ。昔からそうなのか、段々そうなったのかはわからないけど。奇行の常習化ね』
『あっ、わかったぞ! つまり他の場所でも奇行で噂になっている可能性があるってことだね』
『そう。だから君の話を元に推測した彼女の年齢、たぶん二十代中盤、を元に知り合いのお姉さんたちに聞き込みをしてみたの。「オカルトかぶれで有名な女知らない?」ってね。驚くほどすぐにわかっちゃった。彼女の知り合いもすぐに見つかってね。何かあるとすぐに謎の呪文を唱え出すっていうことで「呪文ちゃん」ってあだ名で有名みたいよ、いのりさん』
『ああ、やっぱりその筋で有名人なんだ。すると元彼って人のこともわかったのかな?』
『うん。古瀬仁司っていう人。彼の二股の話も知人の間では有名らしくて、いのりさんが心配していた通り「不良に彼を襲わせたのは彼女だ」っていう噂が囁かれているみたい。でもね、やっぱり警察はいのりさんの所に来てないんだって。だからあくまで一部の噂ってことで済んでいるみたいなの』
『きっと彼女と不良たちを結び付ける証拠がないんだろうな。そうだとするとやはり写真を使った恐喝は行われなかったと考えた方がいいかもしれない』
『そうだね。じゃあ、その不良たちについて。一番の問題はリーダーって奴でしょ?』
『そう、そいつ。えーと、大塚だっけ?』
『うん。名前は大塚紀之、十八歳。高校三年、私のひとつ先輩ね。驚いたことに県内でも一番の進学校の生徒みたい。不良がいるなんて聞いたこともない学校なのに』
『不良グループのリーダーで進学校の生徒か。つくづく漫画みたいな奴だな』
『君がそれを言うか。君自体漫画みたいな存在でしょ? お喋り樹木さん』
『同じ言葉を君に返すよ。樹と話せる少女さん。それでそいつどんな奴なの?』
『それがなんかよくわかんないんだよね。この辺の不良たちを束ねるリーダーとして名を上げたのは本当につい最近らしくて。方法も無茶苦茶で、街を歩いている不良っぽい奴に彼はいきなり喧嘩を売るらしいの。それに応じた奴を喧嘩で負かして無理やり家来にするんだって。どうしても家来にならない奴はさらに暴行を加えて病院送りにしているって恐ろしい噂もあるみたい。そういうかなり強引な勧誘で短期間のうちにチームを作り上げたらしいの。歳上の龍一さんが恐れるのも無理ないでしょ?』
『聞けば聞くほど他人のために何かしてくれるような奴じゃないみたいだね』
『そうなんだよね。だからなぜそんな奴がいのりさんの手助けをしてくれたのか、やっぱりわからない。それとも単なる気まぐれとか気の迷いだったのかな?』
『うむ、わからないな。まさに「樹の迷い」だ』
『同じ場所に立っているだけの君が迷子なんておかしいね』
『結構迷うんだよ、これでも。同じ場所にいるからこそね』
『ふーん、動いても動かなくても迷うことには変わりないのね。じゃあ動いていた方が私らしいかな。こうなったら大塚っていう奴、本人に聞きに行っちゃおうか?』
『それが一番手っ取り早いだろうけどさ。そんな奴に会うのは危ないよ。ありがとう、もう調査はそれで充分だからさ。無理はしないでほしい』
『君はそれで納得できるの? 皐月さんはどうなるのよ? 龍一さんをチームから抜けさせるためにはいつか戦わなくちゃいけない相手なんだよ?』
『た、戦うって滅茶苦茶強い奴なんだろ? 桜ちゃんが勝てるわけ無いだろ!』
『戦うって言っても喧嘩とは限らないよ? 知恵を絞れば平和的に解決する方法があるはずだもの。それに私ひとりで戦うわけじゃないしね』
『君と僕とで、ってこと?』
『そっ! 二人で知恵を出し合えばきっと勝てるよ。どんな奴が相手だろうとね』
そう言って背中を預け寄り添ってきた桜ちゃんを僕は守りたいと心の底から思った。
夕方、桜ちゃんが帰るとすぐに久方ぶりの雨が降り出した。強めの雨、土砂降りと言っていいだろう。突然号泣を始めた空に傘を持たない通行人たちは恨みがましい顔で足早に僕の目の前を通り過ぎていった。もちろん悪いのは僕じゃないのだが、なぜか申し訳ない気持ちになってしまう。もちろん傘を差している準備のいい通行人たちもいるのだけれど彼らも雨の強さのせいで俯き気味に歩いているため僕には何の関心も示そうとしない。簡単に言ってしまえば僕はひどく退屈な状況だった。
仕方なく眼下を通り過ぎていく様々な傘の花をぼうっと見つめ続けた。ふと気が付いた時にはもう暗くなり、通る人間もまばらになっていた。雨の方も小雨になってきている。うまくいかないものだ。人通りの多い時間にはあんなに大雨だったのに人の少ない今頃になって收まってくるとは。
ああ、暇だな。こんな雨の夜はあの日のことを思い出してしまう。桜ちゃんが泣いた時のことだ。
『雨の日の夜くらい我慢せずに泣いても良いんだよ?』
我ながら恥ずかしいセリフを吐いたものだ。キモいな。うえー。でもあの時の雰囲気の中では自然に言えたし違和感もなかったのだから不思議なものだ。
雨の日は泣いてもいい、か……。
ちょっと僕も泣いてみようかな? 泣くってどんな感じなんだろう?
