第3話
通学や通勤の人間たちがぞろぞろと目の前を歩いていく、すでにそんな時間になっていた。
昨日の夜はいつも以上に密度の濃い夜で面食らったわけだが、さすがにこの時間になると人目に付く危険を犯してまで願い事をしに来る奴はいなくなる。普通の通行人たちは単なる街路樹である僕のことなど樹にも留めない、じゃなかった、気にも留めないので、僕にとっては人間の観察に集中できて都合のいい、気楽な時間の始まりだった。
それから僕は一時間ほど人の流れをのんびりと見続けていた。老若男女、ここを通る人間たちは様々だ。ほとんどの人間が同じ方向に歩いて行く。電車や駅から出ているバスに乗るための連中なのだろう。時間が過ぎれば過ぎるほど、急ぎ足、時には必死の形相で走っていく人間が出始める。
それを見ながら僕は疑問に思った。なぜ人間は混むのがわかっていながらわざわざ同じ乗り物に乗るのだろう? いや、学校や会社というものが大体同じ時間帯に始まるということは知っている。僕が言いたいのはそのことで混むことがわかっているなら話し合って時間帯をうまくずらせばいいじゃないかということだ。ところが人間はそれをしない。恐らく同じ時間帯に人が集まることで効率的に指導や仕事ができるということなのだろう。人間はいつも効率というものを考えるようだ。
産業革命から連なる現在の輸送技術の発展も効率を突き詰めた結果なのだろう。僕の後ろを走り回る鉄の塊だって百年前にこれほど普及すると考えた人間はいなかったのではないか? 無駄を省く、つまりコストをカットする、そのためにはスピードを上げる。今の経済社会では当たり前のことだ。
ただ腑に落ちないことがある。集団ではこれだけ効率主義の人間が個人レベルになると無駄の塊になってしまうのはなぜなのかということだ。
小型化して便利になったはずの携帯電話やスマホにわざわざストラップやデコレーションをして邪魔にならないのだろうか?
どうしてサラリーマンと呼ばれる人たちは苦しい思いまでしてネクタイで首を絞めているのか?
それをやったからといって何か関係や結果が変わるわけでもないのに「◯◯式」(結婚式、お葬式とかね)という面倒なイベントをなぜ行うのか?
人は相手が傷つくことがわかっていながらなぜ余計な一言を発してしまうのか?
……ん? 最後の奴はちょっと趣旨と違ったかな?
今、挙げた僕の質問に対して恐らく人間は「オシャレ」とか「マナー」とか「心」なんて単語を持ち出し「無駄なんかじゃない!」と声高に反論すると思う。でもそれは世界に最初から存在していたものではなく君たち人間が長い歴史で創りあげてきた「ルール」であり、「レール」だ。先人たちが創りあげてきた決め事にそういうものだと割り切って乗っかっているだけなのだ。そこから外れた人間は常識のない変人として扱われるのだから非常にたちが悪い。ひょっとしたらその人間は次の歴史の常識となる行為の偉大な開拓者かもしれないのに。
……あれれ、また話が脱線したね。悪い癖だ。こんなことなら僕も少しくらいレールに乗った方がいいのかもしれないな。
えーと、なんだっけ? 人間の矛盾について述べていたんだったよね?
結局、僕が何を言いたいかと言うと「人間は何で服なんか着ているんだ?」ということだ!
……あっ、違うっけ?
まあ、いいや、この際それについて話してみよう。なぜ人間は服を着るのか? 寒いから? オシャレのため? マナーのため? 裸だと恥ずかしいから? だからそれは理由になってないんだ。服を着るのは人間だけだ。生物全体から見ればかなり少数派じゃないか。
……えっ、なんだと、羨ましいだけじゃないかって?
僕が黄葉以上に季節によって色々代わる人間のファッションに嫉妬しているとでも言うのかい? そんなわけないじゃないか。樹である僕が服を期待……、もとい、服を着たいと思っているとでも? 馬鹿言っちゃいけない。福ならともかく服なんて欲しくはない。でもどうしてもって言うなら、うん、着せてくれるって言うなら、ちょっとだけなら着てやってもいいけどね。
おや、どこからか人間たちのこんな心の声が聞こえてきた気がする。
服って、おまえ、樹だろ? どこに袖を通すんだよ(笑)
痛い所を突いてきたな。泣きたくなってきた。何で君たち人間は相手が傷つくことがわかっていながら余計な一言を発してしまうんだよ?
