佇む僕の独り言

蟹井克巳

第1話




 てめえか!


 ……ん、嘘? なんだ、冗談なのかよ。紛らわしい奴め。


「それ、有名な噂だけどさ、すっげえ嘘臭いよね。どうせ誰かの作り話でしょ?」


「おっと、バレましたか。実は私なのでーす、最初にこの話を考えたのは」


「ええっ、マジで? あんたが?」


「えへへ、うっそー。そんなわけないじゃん」


「なんだ、びっくりしたー。驚かせないでよ、もう」

 

 僕の勘違いの原因となったその会話をしていたのは女子高生二人組だった。近頃強さを増してきた日差しを避けるためか、夏の制服姿の彼女たちは木陰に身を寄せ、かれこれ三十分以上、立ち話を続けていたのだ。


 一人は、背は高いが見ているこっちが心配になってしまうほど痩せている娘で、もう一人は、逆に坂道をよく転がりそうなほど、ぽっちゃりした小柄な女の子だった。そんな二人が並んで話していると操り人形とダルマが漫才しているようにしか見えなかったが、わざわざ彼女たちの話芸に足を止める観客はもちろんいなかった。笑っているのも客ではなく彼女たち自身だ。


 それはそうだろう。彼女たちの話の内容はオシャレ、彼氏、学校のことなど若い女の子が良く話題にすることばかりだったからだ。本人たちは楽しいだろうが、わざわざ耳を傾けるほどの話ではない。だから僕も最初は他の通行人と同様に彼女たちの会話など特に意識もせず聞き流していた。


 ところがダルマさんの方が気になる言葉を口にしたため僕は先程から聞き耳を立てていたわけだ。


 この樹の根元に自分が大切にしている物をお供えすると願い事が叶う。


 それが彼女たちの話していた噂話、いわゆる「都市伝説」という奴だった。噂が自然発生するなんてことはもちろんあり得ないのだから、無責任な「どこかの誰か」がふと思い付きで言った他愛のない小さな嘘が始まりとなり、話に尾ひれが付いて世間に広まっていったものなのだろう。


 そして僕はその「誰か」に対して最近激しい憤りを覚えていた。だから人形さんの方が「この話は最初に私が考えた」と言った時に思わず怒りの叫び声を上げたのだ。僕がそこまで怒るのには幾つか理由があった。


 第一に「願い事が叶う」なんて嘘を軽々しく口にしてはいけないと思わないか? 生ある者ならば程度の差はあれ欲しい物や叶えたい夢があるだろう。通常、それを実現するためには「努力」という方法を取るわけだ。いや、それしか方法がないと言ってもいい。「いやいや、運も大事だろ」という奴もいるだろうが、そんな不確かなものにしがみついても目指した方向に進む可能性は低いと言わざるを得ない。運が良かったから成功するのではなく成功したからこそ運が良かったと後付けで言えるというわけだ。


 努力に勝る幸運などない! うむ、我ながら名言だ。


 ところが一方でどんなに努力しても願いが叶わないこともある。それもまた事実だ。矛盾しているようだが、だからこそ生きることは面白い。それなのに積み重ねるべき努力をすっ飛ばし、楽をして願いが叶うなんてことがあったら世の中は滅茶苦茶になってしまう。空を飛ぶ鳥に憧れた生物がみんな翼を生やして空に飛び去ってしまったら何も無くなった地上はいったいどうなるんだ? ……えっ、鳥だって飛びっぱなしじゃなくて地面や樹に降りて休むだろうって? おいおい、野暮だなあ。例え話にそういう突っ込みはしないの!


 気を取り直して、第二に「大切な物を供えろ」というのがいけない。


 夢を叶えるためには何かを犠牲にしなければならないなんて考え方は説教臭くて好きになれない。それが精神論ならばまだ例え話として許せるが、この場合「物を供えろ」と言っている時点で具体的で物質的な実在の品物を要求しているわけだ。なんという矛盾。考えても見給え。願いを叶える力がある者が物など必要とするだろうか? この話を考え出した奴はおかしいとは思わなかったんだろうか?