そんなことを思った矢先、僕は雨の中に人影を見つけた。星模様の付いた濃いピンク色の可愛い小さな傘に赤い長靴。どう見ても子供だ。僕の都市伝説を捏造したあの小生意気な坊主といい、こんな時間に小学生が一人で出歩くとは。最近の小学生の間では夜の散歩でも流行っているのか?
溜息混じりに呆れているといつの間にか僕の目の前まで傘が近付いていた。傘の主が僕を見上げる。傘の下の顔が見えた。
ん? あれっ? おまえは! いつもの少年じゃないか!
見覚えのある汚い帽子を被ったあの彼だった。
なんだ、おまえかよ。そうだよな、こんな時間にここへやってくる子供なんておまえくらいだよな。そうか、その傘と長靴はお姉ちゃんの奴でも借りてきたのかな? 言っとくけど今日は何もお供え物ないぞ。ゆうちゃんの財布を返してくれたのは偉かったけど夜に出歩くなんて悪い癖だ。早く帰りなさい。
聞こえてはいないだろうが僕はそんな風に話し掛けた。……ん? なぜか彼は傘を畳んだ。小雨とはいえまだ雨は降っている。濡れちゃうだろ、何やって……、えっ、彼は帽子を取った。いや、「彼」ではなかった。帽子の下から現れたのはピンクの髪留めでまとめられたお団子頭だったのだ。
女の子だったのか!
先入観というのは不思議なものだ。男の子とばかり思っていた彼、じゃなかった、彼女の顔もこうして改めてじっくり見てみると女の子にしか見えなくなってくる。自分のことを「俺」って呼んでいたから男の子だと思って疑いもしなかったんだよね。でもちょっとレディに対して失礼だったな。うん、ピンクの傘や赤い長靴がすごく似合っているよ、と罪滅ぼしの気持ちで取って付けたように褒めてみる。あっ、でも女の子だからって今までの行動は許容できないからな。それとこれとは別だから。さあ、こんな夜遅くにウロウロ遊んでないで早く帰り……。
「ごめんなさい!」
おや? 驚いた。帽子を取った彼女が大きな声で謝りながら頭を下げたのだ。これまでの彼女の態度からは想像できない行動だった。誰に謝っているんだ? そりゃ、状況的には僕へ向かってに決まっている。しかし彼女こそ僕の都市伝説の噂の元凶なのだ。つまり言い出しっぺの彼女は僕が願いを叶える力など持たない普通の樹だと知っているはずなのだ。まあ、確かに僕はその辺の普通の樹より少々お喋りかもしれないが彼女はそんなことを知る由もないしね。そんな彼女がなぜ今更、僕に向かって話し掛けてきたのか、不思議だった。顔を上げた彼女は泣きそうな顔でぽつりぽつりと話し出した。
「……あの、色んな噂を聞いて怖くなって謝りに来たんだ。この樹を馬鹿にすると逆に祟りがあるって。『イチョウの使い』っていう怪人が殺しに来るって本当なの? 俺がこの前聞いた変な足音ってそいつ? 実際怪人に襲われて足を骨折しちゃった人もいるって学校ですごい噂になっているんだ。ご、ごめんなさい、あんたがそんな怖い樹だったなんて知らなくてさ。願いを叶えてくれるとか変な噂流して反省してます。許してください!」
ぷっ! うははははっ! 僕は神妙な表情で謝る彼女を見て思わず吹いてしまった。滑稽な話だ。彼女が恐怖しているものの正体は元々彼女自身が生み出した噂に尾ひれが付いて廻り回って帰ってきたものに過ぎないのに。都市伝説がただの作り話だと一番知っているはずの彼女が今はそれに怯えているとは。皮肉な話だ。ちょっと可哀想だがお仕置きになるだろうし、このまま少しの間、怖がっていてもらおうかな? 暫く反省してもらったら桜ちゃんに頼んで「この樹は祟ったりしないから大丈夫」とさり気なく伝えてもらおう。
それにしても僕にとっては迷惑でしかない存在だったクウェイルマニア田尾や丑の刻マイラーいのりという連中がこんな形で役に立つとはね。人間万事塞翁が馬と言う奴か。何が幸運で何が不運なのかなんて結局は後々になってみないとわからないということだね。