誰も聞いていないというのに下らない漫談をやっていたらいつのまにか人通りが落ち着いていた。どうやら登校、出勤のピークの時間は過ぎたようだ。もう二、三時間経てば買い物客でここもまた賑やかになるだろうが暫しの休憩だな。
そう思っているとガチャっと薬局のドアの鍵が開く音がした。
「おはよー、イチョウさん。今日もいい天気だねえ。元気かい?」
ドアを開けると同時に僕へ向かってそう呼び掛けてきたのは眼の前にある「薬師薬局」のご主人である薬師完子さんだった。一応言っておくが「やくしかんこ」ではない、「くすしさだこ」だ。なぜわざわざ前もって断ったかというと以前彼女が「子供の頃は『やかん』っていうあだ名でからかわれて辛かった」という話をしていたのを憶えているからだ。彼女はもう五十年も前の懐かしい昔話だと言って笑っていたが、その眼の奥にまだ悲しみが貼り付いているのを僕は見逃さなかった。「三つ子の魂百まで」というが子供の頃に受けた心の傷は大人になっても簡単には癒えないものらしい。トラウマという奴だな。だから僕はみんなに彼女の名前を間違いなく覚えてもらいたいのだ。
さて、ではどうして僕はそんなに彼女の肩を持つのか?
答えは簡単だ。彼女のことが好きだからさ。
昨日、僕は「人間のことはそんなに嫌いじゃない」という意味のことを言ったと思う。僕がそんな気持ちになった理由の六割くらいは彼女、完子さんのおかげなのだ。実は彼女は僕に向かって毎日こうして挨拶をしてくれる唯一の人間なのである。この世の中には僕を含めた街路樹たちのことなど普段見向きもしないくせに願い事をする時ばかり話し掛けてくるというお調子者の人間がほとんどなのに、彼女はまるで人間の友達に話し掛けるように毎朝僕に話し掛けてくれるのだ。もちろん他の人間と同様に彼女にも僕の声は聞こえていない。つまり会話は成り立たない。正直、彼女と言葉のキャッチボールが出来たらどんなに楽しいだろうと思うこともある。しかし意思の疎通ができなくても彼女が僕の存在を毎日気にしていてくれるというだけでずっと孤独を感じていた僕は救われたのだ。
そういうわけで僕は彼女に好印象を持っているのだが、一つだけ勘弁して欲しいと思っていることもある。恐らく今日もそれは炸裂するだろう。
「まあ、今日も『活き活き』してるわね。樹だけに『良い樹良い樹』、なんちゃって」
ほら、来たよ……。
なぜか彼女は必ず挨拶の後に駄洒落を披露してくるのだ。「一日一善」ならぬ「一日一洒落」とでも言う習慣なのだろうか? 感想の伝えられない僕に向かってなぜそれを言うのか、以前は不思議だった。しかし最近は「ひょっとしたら感想が返って来ないからこそ僕に向かって言っているんじゃないか」と思い始めている。思い付いた駄洒落を実際口にすることでお客さんに披露する前の確認をしているようなのだ。そうなると僕は完全に実験台というわけだね。お客さんが耳にする前の凍るほど寒い失敗作も数多く聞かされているのだから。せめて感想くらい伝えたいと切に願わざるを得ない。
ちなみに今日のダジャレは僕的には百点満点中の六十三点だったな。
えっ、甘い?
「うん、我ながら面白いわー。あっ、でも今の洒落っていつ使えばいいのかしら? まっ、いいわ、そのうち思い付くでしょう。……ん、あら、これ、何かしら?」
そう言った彼女の視線は僕の足元に注がれていた。そこにあるのは例の押し(潰され)寿司だった。彼女はすぐにそれが何であるかわかったようで大袈裟に「まあ!」と声をひっくり返した。
「お寿司じゃないの! わあ、もったいない。食べ物を地べたに置いた挙句踏んで行くなんて罰が当たるわよ。きっとどこかの酔っぱらいの仕業ね。もう、しょうがないわねえ」
なかなか鋭い完子さんはペッタンコの寿司折を拾い上げるとブツブツ文句を言いながら店に帰っていった。頭上のカラスに見つかる前で良かったと僕は胸を撫で下ろし、彼女のことがさらに好きになった。
あれから数時間経つ。午前午後と特に面白い出来事はなかった。
もちろんある程度の通行人は居たし、何も買わないのに薬局へやってきて完子さんと一緒に外まで聞こえる声で世間話をする奥様方は何人か見掛けた。しかし少なくとも六十三点を越えそうな面白いことは起きなかった。まあ、日中だし、こんなものだろう。そんなに年がら年中注目することが起きていたらこっちの身が持たない。いや、雄株の僕はそもそも「実は持たない」けどね。
……待てよ? そうか、今、気付いた。
ひょっとして時々思い付く僕のくだらない駄洒落は完子さん譲りなのではないだろうか? きっとそうに違いない。「自分の声が誰にも聞こえてなくて良かった」、こんな時だけはそう思う。
うーん、それにしても我ながら僕の我儘はどんどん人間化してきていると感じるな。どこかに僕の幹から鼻が伸びる人形でも作ってくれる爺さんはいないだろうか? そうすれば僕も動けるように……、あっ、違うな、それって冷静に考えれば僕が無事な保証はないよね? 例えば人間を切り刻み、その肉や骨を材料にして人形を作ってもそいつが命を持つことはないわけだし。危ない、危ない、無駄死は御免だよ。
あー、もう暇だからこんな阿呆なことを考えてしまうわけだな。誰か面白い奴来ないかな?
そんなことを考えている時、僕は意外な人物の姿に気付き、我が目を疑った。思わず(もちろんイメージの中で)ゴシゴシ目をこする。夕暮れに染まり始めた商店街をゆっくりとした足取りでこちらに向かってくる彼女。どうも人違いではなさそうだ。何しろ今朝方会ったばかりなのだから間違いようがない。訝しがる僕の足元で彼女は止まった。何度も会っているがこの時間帯の彼女を見るのは初めてだ。
そう、彼女は御百度参りのその人だった。
信じられない。彼女は僕が初めて見る「笑顔」を浮かべていた。そのせいか、いつもより若く見える気さえした。
「こんばんは。朝焼けのあなたはよく見たけど夕方のあなたもなかなか素敵なのね。……ああ、いけない、そんなこと言いに来たんじゃなかったわ。今日は報告に来たの。お陰様で今日の午前中に息子が意識を取り戻してね。そのお礼に来たのよ」
ああ、そういうことか! 良かった。僕はほっとした。間違った御百度を踏む彼女を心配していたが幸運は訪れたらしい。まさか、僕に病人を治す力があるわけはない。息子を心配する彼女の意思が奇跡を起こしたのか、見かねた神様の特別サービスか。まあ、実際は息子さん本人の生命力が強かっただけのことだろうけど。
「本当にありがとう。ああ、でも、あの、ひとつ、あなたに謝らないといけなくて」
えっ、何だろう? まあ、確かに何度も来られるのはプレッシャーだったが。
「実は……、あの子が目を覚まさないのはあなたのせいかもしれないってちょっと疑っていたの。あなたのことは近所の奥様に聞いたんだけどね。中高生の間で願いが叶う樹っていう噂が流行っているって。でも願い方が悪いとかえって祟りがあるって後になってから知らされて。そういうことは最初に言ってもらいたかったわよね。あの奥さん、肝心なことを忘れて話す癖があるから……、って、そんな話じゃなかったわね。とにかく、それを聞いてからあなたがあの子をあの世に連れて行こうとしているんじゃないかって心配で心配で」
えー、何それ? 自分たちの都合で勝手に「神様」扱いしていたくせにちょっと願い事が叶わないだけで「おまえはやっぱり死神だ」みたいな言い方はあまりにもひどくないか? なんか「可愛さ余って憎さ百倍」みたいで納得出来ない。
「でも、お陰様であの子も無事意識が戻りました。まだ起きたばかりで『ぽわーん』としているみたいだったけど、お医者様が言うには後遺症もなさそうだって。本当に良かった。あの子に何かあったら私の方がショック死してしまいそうだったのよ。主人には『母親のおまえがいつまでも動揺するんじゃない。ウロウロしても仕方ないだろう。少し落ちつけ』って怒られて。それでね……」
余程息子さんのことが嬉しかったのだろう。彼女は僕に向かってペラペラと話し掛けてきた。彼女がこんなに明るくよく喋る人だとは知らなかった。何しろ今まで暗い表情の彼女しか見たことがなかったわけだ。しかしいくら嬉しいと言っても今の自分が置かれている状況くらいは気付くべきだと思う。まだまだ人通りの多い夕方の商店街で樹に向かって一人で話し掛ける中年女性。さっきから通行人たちが振り返ったり指を差したりしているんだけどなあ。やっぱり天然だよ、この人は。
「……それであの子ったら眼を覚ました後、何を食べたいか聞いても『水』しか言わないのよ。そりゃずっと点滴だけだったから喉が渇いていたのかもしれないけど、ずっと心配していたこっちの立場くらい読んで『久し振りに母さんのおにぎりが食べたいな』くらいの泣かせるセリフを言ってくれてもねえ……、って、あら? 私、何の話をしているのかしら? ちょっとお礼を言ってまた病院に戻るつもりだったのに」
ようやく彼女の話は中断した。僕はやれやれと溜息を吐いた。さっき女子高生三人組が携帯で写メを撮っていったことに彼女は気付いていただろうか?
「それじゃあ、これで。本当にありがとうございました。息子が退院したらそのうち二人でまたお礼に来ますね」
そう言うと彼女は僕に深々と礼をして帰っていった。律儀な人だ。たぶん「樹にお祈りしたからあなたの意識が戻った」なんて言われても息子さんは一笑に付すだろう。いや、逆に自分が心配を掛け過ぎたせいで母親がおかしくなったと心配するかもしれない。どちらにしても息子さんと彼女が一緒に来るなんてことは恐らく無いだろう。まあ、それでいい。文句を言われることの多い僕は礼を言われるなんて性に合わないのだ。悪い気はしないが照れてしまう。僕がイチョウじゃなかったら葉っぱを真っ赤にしていたかもしれないな。
そんなことを思っていると薬局のドアが不意に開いた。
「何だったのかしら? 今の人。イチョウにずっと話し掛けるなんてねえ。変な人だよ」
あんたもだろ、完子さん! そんな僕のツッコミは当然届かなかった。
「友達いなくて寂しいのかねえ? この辺じゃ見掛けない人だけど話し相手くらいなら私がするのに。今度見掛けたら声掛けてみようかしら? 『樹が気になるんですか?』って」
うわあ、今日は二度目だよ。そんな駄洒落を聞くこっちは「樹が樹じゃない」よ。
「あれっ、今のも洒落になっているわね。『樹が気になる』か。うーん、つまらないから却下ね」
そう捨て台詞を残すと完子さんは薬局に戻っていった。
えー、今の駄洒落じゃなかったのかよ。乗っかった僕の方が馬鹿みたいじゃないか。
思わぬ来客があったため、夕方は結構賑やかで面白かった。しかし夜になるとその反動なのか、昨夜あれほど盛況だった願掛け連中が一人も現れなかった。こうなると昼間より暇になってしまう。通行人がほとんどいないため彼らのファッションや顔に勝手に点数を付けるというお遊びも出来ないからだ。(我ながらひどい遊び)
さてと、参ったな、朝まで何を考えようか? えっ、暇なら寝ればいいじゃないかって? 休ませる脳がない僕がどうやって寝ればいいんだい? あーあ、本当に人間は羨ましいな。好きな時に寝たり遊びに行ったり出来るんだから。……あっ、そうもいかないのか? 大人は働かなくちゃいけないし子供も学校に行かされる、休日以外は自由じゃない、それが人間の生活サイクルだもんね。
そう考えると意外に人間も不便なものなんだな。動きたいのに動けない僕、動けるのに動けないこともある人間、実はあまり変わらない気もしてくる。いや、むしろ体の自由があるのに社会のルールで制限されてしまう人間の方が精神的な苦痛は大きいのかも。そうなると仕事終わりにお父さん方が体に良いとは思えない酔い方をする気持ちもわからなくもない。まあ、今夜はそのご機嫌父さんさえ見当たらないわけだけど。
うん、人間にも同情できる部分があるとわかったら静かな夜を一人で過ごすのも悪くないような気がしてきたよ……、って、あれっ? まさか、あれは……、あっ、やっぱり人だ! 全くどうなっているんだ? 今、たまには一人も悪くないなんて柄でもないことを思ったばかりなのに。ひょっとしたらどこかで神様が僕を監視しているのかな? タイミング良すぎだよ、まったく。神様にそんな愚痴を言いながらも僕はこちらにやってくる人影の観察を始めていた。
女の子。高校生くらいかな。ノースリーブの黒いシャツに花柄のショートパンツ。顔はなかなか整っているように感じられる。人間の中では美人の部類に入るだろう。でもこの顔、どこかで見たような気がするな。えーと……、あっ、そうだ、あの右足自爆少年が持って来た「永崎クウェイル」とかいう人形に似ているんだ。顔だけじゃなくボーイッシュな短めの髪もそっくりだ。きっと彼女のあだ名は「クウェイル」に違いない。
そんなことを考えていると彼女は僕の足元に立ち止まった。やはり彼女の目的も僕の都市伝説らしい。ところが彼女は次の瞬間、僕が予想もしなかったセリフを吐いた。
「何でわかったのよ?」
えっ、何が? 僕は思わず辺りを見渡した。僕の他に彼女の会話の相手が誰か居るのではないかと思ったからだ。しかし先程まで同様人影は見当たらなかった。じゃあ、彼女が呼び掛けてきたのは僕に対してなのか? でもその言葉の意味がわからなかった。
「私のあだ名が『クウェイル』だってことがどうしてわかったのかって意味よ」
ああ、何だ、そういうことか。そりゃあ、樹の僕から見てもそっくりだからね。
「似てないわよ!」
こ、怖っ! なんで怒っているんだ? この娘。アニメで人気のある可愛い女性キャラに似ているって言うのは人間にとって褒め言葉だと思っていたんだけど? 僕の認識が間違っていたのだろうか?
「だって、みんな、誉め言葉として言わないんだもん。最初は嬉しかったけど、だんだん『アニメのクウェイルはクールなのにおまえは男っぽいだけだよな』とか『見た目だけクウェイル』『残念クウェイル』とか言われるようになって、最近なんか『おまえはアニメのクウェイルに謝れ』とまで言われるのよ。ひどいでしょ? もう茶化されるのはうんざりなの!」
ああ、なるほど。それは嫌になるかもなあ。
「でしょ? それに私には『杉松桜』っていう綺麗な名前がちゃんとあるのよ」
杉、松、桜? へえ、全部、木の名前で出来ている名前か。良い名前だね。
「おっ、褒めてくれるの? 嬉しいな。この名前、お爺ちゃんが付けてくれたんだけどね。私は小さい頃から自分ではすごく気に入っていたのに小学校の時はよく男子にからかわれてね。六年間、陰のあだ名が『木偏』だったの。まあ、面と向かってそう呼んだ奴は片っ端から蹴っ飛ばしてやったけどね」
うわあ、怖い。僕を蹴らないでくれよ。
「蹴らないよ。褒めてくれたじゃん。それに樹なんか蹴ったらこっちが痛いでしょ?」
そうだよね。良かった、桜ちゃんは常識がある娘らしい。ああ、この前の失恋男子もこのくらいの常識を持っていてくれればね。怪我せずに済んだのに。
「えっ! ひょっとして、そいつさ、眼鏡掛けた天パのマッチ棒みたいな奴じゃなかった?」
ええっ! そうだけど。あいつのこと、知っているのかい?
「やっぱりか。高校は違うんだけど中学が一緒だったんだ。田尾って奴よ。この前、松葉杖突きながら歩いているのを偶然見かけてね。向こうはこっちに気が付いていないみたいだったけど」
そうか、それは良かったね。見つかったら面倒な事になっていたと思うよ。クウェイルに御執心みたいだったから、彼。……あれっ、でも向こうも中学時代の君を知っているんだよね? あっちから言い寄ってきたりしないの?
「私、中学までは眼鏡掛けていたし、髪も三つ編みだったの。あいつ、その頃の私しか知らないから多分大丈夫。周りの友達も田尾が気持ち悪いって知っているから、私が今クウェイルに似ているってこと、あいつにバレないように気を使って隠してくれているみたい。まあ、言い寄って来たら来たでハイキックでぶっとばすだけだけど」
うぐっ、やっぱり怖い。あれ、でもさ、そんなに苦労したり嫌な思いするくらいならいっそのこと髪型なんてウィッグとかで変えてしまえばいいのに。
「あのねえ、学校には校則っていうルールがあるのよ。簡単におしゃれして行く訳にはいかないの。そんなことも知らないの? 樹だけに『のん樹』なのね」
ば、馬鹿にするなよ。「こうそく」くらい知っているさ。体の自由を奪われたり光の早さだったり交差点のない便利な道路のことだろう?
「なにそれ? つまんない。『コウソク』を掛けた駄洒落のつもり? オヤジくさい」
ぬう……、さ、先に駄洒落言ったの、そっちだろ? 僕が言いたいのはルールに縛られて本当に大事なことをやれないのが人間の悪いところだってことだよ。
「えー、それは違うよ。ルール守った上でその範囲で何をやるのかやれるのかを考えるのが楽しいんだよ? 何でも出来るってことは一番大事なことが何なのかもわからなくなるってことだよ。それって生きていても張り合いがなくてすごくつまらないよ」
彼女の言葉に僕はハッとさせられた。目から鱗が落ちるとはこのことか。いや、僕には眼も鱗もないんだけど。
うーむ、この娘は今までの女子高生たちとは何か違うぞ?
「違わないよ。何か偉そうなこと言っちゃったけどさ。私が今の見た目のままでいるのはただの意地なの。だって私が今の髪型にした時期よりアニメのクウェイルの方が後なんだよ? それなのに私の方がクウェイルに似せたみたいなこと言う奴がいるんだもん。それを気にして髪型変えたら負けを認めたみたいで悔しいでしょ? だからアニメが終わるまではこれでいくの」
なるほど、なかなか頑固な娘だな。やっぱり今までの娘たちとは違う。でもこういう性格の娘なら安易に都市伝説を信じたりし無さそうなんだけど。
「うん、信じてないわよ。街路樹如きに願い叶えてもらうほど困ってないし」
えっ? じゃあ、君は何しにここに来たんだ? こんな時間に?
「……昨日さ、ここに私と同じくらいの歳の娘が来たでしょ? それを確認したかったの」
同じぐらい? そうなると……、ああ、真奈美ちゃんのことだろうか?
「そう……。やっぱり来たんだ、あの娘。結構真剣なんだな、あいつのこと……」
そう言うと桜ちゃんは明らかに困った表情を浮かべた。話が読めない。彼女は真奈美ちゃんと知り合いなのか?
「同じ高校なの。あっ、そうか、意味分かんないわよね? 最初から説明するわ。昨日、あの娘がどのくらい事情を説明したかは知らないけど、私と真奈美は小中高と同じ学校でね」
あああああああ! 僕は思わず大声を上げていた。今の説明だけでピンときたのだ。
「な、何よ、急に。びっくりするでしょ? まだ詳しく説明してないじゃない」
そうか、君が貴明君の好きな女の子なんだな? 彼がいつも見つめている美人の幼馴染だ。三人は小中高と同じ学校だって真奈美ちゃん言ってたもんな。
……ん、あれっ、しまった! ひょっとして僕、今、言っちゃいけないこと言っている感じ?
「そうみたいね。普通さ、私が貴明の思いを知っているかどうか確かめてから言うでしょ、そういうことは。私がそれを知らなかったとしたら最悪の伝え方だよね?」
うう、確かに。えーと、あの、まさか、知らなかったなんてことはないよね?
「今の言い方でわかるでしょ? 知ってたよ。あっ、でも告白とかされたわけじゃないけどね。あれだけジロジロこっちを見てくるのは好意があるのか恨んでいるかのどっちかだもの。恨まれる覚えはないし、そういうことなのかなってさ。気が付きたくはなかったけど気が付いちゃうよ、それは」
そうか、女の子は鋭いからな。真奈美ちゃんが気付くくらいなら君も気付くか。
「うん。それにあいつ、貴明は馬鹿なんだよね、良い意味で。わかりやすいのよ。裏表がないっていうか、隠し事が出来ないっていうか、口は悪いけど憎めない奴なの。だからこっちは昔みたいに憎まれ口を叩き合う友達っていうか、ずっとそういう関係でいたかったんだけどね」
ふーん、つまり桜ちゃんとしては貴明君のことを男としては見てないってことなの?
「お、男として見てないとまでは言わないけどさ。でも貴明は男とか女とか関係なく何でも話せる友達だとずっと思ってきた。それは真奈美に対しても同じ。貴明と真奈美は兄妹みたいに仲良くていつも一緒なの。その二人が馬鹿話で盛り上がっている所に途中から割り込んだ私がツッコミを入れる、そこから貴明と私の口喧嘩が始まって真奈美が笑いながら仲裁に入る、中学まではいつもそんな感じだった。それが最近になっておかしくなってきたの。二人ともなんか前より少しよそよそしくなっちゃって」
それはね、たぶん変わったからだ。
「変わった? 誰が?」
うーん、「誰が」ってことじゃないよ。「三人とも」ってこと。生き物は歳を取るだろう? その分、経験も増える。大人になったってことさ。ずっと同じではいられないんだよ。変わらない奴なんていない。
「それは違うよ。少なくとも私は変わってない。確かに髪型変えたり眼鏡をコンタクトにしたり、そのくらいはしたけどさ。でもそれはファッションであって中身は全然変わってないの。それなのに周りは中学の時とは違う人間みたいになっていって私だけ置いて行かれているみたいな気がしちゃうの。大人になるってそういうことなの? なんでみんな昔のままじゃいけないのかな? そんな風に思う私の方がおかしいの?」
そう言うと彼女は目を伏せて黙ってしまった。自分の中から湧き上がってきた悔しさをどこにぶつければいいかわからない、そんな表情に見えた。彼女は気付いていないのだろう。自分も変わったこと、つまり彼女もちゃんと大人になろうとしていることに。そしてそれは貴明君や真奈美ちゃんにも言えることだ。それぞれの個人の小さな変化がさらに相手に影響を与えて関係を変化させたのだ。誰が悪いわけでもない。三人の歯車は確かに今までは噛み合っていたのだろう。でもそれぞれの歯車が大きくなってしまえば噛み合わないのは当然の話だ。でもそれを乗り越えていけば彼らはより良い新たな関係を作れるのではないだろうか? きっと桜ちゃんなら乗り越えるだろう。僕は彼女が何かを掴み取れるまでじっと待った。
数分後、彼女は気合とも取れる大きな溜息を吐き、顔を上げた。
「ふー! あー、なんかイライラしちゃった。ごめんね、君にぶつけても仕方ないのに」
いいさ。こっちは頑丈だけが取り柄なんだ。ぶつけられるのは慣れているよ。
「そうなんだ。やっぱり色んな人がここに来るの?」
まあね。女子中高生が多いけどサラリーマンとか主婦とか色々来るよ。
「ふーん、みんな結構悩みあるんだね。胡散臭い都市伝説なんかに頼りたくなるくらい」
おかげでいい迷惑さ。僕は普通の植物であってそんな不思議な力は無いのに願い事が叶わないとクレームがすごいのなんのって。
「そうかあ。……あっ、そうだ、ごめんなさい!」
えっ、なんで桜ちゃんが謝るの?
「真奈美に君の都市伝説教えたの、実は私なの。えっと、他の娘たちにも……」
な、何だと! おまえかよ、噂広めてんのは!
「ちょ、そんなに怒んないでよ。暇つぶしの軽いネタのつもりだったんだから。教室で女子が五、六人集まっている時に都市伝説の話になったからお母さんに聞いて知っていたこの話を披露したのよ。その時みんな面白がってくれて、わあわあ言いながら聞いていたのに、真奈美だけちょっと真剣な眼をしたから気になってたの。そうしたら今日学校であの娘だいぶ眠そうだったから『もしや』と思ってね。ほんと、ごめんなさーい」
そう言って大袈裟に手を合わす彼女がちょっと面白かったので僕は許すことにした。
もういいよ。でも真奈美ちゃんのお願いが貴明君とのことだってよくわかったね?
「真奈美もわかりやすい性格なのよ。天然だけど凄くいい娘。だから貴明と真奈美は似合いのカップルなんだけどな。なんとかうまくいってくれないかな?」
そう言った後、彼女は寂しそうに付け加えた。
「……やっぱり私が邪魔なんだよね?」
君みたいな良い娘が邪魔なわけないよ!
僕は自分でも滑稽に思える程、慌てて彼女にそう呼び掛けていた。桜ちゃんは一瞬驚いた顔をしていたが、すぐに笑い出した。
「びっくりしたあ。ひょっとして慰めてくれているの? アハハ、優しいんだね、君」
いや、そういうんじゃないよ。自虐的な奴が好きじゃないだけ。自ギャグはいいけど。
「フフ、またオヤジギャグ? 君、面白い奴だね。色んな樹と話したけど、君みたいな樹は初めてだよ」
そ、そう? 僕だって君みたいな人間は初めて……、あれっ?
僕は今、何かとんでもない事実に気付こうとしている。なんだっけ? あまりに自然で今まで樹が、じゃなかった、気が付かなかったこと。
……はっ!
それが何かわかった瞬間、僕はこれまでにないほどのパニックを起こし、叫び声を上げた。
『はあああああ、はうううううっ! ぼ、ぼく、にんげん、ええええ、僕、人間と話してる!』
「な、何よ、突然、変な悲鳴上げて。さっきからずっと話しているじゃない。今更驚いたの?」
『お、驚くさ、そりゃあ! 僕と会話が出来る人間、というか生物に会ったのは生まれて初めてなんだもの。あんまり君が自然に会話してきたから今まで気が付かなかったんだよ!』
「ああ、そうか、ごめんね。私の中では普通のことだったから特別説明しなかったんだ。やっぱり樹と会話できる人間っていうのは珍しいんだ?」
『珍しいでしょ! それにしても普通のことって……、ひょっとして君、他の樹とも話をしたことがあるのか!』
「そんなに頻繁に、ってわけじゃないよ。そうね、一年に一度くらいの頻度かな? 君みたいに話せる樹と出会うことがあるのよ。今回みたいに私から気付く場合もあるし、私に対して何かを感じた樹の方から話し掛けてくる場合もある。でも君みたいなまだ若い樹と話したのは初めてかもね。普通はもっとお爺ちゃんお婆ちゃんの樹のことが多いから」
へえ! 僕の他にも話せる樹がいたのか。僕はちょっと嬉しくなった。自分だけが樹の種族の中で異常な存在なのではないか、そんな不安が和らいだ気がした。
「まあ、話し掛けてくるって言っても挨拶程度が普通よ。あなたみたいにいきなりペラペラ話す樹は珍しいもの。やっぱり若いからなのかな?」
『まあ、確かに自分でもお喋りかなとは思うけど他と比べたことがないからね。ねえねえ、君の他にもそんな能力を持っている人はいるのかい? ほら、僕、君みたいな人間初めて会ったから』
「うーん、どうなんだろう? こうして私がいるんだから他にも同じような人がいてもおかしくはないと思うけどね。少なくとも私は会ったことがないよ」
『そうなのか。じゃあ僕と話ができるのは今のところ世界中で君だけなのかな? 他にも話ができる樹がいるって言っていたけど、僕はそこまで歩いて行くという訳にはいかないしね。あっ、でもなんで君だけが樹の声を聞けるんだろう? それがわかれば他の人間ともこうやって話ができるかもしれない。何か切っ掛けとかあったの?』
「うーん、ごめん、物心付いた時にはもう自然に話せていたからね。生まれ付きだと思う。これは私の勝手な推測なんだけど、私の生まれ持った波長みたいなものが樹のそれとたまたま合っていたのかも。たぶん世の中には犬や猫、虫なんかにも波長の合う人がいてさ、そのことに自分で気付く人と気付かない人がいるんだと思う。私の場合、初めて樹と話せることに気付いたのは五歳頃、田舎の祖父母の家に行っていた時なの。まだその時は曾祖母も生きていて一緒に近所の神社の境内に遊びに行ったのよ。そこにしめ縄がしてある大きな樹があってね、『ご神木』というものがよくわかっていなかった私はそれが不思議でこう聞いたの。『ねえ、この樹、何を付けているの?』って。ところがひいお婆ちゃんは耳が少し遠かったから私の声が聞こえなかったらしくて返事をしてくれなかった。代わりに聞こえてきたのは『お嬢ちゃん、おしゃれだろう?』という聞き覚えのない声だったの」
『へえ、やっぱりご神木くらいになると話せるんだ。あれっ、でも、そうなると僕は?』
「フフ、どう見ても君はご神木って感じじゃないよ。まあ、人間にもまだ子供なのに大学入っちゃうみたいな天才はいるからね。君も植物界の若き……、というより『若木』かな、エリートなのかもよ?」
『君のオヤジギャグもなかなかだね。まあ、お褒めに預かり光栄ですと言っておこうか。ただ、ちょっとさっきから気になっているんだけどね、僕のことを「若い」って言ったり「君」って呼んだりしているけどさ。一応人間の女子高生よりはずっと歳上なんだからね? 少しは敬意を持ってくれてもいいんじゃないか?』
「なんか君、じゃない、あなたと話していると歳上という感じがしなくて。ごめ、ません」
『あちゃー、話しづらそうだね。もういいや。話しやすい呼び方で話してくれていいよ』
「あっ、そう? じゃあ、お言葉に甘えて。これからよろしくね、イチョウちゃん」
『……よろしく。あっ、そういえばさ、なんで僕が話のできる樹だってわかったんだい?』
「ああ、そのこと? 私、この辺をたまにブラブラ歩くんだよ。でも二、三日前かな? ぶつぶつ独り言を言っている奇特なイチョウに気付いたのは」
『独り言、聞かれていたのか! ああ、どうしよう、僕、変なこと言っていなかった?』
「変なことしか言ってなかった」
『な、何だって? うわあ、恥ずかしい。穴があったら入りたい』
「それは深い穴がいるね。アハ、ホント、面白いよ、君。お陰で気分転換できたよ」
『お役に立てたなら良かった。どう、頑張れそう?』
「うん。……あのね、実はちょっと心配していたんだ。都市伝説の樹が話のできる樹だって気付いた時、真奈美へ都市伝説の話をしちゃったことを後悔してさ。だって話ができる樹なら都市伝説も本当かもしれないじゃない? もし、そうだったら……」
彼女はそこまで言うと急にハッとした様子で口を押さえた。
「な、なんでもないや。アハハ、何、言っているんだろ、私?」
彼女は笑って誤魔化していたが僕にはその続きの言葉がわかった気がした。そんな気はないというのは強がりで桜ちゃんも貴明君のことを……。そう思ったが彼女にはそのことを言わないでおいた。お喋りな僕だけどこういう時は樹、じゃない、気を使うくらいのことはできるのだ。そんな僕の思いを知ってか知らずか、彼女は伸びながら大きな欠伸をしていた。
「ん、うーん。あー、疲れたからか、ほっとしたからか、眠くなってきちゃった」
『明日も学校なんだろう? 少しでも眠った方がいいよ』
「そうだね。じゃあ、もう帰るよ。二人のことは……、まあ、自分で何とかしてみるよ。今日はありがとう。都市伝説の樹が君みたいな面白い奴で良かったよ」
『お褒めに預かり光栄です』
「ウフフ、じゃあね。また何かあったら来てみるよ」
僕は『うん』と言いながら『何もなくても来てほしいな』という言葉を飲み込んだ。自分でも意味の分からない行動だった。なぜだろう? 人間の女の子相手に格好つけても仕方ないのに。そんな僕の戸惑いを見透かしたように彼女はニコッと微笑んだ。
「あっ、何もなくても来るかも。君とのお喋りは楽しかったから。じゃ、またね」
彼女は控えめに片手でバイバイをするとまだ静かな夜の街へと消えていった。僕は暫く彼女が消えていった方向を見ながらその余韻に浸った。
『それにしても驚いた。僕と話のできる人間がいるなんて』
僕はそう呟いた。独り言だ。でも今までのように虚しくはなかった。僕はもう孤独じゃないのかもしれない。完子さんでも完全に払えなかった僕の心の暗闇に彼女が朝日のような光を射してくれようとしていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます