第4話
僕と、というか、樹と話ができる特殊な才能の持ち主、杉松桜ちゃんに出会ったあの日から二週間ほど経っていた。あれからほぼ毎日彼女は僕の元に来てくれている。但し「夜に」ではなく「学校帰りの夕方に」である。もちろんまだ通行人がいる時間帯だ。そんな時間に話をして大丈夫なのかと思う人もいるかもしれないが心配はいらない。初めて体験した時は驚いたのだが、なんと彼女は声に出さなくても僕と、というか、樹と話ができるらしいのだ。いわゆるテレパシーという奴だろう。
考えてみれば僕の声は心の声であって実際音になっている声ではない。それが聞こえる彼女にテレパシーという能力があっても驚くことではないのかもしれない。波長の合う樹が相手の時だけに使える限定超能力といったところか。これを彼女が使えば見た目では女子高生が樹にもたれ掛かって木陰で休んでいるようにしか見えない。安心して昼間でも話ができるというわけだ。
では彼女が何を話に来ているのかといえば特に用事がある様子でもないし、単なる暇つぶしのためのようだ。彼女は学校であったことを色々教えてくれるし、僕は完子さんのその日の駄洒落のことや観察していて面白かった通行人のことなんかを話す。要するにあまり中身の無い無駄口かもしれないが独り言をブツブツ言っている時よりもずっと早く時間が経っている気がする。それだけ僕にとって充実した時間なのだろう。お陰で前々から感じていた僕の憂鬱さは梅雨と一緒にどこかへ消えたようだ。
ただ、ひとつ気になっていることがある。あれ以来、真奈美ちゃんや貴明君の話題が出ないことだ。何も進展がないのか、あっても言いたくないのか、そこのところはわからない。いつも笑顔の明るい彼女ではあるが何かを抱えている気がしてしょうがない。でも敢えて僕の方からその話題は振らないことにしようと思っている。彼女の中で何か決着すればその時は必ず僕に教えてくれるだろう。そう信じている。
さてと、まだ桜ちゃんが来るには早い時間帯だ。彼女に今日話す内容を整理しておこう。まずは今朝の完子さんの駄洒落はこうだった。
「薬屋の前と掛けまして私の健康状態と説きます。その心は、どちらも『イチョウが良い』でしょう。こんなのどうでショウカ。……ねえ、わかる? しょうか、ほら、『どうでしょうか』と『消化』を掛けているの、胃腸だけに。お客さんに伝わるかしらねえ?」
伝わるとか言う以前にそういうのは説明しちゃうと恥ずかしくなっちゃうものなんじゃないだろうか? これを桜ちゃんに説明するこっちの身にもなってほしいものだ。ええっと、他に面白いことはあったかな? 改めて考えてみると今日は特に目を引くことがなかった気がする。これは困った。さすがに完子さんネタだけで桜ちゃんを笑わせる自信はないぞ?