「あの、それで、もうひとつ謝らなくちゃならないことがあって。この前、持って行っちゃった物のことなんだけど」
あっ、財布のことか。ちゃんと返してくれたじゃないか。偉かったぞ。
「持って行ってからすごく後悔したんだ。自分が泥棒だっていつバレるか、ずっとドキドキして夢にまで警察が出てきてすごく怖かった。だから財布は交番に届けたの。落としたのを拾いましたって嘘吐いて……。ごめんなさい」
嘘? 何を言っているんだろうね、この娘は? あれはゆうちゃんが落としていったものだ。それを君が拾って交番に届けてあげたんだ。そういうことでもういいじゃないか。
彼女に僕の言葉が届かないのはわかっていたが、そう言ってあげたかった。
「それで、あの、ペンダントの方なんだけど……」
ペンダント? あっ! そうだった、すっかり忘れていた! ゆうちゃんの財布と一緒に彼女は皐月ちゃんのペンダントも持って行ったんだっけ。あれも財布と一緒に交番へ届けてくれたんじゃないのか?
「ごめんなさい、無くしちゃったの、あれ」
えっ、無くした! おいおい、それは困るよ。
「この前の夜、変な足音聞いて凄く怖かったから無我夢中で走って逃げたの。それで気が付いた時には手に財布しか無くて。どこで落としたのかわからなかったし怖くて戻れなかったんだ。次の日、明るくなってから探したんだけど見つけられなくて。本当にごめんなさい。あんな高そうな物、弁償できないよ。うち、貧乏なんだもん」
うーん、参ったな。皐月ちゃんの大事なペンダント、龍一さんとの思い出の品らしいからな。誰かに拾われちゃったんだろうか? 交番に届いていてくれればいいけど。明日、桜ちゃんに調べてきてもらおうかな? また探偵みたいなこと頼むのは気が引けるけど仕方ない。
ああ、最近の僕は「矛盾」という呪いを受けている気がするよ、まったく。
……ん、あれ? 彼女の様子がおかしい。おや、ちょっと泣いているのか?
「ね、ねえ、俺、呪われちゃう? 怪人に殺られちゃうの? まだ死にたくないよぉー」
悪いと思ったが僕はまた「ブハッ」と笑ってしまった。この前までは年齢の割に大人びていて生意気な奴だと思っていたが、やっぱりまだまだ子供なんだな。可愛いところもあるじゃないか。あまり怖がらせるのも可哀想になってきたし早めに桜ちゃんへ誤解を解いてくれるように頼んでおかないと。あっ、そういえば彼女の名前は何というのだろう? ねえ、君の名前は? そう聞いても聞こえないんだろうなあ。
「あっ、そうだ! ちゃんと名前を名乗らないと祟られちゃうんだった。うわあ、もう遅いかなあ。あの、俺、田辺唯花というの。お願いします。呪わないでください。ペンダントが見つかりますように」
僕の声が聞こえたわけではないだろうが彼女はそう名乗ってくれた。おっと、ナイスタイミング。唯花ちゃんっていうのか、可愛い名前だな……、ん? どこかで聞いたような気がするぞ? いや、「どこか」って僕はずっとこの場所にいるんだからここで聞いたに決まっているんだが。唯花か……、必死に記憶(それとも「樹」憶」だろうか)を探ってみる。
……そうだ、そういえば変な占い師にアドバイスされて来たって言っていたあの井田って人、あの人が結婚を考えているって言っていた美織という女性の連れ子がそんな名前じゃなかったか? 田辺……、うん、そうだ、間違いない。自分の母親の再婚に反対しているっていう娘の名前が唯花だったはずだ。なるほど、君がそうなのか。君のことを男の子だとばかり思っていたから今まで全然結びつかなかったよ。
待てよ、ええと、そうなるとどうなるんだ?
