第2話




 もう辺りはすっかり暗くなった。


 特にその後は何事も無く、今まさに昼間感じた「嫌な予感の今夜」を迎えようとしていた。


 もたれ掛かってくる夏という季節を梅雨が迷惑そうな顔で必死に撥ね退けているせいか、昼の暑さが嘘のように涼しくなっていた。つい先程まではまあまあ人通りがあった商店街の通路も今や殆どの店が閉まったせいでどこか物悲しく感じるほど薄暗かった。


 時折ここを通るのは近くの飲み屋街からやってきた様子のご機嫌なサラリーマンくらいで昼間の賑やかさを見ている僕にとってはあまり楽しい時間帯ではなかった。


 要するに「暇」なのだ。


 こんな時間を過ごしていると生きている者にとって最も過酷な拷問は「暇」というものではないかと思わざるを得ない。まあ、人間は暇なら何か行動できるだろう。本を読んでもよし、映画を見るもよし、全く羨ましい限りだよ。人間の暇を潰すための努力には頭が下がる。そんなに暇だと言うなら毎晩僕の目の前で踊ってくれる奴がひとりくらい居てくれても良さそうなものだ。そうすれば少しは僕の退屈も解消されるだろう。但し、かなりの確率で僕は警察に連行されるそいつの姿を目撃することになるだろうけどね。


 そんな愉快なことでも起きないだろうかとさっきから期待しているわけだが、うん、実に静かな夜だ。参ったな、こんなに暇ならいっそのこと願い事しに来る奴でもいいから来てもらいたいという気になってくる。昼間はあんなに嫌がっていたのにおかしいものだ。僕も人間並みに我儘になってきたのかな?


 そんなことを考えている時だった。遠くからお待ちかねの人の歩く音が聞こえてきた。ご機嫌なおっさんたちの不規則な千鳥足の足音とは明らかに違う。僕はわくわくしながら音のする方向に意識を集中した。金物屋の手前にある喫茶店、足音の主がそこまで来た時、僕は街灯に照らされたその正体を認識できた。


 安定の女子高生。学校のものとみられるジャージを着ている所を見るとこの近くに住んでいるのだろうか? ポニーテールが可愛らしいが、昼間の二人組のインパクトが強すぎたためか、「普通」としか表現できない顔立ちだった。粗暴な男じゃなくて良かったという安心と共に正直「またか」と思わざるを得ない。偏見かもしれないが、僕の経験上、女子高生というだけでお願いの内容が予想できてしまうのだ。そんな僕の気も知らないで彼女はちらっと周りを確認すると少し小走りに僕の足元まで近づいて来た。


 その顔には明らかに緊張の色が見えた。


「ん、えっと、ここで良いんだよね? 薬局の前の樹……、うん、間違いないよね?」


 もちろん彼女の質問に答えてあげる人間はいなかった。僕も残念だが答えてあげられない。彼女もそんなことはわかっているだろう。彼女は独り言が口に出るタイプらしかった。


「えっと、まず名前を名乗るんだっけ? あ、あの、根城真由美です。高校二年生です。趣味は読書で部活は何もやっていません。あ、よろしくお願いします」


 僕は少し面食らった。ここまで礼儀正しい娘は初めてだった。お見合いや合コンという奴に行くとこんなくすぐったい感じなのだろうか? 丁寧にお辞儀をする彼女に対して思わず自分もお辞儀を返さなければいけない気分になった。もちろん僕の頭が下げられるわけはない。いや、そもそも僕の頭とはどこを指すのか、誰かに教えてもらいたいくらいだ。


「えっと、確か、生贄を樹の根元に捧げるんだよね? 他人に見られたら逆に大いなる不幸が訪れるらしいから気を付けないと」


 ええっ!? ちょっと待て!


 なんだ、その「人を呪わば穴二つ」みたいな部分は。今まで何人もここを訪れているけど、そんな話をした奴は初めてだ。どうも都市伝説が人から人に伝わるうちにどんどん変化しているらしい。そのうち「薬局の前のイチョウの木は深夜にジョギングしている」なんてとんでもない話になるんじゃないだろうか? そんな化け物の樹は切り倒してしまおう。そんなことを真剣に言い出す奴が出てくる気がしてならなかった。


 僕のそんな妄想をよそに彼女は持っていたスポーツバッグのファスナーを開け、何やらごそごそと取り出した。それは大きなウサギのぬいぐるみだった。座った格好のそれは可愛らしい花柄のワンピースを着ていて如何にも女の子が好きそうなデザインだった。真由美ちゃんはもう一度きょろきょろと商店街を見渡し、他に人がいないことを確認すると、それを僕の足元に置いた。


「この娘、『うーちゃん』って言うんです。小さい頃にお婆ちゃんに買ってもらった娘で私の最初の親友です。ずっと大事にしてきました。私、一人っ子なので本当の姉妹みたいに一緒に育ってきたんです。悲しい時も辛い時もこの娘に話を聞いてもらいました。本当なら絶対手放したくありません。でも生贄が大事な物なら大事な物であるほど願いが確実に叶うって聞きました。すごく悩んだけど他に生贄にふさわしそうな物なんて私、持ってないし……。だって、どうしても叶えて欲しいんです、お願いを」


 やばい。こいつはやばいぞ。僕の背筋は凍り始めようとしていた。いや、そもそも僕の背筋とはどこを指す……、以下略。


 とにかく彼女はある意味あの逆ギレ少年以上に厄介な相手である気がした。こんな純情そうな娘に嘘八百の都市伝説、しかもパワーアップバージョンを教えたのはどこのどいつだ? きっと根性のねじ曲がった性悪野郎に違いない。そんなことを考えていると彼女が突然大声で叫んだ。


「あ、あの! お願いします!」


 商店街に甲高い声が響いた。他の誰かに見られてはいけないと自分でそう言ったはずなのに、これではわざわざ人を呼ぶようなものだ。しかし幸いなことにこの時間、人通りは全く見られなかった。自分の声に驚いたのか、我に返った彼女は慌てて周りを見渡していた。そして誰も居ないことを確認するとほっとした表情で今度は極端に小さな声で話し出した。


「えっと、貴明君、あ、あの、飯原貴明君と、あの、その……」


 顔を真っ赤にして言い淀む彼女を見ていると続きを聞かなくても願い事はわかった。その貴明と言う男と付き合いたいとかそういう類の話なのだろう。


「えっと、もう、好きだってことは伝えたんです。でも、彼、その気はないって……」


 おおっと、なんだ、告白はしたのか! それならドールクラッシャー少年よりはずっとマシだよ。


 ……ん、待てよ? 相手から断りの返事を貰ったのならなぜここに来たのだろう?


 そこが引っ掛かった。


「彼と私は家も近くて幼稚園の頃からのいわゆる幼馴染なんです。昔はそんなに意識してなかったんですけど、最近になって『やっぱり私は彼のことが好きなんだな』って気付いて。それで思い切って告白したんです。だから『おまえのことは妹みたいにしか思えない』って彼に言われた時は辛かったけど、仕方ないかな、諦めなくちゃいけないかなって思いました。でもどうしても彼を眼で追ってしまって……。それで私、彼の視線がいつも同じ娘の方に向いていることに気付いちゃったんです。妹って言われた時よりショックでした。だって彼女は私の人生で、うーちゃんの次に、二番目に出来た親友だったから」


 そう言うと彼女はふいに俯いた。次の瞬間、僕の根っこにぽたぽたと水滴が当たった。


 そう、彼女は泣いていた。


「幼稚園は違ったけど彼女も小学校からの友達なんです。小中高一緒の一番の親友です。他の男子も一緒に、ですけど、貴明君と彼女と私と一緒に遊びに行ったことも何度かあるんです。……おかしくないですか? 条件はほとんど一緒なのに……。私と彼女は同じでしょ? なんで私のことは妹としか見ないのに彼女のことは……、恋するような眼で見るの!」


 僕は何と答えてあげればいいかわからなかった。いや、もちろん答えたところで彼女には聞こえないのだから同じことかもしれない。しかし心情的には、辛そうな彼女へ掛ける言葉が思い付かない自分自身を僕は情けなく思ってしまった。