 そして僕が最も怒っているのは「この樹の根元に」の部分なのである。なぜ「この樹」なのだ? なぜ「根元に」なのだ? どうしてそんなチョイスをしたんだろう? 願いが叶うという魔法のような現象を人々に信じ込ませたいならもっとベターでベタなものがいくらでもあるではないか。


 例えば……、そう、神社だ! 神が住まう神聖な御社、そこに何か……、えーと、そうだな、手っ取り早く「お金」をお供えして願い事を言えばいい。ついでに手でも叩けば神様も来客がわかりやすいかも……って、ありゃ? これじゃあ普通の参拝か?


 よし、それならいっそのこと「神社のご神木の根元に」というのはどうだろうか? 神聖な神社の境内という場所柄、大木になるまで切られること無く育った樹が多く、歴史的な謂れがあったりして、植物でありながら、名前、しめ縄、プロフィールの看板まで与えられているエリートたちだ。威厳があり神様と同等に見ている人間も多いことだろう。いかにも願いが叶いそうじゃないか? その根元に物を置けば願いが……、ああ、よく考えてみたらこれも駄目か。ご神木という奴はその立場上大事に管理され祀られていることが多いだろう。柵で囲まれていたりしたら一般人は気軽に近付こうという気にならないかも知れない。それに神格化されているせいで逆に無作法に扱うと祟りでもあるのではないかと考える人間が出てきそうだ。ひょっとしたらこの都市伝説を考えた奴はまずご神木の話を考えついたのかもしれないな。でも今言ったような理由で簡単に実行できないと思い直し、もっと手軽な場所に設定を変更したのだろう。


 そう、商店街の薬局の前に佇んでいる僕の足元という場所に。


 さて、ここまでの僕の話を聞いてきた奴ならもう気付いているだろう。


 そう、僕は「イチョウ」だ。


 珍しい苗字ですね、じゃなくて正真正銘、樹木のイチョウなのだ。つまり女子高生たちは僕の影で涼んでいたというわけ。


 どう、驚いた?


 そうだな、「裸子植物」と聞いてまず僕を思い浮かべる人間も多いだろうね。理科の授業で習っただろう?


 僕たちイチョウは漢字で書くと「銀杏」と書き、食用にされる種子も同じ漢字で「ぎんなん」と呼ばれている。こいつの周りの果肉っぽい部分「外皮」は動物連中にとってなかなか嫌な物らしいね。排泄物の臭いがするとか触れると皮膚がかぶれるとか散々なことを言われるし。


 全く心外な話だ。僕たちには「生きた化石」と呼ばれるほどの歴史、つまり人間以上の長い歴史があり、恐竜たちは好んで僕たちの種子を食べていたというのに。


 ……ああ、ますます腹が立ってきた。心外ついでにひとこと言わせてもらおう。


 前から言いたいと思っていたが人間という奴は一体なんなんだ? 臭い臭い文句を言いながら外皮をわざわざ避けて、さらに綺麗に洗う手間まで掛けてご丁寧に硬い殻を割り、中身の部分「仁」だけ食べやがる。全くどれだけ食い意地が張った生き物なのだろう。


 ああ、そういえば人間は「河豚」っていう毒のある魚まで食べるんだってね? 現在は毒のある部位を完全に取り除ける調理技術があるらしいけど昔は沢山の人が死んだのだろう? 命を保つための栄養摂取にその命を掛けるとは口も胃袋も持ち合わせていない僕には全く理解できない思考だ。そうそう、河豚の刺身を「てっさ」、ちり鍋を「てっちり」って言うよね? あれは河豚を関西方面で「てっぽう」って呼んでいたからなんだってな。有名な話だし、みんな知っているだろう。それにしても「どちらも当たると死ぬ」なんて駄洒落、いったい誰が考えたんだろう。全く君たち人間は死さえ楽しんで茶化してしまうんだから。