君が噂の出処で、でも噂は君の作り話で、それを信じて僕の所へやってきたのが君のお母さんの交際相手で、君は彼を快く思っていなくて、彼は自分の信じている都市伝説が自分を信じてくれない君が創り出した嘘だと知らなくて、でもそんな君は自分が創り出したはずの嘘を信じ始めている。
じゃあ、結局のところ誰の信じている何が真実なんだ?
僕は混乱してきた。いや、目の前の彼女もそうなのかもしれない。帽子をかぶり、傘を取った彼女はもう一度怯えた眼で僕を見上げた。参ったな、そんな眼で僕を見ないで欲しい。僕には何の力もないんだよ。ただの樹なんだから。言い訳がましくそんな風に言ってみる。
……ああ、駄目だ、こんなんじゃいけない!
不安そうに何度も振り返りながら帰って行く唯花ちゃんを見て僕はある決意をした。
こうなったら僕は本物の都市伝説になってやる!
都市伝説が嘘か真実かなんてもうどうでもいいことだ。大事なのは僕がそれを真実に変えることができるかどうかということ。以前の僕なら確かに何も出来なかっただろう。でも桜ちゃんが力を貸してくれる今なら僕にだって何かが出来るはずだ。
みんなの願いを叶えてあげられた時、僕はただの樹じゃない何かになれるのだろうか?
檜に憧れるアスナロの気持ちが今の僕は少し判る気がした。
一週間という期間。「久し振り! 元気だった?」と言うほどの期間ではないが、神様が一人で世界を作り出した挙句、休憩までしちゃう期間なのだから決して短い時間とはいえないだろう。
だからこそ『なんで一週間も顔を出してくれなかったの?』と僕は桜ちゃんに抗議したわけだ。
すると彼女はそれに答えず『もうすぐ夏休みなんだよね』とはぐらかしてきた。『だから何なんだよ?』という言葉が喉まで出掛かったが、桜ちゃんが何の考えも無しにそんな返事をするわけないと気付き、僕は思い留まった。黙ってニヤニヤする彼女を見ながら考えてみる。
えーと、「もうすぐ夏休み」か。その言葉にヒントがあるわけだな? つまり夏休みの前だから忙しかったってこと? 休みの前に忙しいって矛盾している気がするけど。うーむ、さっぱりわからん。
こうなったら下手な鉄砲も数撃ちゃ当たるといこう。
僕に寄り掛かりオレンジジュースを飲んでいた桜ちゃんに向かって僕は思い付くまま答えを言ってみた。
『学園祭の準備?』
『ブッブー』
『部活動に入ったとか?』
『相変わらず帰宅部一筋よ』
『夏休みに入る前に遅れている分の授業が追加された。正解?』
『はずれ。それじゃ何のための夏休みか、わかんないでしょ?』
『えー、他に思い当たらないな』
『うーん、やっぱり学生じゃないとピンと来ない? 勉強するのは何のためでしょう?』
『それは社会に出る時のために基礎的な知識を身につけるためじゃないの?』
『そんな優等生の答えじゃなくてもっと切実で直近な奴よ』
『……ああ、やっとわかった、テストか!』
『当たり』
『そうか。でもさ、学校の帰りにちょっと寄っていくくらいできたでしょ? 急に来なくなったから心配してたんだよ?』
『ごめん。でもね、ここって私の家とは真逆の方向なんだよ。帰りにわざわざ来るには結構時間掛かるんだから』
『えっ、そうだったの? あ、じゃあ、僕に会うためだけにこっちへわざわざ来てくれていたってこと?』
『……ま、まあ、そうなるかな? ん? 何よ、ニヤニヤして!』
『えっ? い、いや、ニヤニヤなんかしてないよ? 僕、そもそもニヤニヤする顔なんか無いし』
『雰囲気の話をしているの! テストの話に戻すからね。いい?』
『はいはい』
『返事は一回』
『イエッサー』
『それ、男性の上官に使う奴でしょ? 私、女の子よ。日本語でお願い』
『御意』
『……もう、それでいいわ、めんどくさい。話を進めようよ』
『フフ、勝った! それでテストはどうだったの?』
『参ったよー、勘が外れまくっちゃってさ。まあ、何とかうまくまとめたけどね』
『テストって勘を試す競技じゃないでしょ? どんな問題が出ても良いように勉強しなくちゃ』
『だからそれは一部の優等生の考えなの。私たちみたいな物覚えの悪い一般人はね、厳しい社会を生き抜くために勘を鍛えなくちゃいけないのよ』
『おいおい、人間社会ってそんな勘ばかりの奴らで成り立っているのか? 恐ろしすぎる』
『そういう社会の心配は優等生に任せておけばいいのよ。それよりさ、何か進展あった?』
『進展? あっ、そうだ、聞かせたい話があったんだ。驚くよー』
『へえ、なに、なに?』
『僕の都市伝説を創った少年がいたでしょ? 実はあの子ね……』
『ああ、唯花ちゃんっていうんでしょ? 君、ずっと男の子って言っていたよね? 確かにボーイッシュな女の子らしいけどちょっと失礼なんじゃない?』
『ええっ! な、なんで桜ちゃんが唯花ちゃんのこと知っているの、って僕の方が驚かされているじゃないか!』
『名探偵桜を甘く見ないでよね。昔からこう言うでしょ? 「運も実力のうち」って』
『なんだよ、つまり偶然なのか。唯花ちゃんのこと、一体どこで知ったの?』
『えーと、その前に、君が唯花ちゃんの名前を知っているってことは井田さんとの関係も知っているってことなんだよね?』
『うん。唯花ちゃんは井田さんが結婚を考えているお相手の娘さんらしいね』
『そう。それでね、井田さんって「丸」っていうスーパーで働いているでしょ? 実は私のお母さんの友達がそこのスーパーでパートしているのよ』
『へえ、やっぱり世の中は思っているより狭いんだな。桜ちゃん、悪いことは出来ないね』
『何よ! その言い方だと私が普段から悪いことしているみたいでしょ!』
『ごめん、ごめん。もう茶化さないから続き話して』
『もうしょうがないなあ。えーと、どこまで話したっけ? あ、そうそう、それでね、うちのお母さんとその奥さんが「丸」っていう店のことを話していたの。それを盗み聞き……、おっと、偶然小耳に挟んでね。君が話していた店だと思ったからさり気なくその奥さんに「その店に井田さんっていう男の人いませんか?」って聞いてみたの』
『さり気なくっていうか、直球だね。なぜそんなこと聞くのって怪しまれなかった?』
『そこはちゃんと考えてから聞いたもん。「友達が格好いい店員さんがいるって噂していたんで」って。そのおばちゃん、「かっこいい? へえ、最近の高校生ってああいうのが趣味なの? ほお! ふーん」って驚いていたけど』
『ひどいな、おばちゃん。それで?』
『その後は聞いてもいないのにペラペラ話してくれたのよ。口から先に生まれた人っていうのはああいう人のことを言うのね』
『君も、でしょ?』
『だからさ、君にだけはそんなこと言われたくないって。「クチナシ」って植物あるけど君の場合「クチアリ」って感じだよね』
『イチョウですよ。変なあだ名付けないでよ。また話が進まないじゃないか』
『ごめん。えーと、そうそう、井田さんの話を聞いたっていう所まで話したね。それでその奥さんすごく情報通でさ、彼の交際相手、田辺美織さんっていう人のことまで詳しく知っていたの。あの辺りでは居酒屋のマドンナとして結構有名なんだって。井田さんが彼女を口説き落とした時もみんな羨ましがって噂になったらしいよ』
『ほおほお』
『クチアリじゃなくてホウノキだったのか』
『桜ちゃーん、続き!』
『ごめん。えーと、それでここから話が急展開してね、その奥さんが「井田さんと美織さんがデートしている所に偶然居合わせたことがある」って言う話になってね』
『本当に偶然? そのおばちゃんなら探偵みたいに後を付けていても驚かないけど』
『それ、私も言ったの。もちろん冗談っぽくね。そうしたらその奥さん私の方を見てニヤッと無言で笑ったの。でも眼が笑っていなかったんだよね』
『怖いよ! 何者なんだ? そのおばちゃん』
『いや、噂好きなだけで普通の奥さんに見えたけど。まさか、どっかの国のスパイ?』
『パート先のお兄ちゃんの恋愛に興味津々な国際スパイとか嫌だな』
『そのデートには世界を揺るがすほどのある国家機密が隠されて……、いるわけないけど』
『もうそのネタはいいよ。それでそのおばちゃんは何を見たのさ?』
『井田さんと美織さんと、そして美織さんのお子さんが一緒に歩いている所よ。しかも奥さんは彼らに突撃インタビューしたらしいのね』
『おいおい、普通、そっとしておくものじゃないの? ひどいな、噂のネタにする気満々じゃないか』
『お陰でこっちも情報を得られたんだから批難しないの』
『それはそうだけどさ』
『じゃあ、ここからは奥さんが再現した通りに真似してみるね』
「あらー、井田さんじゃないのぉ。デート? いいわねえ」
「え、あ、こ、こんにちは。ええ、まあ、そんなものです」
「彼女さん、知ってるわよぉ。『丸』の近くの居酒屋さんで働いていらっしゃるでしょう?」
「は、はい、『丸』の従業員の方々にはいつもご贔屓にして頂いて。ありがとうございます」
「いや、私はね、夕飯の支度とかあるからさ、家に真っ直ぐ帰るもんで飲み会は参加したことないんだけどね。みんな、前から『あそこの女性店員は可愛い』って噂していたのよ。井田さんがあなたと付き合っているって話もすぐ噂になってみんな悔しがっていたわ」
「い、いえ、そんな……」
「あ、あんまりからかわないでくださいよ」
「からかってなんかないわよ、井田さん。本当に彼女、美人さんだもの。……あら、隣にいらっしゃるのはあなたのお子さん?」
「はい、私の子供です」
「お子さんいらっしゃるんだぁ。なあに、井田さんは良い人だから大丈夫よ、心配しないで。一緒に仕事している私が太鼓判を押すわ」
『それを聞いた井田は内心こう思った。「太鼓腹の間違いだろ?」と』
『桜ちゃん、勝手に井田さんの心の声を足さないでよ。再現って言ったくせに』
『はーい、ごめん。じゃあ続けるよ?』
「ちょ、ちょっと、まだ、そういう話は……」
「あら、井田さん、まだプロポーズしていないの? 駄目じゃない、女を待たせちゃ。私の時なんかね、出会って一ヶ月後には旦那がプロポーズしてくれたのよ。それとも結婚できない理由でも……、お金? まあ、確かにあそこ給料安いからねえ」
「い、いや、そういうことじゃないんです。色々ありまして……」
「そうなの? でもお子さんだって早くお父さん欲しいんじゃないかしら? ねえ? 僕」
「うっせえ、ババア」
「……元気なお子さんね。うんうん、男の子はそのくらい生意気な方がいいわ」
「こら! す、すいません。失礼なことを。……それで、あの、この子、実は女の子なんですけど。唯花って言います」
「えっ? あ、ご、ごめんなさい。野球の帽子被っているし日焼けしていたからてっきり男の子だとばかり思って。それは悪かったわ、唯花ちゃん。おばちゃん、怒られても仕方ないわね」
「いえ、この娘、いつも男の子っぽい格好ばかりしているんでよく間違われるんです。そんな汚い偽物の帽子もう捨てなさいっていつも言っているんですけど、この娘聞かなくて」
「偽物? そうなの? 私、野球は詳しくなくてねえ」
「……これ、亡くなった前の主人が買ってきた物なんです。借金まみれで逃げ回っていて、たまに家に帰ってきてもお土産なんか買ってきたことが無い人でしたけど、珍しくどこからかこんなものを買ってきた時があって。女の子にそんな帽子買ってくるなんて非常識ですよね。どうせ安物だろうけど、この娘よっぽど嬉しかったのか、それからずっと、彼が死んだ後も毎日被っていて……」
「おい、美織! そんなことまで……」
「……あっ、私、どうして初対面の方にこんな話を? ごめんなさい、変な話をしまして」
「いいのよ。苦労されたのね。決めた! 私、あなたたちのこと応援するわ。頑張って!」
「えっ、は、はあ、ありがとうございます……」
『……と、こんな会話だったらしいのよ』
『応援って、あっちこっちで井田さんたちのことを言いふらすってことなの? なんかなあ』
『悪気はないのよ、あの奥さん。私があの二人を結婚させるって張り切っていたもの』
『うーん、「悪気がない」ってタイプの人の方が余計に「たちが悪い」けどね』