そんなことを考えていると見兼ねた神様が手を差し伸べてくれたのか、良い具合の来客があった。なかなか見事な禿頭のご老人と可愛らしいまだ五歳くらいの女の子のコンビだ。もしもこの二人が漫才コンビだったらダルマ&ドールのコンビを凌駕するほど奇抜で面白かったのだが、残念ながら見た目通りの祖父と孫という普通の関係らしい。なぜ僕にそれがわかるのかといえば彼らがこうしてここに現れるのは初めてのことではないからだ。商店街を歩いてきた二人はいつものように僕の前で立ち止まった。
さあ、いつもの奴が始まるぞ。
「有沙、ちょっとここで休んでいこうな。お爺ちゃん、疲れたよ」
「うん、おじいちゃん」
「それにしてもだいぶ暑くなってきたな。ニュースでも梅雨が明けたと言っていたし、これからますます暑くなるだろう。ふー、年寄りには堪えるよ」
「ねえ、『つゆ』って、なあに?」
「そうだな、『梅』っていう植物があるのは知っているだろう? ほら、梅干しの」
「うん。ちゅっぱいやつ?」
「そうそう。それで漢字で『梅の雨』って書いて『つゆ』って読むんだよ。そのまま『ばいう』っていうこともあるけどね。ほら、ついこの間まで雨が多かっただろう? その雨の多い期間を梅雨って言うんだ」
「梅干しが降ってくるの? あーちゃん、ちゅっぱいのは、いや!」
「アッハッハ、大丈夫、梅干しは落ちてこないから。ちょうど梅の実が熟す頃に雨が多くなるからそう呼ばれるようになったらしいよ。ああ、ただ他にも本来はカビが生えやすい時期だからカビの雨と書いて『黴雨』と言い、そこに梅の字を当てたという説もあるけどね。ほら、『バイ菌』って言うだろう? あの『バイ』は『カビ』っていう字なんだ。それと、なぜ『ばいう』が『つゆ』と呼ばれるのか? 一説には朝露とかの露から来ていると言われているが、梅の実が熟して潰れる時期だから『潰ゆ』なんて説もあるし……。そうそう、『ばいう』の語源だって毎日雨が降るから『毎雨』とか普段の倍の量、雨が降るから『倍雨』なんて冗談みたいな俗説も……」
「おじいちゃーん!」
「えっ、あ、なんだい?」
「あーちゃん、なんのはなしか、わかんなーい」
「そ、そうだよね。ごめん、有沙には難しいよね。つい夢中になってしまって」
爺さんは首を傾げる孫の頭を右手で撫でながら自分の禿頭に左手を当てて苦笑いを浮かべた。やはり今日もいつもの光景となったわけだ。孫に聞かれた質問に答えているうちにどんどん夢中になって自分の知識を引き出してしまい、結局五歳の子供には難しい話をしてしまう。これがこの爺さんの毎回の癖だった。
さて、今の爺さんの話を聞いてデジャブを感じた奴はいないだろうか? 前にどこかでこんな薀蓄を披露している奴がいたなあと思った、そこのあなた! 正解だ。僕が以前独り言でイチョウの語源がどうとか話したことがあったよね? そう、実はあれは全部この爺さんの受け売りなのだ。僕が同じ場所から動けない樹、イチョウであるのに妙に人間の知識を知っているのは三分の一くらいこの爺さんのおかげと言っても過言ではない。もちろん彼は孫のために話しているつもりなのだろうが結果的には僕が勉強させてもらっているわけだ。
……ああ、待てよ、ちょっと違うな。
一つ訂正しよう。今、彼の様子を見ていて僕は自分が間違っていたことに気が付いた。彼が薀蓄を話すのは孫のため? それは理由の半分でしかない。それがなぜなのかはすぐにわかる。薬局のドアが開いたからだ。
「権藤さん、こんにちは。今日もお孫さんとお散歩ですか?」
「あ、は、はい! 今日は良い天気ですな、完子さん」
「ほんとにねえ。ああ、そうそう、梅雨のお話、店の中まで聞こえていましたのよ。権藤さんは本当に物知りでいつも感心させられます。お陰様で私も勉強になりますよ」
「い、いやあ、そんなに大したことではないんですがなあ。照れますなあ」
赤い。爺さんが見事に赤いよ。実際に眼にしたことはないが「ゆで蛸」という奴はこんな感じなのだろうか?
そうだ、思い出した、そういえば桜ちゃんが貴明君についてこんなことを言っていたっけ。
あれだけジロジロ見てきたら自分に対して好意があるんだろうなって気付いちゃう。
そう、それはそのままこの爺さんにも当て嵌まる。散歩、いや、この場合「散歩を装っている」と言ってしまった方が正しいだろう、その途中に必ず僕の足元で休む彼は孫と話をしながら毎回チラチラと薬局の方を窺うのだ。しかも孫ひとりに聞かせようという割にはちょっと大き過ぎる声量なのである。その声に気付いた完子が今日のように出てくると爺さんの顔は輝き、彼女がたまたま忙しかったり、いなかったりして出て来ない時ははっきりと肩を落として落ち込むのだ。これだけわかりやすければ樹である僕といえども気付いてしまうというものである。そう、このお爺さんは完子さんのことが好きなのだ。孫と散歩というのは建前で彼は完子さんに会うためにここへ通って来ているに違いない。
さあて、この二人はうまくいくだろうか? 僕が今まで集めた情報を元に推測してみよう。まず完子さん。彼女はこの薬屋の娘さんで婿養子の旦那さんとの間に二人の娘さんがいるらしい。ただ現在の完子さんは一人暮らしだ。なぜなら旦那さんは十数年前に亡くなり、娘は二人とも嫁に行ってしまったからだ。まあ、独り身と言っても薬剤師の免許を持っていて明るく頼りになる完子さんの店にはいつもお客さんが絶えないし、たまに娘さんがまだ小さい孫を連れて来ることもあって、そんな感じは全然しないんだけどね。ただ、賑やかなことが好きな分だけ、一人の時の完子さんが寂しそうな表情を浮かべる時があるのを近くで見ている僕は知っている。
さて、次に爺さん。権藤丈夫という名前だったはずだ。確か、こちらも奥さんとは十年以上前に死別していて現在は一人暮らしと聞いたことがある。近くに住んでいる息子さん夫婦が共働きなので孫の有沙ちゃんの面倒をよく見ているらしい。ああ、そうだ、ここで訂正があります。さっきから僕は彼のことを爺さん爺さんと言っているが実は彼は完子さんとそんなに歳は変わらないのだ。でも色艶のいい、この丸い見事な禿頭を見るとつい爺さんと言いたくなるんだよね。まだ恋する心を忘れない現役の男性に対してちょっと失礼だったかな?
まあ、そういうわけで二人はそれぞれの人生を歩んできて、今はお互い独身というわけだ。子供さんたちも独立しているわけだし二人で第二の人生を考えるのも悪くないんじゃないかな? ただ一つの問題を除いてね。それは「完子さんが丈夫さんの気持ちに全く気付いてない」ってことだ。ありゃりゃ、決定的な問題だね、これは。
でも仕方ないことなんだ。完子さん、こういう色恋沙汰って奴に鈍いんだもの。死んだご主人との馴れ初めについてお客さんと話しているのを聞いたことがあるんだけど、結婚を決めた時も彼が三回プロポーズしてようやく完子さんに伝わったらしい。一度目と二度目は見事にスルーされてご主人涙目だったんだって。
この前、同じ商店街の魚屋さんの息子にお見合いの話を勧めていたみたいだけどさ、少しは自分のことも考えてほしいものだよ、完子さん。たぶん周りで見ている人はみんな丈夫さんの気持ちに気付いてやきもきしているよ。それなのに当の完子さん本人が毎回熱い視線を送られていることに気付かないとは。
「じゃあ、有沙、完子さんにさよならしなさい」
ん、あれっ、もう終わり? 焦れったい僕の気も知らず、いつの間にか二人は話を終えようとしているじゃないか。ああ、今日も丈夫さんは報われないのか。
「うん。オバちゃん、バイバーイ。またお爺ちゃんと遊んでね」
それを聞いた丈夫さんが一瞬ぎょっとしたのがわかった。おお、有沙ちゃん鋭い。しかし完子さんはやっぱり鈍かった、五歳児よりもだいぶ。
「そうね、また三人で遊びましょうね。有沙ちゃん、バイバーイ」
丈夫さんはほっとしたような、それでいて少し残念そうな表情を浮かべた。
「そ、それではまた。ほら、有沙、もう行くぞ」
小さな手でバイバイをする有沙ちゃんのもう片方の手を取り恐縮そうに頭を下げながら去っていく丈夫さん。その姿が商店街の道の角に消えるまで完子さんは見送っていた。それを見ていた僕は「完子さんも実は鈍いなりに満更でもないのかもしれないな」なんてことを思った。
……はあ。
来ない。
来なかった。
桜ちゃんが来なかった。
もう深夜になっているんだけど。
そりゃ初めて来てくれた時も夜中だったんだし、これから来てくれる可能性だってあるわけだが、どうもそんな気がしない。たぶん今日は来ないんだろう。そんな確信があるが、なぜなのかは自分でもよく分からない。でも恐らく当たっている。昨日の桜ちゃんも一昨日の桜ちゃんも一見変化はなかった。しかし僕の無意識の部分は桜ちゃんの異変に気付いていたのかもしれない。だから僕は桜ちゃんが今日来ないことをなぜか納得できてしまっているんじゃないだろうか? そんな気がしていた。
……なに、そんなに残念がる必要はないさ。昔はいつもこうだったじゃないか? 僕はいつも人間たちの聞き役に徹してきた。誰にも聞かれないことがわかっていながら独り言を続けてきた。彼女が来てくれていた期間より独り言を続けてきた期間の方がずっとずっと長かったんだ。慣れっこなんだ。
それなのにおかしいぞ、この孤独感は。一日彼女が来なかっただけなのに、もう二度と彼女が来てくれないんじゃないか、そんな恐怖に僕が囚われているのはなぜだろう?
……まさか!
ひょっとして、これが人間の言う「恋」という奴なのか? 樹の僕が人間に恋をしているって? そんなのしつこく「面!」ばかり狙う剣道くらい上段(冗談)が過ぎるというものだ。……くっ、なんか、駄洒落にもキレがない。
まさか、鈍いのは完子さんじゃなくて僕だったとでも言うのだろうか? わからない。こんな経験は初めてだ。やっと見つけた会話の出来る相手。運命の相手。僕が興奮する気持ちはみんなにもわかるだろう? でもそれを恋というのだろうか? 考えれば考えるほどよくわからなくなる。
そんなことを考えている時、僕は人影を見つけた。
桜ちゃん! おーい、桜ちゃ……、あれ?
なんだ、ぬか喜びだった。明らかに桜ちゃんとは違う、若いけどもう少し大人の女性だった。でも、いいや、答えの出ない問いに苦しめられるよりはいつもの人間観察と参りましょう。
僕は気持ちを紛らわせてくれる参拝客に珍しく感謝した。
たぶん会社の帰りなのだろう。スーツ姿の二十代前半くらいの女性だ。童顔なのにしっかりと塗られたメイクは正直似合っていないような気がする。おだんご頭は可愛くていいけどね。少し顔が赤いのは飲んできたからだろうが酔っているというほどではない。飲んだ勢いとか思い付きでここに来たというよりは何か決意を持ってやってきた、そんな表情に見えた。
「薬局の前、だったよね? えーと、ここかな? へえ、普通のイチョウみたいだけどなあ」
そりゃそうだ。普通のイチョウだもの。まあ少しお喋りかもしれないが。
「確か、名前とお願いを言ってからお願い事と関係している品物の中で一番大事なものを供えるんだよね? 人に見られないように気を付ける、万が一、誰かに目撃されたらそいつを追い掛けて口止め料を一万円渡さなくちゃいけない。そんな感じだったかな?」
な、なんじゃそりゃ! また微妙に噂が変わっているじゃないか。それにしても一万円って微妙にリアルな額だな、おい。
「……誰もいないみたいね。じゃ、始めようかな。えっと、椎原皐月です。彼氏が悪い友達と縁を切ってくれますように」
ほお、今までにはなかった系統のお願い事だ。不良の彼氏に足を洗ってもらいたい、そういうことなのかな? 健気なお願いだ。
「うーん、今のでいいのかな? もうちょっと詳しく話した方がいいかも。……ええと、あの、私の彼氏は『小本龍一』って言います。元々高校の時の先輩で私より一つ歳上だから今、二十三歳かな? 昔からバイクで走ったり違う地区のグループと喧嘩したり典型的な不良でした。でも根は悪い人じゃなくて、そんなところに私も惹かれたんだけど。初めて彼と会話したのは私が街でしつこく二人組の男からナンパされて困っている時でした。『おい、皐月、どうしたんだ?』なんて声掛けてくれて男たちを追い払ってくれたんです。私はその時、彼のことを全然知らなかったから『何でこの人、私の名前知ってるの?』とびっくりしたんだけど話してみたら同じ学校だって。実は前から私のことが気になっていたって告白されたんです。最初は迷いました。友達に相談したら学校でも有名なワルだって反対されたから。でも告白してくれた時の眼がとても真剣だったからOKしたんです。確かに私と付き合い出した後も色々トラブルはありました。でも私にだけはいつも優しかったから今まで付き合ってこられたんです。ここ数年は彼もまじめに働いていたし、私は『結婚してもいいかな?』なんて思い始めていて……。でも最近思い掛けないトラブルが起きたんです」
そう言うと彼女は顔を歪めた。泣くのを必死に我慢しているのがわかった。
「彼、一週間ぐらい前に仕事終わりに飲みに行って、その帰りに一人で歩いていたら三人組の十代の少年たちと言い争いになっちゃったらしいんです。彼らが狭い道を並んで歩いていたから酔っていた龍一が注意して喧嘩になったみたいなんですけど。それで向こうから手を出してきたから仕方なく彼も応戦して二人は軽くねじ伏せたらしいです。ところが最後の一人、リーダーの少年っていうのが信じられないくらい強かったらしくて、彼、あっさり負けちゃったんですよ。喧嘩が強い、誰にも負けたことがないっていうのが自分の唯一の自慢だって言っていた人なのに」
ほお、なんかアニメみたいな話だな。そして彼女も同じことを思ったらしい。
「なんか漫画みたいな話でしょ? しかもそれで話は終わらないんです。彼ったらすっかりその少年の強さに参ってしまって、その場で『弟子にしてくれ』って言ってそのグループに入っちゃったんですって。いくら強いって言っても相手は年下の子なんですよ。もうバカみたい。信じられない」
確かにそれは彼女からすれば幻滅する話だろうな。でも彼女の願いは悪い仲間から彼を抜けさせたいということだった。つまり愛想をつかしたというわけでもないらしい。
「私、呆れちゃったけど、でもそのことは別にいいんです。そういう変に子供っぽいっていうか純粋なところが彼の良い所だから。私が心配しているのはそのリーダー格の少年っていうのが、うまく説明できないけど、うーん、なんていうか『不気味』だからなんです」
不気味? ただ腕っ節の強い不良少年ではないっていうのか?
「私も遠くから一度見掛けただけですけど確かに異様な雰囲気の子でした。見た目はそんなに強そうには見えなくて、でもカリスマ性っていうか、言い過ぎかもしれないけど妖気みたいなものすら漂っていて。何より怖かったのは、彼を見た時、『龍一が心酔してしまったのも無理はない』と何の疑いもなく自分が納得してしまったことでした」
へえ、僕が知らないだけで世の中には色んな人間がいるものだ。樹と話せる桜ちゃんみたいな人間がいると思えば、人を惹き付ける妖気が漂う少年か。ぜひ僕も会ってみたいな。人間じゃない僕も惹き付けられるのか、実験してみたい。
「グループって言ってもまだ具体的に何かしているわけじゃないみたいです。何度か他の地区の不良グループと小競り合いを起こしたことはあるみたいだけど。でもあの少年はきっといつかもっととんでもないことをやりそうな、そんな気がするんです。その時、龍一も一緒にいたら巻き込まれちゃう、それが怖いんです。お願いします、彼をあの仲間から引き離してください。……あ、そうだ、お供え物、これを」
そう言うと彼女は首から何かを外し、僕に向かって掲げて見せた。金色の鎖の先に猫の顔の形をしたヘッドというデザインの可愛らしいペンダントだった。
「彼が初めて真面目に働いて、最初にもらった給料で買ってくれた誕生日プレゼントなんです。私、これを貰った時、嬉しくて泣いちゃって……。そんな思い出もあるから本当は絶対手放したくない物ですけど、これぐらい大切な物じゃないと、お願い、叶わない気がするから……」
えー、うわー、正直やめてほしい。そんな願い事、僕には荷が重すぎるよ。ねえ、君には僕の声は聞こえないの? ほら、桜ちゃんみたいな娘がいるんだからさ、君だって頑張れば僕の声が聞こえるんじゃないかな? おーい、もしもーし、聞こえる? やめてー。
「これでいいのかな? お願いします。私、信じてますから!」
あっ、駄目だ、こりゃ。この娘、眼がマジだ。
彼女は僕の呼び掛けには全く反応せずペンダントを大事そうに下へ置くともう一度深々と礼をして帰って行ってしまった。
参ったなあ、まさか、アクセサリーなんて貴重品を預けられてしまうとは想定外だよ。最初の給料で買ってもらったと言っていたし、そんなに高価な品物ではないとは思うけど、これは責任重大だなあ。警察に届けてくれるような親切な人が拾ってくれればいいけど、「おお、高そうなもん、落ちてるな、ラッキー♪」みたいなことを言う奴に拾われたらどうしよう。見守ることしかできない自分が焦れったい。
あーあ、ホント、桜ちゃん、来てくれないかな?
僕がそう思っている時にやってきたのは桜ちゃんとは似ても似つかない例のあいつだった。
「俺は天下の会社員♪ 俺が世界を支えてるー♪ 支点、力点、作用点♪ こうと決めたら、てこでも動かなーい♪ 課長の椅子は終始死守しゅるぞー、アハハハ」
出たよ、妖気ならぬ陽気! ゆうちゃん、久し振りだな。さっきまでの雰囲気はぶち壊しだけど、丁度いいや、うーちゃんのその後がちょっと気になっていたんだ。
「妻も娘も慕ってるー♪ 頼りになるからゆうちゃんにー♪ 部下たちからも尊敬されてー、上司の信頼も厚いんだー♪ 欠点ないのが欠点さー♪ そんな妄想、もうよそう……」
歌詞の終わりに合わせたかのようにゆうちゃんは僕の足元にぴたりと辿り着き立ち止まった。ここまでくれば立派な芸だな。意外と彼にはそっちの(どっちの?)才能があるのかもしれない。
「……気持ちわるー。飲み過ぎたかあ? 若い時はこのくらい平気だったのになあ」
ぼそっと呟いた彼が下を向いた。やばい、今回こそ「ゲーのあれ」なんじゃないだろうな? おい、待て、離せばわかる、じゃなかった、離れろ!
「おお? 高そうなもんが落ちているじゃねえか、ラッキー♪」
おまえかよぉぉぉ!
その拾い癖、いい加減どうにかしろぉぉぉ!
「……ああ、いかん、いかん。ラッキーじゃなかった。こいつはお供え物だからな。うっかり持って帰ったらバチが当たってこの前みたいな大惨事になりかねん」
ん、大惨事? いくら何でもそこまで娘に嫌がられたのか?
「おい、聞いてくれよ、樹~。この前ウサギのぬいぐるみ持って帰っただろう? もう娘は寝ていたから次の日渡そうと思ってリビングに置いて俺も寝たんだよ。そうしたら次の日の朝、娘の悲鳴で起こされてよ。びっくりして飛び起きて駆け付けたら、娘がぬいぐるみを指さして青い顔しながら腰を抜かしていたんだ。俺も酔いが覚めて、ぬいぐるみのことなんかすっかり忘れていたから何がなんだかわからなくてよ。家内も娘の様子が異常だからパニックになっていたしな。朝から大騒ぎになっちまった。まあ、その中でも俺は男だしな、一番に冷静さを取り戻して娘にこう聞いたんだ。『おい、真奈美、大丈夫か? そのぬいぐるみがどうかしたのか? しっかりしろ』ってな」
へ? ちょっと待て、今なんて言った? 真奈美だって!? おい、まさか、ゆうちゃんってあの真奈美ちゃんのお父さん!
「娘はさ、震えた声で『うーちゃんが、うーちゃんが戻ってきた~』って呟くだけだからさ。俺はこう聞き返したわけよ。『うーちゃん? これ、うーちゃんって名前なのか? 戻ってきたって何だ? こいつは俺が拾ってきたんだぞ?』ってな。あの時の真奈美の顔色の変化は凄かったよ。動画で撮っておけば良かった。人間の顔ってあんなに早く青から赤にチェンジできるものなんだな。黄色をすっ飛ばした赤の怖さ、お前さん知らないだろ?」
そう言うと彼は顔をしかめながら左目の下辺りを軽く撫でた。
「あざは消えたけどさ、まだ痛いぜ、くそっ。なあ、親をグーは無いよな? せめてパーでしょ、そう思わねえか? お陰で言い訳が大変だったよ。酔って転んだって言っても会社のみんなニヤニヤしやがって誰も信じねえ。ありゃ、いつもの夫婦喧嘩だと思われてるな」
いつも傷だらけなのか、ゆうちゃん……。ちょっと可哀想になってきた。ぷぷっ。
「まあ、確かに俺が悪かったんだけどさ。まさか、俺が立ち寄る直前に娘が同じ場所に願掛けしていたとはね。偶然って恐ろしいよな。道理でどこかで見覚えのあるぬいぐるみだと思ったわけだ。娘の部屋なんて最近入らせてもらえないんだからウサギが一つ無くなったことなんか気付くわけ無いっつーの。真奈美の奴、リビングに『うーちゃん』があったから生贄にされた『うーちゃん』が恨んで祟りに返ってきたんだと思ったんだってよ。馬鹿だよなあ、都市伝説なんて信じて」
そうですね。親の顔が見たいものです。
「全く誰が育てたんだ? グーはねえよ、グーは。そういうとこ母親そっくりなんだから。気が強くて強情っぱりで、でも笑うと可愛いんだよな。そこも似てる。アハハ」
はい、そうですか、ノロケですか。なんか聞いているこっちが馬鹿らしくなってくるよ。それにしても真奈美ちゃん、母親似で良かったねと言わざるを得ない。
「ああ、でも一つわかんねえんだよな。あのウサギを供えて何をお願いしたのか、聞いても全然教えてくれねんだよ。顔、真っ赤にして『関係無いでしょ』って怒るばかりで」
それはそうだ。父親に相談できることじゃないんだよ。たぶんそれは怒って顔が赤いんじゃないと思う。恥ずかしかったんだよ。ゆうちゃん、というより父親って奴はそういうところに鈍いものなんだなあ。
「あーあ、でもその可愛い娘もそれから口聞いてくれなくてね。なんか、前よりも関係悪くなった気がするな。なんで、こうなった……、あっ、この前の寿司置いていった時の俺のお願い……、そうか、おまえのせいか!」
うわあ、見本として教科書に出るくらいの「とばっちり」「逆恨み」だ。
「てめえ、家内へのご機嫌取りのためにわざわざ遅くまでやっている回転寿司屋見つけて買ってきた寿司折を供えてやった恩を忘れて逆に祟るとはどういう了見だ!」
知るか! それに伝説の寿司職人っていう設定はどこいった?
「はあん? なるほど、ああ、そういうことか! 寿司みたいな安物じゃ駄目だとそういうわけですか。植物の分際で偉そうに。どの口だ? どの口がそんな偉そうなこと言ってんだ? おめえは寿司じゃなくて何を食べたいんだ?」
いやいや、口は無いから。それに食べないし。
「ん、ペンダント? そういうことか! 最低でもこのくらい価値のあるお供えをしろと、そういう意味ですか、これは。これ見よがしに置いてあるもんな。はいはい、わかりましたよ!」
彼は一人で勝手に興奮していた。会話が成り立たない以上、僕にはどうすることも出来なかった。それにしても何がわかったというのか。彼は懐をゴソゴソやっていた。嫌な予感がする。案の定、彼が取り出したのは札入れだった。
「あの寿司、八百円くらいしたんだぞ? じゃあ、千円くらいが良いのか? 待てよ、このペンダント、千円ってことはないよな? じゃあ、三千円か! くうう!」
値段の吊り上げ方が可愛いな。馬鹿にするわけではないが課長って大変そうだ。
「あ、三千円ってのも中途半端か。男、根城雄介、腐っても一家の家長、しかも課長のくせにけち臭いなどと思われては心外であります! ここは五千、い、い、いや、一万円を~!」
ゆうちゃんの声は裏返っていた。動揺するほどの金額なら無理しなくてもいいのに。
「うへえ、一万あったらこの前見掛けたうまそうな鰻屋でお昼食ったり、前から気になっている竿とかリールを買う足しに出来るし、やっぱり千円くらいで、くっ……」
財布をじっと見つめたまま彼は暫く「うう」とか「むう」とか繰り返していた。そんなに悩むくらいなら見返りが約束されていないお供えなんてしないで趣味の釣りにお金使いなよ。なぜ現実と非現実を比較して悩むんだろうね。人間って言う奴はホントよくわからない。そう思った矢先に彼は急に電源が入ったかのように叫んだ。
「……よおっし! 決めた、俺は決めたぞ! 改めまして願い事は『娘との仲直り』ってことで。はい、それでは男、課長、根城雄介、思い切って全財産財布ごと置いていきまーす!」
はあ!? ちょっと待て! その答え、どこから出てきたんだよ? 財布とか選択肢になかっただろ? いやいや、そんなに自慢げに札入れを掲げられても困る。それ、お金以外にも身分証とか色々大事な物が入っているんじゃないのかよ。こら、おい、置くな、ペンダントの横にそれを置くんじゃない。後悔するぞ? わかるか? 絶対後悔するからな。酔いが覚めたら二日酔いとは違う意味で青くなるって。聞いてんのか? 聞こえないよな。いや、聞けよ、ゆうちゃん、おい、酔っ払い親父! なんで満足そうに「大きな決断した俺って格好いいぜ」みたいな笑み浮かべてんのさ? あ、向こう向いちゃった。帰るの? おーい、頼むから聞こえてくれ! 鼻歌交じりでご機嫌に帰るなー! ゆうちゃーん!
フラフラ揺れながら背中が小さくなっていった。僕の必死の説得も虚しく、ゆうちゃんは一人で騒ぎまくった挙句、財布を丸ごと置いていくという暴挙に出て、なぜか上機嫌で帰ってしまった。
ああ、もう明日の朝の光景が浮かぶようだ。青くなった彼がここに走り込んできて財布が誰かに拾われたのを確認し僕に八つ当たりをするのだ。まあ、彼はいい歳だし自分の足を痛めるほど蹴ってきたり、周りの目も気にせず怒鳴ったりはしないだろうがね。ただ恐ろしく恨みがましい眼で睨み付けてくるに違いない。
全く、もうこれ以上濡れ衣の恨みを人間から買うのはごめんだよ。どうか、心の優しい人が現れて財布とネックレスを交番に届けてくれますように。桜ちゃんと出会わせてくれた神様のことだから、この願いも叶えてくれるだろう。
そう思った僅か三十分後に僕は神様がそんなに甘く無いことを再び思い知らされることになった。
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