「うう……、ん、いえ、わかっているんです、誰も悪くないってことくらい。彼女は確かに美人だし明るくて性格も良いしクラスの人気者だから。彼じゃなくても彼女に好意を寄せている男子は多いと思います。でも、彼にだけは私の方を向いて欲しかったの。こんな胡散臭い儀式が馬鹿げているのは知っているけど、そんなものにでも頼りたくて」


 いつもなら「胡散臭いとは何だ。銀杏臭いならともかく僕にウサンなんて実はならないぞ。あ、いや、僕は雄株だからそもそも実はならないんだっけ?」と長いツッコミを入れてみせるところだが、今回ばかりはそんな気にはならなかった。


 彼女は俯いたまま、暫くグスグス泣いていたが、やがて大きな溜息を吐くとぱっと顔を上げた。


「ふうー。……よっし! ああ、なんか色々ぶち撒けたらすっきりしちゃった」


 そう言った彼女の顔はまだ涙で光ってはいたが先程までとは違い晴れ晴れとした笑顔になっていた。


「イチョウさん、愚痴を聞いてくれてありがとうございました。泣きながら考えたんですけど、この子はやっぱりここに置いていきます」


 そう言って彼女はうーちゃんの頭を撫でた。


 えっ、自分で胡散臭いって言ったばかりじゃないか。


 そんな僕の声が聞こえたわけではないだろうが、彼女は自分で何かに気付いたようで慌てて手を振った。


「あっ、違うんです。別に願い事を叶えろとか、そういうのとは別ですからご心配なく。私、やっぱり彼のこと好きだから、諦められないから、また何度でも告白してみます。遠慮するのは止めようと思うんです。後悔だけはしたくないから」


 彼女は真っ直ぐに僕を見上げていた。その迷いない眼を見て僕は悟った。そうか、そのウサギのぬいぐるみはもう生贄などではなく、彼女の決意の現れなのだ。親友との仲を失うかもしれない、それでも自分の気持ちに嘘をつかない。その覚悟を僕にではなく自分自身に示すため彼女は最初の親友をあえて手放そうとしているのだ。


「それじゃあ、もう行きますね。駄目だったらまたこっそり泣きに来ます。ウフフ、バイバーイ!」


 照れたように笑った彼女はブンブン子供のように両手を振りながら帰っていった。


 全く人騒がせな娘だ。一人で大騒ぎしていたが、見ていただけのこっちまで疲れた。でも、なんかいつもの我儘ばかり言う連中に比べればずっと心地が良い時間だった。ああ、このまま今夜は終わって欲しいもんだ。彼女の余韻に浸っていた僕のそんなささやかな願いさえ神様は聞く耳を持っていなかった。






「俺は正義のサラリーマン♪ 世のため、金貯め、家族のためにー♪ 張り切り、働き、でも腹は切らないよー♪ 社会に会社に貢献しー、甲斐性なしとは言わせねー、うはは」


 真奈美ちゃんが帰ってから十分ほど後のことだった。ご機嫌も千鳥足もとっくに行き過ぎている感じのおっさんが自作とみられるひどいオリジナルソングを歌いながら印鑑屋の方からこちらに向かってきた。さすがにネクタイを頭に巻くといった古典スタイルにはしていなかったもののこれぞ酔っぱらいと言った赤ら顔の中年男性だった。


 それにしてもよくあんなにふらふらしながら転ばないものだ。体格も良いし意外と若い時はスポーツマンだったのかもしれないが、今は呑んだ分だけお腹の肉に変換しているような体型だ。僕は心の底から真由美ちゃんがこの陽気な酔ンガー(酔っぱらいシンガーソングライターの略ね)と遭遇しなくて良かったなと胸を撫で下ろした。(胸は無いけど)


「なってみせるぜー、いつか社長にー♪ 呼ばせてみせるぞ、常務って♪ なってみたいな、専務って奴♪ なれるはずだよ、部長職♪ 辛い、泣きたい、課長の俺はー、うっ、うう……」


 どんどんトーンダウンしていった彼の歌は丁度僕の足元で終了した。立ち止まり俯いた彼は今までの陽気さが嘘のように黙ってしまった。まさか、いい歳のおっさんが女子高生のように泣いているわけではあるまい。嫌な予感がした。酔っ払いが黙って俯く、そう、他に考えられることがあるだろうか?


 「ゲーのあれ」、じゃなかった、「例のあれ」に違いない!


 お、おっさーん! 人の足元に吐くんじゃねえぞ!


 僕は力いっぱいそう叫んだ。むろん心の声ではあるが叫ばずにはいられなかった。おっさんに聞こえるかどうかなんて関係ない。これから起こる惨状を黙って見守るだけなんて出来なかっただけだ。しかしハラハラ見守る僕をよそに何事も無く彼は顔を上げた。


「樹の根元にウサギ? あー、『守株待兎』って奴か。粋なことする奴がいるねえ」


 ほっ。なんだ、うーちゃんを見ていたのか。一人で納得した様子のおっさんはうんうんと頷いていた。その中国の故事なら僕も知っている。確か、こんな話だ。


 ある男が畑仕事をしていた時、突然現れたウサギが畑の隅にあった木の切り株に激突して死んでしまう。男は何もしていないのに幸運にもウサギの肉を手に入れ、それを売り、金を得ることが出来た。すると次の日から男は畑仕事を止めてしまい切り株の側でウサギが来るのを待つようになった。もちろん畑は荒れ、男は前よりも貧乏になってしまい、笑い者になった。それ以来、偶然の幸運をあてにする愚かな様子、または古い習慣に囚われすぎて融通が利かないことを「守株」、「守株待兎」というようになった。


 この故事ってそんなに日常生活で使う機会あるんだろうか? 自作の妙な歌を聞かされた時にはただのお気楽なおっさんだと思ったが、意外に学のある酔っ払いだな。


 そんなことを思っていると彼は次に意外なことを口にした。


「んー、あれ、ここ、薬局の前か。そういや、聞いたことあるな。ここのイチョウが何でも願いを叶えてくれるとかいう話。んん、誰から聞いたんだっけ? 何か大事な物をお供えしなくちゃいけないんだったかな? すると……、なるほど、このうさちゃんはそういう意味の奴か」


 正直驚いた。流行に敏感で噂話が好きな若い女性ならともかくこんな社畜の泥酔中年までその話を知っているとは。それだけこの都市伝説が浸透しているということなのか。なんてこった。


「そんな胡散臭い都市伝説信じる馬鹿がいるんだな。ああ、ぬいぐるみ置いていくくらいだから、まだ子供なんだろうな、そいつは。可愛いねえ。そういや、あいつにもそんな頃があったんだけどな。反抗期なのか、最近は文句ばかり言いやがって……、畜生……」


 どうやら自分の子供の話らしい。まあ、よくある酔っ払いの愚痴だろう。


 それにしてもこのおっさんよく喋るものだ。酔うと心の声が漏れるタイプらしい。


「昔は『パパ、パパ』って抱き付いてきてくれたのにさ。今じゃあ『邪魔、邪魔』って、人を粗大ゴミみたいな言い方しやがって。休みの日くらいゴロゴロさせてくれよ。粗大ごみが働きますかっつーの。あーあ、泣きたくなってきちまったな」


 そう言うと彼はオーバーなくらい肩を落とした。暗い。一体先程までの陽気さはどこにいったのだろう? その表情には悲哀さえ浮かび始めていた。


「そりゃあよ、最近なかなかゆっくり話ができない俺も悪いよ? 娘の考えることなんて男の俺にはわからないしさ。でも俺だって必死に頑張ってんだっつーの。今日だってこんなに遅くなって悪かったけど上司に付き合ってんだから仕方ないんだよーだ。だからこうしてベタだとは思ったけど、お寿司を土産に買ってきたんじゃねえか。さあ、皆の衆、食え食え!」


 皆の衆どころか樹に向かって寿司折を突き出すおっさんは実に哀れだった。


「うへへ。ああ、誰もいねえのか。ふん、どうせこんな寿司、こんな時間に持って帰っても誰も食わねえんだろうな。冷蔵庫に突っ込まれて俺の朝食代わりになるのが関の山だ。どうすっかなあ、その辺に捨てて行くかなあ」


 おいおい、やめてくれ。僕の頭の上には散らかし屋のカラスがいるんだぞ? そんなものを捨てられたらあいつらの格好の餌になるじゃないか。カラスのだけどカッコウの餌に。


「……おっ、良いこと思い付いた! どうせならこいつをお供えして願い事を叶えてもらおう。うん、なかなか良い考えだ。さすが、俺だ、見直したぞ!」


 おっさん、僕は見損なったぞ! ついさっき「都市伝説を信じる奴は馬鹿だ」と自分でそう言ったばかりだろうが、馬鹿! そもそも「大事な物」を供えないと願いは叶わないっていう設定だろ? そのさっき買ったばかりの安そうな寿司折のどこが「大事な物」なんだ?


「えーと、ああ、お供えは貴重品じゃないといけないんだったか? こいつは困った。そうだな、えー、この寿司折は滅多に持ち帰りを作ってくれない伝説の頑固寿司職人が今日だけ特別だと言って作ってくれました一品でしてー、うちでは病気の母親が死ぬ前に一度でいいからこれを食べたいと待っていましてー、あー、これを逃したらもう二度とこいつは手に入らないだろうなあー、そのぐらい貴重な寿司折だが願いが叶うというなら断腸の思いで手放してやってもいいぞー」


 嘘吐け、おやじ! なんだ、その見本のような、とって付けた設定は! 大体その寿司折のパッケージは商店街の向こうにある全国的に有名な回転寿司チェーン店の奴だろうが!


「これで良し、と。じゃあ、こいつはここに置くからな」


 そう言っておっさんは寿司をうーちゃんの脇に置いた。ウサギの横に寿司折、なかなかシュールな光景だった。


「そうそう、名前も言うんだっけ? 面倒くせえな。ああ、ええ、どうも『雄介』であります。みんなからは『ゆうちゃん』なんて呼ばれてんだけど、うーん、酒の席になると部下の女の子までそう呼んでくるんだよね。俺、ひょっとして舐められているんだろうか? どうにかして上司の威厳という奴を……、いや、これは願い事じゃねえぞ? 今のはノーカウントで」


 どうでもいい。叶えてやれないし仮に叶えてやれるとしても叶えるつもりはない。


「お願いはねー、『娘がもう少し仲良くしてくれますように』だな。それだけでいいんだ」


 そう言ったゆうちゃんは照れ隠しなのか、軽く微笑んだ。その表情が一層寂しそうで僕はハッとさせられた。酔っ払いの戯言だと思っていたが、彼の中では結構深刻な問題なのかもしれない。僕は少しだけ彼に同情した。


「どうせあいつもいつかは嫁に行くんだろうしな、ほんのちょっとだけ今より俺のこと気にしてくれれば良いんだよ。おまえ、神様じゃないだろうけどさ、そのくらいならやってくれないか? この寿司はおまえさんにくれてやるからよ。……おっ、そうだ!」


 おっさんの目線が「うーちゃん」に向けられた瞬間、僕は嫌な予感がした。


「このオンボロウサギは俺にくれよ。どうせ置いて行かれちまったものなんだろう? うちの娘がぬいぐるみとか大好きなんだ。寿司よりは喜ぶかもしれん。わらしべ長者って奴だ。ぬいぐるみが寿司折になって、今度は寿司折が次の誰かの手によってもっと良い物に変わるわけだ。ギブアンドテイク、ハイリスクハイリターン、バンザーイ、ワハハハ」


 少し「ご機嫌」を取り戻した彼を見て僕はやれやれと溜息を吐いた。このおっさんは色々間違っている。


 まず、どこの誰が持っていたかわからない中古のぬいぐるみ、しかもこんな道端に落ちていた物を喜ぶ人間がいるわけない。むしろそんなものをプレゼントされたら娘さんは怒るだろう。


 それに寿司折は次の物になんて絶対交換されない。落ちている食べ物なんてハイリスクなもの誰が持ち帰って食うと言うんだ? 仮にそれを持ち帰るような馬鹿がいるとしてもそいつは代わりの物を置いて行くなんて気の利いたことはできない奴に違いない。ハイどころかローリターンすらないよ。


 少し考えれば分かりそうなことだが、おっさんは酔いのせいか疑問にも思っていないようだった。彼はぬいぐるみを小脇に抱えると僕に向かって敬礼のポーズを取った。


「それじゃ、娘とのこと、よろしくお願いしまーす。これにて帰りまーす、では!」


 彼の脇に挟まれた「うーちゃん」は気のせいか困惑の表情を浮かべているように見えた。ぬいぐるみや人形という物は見る者の心理状態によって表情が変わって見えるものなのかもしれない。すると今、このおっさんには「うーちゃん」の顔がどう見えているのだろうか? ひょっとしたらまだ小さかった頃の娘がそこに重なって見えているのではないか?


 そう思うとなぜか現れた時以上の千鳥足で去っていく彼の背中がさらに哀愁に満ちたものに見えてしまった。金物屋の先の曲がり角に消えていった彼の後ろ姿に「娘のことは任せとけ」と言えない自分が少し悲しくなった。


 どうも今日の客たちは今までのような金や異性をいたずらに求める連中たちとは違っていたようだ。うーむ、調子が狂ってしまう。


 それにしても先程までの静寂が嘘のように騒がしい夜になったものだ。さすがに今夜の客はもう来ないだろう。そう思っていたが、ところがどっこい、そんな僕の予想はやはり全く当たらなかった。


 哀愁の漂う「ゆうちゃん」の後ろ姿を見送ってから三十分程経った頃、彼が消えていった方向から別の影が現れた。また酔っ払いでも来たのかと思った僕はその違和感にすぐ気が付いた。酔っ払いにしては小さすぎる。どう見てもそれは小学生だった。


 明らかに日本のプロ野球のものではない赤いXマークの入った汚れの目立つ野球帽、青いパーカーにデニムパンツ、小麦色に焼けているフェイス。うむ、なかなかのイケメン少年だ。ただ保護者らしい姿がどこにも見当たらない。人間の子供は暗闇を怖がるというのが僕の認識だったが例外もあるのだろうか? そう思うほど彼の態度は堂々としていて夜道を怖がっている様子は微塵もなかった。


 こんな真夜中に小学生が一人でどこに行くのだろう?


 そう思った僕の目の前で彼はピタッと足を止めた。じっと見つめたものは「ゆうちゃん」が置いていった寿司折だ。まさか、お腹が空いているのか? 彼には聞こえないだろうが僕は思わず「おいおい、止めとけよ」と声を掛けた。確かにまだそいつは食えるだろうが拾い食いなんて習慣がこの子に身に付いたら親が悲しむだろう。僕のせいにされたら堪らない。そんなことを考えていた時だった。


「……馬鹿がいる」


 えっ、今なんて言った? ぼそっとした小さな声だった。そのせいか一瞬その声の主が彼であることにも気が付かなかった。「馬鹿」と聞こえた気がしたが誰のことだ? ん、ああ、そうか、彼も都市伝説のことを知っているのかもしれないな。だからそれを信じて寿司を置くような奴は馬鹿だというわけだ。


 おい、ゆうちゃん、こんな子供に言われているぞー。


「みんな、馬鹿だ」


 おいおい、そんなに責めないでやってくれ。ゆうちゃん、たぶん泣いちゃうぞ?


 茶化し気味にそんなことを思っている時、それは突然起きた。


 ダンッ!


 えっ!?


 ペシャンコになった無残な寿司折。あまりに突然のことで一瞬なにが起きたのかわからなかったが、それを勢い良く踏み潰したのは紛れもなく目の前の少年だった。


 なっ……、お、おい! もったいねえな! 何してんだよ? そいつは「口に入れる」ものであって「靴を入れる」ものじゃねえぞ!


 僕の怒号など届くわけはなかった。いや、もし声が聞こえていたとしても彼は無視しただろう。そう思うほど彼は自分が踏み潰した物体を子供らしからぬ冷たい据わった眼でじっと凝視していた。異常な光景だった。


 いったい寿司折に対してどんな恨みを持っているというのだろう? まさか、持ち帰りを作らないことで有名な伝説の寿司職人が長年追い続ける親の敵だったりするんだろうか? 彼は僕のそんな疑問には当然答えてくれず、自分が破壊した物体を暫く見続けた後、急にくるりと回れ右をすると一言も発せず自分がやってきた方向に小走りで帰っていった。


 取り残された僕は暫く呆然とした。いや、取り残されることには慣れているわけだが、あの子はここに何をしに来たんだろうという疑問が頭に渦巻いた。あの感じだと通りすがりというわけでもあるまい。目的地は最初からここだったと思う方が自然だ。そうなると一つの仮説が立てられる。彼が憎んでいるのは寿司折ではなく「都市伝説」そのものなんじゃないかということだ。


 彼は「薬局前のイチョウがお供え物をすると願い事を叶えてくれる」という都市伝説を知っていた。そして彼はその都市伝説に何らかの嫌悪感を持っていてそれを無邪気に信じるような人間がどうしても許せなかった。そんな感じなのではないだろうか?


 まあ、こちらから出向いて彼に問い質せない以上、これは僕の単なる推測になってしまうわけだ。


 うーむ、それにしても残念だ。


 普通、物語では妖精とか不思議な存在が出てくる場合、社会に出て雑念が多くなった大人にはその声が聞こえないが純粋なお子様には聞こえたりするものではなかったのか? あの子がここにやってきた時、何を隠そう「子供になら僕の声が通じるかも」と思って少しワクワクしていたのだ。それなのに結果はご覧のとおり。僕の話し相手になれる奴なんてやっぱりいないということなのか? 長い樹の一生を誰にも聞かれない独り言を言いながら過ごして行かなければいけないなら、いっそのこと意識なんて芽生えなくても良かったかもしれない、そんなことを考えてしまう。


 あー、やだやだ、湿っぽくなってきた。こんなの僕の性格に合わないよ。いつも以上に客が多くて騒がしい夜だったから反動でテンションが下がったのかもしれない。そうそう、「祭りのあと」って奴だ。それにしても人間は良いよな、ずっとお祭りで。


 ただ、気を付けた方がいいぞ? 終わらないと思っていた祭りが突然終わった時どうなるか、人間たちは考えたことがあるのかい? その時、人類全体にかつて経験したことがないような虚無感が襲い掛かり……、なんてね、ちょっと脅し過ぎたかな? まだ夜も長いし暇だから悪い冗談を言ってみただけさ。


 さて、朝になれば少しは人通りもあるだろう。そうなったらどうでもいいことをベラベラと実況して時間が潰せる。早く朝にならないかなー?


 そう思った僕の視界に入ってきたのは朝日ではなく、違う意味で厄介ないつもの常連の姿だった。


 彼女がこうして朝日が昇る直前の時間帯に僕の前へ現れるのは何度目のことだろう? 確か、初めて彼女が僕の前にやって来たのは三週間程前のことだった。茶系の縞模様の服を着た彼女の印象は五十代くらいのどこにでも居そうな地味目の主婦といった感じで普通に昼間この商店街通りを歩いていたなら全く違和感は覚えなかっただろう。しかしあの日まだ暗い商店街を随分思い詰めた表情で歩いてきた彼女がすがるような眼で僕を捉えた時、僕は胸が締め付けられるような気分になったものだ。


 それからというもの彼女は同じような時間に僕の所へやってくるようになった。毎日というわけではないがほぼ三、四日に一度くらいの割合で現れ、毎回決まって同じ願い事を言うのだ。恐らく今日も同じだろう。


 そんなことを考えているうちに、いつの間にかモノクロの水玉模様の服を着た彼女がすぐ目の前まで来ていていつもと同じポーズを取っていた。


「どうか、どうか息子が目を覚ましますように。神様お願いします」


 彼女は例の如くぎゅっと目をつぶり僕に向かって手を合わせた。集中しているのか、足元の潰れた寿司折など全く気にしていないようだ。やはり彼女も都市伝説のことを激しく勘違いしている人間の一人だった。どの辺りが勘違いなのかというと、まず彼女はいつも何もお供え物を持って来ない。おっと、勘違いしないで欲しい。お供えが欲しいとかそういうことを言っているんじゃない。そもそも僕に関する都市伝説は根も葉もない噂なのだから「大切な物を供える」なんてルールは守る必要がないとは思う。でも「願い事を叶えるためには大切な物、つまり対価が必要である」というこの部分はこの都市伝説の骨格となる重要な文言だ。まあ、最近は確かに噂に色々尾ひれが付いているようで勝手なルールを付け加えている連中も多かったが、この基本ルールだけは守っている奴がほとんどだった。それを彼女がやらないのには理由があるのだ。


 ヒントは彼女のセリフにある。まず「息子が目を覚ましますように」という部分から彼女の子供が何らかの病気か怪我をしていて意識がない状態であることが判る。真剣な彼女の様子から察するに長くそういう状態が続いているのだろう。なかなか深刻なお願いだ。そして困ったことに彼女はその重要なお願いを「神様」にしているつもりなのだ。目の前の樹がただの植物であるという可能性については考えもしないらしい。彼女は至って真剣に病気の息子のために神様へお願いに来ているわけだ。


 この状況、何かに似ているとは思わないか?


 そう、彼女がやっているのは「お百度参り」らしいのだ。


 よく知られている一般的な「お百度」と言えば神社やお寺の入口から拝殿、本堂まで行って参拝、そしてまた入り口に戻るということを一日で百回繰り返すことで切実な願いを神様に叶えてもらおうとすることを言う。いわゆる「お百度を踏む」と言う奴だ。「裸足の方が良い」とか「実行中は人に見られてはいけない」とか細かいルールはあるらしい。そして本来これは一晩に百回参るのではなく百日間毎日参拝する「百日詣」というものが元になっている。彼女はそれを行なっているつもりなのかもしれない。


 まあ、彼女が本気で百回通うつもりなのかはわからない。子供さんの意識がないということは入院しているのだろうし、だからこそ毎日ではなく何日か置きにしか彼女は来られないのだろう。あまりにも真剣に僕を拝む彼女を見ているといつも心が痛む。どうか彼女には早く気付いてほしいものだ。彼女がどこでどんな噂を聞いたのかわからないが、僕はもちろん神様じゃないし、それはつまりお百度を踏む場所はここじゃないということだ。一日も早く正式な神社に行き、そこで息子さんの回復祈願を行なってもらいたい。心の底からそう思うのだ。


 だから今日も僕は彼女に語り掛ける。あなたは間違っているんだ。神社に行きなさい、と。もちろん彼女に反応はない。わかっていたことだけど、とても悲しくなる。丁寧にお辞儀をして帰っていった彼女の小さな背中を見ると僕は神様に憤りを覚えずにはいられなかった。あんな小さな背中を悲しませる必要がどこにあるのか。物理的に壊れたものが治るような奇跡を起こせとまでは言わない。しかしなぜ僕の言葉すら届かないのだ? 彼女に、いや他の誰か一人に、でもいいのに。僕の言葉が誰かに届いたならきっと何かが少し変わるはずだ。僕がどんなにそういう言葉をぶつけても神様はもちろん答えを返してはくれなかった。

 

 おい、神様、いるのかい? こんな時くらいさ、何か答えてくれても……、あっ!

 

 言葉の代わりに僕へ投げ掛けられたのは眩しい朝日の光だった。思わず言葉を無くす。美しい。重い夜の闇を光が裂くように押しやっていく光景はいつ見ても壮観だった。街がまた一日の始まりを迎える。こんな時は溜まっていた昨日の鬱憤も自然と薄らいでしまう。朝の光が射した今、たった五分前であろうと先程の暗闇はすでに遠い「昨日」になっていた。

 

 ずるいな、神様。こんなの答えになってねえよ。僕は騙されないからな!

 

 頭でそう思っても僕は自然と笑顔になっていた。いや、待てよ、そもそも僕の顔は……、以下略。






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