『確かにね。でも憎めない感じなんだよね、その奥さん。土足で人の心に踏み込んでくるところはあるけど人懐っこい笑顔を見ていると許したくなっちゃうの』
『そんな笑顔なら僕も欲しいな』
『笑顔の前に顔でしょ?』
『顔だけもらってもね。僕の幹に人間の顔を付けた姿を想像してみてよ』
『うわあ、不気味。まさに都市伝説の樹だね』
『誰も寄って来なくなるよ。あっと、また話が逸れちゃった。桜ちゃんのせいだよ』
『それは気のせい、「木の精」ってことで君のせいだよ』
『はいはい、話戻すよ。つまりさっきの再現会話を聞いて桜ちゃんは僕の都市伝説を創った少年と唯花ちゃんが同一人物だと気付いたわけだね』
『うん。君の都市伝説を創った少年が汚い野球帽を被っていたことは君から聞いていたから。それに君、こんなこと言っていたでしょ? その子が皐月さんの置いて行ったペンダントをうっとり見ていたって』
『うん、言ったけど、それが何か?』
『財布とペンダントが並んで置いてあったのに、その子は最初にペンダントを手に取ったんでしょ? それってやっぱり女の子の行動なんじゃないかなって』
『ああ、なるほど! 言われてみればそうかもしれないな』
『唯花ちゃんも色々と大変なことがあるみたいね。その奥さんの話だと美織さんは死んだ旦那さんの借金を今も少しずつ返しているんだって。だから決して裕福じゃないみたい。彼女、居酒屋の他にも仕事しているらしくて唯花ちゃんは一人で留守番ってことが多いんだって。君の都市伝説を創ったのも寂しさを紛らわせるためなんじゃないかな? ねえ、君はなんで唯花ちゃんのことを知ったの? また本人が来たのかな? 聞かせてよ』
ふう、ようやく本題に入れそうだ。僕は唯花ちゃんが謝りに来た時のことを桜ちゃんに話して聞かせた。僕の話を聞き終わった彼女はくすくす笑った。
『そんなことがあったんだ。フフ、可愛いね、唯花ちゃん。自分の創った話とは違う噂を聞いて怖くなっちゃったんだね』
『うん。でも意外に僕たちだってそんな経験しているのかもね。「情けは人のためならず」って言うでしょ? あれは「人に情けをかければその人のためになるだけでなく巡り巡って自分のためにもなる」っていう意味だからね』
『困った人に親切にしておけば自分が困った時にも親切にしてもらえるってことでしょ?』
『まあ、そうだね。そしてそれは悪いことでも特別記憶に残らない意識しないような普通のことでも同じなんじゃないかと思うんだ。自分のやった行動はどんなことであろうとも必ず巡り巡って自分に返ってくる。世の中っていうのはそういうふうに出来ているんだと思う』
『なるほどねえ。君、深いこと言うのね。樹にしておくのは勿体無いかも』
『ありがとう。でも気にしないで』
『……樹にしないで? 洒落?』
『洒落じゃなくて謝礼だよ』
『やっぱり洒落じゃないの。もー、漫才している場合じゃないでしょ? 皐月さんのペンダント早く見つけてあげないと。彼女はそれを君に捧げたことで願いが叶うって信じているんだから。それに唯花ちゃんだって責任感じているだろうしね』
『うーん、見つけるって言ってもね。落とした本人が見つけられなかったんだから誰かに拾われちゃったんじゃないかな? 拾ったのが良い人なら警察に届けてくれるだろうけど名前が書いてあるような物じゃないし皐月さんに連絡が来る可能性は低いだろうね。彼女は僕に奉納したつもりでいるだろうから遺失届なんて出していないだろうし』
『そうかもしれないけどさ。思い出の品なんだし絶対見つけてあげたいよ。うーん、こうなったら私が落としたってことにして警察に届けてみようかな?』
『嘘の届けはまずいんじゃない? 文書偽造とかそんな罪に問われると思うよ』
『でも心当たりがない以上、そんな方法しかないでしょ?』
彼女の口調には強い意志が感じられた。このままだと本当に警察に行きそうな勢いだ。
『待ってよ、桜ちゃん。もっと考えてみよう。焦っても仕方ないから少し落ち着こうよ』
このままではまずいと思い、僕がそう説得した時だった。なぜか僕の言葉を聞いた桜ちゃんの表情が変わった。
(……ん?)
言葉にするならばそんな感じの表情だった。小首を傾げた彼女はちらっと僕に視線を送った。
「……ねえ、君、今なんて言った?」
考え事をしながら話す彼女はテレパシーを忘れていた。事情を知らない人にこんな所を見られたら桜ちゃんが変人だと思われてしまう。慌てて辺りを見渡したが幸いなことに今、通行人はいなかった。僕はほっと胸を撫で下ろし彼女の問いに答えた。
『焦らずじっくり考えてから行動しようって言ったの。あとさ、今、声が出て……』
「違うって。さっきと言葉が違う」
『わあ、また声が出てるって! こんな所を見られたら変な噂立つよ?』
「それも違うじゃない。一字一句さっきと同じようにゆっくり言ってみて!」
『まったく何だよぉ、人が注意しているのに。わかりました、言えばいいんでしょ? えっと、「もっと考えてみよう。焦っても仕方ないから少し落ち着こうよ」だっけ?』
それを聞いた彼女は暫く無言で何かを考えている様子だったが、突然「……そうか」と呟いた。しかし気付いたものについて説明は全くなかった。思考は続いているらしい。そもそもさっきから行なっている僕の注意は聞こえたんだろうか? 俯き加減の彼女は自分の世界に入ったまま声に出して独り言をぶつぶつ言っていた。
「……ありえるかもしれない」
「ああ、でも気付かないわけないし……」
「そうか、そういうことなの? でも、まさか……」
「確かに前からおかしいとは思っていたけど……」
「確かめてみようかな? でも昼間じゃなあ。それにやったことないし……」
彼女の独り言は全く意味がわからなかった。ある意味独り言のプロといえる僕ですら解読ができないのだから彼女の横を通り過ぎていった数人の通行人たちも事情などわからなかっただろう。彼らには薬局の前のイチョウの下でブツブツ言う女子高生が不気味に映ったに違いない。そんなことなどお構いなしの彼女は一人で何かを納得したようだった。
「……うん、決めた! 夜にしよう! やり方はネットで調べれば何とかなるでしょ」
『えっ? あ、あの、桜ちゃん? 何が「夜にしよう」なの?』
「えっ? 何が?」
急に僕が話し掛けたせいか驚いた様子の桜ちゃんは跳ねるように顔を上げた。
『……あのさ、「何が?」ってこっちのセリフ。それにずっと声出して言ってたよ、独り言』
それを聞いた桜ちゃんは「ええええ!」と悲鳴を上げた後、慌てて自分の手で口を塞ぎ、キョロキョロ辺りを見回しながらテレパシーで『マジで?』と聞いてきた。
『マジで』
『言ってよー、恥ずかしいでしょ!』
『何度も注意したんだって。桜ちゃんが聞こえていなかっただけなの。それにしても何を思い付いたの? ペンダントに関係したこと?』
『……うん、まあね。それでさ、私、また今晩来るから。もう帰るね』
『えっ、今日の夜に来るの? 今じゃ出来ないことなの?』
『うん。じゃあ、そういうことだから。また夜ね』
『ええっ? 説明とか無いの? 気になるじゃん』
『夜までのお楽しみってことでいいでしょ? じゃあ、またね』
そう言った桜ちゃんは左手で軽くバイバイをするとまだ日も高いというのに帰ってしまった。
いったい桜ちゃんは何に気付いたのだろう? ヒントはどうも僕の言葉の中にあったらしいが特別なことを言ったつもりはないのになあ。うう、モヤモヤする。これじゃ気になって夜まで保ちそうにない。こうなったら自分なりに考えてみるしか無いかな? 僕は自分の言葉を思い起こしてみることにした。
もっと考えてみよう。
焦っても仕方ない。
少し落ち着こう。
……やっぱりペンダントの在り処に関連するような言葉はないように思える。小学校の教室に貼って有りそうなほどありふれた注意に過ぎない。これは桜ちゃんに対しての言葉だったわけだが今となっては自分に向けたメッセージに思えてしまう。
もっと考えてみよう → そんなこと言われても全く思い付かない。
焦っても仕方ない → だってわからないからモヤモヤするんだよ!
少し落ち着こう → すいません。
結局、何もわからない僕は大人しく夜を待つことにした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます