第5話




 印鑑屋の方向から現れた人影はこの前と全く同じ格好だった。そう、例の寿司折を踏み潰した少年だ。またこんな夜中に一人で遊び歩いているのか。全く保護者は何をやっているんだろう? 大体あいつは何のためにここへやって来るんだ?


 当たり前のように僕の足元で止まった彼はペンダントと財布に気付いたようだった。


「……わあ、綺麗だな」


 そう、彼が呟いた。一瞬、何のことかわからなかった。しかし彼が手に取った物を見て、それがペンダントへの感想だったことがわかった。街灯の光に猫の眼が反射して光る。宝石が埋め込まれているのだろうか? 青と赤、よく見ると左右の眼で色が違う。オッドアイという奴だな。なかなか凝ったデザインだ。それを彼はうっとりした顔で見ていた。僕が初めて見る素の表情。なんだ、こんな子供っぽい無邪気な顔ができるんじゃないか。僕は少しだけほっとした。


 彼は暫く無言でペンダントを眺めていたが、不意に吹いた風のせいで僕の葉っぱがざわざわ音を立てたことに驚いて我に返ったようだった。きょろきょろ周りを再確認し誰も居ないのがわかると(もちろん僕はいるんだけど)ペンダントを足元に置き、今度はゆうちゃんの財布に恐る恐る手を出した。小さな手でゆっくり札入れからお札を取り出す。五万円といったところだろうか? それを持った手が僅かに震えているのがわかった。


「お、お金だ。いっぱいあるや。こんなにいっぱい……」


 喜びと興奮が入り混じったような子供らしくない掠れた声が彼の口から飛び出した。何とも言えない嫌な気分になってしまう。まさか、そんなことはないと思いたいが、ネコババするつもりなのか? 道から外れるようなことはして欲しくない。なぜか親のような気分で見守る僕の前で彼の顔が突然すっと無表情に変わった。


「……馬鹿ばっかりだ。あんな噂話を信じるなんて。元々は俺が創った話なのに」


 なっ……、何だって!?


 衝撃的な事実だった。じゃあ、おまえが僕の都市伝説の元凶だって言うのか? こんな、まだ小学生の子供が創った話にみんな騙されて踊らされているっていうのか?


「財布まで置いて行くような馬鹿がホントにいるなんて。思い付きで冗談半分に流してみた噂なのに。まさか、あんなの本気にするなんて、マジ馬鹿ばっかり」


 なんということだ。僕は今、都市伝説の裏にあった真実を知ってしまった。知りたくなかったよ、こんな話。ただの小学生のいたずら、悪意のない噂話、それならそうで良かった。でも彼はたぶん計算していたのだ。噂を流すことにより、それを信じた人間が僕の足元に物を置いていくことを。この前の夜やってきたのも今日来たのもその品物目当てだったというのか。信じたくない。さっき見せてくれた無邪気な表情は何だったんだよ? 畜生、嫌な気分だ。完子さんや桜ちゃんのお陰で人間のことを好きに成り掛けていた所だったのに。


 僕の葛藤など知る由もない彼はなぜかお札を財布に戻し、それをペンダントの脇に置いた。


 あれっ? 正直意外だった。誰にも見つからないうちに財布からお金だけ取って逃げる、当然そうするだろうと思っていたからだ。僕の根に添えるように置かれた財布とペンダント。それをしゃがみ込んだ彼はじっと見つめ出した。迷っている、そんな表情に思えた。


 そうか、ちゃんと良心があるんだ。


 僕はちょっぴりホッとした。これを持っていくか置いていくか、その小さな選択で彼のこれからの一生が決まってしまう。大袈裟かもしれないが僕はそう思った。


 いくらでも迷えばいい。ちゃんと考えれば正しい答えが出るはずだ。頼む。


 聞こえていないことはわかっていても、少年に向かって話し掛けずにはいられなかった。するとぱっと彼が立ち上がった。目線は外していなかったが財布とペンダントは下に置かれたままだ。一歩、彼は後退りした。盗らずに帰ってくれそうな雰囲気だった。


 良かった。彼は間違わなかった。


 僕が胸を撫で下ろした瞬間、それは起きた。


 今までシーンと静まり返っていた商店街に突如「カッカッカッ」という怪音が鳴り響いた。彼もそれに気付いたようでビクッと音のする方へ振り返っていた。何かが走ってくるような感じだが、スニーカーや革靴の音にしてはおかしかった。その何者かの音は遠くから段々こちらに近づいてきていた。


 彼の表情は次第に驚きから恐怖に変わっていた。そしてその恐怖心が彼の思考回路に間違った行動を起こさせた。焦ったのか、慌てた彼は引ったくるように財布とペンダントを掴むと全速力で逃げ出してしまったのだ。


 一瞬のことで何の言葉も掛けられず呆然と僕はその小さな後ろ姿を見送るしか無かった。


 彼を責めることは出来ない。あれは盗ろうというはっきりとした意思があったというより、あまりの恐怖に驚き、反射的に目の前の物に手が出てしまったという感じだった。折角、彼の心の天秤は正しい方へ傾こうとしていたのに不気味な足音が天秤を折りかねない勢いで恐怖という重りを落としやがったのだ。


 音はすぐそこまで来ている。僕は恨みがましい気持ちで音の主を待った。


 足音が急にピタっと止まった。金物屋の角からゆっくり何かが姿を現す。光っている? 姿、形は人間なのにそいつは頭の辺りが光っていた。そんな馬鹿な、あの見事に光り輝く丈夫さんの頭だって夜にこれほど光りはしないだろう。カツ、カツ、カツ、カツ。こちらに向かってきたそいつの姿が徐々に街灯に照らし出される。


 その姿に僕は度肝を抜かれた。


 白装束。白い顔。長い髪。頭にロウソク。口に咥えた櫛。一本下駄。手にした藁人形。


 ガ~ン!


 それ、違う! 来る場所が違うって! 今年の前半にして勘違い大賞ぶっちぎり優勝だよ、おまえ!


 眼の前にいるのはどう見ても「丑の刻参り」をやる気(というか殺る気?)満々の若い女だった。顔を真っ白に塗っているが恐らく初めて会う女性だと思う。ちょっとだけほっとした。これがもし桜ちゃんや真奈美ちゃんだったら僕は二度と立ち直れなかったところだ。


 見知らぬ君よ。勘違いにも程があるぞ? 確かに僕の所へやってくる奴は多かれ少なかれ勘違いしてやってくるものだが、ここまでひどい奴は初めてだ。願い事が叶うってそういう意味じゃねえよ!


 大体その格好、本気過ぎんだろう。白装束とかどこで買ったんだよ? やはりネット通販なんだろうか? ひょっとして「丑の刻参り一式」で検索したの? それにどこで着替えてきたんだよ? まさか、家からその格好で来たとか言わないよな? 丑の刻参りって人に見られたら呪いが跳ね返って自分に来ちゃうんだぞ? だから人目のない深夜の神社でするんだよ。やるからにはルール守れ。いや、やられたらやられたで僕は困るんだけどね?


 あとさ、さっきすごい勢いで走ってきたよね? どうやってその一本下駄で走ってきたんだい? 天狗か、おまえは。そうだ、もう一つ、重要なお知らせがある。丑の刻って午前一時から三時くらいまでなんだよな。ほら、そこの時計屋見える? そこの看板替わりのでっかい時計、四時近いだろう? タイムオーバーなんだよ!


 僕は思い付くままにツッコミを入れ続けた。なぜなら恐ろしかったからだ。白い顔の女は眼が血走っていた。まともな会話が通じる相手には見えなかった。まあ、そもそも僕の声は桜ちゃん以外には通じないのだが、そんなことよりもこの静寂の中で彼女と二人きりになることがとてつもなく怖かった。


 カツン、カツン。一歩一歩、お構いなしに彼女は距離を詰めてきた。息が掛かるほどの距離、僕の目の前でようやくその動きが止まった。彼女は懐からすっと何かを取り出した。それは一枚の写真だった。チラッとそれを見た女がニヤッと笑う。咥えていた櫛を右手に取った彼女はニコニコと話し出した。


「……この男、二股掛けていたの。三年も気が付かなかった私って馬鹿みたいだよね? 問い詰めたら『お前の方が遊びだった、ごめん、バイバイ』だってさ。良いわよね? 呪うくらい」


 それだけ言うと突然スイッチをオフにしたように彼女の笑みが消え、代わりに眉間へ深い皺が浮かんだ。怒りに満ちた表情で再び櫛を咥えた彼女は藁人形と写真を重ねるように左手で持った。右手が懐から取り出したのは五寸釘と金槌。こうなったらもうやることは一つしか無い。


 三年も彼氏に騙され、捨てられるとは確かに可哀想だ。同情はしよう。でも問題はそれをどこにぶっ刺すつもりなのかということだ。ここまで来てスルーしてくれるわけないし、どう考えても「僕に」だよね? 確かに蹴られたり枝打ちされても痛くはないよ。でもさ、釘で穴開けられたことは流石にないんだよ。痛みは感じないかもしれないけどさ、変な場所に穴空けたら地味にやばい病気とかになるかもしれないでしょ? 少しは刺される側の身になって考えてみてほしいなあ。


 あっ、それとも人間って結構穴開けられたりするもんなの? だから僕の恐怖がわからないの? 慣れっこなの? 五寸釘挿して歩いている人間になんか会ったことないけど。待てよ? ピアスも似たような物か。でもあれってオシャレのためにするんでしょ? 藁人形とか全然可愛くないから。そんな不気味なもの付けられたら樹の中では負け組じゃん? みんなドン引きして近付いて来なくなっちゃうだろ。神様扱いから呪いの樹にまで降格とかマジあり得ないんですけどー。


 彼女は聞く耳を持っていなかった、というよりやはり僕の声など聞こえていないようで、僕の体にセットした写真付き藁人形に釘を刺し大きく金槌を振りかぶった。


 やられる! 僕のすべすべお肌(あくまで個人の感想です)が台無しだ。くそっ!


 ところが僕がそう覚悟を決めた瞬間、天は思い掛けない救世主を登場させてくれた。


 その名はおっさん。ジョギングおっさん。ノロノロ現れたわりにぜいぜい肩で息をしている運動不足メタボ中年。救世主という言葉からは程遠い姿だが、確かに彼は僕の恩人となった。そう、息を切らし俯いて走ってきた彼がふっと顔を上げ一瞬固まった後に、見た目に似合わぬ女性のような悲鳴を上げてくれなかったら僕はとうに釘を打ちこまれていたことだろう。


 突然の悲鳴に余程驚いたのか、彼女は持っていた藁人形をビクッと取り落とし慌てて後ろを振り返った。目と目があったランニングおじさんと丑の刻参り女。残念ながら恋は始まらなかったようだ。「見たなあ!」と女がベタな叫び声を上げると「ひえええ!」とこれまたベタな悲鳴をあげておっさんは逃げ出した。「待てええ!」と「ひあああああ!」の追い掛けっこ。見ようによってはとても仲良しな二人だが、触れ合えない運命にある彼らはその決して縮まらない距離を保ったまま朝日が射し出した街へと消えていった。


 街には静けさが戻ったが、僕は地面に落ちた写真付きの藁人形と一緒にぽつんと取り残された。


 ……えーと、どうすんだよ、これ?


 色々あった夜が明け、この三座里駅東商店街もすっかり光に包まれた。新たな一日のスタート、昨日までのゴタゴタはリセット、と言いたい所だが、眼の前に大の字で転がっている藁人形が全て台無しにしていた。新たな章の始まりと行きたかったのに悪夢は依然続いているらしい。


 誰でもいいから早くこれを片付けてくれないかな?


 実はさっきから早朝出勤らしいサラリーマンやOLさんが何人か僕の目の前を通っているわけだが、みんな、そこにあるものに気付くと途端に目を背け見なかった振りをして引き攣った顔で通り過ぎていってしまうのだ。まあ、わかる。そりゃ誰だってこんなものに関わり合いたくないもんな。でも誰かが片付けてくれないとずっとこのままなんだよ? ここを通る人間がみんな嫌な思いをしちゃうじゃないか。さあ、これから仕事だ、学校だ、って時に藁人形なんか見掛けたらテンションガタ落ちだろ?


 だからさ、早く片付けようよ。片付けないか? むしろ片付けよう。いや、片付けろ。誰か、片付けて! このままだとたぶん完子さんがこれを片付けることになっちゃうんだよ。明るい彼女のことだから表面上は冗談混じりにやってくれるだろうが自分の店の前にこんな呪いのアイテムが転がっていれば内心ショックを受けるに違いない。


 あっ、そこの背広のお兄さん、今これ見たよね? ねえ、ちょっとこれ持って行ってよ。この際その辺のゴミ箱にでも入れてくれればいいからさ。あ、待って、いやいや、気持ちはわかるけど小走りで逃げることないだろ? 何だよ、どいつもこいつも。少しくらい骨のある奴はいないのか?


 そんなことを思っていると神様が気を利かせてくれたのか、僕の願い通り、朝っぱらから威勢の良い元気な声が金物屋の方から聞こえてきた。


「そうそう、あいつら、マジでビビってたよな。大塚さんすげえ強いから」


「動きが読めないんだよな、大塚さんって。武道か何かやっていたのかな?」


 周りの迷惑などお構いなしに大声でワイワイ騒ぎながらやってきたのは金髪と茶髪の男二人組だった。あまりにうるさいので僕の頭上のカラスがつられてカーカー鳴き出し、それに対し、彼らは「うっせえぞ!」と応じていた。なるほど、カラスとこいつら、なかなかの似たもの同士だ。鳥相手にも本気で向き合う彼らは確かにサラリーマンよりは元気が良さそうだが、ボランティアに精を出すようなタイプには到底見えないので期待しない方が無難かもしれない。このまま上のカラスの相手をしながら通り過ぎて頂ければこちらとしても幸い……、って、うわあ、言ったそばから金髪がこっち来てるじゃねえか。しっしっ、あっち行け。面白い物なんか無いってば。お願いだからこれ以上トラブル増やすなよ。


「うっせえ、カラス! 焼き鳥にすっぞ! ……ん、何だ? どうしたんだよ、翔? なんか下にあるのか?」


「ああ、なんか落ちて……、あん? おい、これってアレじゃね? 呪いの」


「ホントだ。ひええ、藁人形って奴じゃん。本物、初めて見たし。おい、写真もあるぜ」


「写真まで用意するとか、かなりマジな奴っしょ。引くわー。どれ、どんな奴だ、呪われてんのは」


「おい、そういうのって触って大丈夫なん? 俺たちも呪われたりしねえの?」


「何、ビビってんだよ、健? 呪いなんてあるわけねえだろ。……えーと、男か、ってことは呪った奴は女だろうな。振られた腹いせかな? うわ、ダッセー」


「どれ、どんな奴だ? ん、あれ、こいつ、どっかで見たことあるような……」


「え、マジで。知り合いなのかよ」


「……あっ、思い出した! 昔、バイト先で一緒だった先輩じゃん。結構イケメンでモテてたけど女癖悪いって評判だったんだよな。とうとう呪われるほど恨み買ったのか」


「こんな目立つ場所へこれ見よがしに藁人形置かれるくらいだから相当恨まれてるぜ、こいつ。……お、良いこと思い付いた! おまえさ、こいつの連絡先知ってんの?」


「ああ、最近は連絡取ってねえけどまだ携帯に連絡先残ってるはずだな。なんで?」


「色々使えそうじゃん。この藁人形と写真をちらつかせればうまいこと金が取れるんじゃねえか? 恨み買っているってことは他人に詮索されたくない秘密もあるってことだろ?」


「おお、すげえ。お前、頭いいな。大塚さんに相談してみようぜ」


「そうだな。大塚さんなら俺たちより良いやり方考えてくれそうだし」


 どうも話がきな臭い感じになってきた。運の悪いことに写真の男性は茶髪の男の知り合いだったらしい。真由美ちゃんとゆうちゃんが親子だったなんてこともあったし、世の中は意外に狭いものだ。まあ、人間の普段の行動範囲なんて高が知れているし、この道を通る人間なら近い地域に住んでいてもおかしくはないのかもしれないけど。


 そうか、なんだ、結局人間もそんなに自由に行動できているわけではないんだな。動き回れる人間がすごく羨ましかったけど実は意外と変わらないのかもね、僕と。


 それはさておき先程から彼らの会話に登場する「大塚」という奴がちょっと気になった。会話の雰囲気からして彼らより上の立場のリーダー的な人物らしい。喧嘩が強くて頭もいい、どこかでそんな奴の話を聞いた気がするなあ。


 そう思っていると印鑑屋の方から歩いてきていた男がふとこちらを見た。彼は「おっ」という顔をするとこちらに近づいて来て目の前の二人に声を掛けた。


「なんだ、おまえら、こんな所で何やってんだ?」


 突然背中から声を掛けられた二人は驚いた様子でビクッと同時に振り返った。


「あっ、龍一さん! おはようございます。バイトの帰りっすか?」


 金髪と茶髪は今までの威勢の良さが嘘のように緊張した様子で頭を深く下げていた。


 えっ、待てよ、龍一だって? そうか、思い出した。昨晩、僕の所へ不良グループから彼氏が抜けてくれますように、とお願いに来た皐月ちゃんという女の子。彼女の言っていた彼氏の名前が確か「龍一」だった。


「まあな。しかしおまえら、朝っぱらから酒クセエな。少しは自重しろよ、まったく。……ん、翔、なんだ、その手に持ってんのは?」


「あー、ここに落ちていたんですよ。藁人形って奴です」


「藁人形? 写真もあるじゃねえか。こんな所で?」


「そうみたいです。……あ、そうだ! 思い出しましたよ。そういえばこのイチョウって都市伝説あるんですよ。願い事が叶うとかそんな奴。だからじゃないすか?」


「そうなのか? 何だよ、健、おまえ詳しいじゃねえか」


「か、彼女に聞いたんですよ。女の子の間では結構有名らしいですよ」


「彼女か。そうか……」


 あれっ? 急に彼の様子がおかしくなった。どこか空中を見つめたまま心ここにあらずと言った感じだ。翔と健の二人もそれに気付いたようでチラッと目と目を合わせ無言で「龍一さんの様子おかしくないか?」と確認しているようだった。


 僕にはわかる。きっと「彼女」の話が出た瞬間、龍一の脳裏には皐月ちゃんが浮かんだのだ。あれだけ彼女は彼を心配していた。彼にそのことが伝わっていないわけがない。きっと彼は彼で皐月ちゃんのことで悩んでいるのだろう。


「……ん、ああ、悪い。ちょっと考え事しちまった。それよりそんな不気味なもん、おまえら、どうするつもりなんだよ?」


「ちょっと考えがありまして。大塚さんに相談しようかって言っていたところで」


「大塚さんって……、おまえら、まさか、その写真の男に脅し掛けようってのか? 第一、どこのどいつか、わかんねえだろ?」


「えっへっへ、実は偶然にも俺の知り合いなんすよ。女を何人も泣かせている奴ですから心配ないっす」


「そういうこと言ってんじゃねえよ! 一応言っとくが俺は反対だ。その男がどうなろうと構わねえが、おまえら、いつまでカツアゲなんてつまらないことやるつもりだよ? いい加減にしねえとムショ行きだぞ?」


 おや? うーん、どうもイメージしていた感じと違う。皐月ちゃんは彼が悪い仲間に引き入れられたような言い方をしていたけど、今の彼はどちらかというと、この二人を更生させようとしている面倒見のいい兄貴分に見える。ひょっとしたら彼女の心配は杞憂だったのではないだろうか?


 そう思った矢先、雲行きは少し怪しくなった。


「……また説教っすか? いい加減にして欲しいのはこっちっすよ。確かに龍一さんは強いし尊敬していますけど今のリーダーはあくまで大塚さんっすからね? 面白そうなことは何でも報告しろって言われてますから。反対かどうかは大塚さんに言ってくださいよ」


 金髪の翔という奴が少しキレ気味にそう言うと今までの威厳が嘘のように龍一の顔色が変わった。大の男が見せるそれは明らかに「怯え」だった。


「……ちっ、わかったよ。勝手にしろ」


「へへ、そうさせてもらいます。じゃあ、これから俺たちは大塚さんとこ行きますけど龍一さんはどうします?」


「先週の喧嘩の後始末について話したいことがあるからな。一緒に行く」


 話がまとまったようで三人は藁人形をお土産に持ってどこかに去っていった。


 ひとり取り残されたこっちはモヤモヤとした気分で気持ち悪かった。一番の謎は大塚という男だ。龍一のような大柄で喧嘩が強そうな男さえ名前を聞いただけで震えあがる。一体どんな奴なんだろう?


 不安の種だった藁人形は無くなったが、なぜかもっと厄介な心配事を落とされていったような気がして仕方なかった。


 朝帰りの不良たちが消え失せて人通りも多くなってきた時間帯。


 いつものように薬局のドアが開き、完子さんが出てきた。


「おはよー、今日もいい天気、お陰で私は脳天気に、NO、転機♪」


 なっ!? なんでラップ?


「……うーん、やっぱりわかりにくいかしら? 今日もいつもと変わらない穏やかな一日が送れそうで嬉しいなという意味で『NO、転機』って掛けてみたんだけど」


 いやいや、そこじゃなくて急に歌い出した方にびっくりしたんですけどー。


 ……あっ、ひょっとしたら完子さん、「ゆうちゃん」に影響されたんだろうか? 変だな、彼が来る時間には彼女いつも寝ているはずだけど。あれっ、まさかこれが睡眠学習って奴? それこそ都市伝説みたいな話だ。


「さあ、今日も薬売るわよぉー、っていうか、まあ、売れない方がホントは良いんだけどね。具合の悪い人がいないってことですから。でもそれじゃ生活成り立たないし……。ホント、矛盾しているわね、人間って。今度生まれ変わる時はイチョウにでもなりたいもんだわねえ」


 人の樹、じゃなかった、気も知らず完子さんは呑気にそう言いながら薬局に戻っていった。言ってくれるよなあ。イチョウはイチョウで色々と大変なんだぜ? 人間みたいに自分で動けない分、しなくていいはずの余計な心配をしなくちゃならないこともあるのだ。


 そう、例えば……、あっ、向こうから良い見本が走ってきたよ。おっ? いつもはだいぶ乱れ気味のスーツがビシッと決まっている。そういえば素面の彼を見るのは初めてだな。いつもみたいに「ゆうちゃん」なんて気さくに呼んじゃいけないだろうか?


 えーと、課長、根城雄介さんは右手に持った通勤カバンを中身が心配になるくらい前後に振りながら走ってきて僕の目の前でズザッと急停止した。ハアハア息が切れていたがそれどころではないといった様子だ。キョロキョロと僕の根っこ周りを見回し始めた彼が何をお探しかはもちろんわかっている。


「……無い。無いぞ、財布」


 ぽつっと呟いた声の震えが彼の今の心境を表していた。一万円どころじゃないもんな。いくら「男、課長、根城雄介」でもキツイに違いない。だから昨晩言ったじゃないか。ほら、今のあんたの顔色、昨日の予想通り真っ青だよ。あっ、頭、抱えちゃった。ウロウロ。いやあ、見事な狼狽だ。通行人が何人か不審者を見る目ですれ違っていったけど通報されたりしないかな? おっ、そんな僕と同じ心配を完子さんもしたらしく薬局のドアが開いた。


「あのお、どうかされたんですか? 何か、お探し物でも?」


「へ? あ、ああ、ご心配頂きましてありがとうございます。実は財布を……」


「あら、財布を落とされたんですか? それはお困りでしょう」


「ええ、まあ」


 苦笑い。そりゃそうだ。落としたんじゃなくて自分で置いて行ったんだからね。


「落としたのはこの辺なんですか? そうだ、落とした日時とかってわかります? 私は毎日この薬局開いていますからね、お手伝いできるかもしれません」


「ああ、それは助かります。ええと、時間は昨日の深夜なんです。場所は間違いなくこの辺です。財布は黒っぽい札入れで現金とカードが入っていました」


「昨晩ですか? 店は今さっき開けたばかりなんですけどその時にはもう無かったですけどねえ」


「そうですか……。ああ、弱ったな。もう誰かに拾われてしまったんだろうか?」


「この辺は早朝から通勤通学の方がよく通られますからね。ひょっとしたらもう交番に届けられているかもしれないですよ。……あっ!」


「えっ、あの、どうかされたんですか?」


「さっきね、外がわいわい騒がしかったんですよ。それでちょっと外を覗いてみたら不良っぽい男の子たちがこの辺で何かやっていたのよね。ひょっとしたら……」


「あっちゃー! そうですか、ああ、参ったな」


「いや、あの、そんなに気を落とさずに。もしかしたらの話ですから。とにかくまずは交番の方に行かれた方がいいと思いますよ。世の中、悪い人ばかりじゃないですし」


「そうですね。ああ、すいません、親切にして頂いたのに落ち込んだりして」


「いいえ、財布なんて落としたら誰でも落ち込みますよ。見つかるといいわね」


「はい、どうもありがとうございます。じゃあ、これから交番に行ってみます。それではこれで」


 そう言って深々と頭を下げた雄介さんは交番があるという印鑑屋の方角へ歩き去った。その後ろ姿を心配そうに完子さんはずっと見送っていた。


 そういえば僕に関わるそれぞれの人間がこうして目の前で交流する所を見るのは初めてのような気がする。


 意思の疎通が出来ない僕と誰かの関係ではなく、僕を一つの切っ掛けにした双方向の関係が生まれた瞬間。それを見られたことがちょっと嬉しくて僕は妙な感慨に耽った。






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