第10話




「えっ、えーと、それは……」


「ママがあの男と結婚しちゃったら、あいつが俺のパパになるんでしょ? じゃあ、死んじゃったお父さんはどうなるの?」


「どう、って、唯花ちゃん、何を心配しているの?」


「死んじゃったお父さんはもう私のお父さんじゃなくなっちゃうってこと? そんなの嫌!」


「……それは違うよ、唯花ちゃん」


「何が違うの?」


「お父さんが二人いてもいいじゃない」


「えっ、二人?」


「それとも誰かにお父さんが二人いるのはおかしいって言われたの?」


「ううん、言われてないけど、でも……」


「そうでしょ? 亡くなったお父さんはもちろんあなたのお父さんよ。でもあなたのお母さんと結婚すれば井田さんだってあなたのお父さんなの。二人ともお父さんでいいのよ」


「そんなこと言われたって、俺……」


「……あなた、亡くなったお父さんのこと、大好きだったのね?」


「……うん。俺には優しかったもん。近所のおばさんとか親戚のおっさんの中には悪く言う人もいるけど」


「ねえ、じゃあさ、井田さんはどんな人?」


「えっ、あいつ? えっと、そうだな、いつもニコニコ笑っていて変な奴だよ」


「ふうん、そうか。それってさ、君といると楽しいってことじゃないの?」


「えっ、楽しい? そんなわけないよ。俺、いつも、あいつに嫌なことばかり言って……」


「嫌なこと? 井田さんを苛めているのね? やっぱり悪い子なんだな、唯花ちゃん」


「えっ、ち、違うよ、違う、違います」


「やっぱりお仕置きが必要か。どうしようかな? ねえ、右腕と左足どっちがいい?」


「ひっ!」


 悲鳴を上げた唯花ちゃんは反射的に頭を抱えていた。それを見た桜ちゃんはニヤニヤしながら追い打ちを掛けた。


「いや、さすがに頭までは取らないけど」


 それを聞いた唯花ちゃんがまた「ひっ!」と悲鳴を上げた。それを見ながら自称イチョウの使いはクスクス笑っていた。なんか面白がっているな。さすがに注意しようか。


『子供相手にちょっと脅かし過ぎじゃないの? そろそろ勘弁してあげなよ』


『いやあ、可愛くって、つい。ちょっとやり過ぎたね。もうしないよ』


 僕にそう言った桜ちゃんは未だに震えている唯花ちゃんに向かって優しく話し掛けた。


「怖がらせちゃったかな? 冗談だからさ、そんなに怖がらなくていいのよ」


「……冗談に聞こえなかった。怖いー」


「冗談だってば! そんな化物じゃないから、私。ほら、なんていうか、そう、精霊っていうの? イチョウのね、ええっと、そう、妖精みたいな感じ! 姿が見せられないのは残念だけど、すごく可愛いのよ」


「ええー、ホントに?」


「ホント、ホント。羽が生えててさ、飛べるんだよ。今は緑色の半袖の服だけど秋になると黄色いコート着たりするの。どう、オシャレでしょ?」


 おいおい、なんだ、その勝手な設定は?


「うわあ、見てみたい。ね、ちょっとだけ、上、見ちゃ駄目?」


「……目が潰れてもいいならね」


「ひっ! ごめんなさい。み、見ません!」


「冗談だって。でも見ないでね。私、恥ずかしがり屋なの。見られたら消えちゃう」


「……そうなんだ。うん、わかった」


「それじゃあ、さっきの話の続きね。井田さんは君がねちねち苛めても文句ひとつ言わずにいつもニコニコしているんでしょ?」


「ね、ねちねちなんてしてないもん」


「嘘吐くと大変なことになるよ?」


「ご、ごめんなさい。ねちねちしました」


「素直で宜しい。それでね、そんなにされても笑顔でいられるっていうのはよっぽど君のお母さんと君のことが好きで大切に思っているという証拠なんだよ」


「えっ、俺のことも? そんなわけないじゃん。だって、俺、いつも本当にひどいこと言っているんだよ? 帰れとか邪魔だとかもう来るなとか……」


「そう言われた井田さんは帰るの?」


「……帰らない。ちょっと困った顔してまた笑っているだけ」


「そうでしょ? 君のことが嫌いなら普通は怒って帰っちゃうよ。君を大事に思っているからこそ困った顔するんだよ。傷付いているんじゃないかな? 井田さん」


「……そうなのかな?」


「君が亡くなったお父さんとの思い出を大事にしたい気持ちはわかるよ。でもね、それを理由にして井田さんを攻撃しちゃいけないと思うな。お父さんとの思い出は一旦君の胸に仕舞い込んでさ。偏見無しで井田さんと話してみればお互いの本音がわかると思うよ」


「……難しそう。俺に出来るかな? そんなこと」


「君になら出来るよ。実はね、私の声って誰にでも聞こえるわけじゃないのよ」


「えっ、そうなの?」


「心の優しい子にしか私の声は聞こえないの。唯花ちゃんは良い子なのよ」


「俺が? 俺が良い子だなんてそんなわけない。俺、口が悪いから、学校のみんなだって俺のことを避けるくらいなんだから」


「いいえ、君は良い子よ。自分で気が付いてないだけ。君がもっと素直になればみんなの見方だって変わってくるんじゃないかな?」


 その言葉、桜ちゃん自身にも当て嵌まるんじゃないか。僕は密かにそう思った。


「……やっぱり難しそう」


「急にやらなくてもいいんだよ。人間なんて誰だってそんなにすぐには変われないんだから。ゆっくりでいいから思い出した時でいいからちょっとだけ勇気出してみなよ」


「……うん。やってみる」


「そうそう、素直な唯花ちゃん、可愛いよ」


「そ、そんなこと言われたこと無いから恥ずかしい」


「ウフフ、じゃあ、わたしからの話はこれでお終い。……あっ、そうだ、忘れるところだった。唯花ちゃん、ペンダント落としたこと気にしていたでしょ? あれ、ちゃんと持ち主に返してあげるから安心して」


「えっ、本当に? 良かった。イチョウの使いって何でも知っているんだね」


「まあね。それと最後に二つだけ約束してほしいんだけどな」


「何?」


「一つ目は『もうこんな夜中に出歩かないこと』。今、お母さん、仕事中なんでしょ? もし君がこんな風に出歩いているって知ったら心配しちゃうよ?」


「……うん、そうだね。わかっている。もう夜中にここに来たりしないよ。でも昼間でもあなたに会えるの?」


「ううん、残念だけど昼間は人が多いから私からは話し掛けてあげられないと思う」


「そうなんだ。また話したかったなあ」


「返事は出来ないけど聞こえているから。君から話し掛けてよ。小さい声でもいいからさ」


「うん。そうする」


「ありがとう。じゃあね、もう一つのお願い。自分のことを『俺』って言うのはもう止めなさい、唯花ちゃん」


「えっ、でも俺は俺だもん」


「わ・た・し、でしょ?」


『た・わ・し、ですか?』 ちょっと思い付いたので僕は横槍を入れてみた。


『ぶっ! こ、こらー、黙っているなあと思ったらいきなり笑わせようとするな!』


『ごめん』


 テレパシー漫才をする僕らには当然気付かず唯花ちゃんはもじもじしていた。


「わ、私……、うう、『私』なんて普段言わないもん。なんか変な感じするー」


「慣れれば大丈夫。きっとその方が女の子らしくて可愛いよ?」


「……じゃあ頑張ってみる」


「そうそう、素直が一番よ。さてと、もう私が教えられることは何もないわね。ああ、もう一つだけ、今夜のことは誰にも話しちゃ駄目よ。お伽話でもあるでしょ? 約束を守らないと幸せが逃げちゃうのよ」


「うん、わかった」


「じゃあ今日はもうお帰りなさい。気を付けて帰るのよ」


「うん、ありがとう。じゃあ、また来るね」


 そう言った唯花ちゃんは約束通り注意深く下を向いたままクルッと回って向こうを向いた。しかし一歩を踏み出し、そのまま帰る素振りを見せたはずの彼女が「あっ」と言ったまま、なぜか立ち止まった。


「どうしたの? 唯花ちゃん」


「……この紙袋に入っている靴、お供え物?」


『うわあ、覚えていたのかー。うまく誤魔化せたと思ったのに』


 桜ちゃんは悔しそうにテレパシーでそう言った。


「そ、それはね、まあお供えっていうか、なんて言うかね」


「これ、貰って行っちゃったら駄目?」


「えっ、で、でもね、それ、サイズ合わないでしょ? 大きいんじゃないかなー?」


「大人になってから履くもん」


「えー、で、でも唯花ちゃんが大きくなった頃にはそれ時代遅れになっているかもよ?」


「気にしない」


『くっ……、少しは気にしなさいよ』


 心の中でそう言いながら桜ちゃんは必死に靴を渡せない理由を考えているようだった。 


「いや、でもね、それはね、えーと、……そ、そう、臭いの! 凄く臭いのよ。きったないんだから。そんなの持って帰ったらお母さんに怒られると思うなあ」


 桜ちゃん……、必死すぎる。自分の靴なのに臭いとか。


「えー、汚くなんかなかったよ。それにちゃんと洗うもん」


『うっ、なかなか頑固ね、唯花ちゃん。どうしよう?』


『もう諦めてあげちゃったら? 良い子になるご褒美ってことでさ』


『……仕方ないな。そうするかー、はあー』


 まだ名残惜しそうではあったが桜ちゃんは靴をあげる決心をしたようだ。


「よし、大事にするって約束してくれるなら持って行ってもいいよ」


「本当に!? やった、宝物にする!」


「ちゃんと大事に仕舞っておいて大人になったら履いてね。それまで良い子でいること。わかった? 君が悪い子になった時はその靴、返してもらうからね。……足ごと」


「ひいっ! 良い子にします!」


「ふふ、ずっと見守っているからいい大人になるのよ。じゃあ今度こそお別れしましょ」


「うん。靴、どうもありがとう。絶対大切にするよ。じゃあね、イチョウの使いさん」


 嬉しそうに紙袋を掴んだ唯花ちゃんは前を向いたままこちらを見ないように後ろ手に僕の方へ手を振り元気よく駆け出した。その後ろ姿が金物屋の角に消えるまで桜ちゃんはずっとニコニコと見ていた。


 その表情はまるで妹を愛おしそうに見守る姉のようだった。


『……行っちゃったね。唯花ちゃん、約束守ってくれるかな?』


『約束守らなかったら桜ちゃんの天罰があるわけでしょ? 守ってくれるよ』


『ちょっとー、人のこと、妖怪みたいに言わないでくれる?』


『だって羽が生えてるんでしょ? さあ、早く飛んで降りれば?』


『羽なんか生えていたらあんなに苦労して君に登らないって。茶化さないでっ!』


『ごめん。じゃあ、本当に気を付けて降りてね』


『わかっているよ。これで落ちたらイチョウの使いの正体がバレちゃうからね。子供の夢を壊すわけにはいかないでしょ? それじゃあ降りますか』


 縄を手にした桜ちゃんは降りる準備を始めていた。ところがそれを見守っていた僕は人の話し声のようなものが近づいてくることに気が付いた。彼女はまだそれに気付いていないようだった。


『桜ちゃん、ちょっと待った! ストップ!』


『えっ、な、なに!?』


『誰か来る。複数みたい。印鑑屋の方向からだよ』


『わ、わかった。このまま待機ね』


 桜ちゃんは慌てた様子で降り掛けていた足を戻し枝の上に登り直した。僕もなんか緊張する。次第に声が大きくなり、こちらに向かってくる奴らの会話の内容が聞こえてきた。


「はー、交番の前を通る時なんか緊張しちまった」


「あんな話の後だもんな。俺も無意識に顔そらしちまった」


 二人組。あれっ? どこかで聞いたような声だ。


 そう思った僕は街灯に照らし出された彼らの顔を見て『あっ!』と声をあげた。


『なっ、何? 知っている奴ら?』


『翔と健だ。茶髪と金髪のチンピラコンビ』


『ん、えーと、誰だっけ、それ?』


『大塚って奴が作った不良グループの一員さ。ほら、この前、藁人形を持っていった奴らだよ』


『ああ、あいつらか! うわあ、嫌なのが来ちゃったね。早くどっか行ってくれないかな?』


『じっとしていれば見つからないよ。こんな夜中に樹の上に人がいるとは思わないからね』


『うん、わかった。静かにしてる』


『よしよし、素直で良い子だねえ』


『ぷっ、ちょっとぉ! 笑わせないでよ! 切り倒すわよ!』


『……すいません』


 うう、不良たちより桜ちゃんの方がよっぽど怖いじゃないか。


 震え上がった僕は息を潜めて桜ちゃんと一緒に彼らの様子を窺った。僕の前を少しだけ通り過ぎた彼らはそこで立ち止まり煙草を吸いながら立ち話を始めた。


「しかし大塚さん、マジなのかなあ? さっきの話。やばいんじゃないか?」


「大塚さんがやるっていうんだから仕方ないだろ? 俺たちは付いて行くしかねえよ」


「でもさ、失敗したら俺たち前科者だぜ? あそこのコンビニ襲うなんて」


 僕と桜ちゃんは心の中で同時に『えっ!』と声を上げた。


「おい、馬鹿野郎! 誰かに聞かれたらどうすんだよ?」


「こんな時間だし誰もいねえよ。みんな寝ているって」


「油断は禁物だぜ。えーと、『壁にメメント・モリ、障子にメモリー』とかいう諺あるじゃねえか」


「翔、おまえ、頭いいんだな。俺、ことわざとか全然知らねえし。それでどういう意味?」


「……えーと、確か、『どこで誰が密かに記録しているかわかんねえから油断すると死ぬほど痛い目にあうぞ』みたいな意味だよ、たぶん」


 うーむ、当たらずも遠からず、……いや、遠いけど。


「ふうん。とにかく気を付けろってことだな。了解」


「まあ、そういうことだ。実行の前に逮捕とか洒落にならねえよ」


「そうだな。あーあ、結局俺たち大塚さんの操り人形みたいなもんか」


「気まぐれ過ぎるんだよな、大塚さん。この前の藁人形の奴も強請らないでボコボコにしちまったしな」


「金になりそうだったのになあ。薬屋の前にこれが落ちていたって言ったら『この写真の奴を襲うぞ』って即答だったもんな。そうかと思えば今度はコンビニ襲うぞって」


「やっぱり強盗はさすがにやり過ぎっていうか、やべえよな。それにあそこのコンビニだけは止めてほしいんだけど」


「ん、なんで?」


「あそこのバイトのポニーテールの女の子、可愛いんだよ。ちょっとタイプでさ」


「女かよ! そんな理由で弱腰とか、だらしねえな、翔」


「健、そう言うお前だって彼女いるだろ? おまえが捕まったりしたら彼女悲しむぜ」


「うっ、そ、そうだよなあ。……なあ、龍一さんに相談しねえか」


「それはまずいよ。大塚さんに言われただろ? 『龍一はいつもごちゃごちゃ言って面倒臭いから今回の計画から外す。だから何も教えるな』って」


「わかっているけどさ。俺たちだけじゃもう止められねえよ」


「大塚さんは絶対だ。龍一さんだって敵わないんだ。俺たちが逆らえるわけないんだよ」


「ちっ、弱いって悲しいな。……あっ、そうだ、思い出した。そこのイチョウの木」


 そう言って茶髪の健は振り返り僕の方を向いた。僕はぎくっとした。それは桜ちゃんも同じだったようだ。声を出しそうになった彼女は慌てて口を押さえていた。


「イチョウ? それがどうした? 健」


「この前、言っただろう? このイチョウには願いを叶えてくれるっていう噂があるんだ」


「はあ? まさか、おまえ、この樹に『大塚さんをどうにかしてくれ』とか頼む気か?」


「ああ、悪いか?」


「オメエ、そんなもの信じているのかよ。ばっかじゃねえの」


「何を! 俺の彼女の情報だぜ。嘘吐くような女じゃねえよ、あいつ」


「そういうこと言ってんじゃねえよ。占いを信じるようなもんだろ、それ」


「あっ、おまえ、占い信じてないのかよ。占いって結構当たるんだぜ」


「じゃあよ、おまえの今日の占いなんだった?」


「えーと、『かに座のあなたは頭上注意』だったかな?」


 僕と桜ちゃんは先程以上にぎくりとさせられた。当たっているじゃないか!