 ああ、そういえば君たちは僕の名前も似たようなセンスで付けただろう? 「イチョウ」って和名は中国語の「イアチャオ」が訛ったものという説があるんだけど、「イアチャオ」は「鴨脚」って書くんだ。ほら、僕の葉っぱって水鳥の足みたいな形をしているからね。だからイチョウは「鴨脚樹」とも書く。ああ、そうだ、他には「公孫樹」という書き方もあるね。これは「お爺さんの代に植えても孫の代にならないと実が採れない樹」っていう意味らしい。大事な僕たちの子種を勝手に食うくせに随分と失礼な呼び方じゃないか? 全く人間って奴はいつも自分たちを物事の基準にして考えるんだから。


 うーん、なんかまた愚痴っぽくなってきたな。いや、そもそも愚痴なんだけどさ。ただ、反論がないのに一方的に悪口を言うのはちょっと卑怯かもしれないって思えてきたよ。


 いや、誤解されるかもしれないが、僕は人間のこと、そんなに嫌いじゃないんだよ?


 そもそも僕たちが「野生絶滅種」だって知っているかい? 恐竜時代から生きているなんて偉そうなこと言ったけど、今の時代、人間の手を借りていない野生のイチョウなんてほぼいないと言われているんだ。人間に好まれる美しい黄葉、さらに火、剪定、排気ガスに強いという我らイチョウの特徴が人間に気に入ってもらえたお陰で僕たちは寺院や沿道にたくさん植えてもらえるようになった。お陰で僕たちは人間と共に繁栄できている。これには感謝しているんだよ。


 まあ、それでも一つ気に食わないことはあるけどね。いくら実が臭いからって男ばかりを街路樹にするっていうのはどうなんだろう? あっ、言ってなかったかな? 僕たちは株ごとに雄株、雌株と分かれているんだ。つまり雄株の木は成長しても種子ができない。それを良い事に最近の人間は雄株を選別して街路樹にしやがる。確かにそれなら人間は臭くないかもしれないが、こっちの身にもなってみろ。周りが全部男じゃ男臭くて堪らないじゃないか。……まあ、そういう僕も男なんだけどね。


 おっと、話がどんどん脱線しちゃったね。僕の悪い癖だ。ごめんごめん。


 おや? それにいつの間にか女子高生たちもいなくなっているね。ま、いいか。結局彼女たちは噂の出処じゃなかったみたいだし、うん、話を戻そう。


 そう、僕は怒っているのだ。なぜなら「どこかの誰か」が「ある商店街の薬局の前にあるイチョウの木の根元に自分が大事にしている物を置き、願い事を言うとその願いが叶う」という無責任極まりない噂を広めたからだ。


 はっきり言おう。いい迷惑だよ。


 考えても見なよ。どこの誰だかわからない奴から「これ、大事な物なんです」って勝手に物を押し付けられて「代わりに願いを叶えろ」というプレッシャーを掛けられるわけだ。僕が不思議な力を持っている神様のような存在だって言うなら、まあ、努力してやってもいい。最善を尽くそうじゃないか。でも僕はただの一植物なんだよ? 無理難題にも程が有る。


 そして僕に願い事をしに来る奴は最も大事なことを忘れているんだと思う。それは「樹である僕はここから一歩も動けない」ってことだよ。つまり薬局の前でこうやって誰が聞くわけでもない愚痴をこぼすくらいしか能がない存在なのさ、僕は。まあ、能がないというより脳が無いんだけどね。


 ……うん、こんなお寒い洒落を言っても目の前を通り過ぎていく通行人たちは何の反応も示さない。


 それは僕の洒落がつまらなかったからではなく彼らに僕の声が聞こえていない証拠だと信じたい。


 ここ数日どうしてもイライラが収まらなかった僕は先程から誰かに語り掛けるように独り言を言い始めている。まあ、独り言といっても、もちろん僕には口など無いのだから、つまりは心の声だけどね。


 ふん、どうせ反応が帰ってこないのはわかっているさ。


 僕はこれまで数千、数万の通行人、果ては犬、猫、僕の頭の上に巣を作っているカラスにまで意思の疎通を図ろうとしてきた。その結果は散々なものだった。僕の声は誰にも届かないらしい。こんなに僕はお喋りなのに誰にも相手されないのだ。こんな悲しいことがあるだろうか?


 ……なに? 肝心な相手を忘れてないかって?


 わかっているさ。それって他のイチョウたちのことだろう? 一番通じそうな相手だもの、とっくに試しているに決まっているじゃないか。やってみたけど全く無駄だったよ。角の金物屋の前のあいつにも印鑑屋の前のあいつにも何度も呼び掛けているけど返事はさっぱりないんだよ。


 僕と違って無口なのか。それとも聞こえているのに無視しているのか。


 最初はそう思ったけど、どちらも違うね。なぜって? 自分でもやり過ぎかなと思うくらいしつこく呼んでみたからさ。僕の声が聞こえていたら幾らなんでも少しくらい反応があるはずだ。つまり僕の声は全く彼らに伝わっていないという結論に至ったわけだ。


 なぜ僕の声は同族のはずの他のイチョウにさえ伝わらないのか。


 それは僕があまりにも周りとは違う特殊な存在だからではないだろうか。


 最近そう思い始めたんだ。どういうことか、説明しよう。

 

 僕がこうして独り言に近い自問自答を始めたきっかけは確か「雨の音」だった。


 その日は朝からずっと雨が降っていたのだと思う。土砂降りというほどではないが決して弱くはない雨が昼間なのに薄暗い商店街を休みなく濡らしていた。僕はある瞬間、ふと「ああ、雨だなあ」と思った。それが憶えている中では最初の僕の「意識」だった。今思えば人間で言うところの「憂鬱」という感情だったのかもしれない。


 そして僕は次の瞬間に雷に打たれたような感覚とともにこう思ったのだ。


 あ、あれっ、僕は? ……ああ、そうか、僕はイチョウか。


 気が付いた時にはもう木だったのだ。


 洒落ではない。そうとしか言いようが無い。ある瞬間に突如自分という存在に気付き、同時に自分ではないもの、つまり外の世界というものをはっきりと認識したのだ。ある意味、それは恐怖にも似た、自分の無知を知ったことへの耐え難い不安だった。


 それから僕はその不安を何とかしようと必死で目の前を歩く動物たち、つまり人間たちの言葉に耳を傾け、世界というものを理解しようと努めた。そして今に至るわけだ。あれは人間で言うところの「物心が付いた」という瞬間だったのかもしれないね。


 ……いや、待てよ、違うな。物心なんて実際は瞬間で訪れるものではないはずだ。元々持っていた生まれ付きの資質を核にして成長過程で収集された無数の情報が合わさり、一つの飽和状態を迎えた精神こそが「物心が付いた」という状態なのではないだろうか。そう考えてみると性格という奴がなかなか変えられないことも頷ける。なかなか興味深……、おっと、また話がずれたね。悪い悪い。


 えーと、何が言いたいかというとひょっとしたら「物心が付く」という感覚は他のイチョウ連中、いや、イチョウだけではなく他の植物たちには無い感覚なのかもしれないということだよ。


 そもそも僕たちには人間が持っているような眼や鼻や耳がないよね? まあ、芽や花ならあるけど。


 おっと、今のは洒落だ。笑ってくれていいぞ?


 えー、ゴホン、話を戻そう。


 つまり僕たち植物は本来外の世界にそれほど関心を持つ必要性を感じない生き物なんじゃないかと思うんだ。動く必要は無いし、子孫の繁栄、つまり種の運搬は風や動物に任せて根を下ろした場所で静かに一生を過ごしていけばいい。それこそが植物が到達した動物とは違う生き方なのだ。


 そう考えると僕はかなり異端な存在だとわかる。外の世界に興味津々で何でも知りたいと思ってしまう。恐らくそのせいで僕の感覚、意識は一般の植物を超えた発達をしたのではないだろうか。眼も耳もないが僕は人間と同じように物を見たり音を聞いたり出来る。「そんな馬鹿な」と思われるかもしれないが、では人間の好きな科学的説明という奴をしてやろうか。

 

 そもそも植物には光を感じる能力がある。例えばヒマワリの語源が「日を追って回る」なのは有名だろう。まあ、実際に動いているのは蕾の状態の若い時期だけで花の開いた如何にもヒマワリといった時期には動かないらしいけどね。それにヒマワリだけでなく、ほとんどの植物は日光に対して何らかの反応をするものだ。光合成によってエネルギーを作り出している僕たちは光に敏感で実は葉緑素自体も日光の強さによってこまめに動いている。光が弱い時は光を受けやすい場所に集まり、光が強すぎる時はちゃんと退避しているんだ。知ってた?


 要するに何が言いたいのかというと、この延長線上に僕の能力があるのだと思う。確かに僕には水晶体も網膜もない。しかし僕は細胞で光を感じ、それを映像として認識することに成功している。その仕組みは……、うーん、正直自分でもよくわからない。


 あれ、ごめん、全然科学的じゃなかったね。


 あちゃー、また、話が別の方向に行ってしまったな。まあ、独り言なんだから別に良いんだけどさ。何しろ他人との会話のキャッチボールって奴をやったことがないから説明下手なんだよね。


 さて今度こそ本題について話すとしよう。


 物心付いてから周囲の観察し始めた僕は人間の中に普通の通行人とは明らかに違う行動を取る奴らがいることに気付いた。彼らは深夜にキョロキョロと辺りを伺いながらやってきてなぜか僕の足元に物を置くのだ。


 マフラー、腕時計、人形、持って来るものは様々で、何を勘違いしたのか現金(一万円というものらしい)を置いていった奴さえいた。そして彼らは皆、僕に手を合わせてブツブツと何か唱えるのだ。


 彼氏ができますように。アイドルに逢えますように。受験がうまくいきますように。


 願い事は様々だったが、みんな恐ろしく真剣な表情だった。そんな彼らの姿を見ていると僕はひどく申し訳ない気持ちになった。彼らが願っている相手、つまり僕は神様などではなく単なる樹なのだ。何度も言うが不思議な力はおろか普通に動き回ることさえできない無力な存在だ。そんな僕が出来る事といえば、彼らの願いが神様に届くように一緒に願ってやることくらいだった。


 そんなことが暫く続いたある日のことだ。


 その事件が起きたせいで僕の申し訳なさは一瞬にして反転し怒りに変わってしまったんだよ。


 それはある日の深夜のことだった。


 東北の小さな地方都市「三座里市」にある「三座里駅」の近くに位置する三座里駅東商店街。


 田舎ということもあり、夜には人通りがほとんど無くなる場所、そこがこれから話す、お話の舞台、僕が現在佇んでいる場所の名前だ。


 おっと、そうだ、この際だからついでに僕の周りに何があるかも簡単に説明しておこうかな?


 眼の前にあるのは先程から言っている薬局だ。両脇には他の店が並んでいる。まず右手から。近い方から文房具屋、時計屋、喫茶店、角に金物屋があって、そこは十字路になっている。次に左手。すぐ隣は眼鏡屋さんでその次に洋菓子屋、和菓子屋、印鑑屋となっている。


 恐らく商店街にはもっと色んな店が並んでいるのだろうが僕の視力(?)ではそこまでしか見ることが出来ないのだ。動けない僕にとってはその金物屋から印鑑屋までの限られた範囲が世界の全てだった。


 あっ、そうそう、僕の後ろ側にはうるさくてせわしない車たちが行き来する車道というものもあるけど、車って奴は僕に全く目もくれずあっという間に去っていくから、まあ、正直どうでもいい。


 ……ん、おっと、誰か、来たな。


 その時、印鑑屋の方から歩いてきたのは高校生と思われる男子だった。それまで僕の所に願掛けに来ていたのは十代の女子ばかりだったから少し驚いた。パーマ、眼鏡、ひょろひょろした体という正直冴えない外見の持ち主だった彼は必要以上にキョロキョロと辺りを伺っていた。近くに警察がいたら間違いなく職務質問していただろう。そのくらい彼は怪しかった。


 他に誰も居ないことを慎重すぎるほど慎重に確認した彼は突然小走りで駆け寄ってきて僕のすぐ足元で止まった。そして背負っていたナップサックを下ろすと、その中をゴソゴソと探り始めた。決して明るいとは言えない商店街の街灯の明かりを頼りに彼は三十秒ほど苦戦していたが、ようやく目的の物を見つけたらしく、ずっと硬かった表情が少し緩んだ。彼が取り出した物、それは一つの人形だった。彼はそれをニヤけた顔でさらに一分ほど眺めていた。


 こいつ、いつも来る女子たちとどうも雰囲気が違うな。


 僕がそう思い始めた時、彼はついに何かを決心したらしく、その表情が一瞬でまた硬いものへと変わった。ここへ来た時のようにまた辺りをキョロキョロと見渡した彼はふうっと大げさな溜息を吐くと僕を見上げながら話し出した。


「あ、あの、願い事が叶うって聞いて来ました。大事にしている物を生贄にすれば絶対に願いを叶えてくれるって。正直、最初はそんなの信じていなかったんですけど、同じクラスの女子が『本当に願いが叶った人が知り合いにいる』って騒いでいて……」


 それを聞いた時、僕は「あちゃー」と思った。自分に頭があったら抱えていたところだ。


 これは「たちが悪い」パターンだった。


 まず「生贄」とはなんだ? 僕を完全に化け物扱いじゃないか。そもそも生贄っていうのは食べられるために捧げられるもんだろ? 僕のどこに口があるんだよ?


 それに「絶対」とはなんだ? そんな都合の良いことが現実世界にあるもんか。そんな力が僕にあるなら真っ先に自分のために使っとるわい。


 そんな、少し考えれば分かりそうな矛盾点に対して、この少年は眼を瞑ってしまっていた。「恋は盲目」という言葉があるが、彼は願い事が叶うという奇跡に恋をして他のものが見えなくなっているようだった。しかも彼は最初信じていなかったくせに同じクラスの女子が話していたというだけで願いが叶うという都市伝説を信じようとしている。


 このタイプは危険だ。なぜならクレーマーになる確率が高いのだ。


 他人からの不確かな情報をあっさり信じ、それを実行してしまう人間は、うまくいかなかった時に「決断したのは自分だ」という自らの責任をすっかり忘れて他人を逆恨みしてくる。


 もちろん今回の場合、願いが叶うことは絶対にないのだから、彼がその後、僕のことをどう思うのか容易に想像がつくというものだ。


「あの、これ、僕が大事にしているフィギュアなんです。『クダン・ダ・ダンク』っていうアニメのヒロイン『永崎クウェイル』ちゃん、なんですけど、これは彼女が変装して潜入捜査した回、アニメの第九話での衣装を着た、通称『白衣クウェイル』と呼ばれる限定品なんです! 抽選で当たった人間だけに個数限定で販売されたもので今では販売価格の十倍くらいの値が付いている貴重な品です。僕は運良く抽選に当たったからその時のお小遣いでなんとか買えましたけど」


 増々やばいと思った。人間社会のことはよくわからないし彼が言っているアニメというものもどのくらい人気のあるものなのか、正直よくわからなかったが、少なくとも彼の手にしている人形が貴重なものだということは彼の唾を飛ばす熱弁から伝わってきた。彼はそんな貴重品を彼曰く「生贄」にする気なのだ。つまりそれだけ願いが叶わなかった時の恨みの反動は大きくなるに違いないと想像できた。


「一番の宝物だし本当は手放したくないんです。でも、あの、その、うう、ああ……」


 彼はそこまで言うと何か言いづらそうにもじもじと下を向いた。段々と彼の顔は赤くなり手にした人形が痛々しくなるくらいにぎゅっと握られていた。どのくらい彼の「うう、ああ」が続いただろう。前触れもなく彼のスイッチが突然オンになった。


「うう、あああああ、ぼ、僕は生まれて初めて三次元の女の子に恋をしてしまったんですぅ!」


 その瞬間「パキッ」という軽い音が彼の手元から聞こえた。とうとう人形の腕が折れたのだ。ところがあんなにこの人形が大事だと言っていた彼本人はそのことに全く気が付いていないようだった。


「まさか二次元を超える娘がこの世界にいるなんて今でも信じられません! でも僕は出会ってしまったんです! 駅で見掛けた他校の娘なんですけど、出会った瞬間、頭が真っ白になってしまって。いや、彼女が落としたハンカチを拾ってあげただけなんですけど」


 針で突付けば血が吹き出しそうなほど彼の顔は真っ赤だった。むしろ突いてやりたかった。


「ありがとうございます、ってホント天使のような笑顔で。一瞬、僕はアニメの世界に迷い込んだのかって思うほど彼女は三次元離れしていて」


 三次元離れって褒め言葉なのかという僕の疑問を当然スルーして彼は話を続けた。


「彼女と会ってから僕の精神は変容してしまったんです。二次元の女の子の可憐さを超えられる生身の女の子なんているわけ無いと思って生きてきたのに、彼女と出会ってからはアニメを見ても違和感を覚えるようになっちゃったほどです。三次元の力を思い知りました」


 君がへし折ったその人形も三次元だけどなという僕の疑問を……、以下略。


「ああ、僕、なにを言っているんだろう? とにかく! 僕は彼女と付き合いたい! そのためにはこの大事なクウェイルを犠牲にしても……、えっ、うわあ、腕が!」


 その時になって初めて彼は自分が人形を壊したことに気が付いたようだった。


「な、なんで折れて……、はっ、そうか、これが『生贄』ってことなのか!」


 僕は彼の言葉とほぼ同時に「なんでやねん!」と思わずツッコミを入れていた。


「生贄を受け入れてくれたってことは……、願いが叶うってことですよね? や、やったあああ!」


 彼は一人で盛り上がり僕の周りを小躍り、というより、不気味なダンスをしながらぐるぐる回り出した。


 それを見ていて僕は一つ確信した。


 たぶんこいつは告白すらしていないな。


 神頼みすれば自分から行動しなくても彼女の方からアプローチがあるとでも思っているのだろう。嫌な予感しかしなかった。彼はひとしきり呪いのダンスで喜びを表現すると肝心の人形を僕の足元に置くことをすっかり忘れ、ペコペコと僕に向かって頭だけ下げて、来る時と同じように小走りで帰っていった。


 そしてそれから三日後の夜のことだ。彼は案の定、同じ人間とは思えないような形相で僕の下にやってきた。怒りと悲しみが入り混じった、泣きながら駄々をこねる時の幼児のような表情だった。「やっぱりな」と僕は溜息を吐いた。結果は聞かなくてもわかったが彼は一方的に話し出した。


「おまえ、何が願い事を叶えてくれる樹だよ! ふざけんな! クラスのいい笑いものになっただけじゃねえか! どうしてくれる?」


 どうしてくれると言われても僕は何もしていないわけだが。もちろんそんな僕の正論も怒れる彼には聞こえていなかった。


「彼女の方から何も言ってこないから思い切って駅で電車待っている間にこっちから話し掛けたんだ。『どんなアニメが好きですか』とか『好きなコスプレなんですか』とか頑張って話題を振ったんだけど、彼女、なぜかあまり乗って来なくて」


 おいおい、まさか、こいつ、初めて喋った相手にいきなりそんな話題振ったんだろうか。そりゃ彼女も困惑しただろう。僕は見ず知らずの彼女に同情した。


「それでその日は何の進展もなく別れたんだけど、次の日、教室で同じクラスの女子が急に話しかけて来てさ。そんなこと今までなかったから僕にも人生のモテ期って奴が来たのかと思っていたら、なんか、そいつさ、なぜかすごく怒っていて。ブスのくせに」


 そう言うと彼は本当に忌々しそうに舌打ちをした。こいつの家には鏡が無いに違いない。


「そいつ、彼女と中学が一緒だったらしくて相談の電話がきたんだって。変な男子に声掛けられて怖いから何とかして欲しいって。制服でうちの高校ってわかったみたいなんだ。それでその男がどんな容姿なのか色々聞いていたら僕だとすぐわかったらしくて……。それで彼女を怖がらせるなって僕に文句言いに来たんだとよ。すげえ剣幕で怖いのなんのって。自分のことじゃないのに何であんなに感情移入するんだろうね? 女子ってさ」


 彼は本当に不思議そうにそう呟いた。そんなこと、樹に聞かれても知るわけない。


「お陰ですぐにクラス中の噂になっちゃってさ。女子どころか全然関係ない男たちも騒ぎに乗ってきてひどい言われようだったよ。『お前みたいな奴がナンパとか百年早い』とか、『うわあ、変質者だ、警察呼ぼうぜ』とか、言いたい放題、俺を指さして大爆笑しやがって……」


 そう話しながら彼の顔は見る見る紅潮していった。しかし先日の赤さとは質の違う色だった。恥ずかしさで染まっていた三日前よりその色はどす黒い気がした。


 数秒後、彼はついに破裂した。


「……ああああ、畜生! おまえのせいだぁぁー!」


 いきなり怒りの雄叫びを上げた彼は僕を目いっぱいの力で蹴り上げた。突然のことで驚いたが別に痛くはなかった。いや、そもそも僕が痛みを感じるのかどうか僕自身にもわからない。蹴られた僕の代わりに声にならない叫びを上げたのは蹴った本人だった。


「……はっ、う、ああ、お、折れたかも、う、ぐう……」


 冷やかに僕が見つめる中で右足のつま先を押さえた彼は暫くうめき声を上げていた。五分ほどそうしていただろうか? 少し痛みが引いたのか、ようやく立ち上がった彼はふらつきながら僕に向かって指を差した。その後、彼が僕に向かってどれだけの罵詈雑言を浴びせ掛けたかは憶えてもいないし思い出したくもない。よくもまあ、ただの植物相手に、しかもあれだけ痛がった後に怒りを持続できるものだと感心はしたが、もちろん聞いていて気持ちが良くなる言葉ではなかった。


 やがてさんざん怒りをぶちまけた彼は右足を引きずりながら夜の街へ消えていった。それ以来、彼のことは見ていないので彼の右足が折れていたかどうかはわからない。折れていて当然、いや、むしろ折れていろ、とは思うけど。


 そんなことがあったせいで僕は誰が創ったのかわからない怪しい都市伝説を無邪気に信じるような愚か者たちが嫌いになったのだ。勝手に願い事に来るくせに叶えてもらえないと仕返しするなんて理不尽過ぎるだろう? 彼らのために一緒に神様へ祈ってやっていた僕が馬鹿みたいじゃないか。


 だから僕はその一件以来、神様への願い事を変えることにした。「僕の所に来る人間の願い事が叶いますように」から「僕の所に願い事しに来る馬鹿な人間が現れませんように」へと。


 しかし神様は忙しいのか、それとも、創り終えたこの世界に対してすでに興味が無いのか、人間の願いも僕の願いも全く聞いてくれない。だから僕の所にやってくる人間は今も後を絶たないのだ。


 また今夜あたりも変なのが来るんじゃないかと嫌な予感がしている。


 そしてなぜかこんな悪い予感だけはよく当たるんだよな。





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