「それで何か実際あったのかよ?」


「いや、無いけどさ。まあ、いいじゃねえか。どうせ無料なんだし祈っていこうぜ」


「ちっ、しょうがねえな。付き合ってやるか。それでどう祈ればいいんだ?」


「あっ、そこまでは聞いていなかった。神社みたいにやればいいんじゃね?」


「おい、適当だな。神社っていうと、ええ、三々五々だっけ?」


「なんだよ、それ? 三三七拍子と勘違いしてねえか? 神社で盛り上げてどうすんだよ? それを言うなら再三再四だろうが。馬鹿だねえ」


『それを言うなら「二礼二拍手一礼」だよ、馬鹿ども』


『もう、笑わせないでよ。声出ちゃう所だったじゃない、馬鹿ども』


 僕と桜ちゃんは揃ってツッコんだ。


「なるほど、三、四回頭下げて手叩けばいいわけだな。なんだ、健、おまえも四字熟語とか結構知ってんじゃねえか。さすがだぜ」


「まあ、これくらいは常識ってもんよ。じゃあ参ろうぜ」


「おお、参ろう、参ろう」


 軽いノリで意気投合した彼らは僕に近づくと柏手らしきものを打ち、願いを言った。


「大塚さんが無茶なこと言わなくなりますように」


「コンビニの彼女と付き合えますように」


「はっ? おまえ、ドサクサに紛れて何、お願いしやがった?」


「良いじゃねえか。おまえが大塚さんのこと願ってくれれば同じことだろ?」


「ずるいぞ! 俺も金持ちになりたいとかモテるようになりたいとか言いてえよ」


「モテるように、って、健、おまえは彼女いるじゃねえかよ。この浮気者」


「それとこれとは話が違うだろ? ああ、喧嘩が強くなりたい、金がほしい」


「じゃあ、俺も俺も! 女にモテモテになりたい。外車が欲しい」


「おっ、いいな、外車。じゃあ、俺はバイクかな? デカイ奴がいいな!」


 方向性を見失い始めた彼らは好き勝手に願いを言い合い始めた。僕と桜ちゃんはそれを見ながら心の中で溜息を吐いた。


『はあ……、アホだな』


『はあ……、アホね』


 呆れ果てる僕たちを尻目に散々自分たちの欲望を披露した二人はようやく飽きたのか、我に返ったようだった。


「……って、俺たち、何やってんだ? 馬鹿らしい、おまえのせいだぞ、健」


「おまえもノリノリだったじゃねえかよ。あーあ、もう白けちゃったな。帰ろうぜ」


「そうだなあ。どうせ俺たち下っ端は強い奴の言い成りになるしか無いんだし悩むだけ無駄かもなあ。ああ、なんかもう疲れたぜ。早く帰って寝ちまおう」


 結局神頼みすら諦めた彼らはまた女がどうとか下世話な話をしながら僕らの前から去っていった。ようやく商店街に静けさが戻り、僕と桜ちゃんはほっと胸を撫で下ろした。


『やっと行ったわね、馬鹿ども』


『うん、桜ちゃんが見つからなくて良かったよ。今になってみれば唯花ちゃんが靴を持って行ってくれて助かったね。あれが下にあったらやばかったかも』


『あっ、そうか。唯花ちゃんに感謝だね。………あれっ、もう向こうの空が明るい』


『ああ、もうそんな時間か。随分長い時間、僕の上にいたね、桜ちゃん』


『早く降りないとね。降りている所を誰かに見られたら恥ずかしいもん』


『焦らないでゆっくりね』


『それ、さっきから何度も聞いたなあ。また降りられなくなる前に早く降りようっと』


 すっかり樹の上に慣れてしまった様子の桜ちゃんは職人のような動きで縄を足に装着すると毎日の日課を行うような雰囲気で僕を降り始めた。速い。心配になるほどのスピードだったが声を掛ける間もなく彼女は地面に降り立っていた。


『ふう、やっと降りられた。長かったなあ』


『今の降り方、すごくプロっぽかったよ、桜ちゃん』


『プロって何のプロよ?』


『用もないのに樹に登って降りてくるプロ』


『どこからお金出るのよ、それ? いや、その前にちゃんと用はあったから』


 そう言って桜ちゃんはポケットに入れていたペンダントを取り出した。色違いの猫の眼がそれぞれキラリと光る。確かにそれは皐月さんのペンダントだった。


『うん、間違いなく皐月さんの物だ。桜ちゃん、お疲れ様』


『よっしゃあ! やっぱり私の推理は正しかったでしょ? じゃあ、土下座ね』


『お、覚えていたのかー。うまく誤魔化せたと思ったのに』


『それ、さっき、私が唯花ちゃんに言ったセリフだよ? アハハ』


 嬉しさのあまり僕らは少し浮かれていたのかもしれない。そのせいで普通なら気付くはずの足音に僕も桜ちゃんも気付かなかったのだ。


 桜ちゃんが背後の足音に気付いてビクッと振り返った時にはすでに彼はすぐ後ろまで近付いていた。軍手、地下足袋、輪になった縄を手にした少女。それを見た彼は何を思っただろう? それは彼にしかわからない。しかし見られた側の桜ちゃんの心の声は僕に聞こえてきていた。


『ど、ど、どうしよう? こんな姿、見られちゃったよぉー!』


『落ち着いて、桜ちゃん。こんな状況の時にぴったりの良いおまじないがあるんだ』


『えっ、何、それ?』


 僕はあの言葉を彼女に教えて上げた。それを聞いた彼女はニヤッと笑った。事情を知らない男にはそれが不気味に映ったことだろう。すかさず桜ちゃんは大声を出した。


「見たなあああああ!」

 

 呆気にとられていた男の顔から一瞬でさあっと血の気が引き、それと同時に彼は悲鳴を上げた。


「うわあああ! またああああ!」


 さすがの逃げ足だった。初心者なら腰を抜かしていたところだが彼は見事に転がるように逃げていった。そう、彼はこんな経験が初めてではないのだ。ジョギングおじさん、それが彼の名だった。


 それにしてもこの前あれほど怖い目に合わされたというのに同じ道を同じ時間に走るとは。根性があるのか、ドMなのか、わからない。あっ、待てよ、もしかすると彼はこの前のことを夢だと思いたかったのかもしれないな。もう一度走ればあれは幻覚だったとわかる、そんな期待をしてやってきて……。悪夢でごめんな、おじさん。


『やり過ぎちゃったかな? すごい勢いで逃げていったけど』


『うん、さすがプロだな』


『だから何のプロなのよ?』


『ジョギング中に気味の悪い女性から脅かされて悲鳴を上げて逃げるプロ』


『だからどこからもお金出ないって、それ』


『日本ジョギング中に気味の悪い女性から脅かされて悲鳴を上げて逃げる人協会から……』


『ボケが長いって。あーあ、ノリでやっちゃったけど、変な噂になったらどうしよう?』


『都市伝説には尾ひれがつくから逆に大丈夫だよ。地下足袋女は羽が生えていたとか牙が生えていたとか、そんな風に噂されるはずだから。桜ちゃんとは結びつかないでしょ』


『その化物のモデルが私って言う時点で悲しくなってくるんだけど。ふー、なんかどっと疲れちゃった。もう明るくなりそうだし帰ろうかな?』


『そうした方がいいよ。ああ、そうだ、そのペンダントどうする気? 皐月さんに返すの?』


『唯花ちゃんと約束したし、もちろんそのつもり。ただね、私が返しちゃいけないでしょ? だってこれは彼女が強い思いを込めて君に託した物だもの。だからこれは一番ふさわしい人から返してもらわなくっちゃ』


『龍一さんだね。でも彼の居場所、わかるの?』


『ここで渡すの』


『ここで? でも龍一さんがまたここに来るかどうかはわからないよ? 来るとしてもそれがいつになるかはわからないし。茶金コンビが言っていたコンビニ強盗の話も気になるから、のんびり待つわけにも……』


『ううん、きっと近いうちに龍一さんに会えるよ。私、そんな気がするの』


『どうして? 女の勘?』


『勘っていうか確信。私ね、君と知り合ってから運命みたいなものを信じ始めているの』


『運命か。確かに僕と桜ちゃんの出会いにも運命感じるよね』


『うん。でもさ、面と向かってそう言われるとなんかプロポーズされているみたいでちょっと恥ずかしいな』


 そう言った桜ちゃんは自分の名を表すように顔をピンクに染めていた。おいおい、そんな表情されたら僕もちょっと照れるじゃないか。


『……でもね、私だけじゃないんだよ』


『えっ、どういうこと?』


『唯花ちゃん、皐月さん、他にも沢山の人たちが君を切っ掛けにして誰かと繋がっているってこと。私と真奈美、貴明もそう。昔と同じ関係ではないけどそれぞれの未来のためにきっとどこかで繋がっているもの』


 そう言った桜ちゃんは意外なくらいすっきりした表情をしていた。もう僕に抱きついてわんわん泣いていた泣き虫な彼女は卒業したようだ。それが嬉しくもあり少し寂しい気もした。


『君にはきっと人を繋げる力があるんだよ。直接会うことはなくても君という存在を間に挟むことで繋がり合える。だから私もここで待っていれば龍一さんに絶対会えるって確信しているの』


『……僕にそんな力が? とても信じられないけど』


『力というより役目かもしれないね。君にしかできない、動くことが出来ない君だからこそ神様に任せられた仕事』


『……実は似たようなことを思ったことがあるよ。動けない僕だからこそやるべきことがあるんじゃないかって。でもね、それは桜ちゃんがいてくれるからこそ出来ることだと思うんだ。きっと神様が僕たちを出会わせてくれたんだね』


『うわあ、またプロポーズっぽいセリフになっているよ』


『世の中には動物や物を真剣に愛して結婚式まで挙げる対物性愛者っていう人もいるっていうから逆があってもいいんじゃないかな?』


『……前から疑問に思っていたんだけど、君さ、そういう知識、どこから得ているのよ? 通行人がそんな話しながら歩いているわけ?』


『あー、改めてそう言われてみれば不思議だな。でもたぶんそうだろうね』


『マジで? この街の住人ってどうなっているの? 歩きながらどんな話しているのよ?』


『うーん、そうだな、ポアンカレの回帰定理がどうとか、コンドラチェフの波がどうしたとか、アインシュタインとボーアの論争がウンタラカンタラアブラカタブラとかね』


『……最後だけじゃなくてポアンカレ以下全部が呪文にしか聞こえないんだけど。ああ、体だけじゃなくて頭まで疲れちゃったよ。また今日の夕方にでも来てみるから。もう帰るね』


『うん。お疲れ様』


 長い夜がようやく終わり桜ちゃんは帰って行った。


 ところで彼女、疲れていたせいか、自分がまだ地下足袋を履いていることをすっかり忘れているようだったけど大丈夫だったかな? イチョウの使いに取って代わる地下足袋女の都市伝説をいつか僕は聞くことになるのかもしれない。


 朝日が差し始めた商店街の通りを見ながら僕はそんなことを思った。






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