第6話





 夜の雨。


 僕は好きだ。


 まあ、樹なのだから命に関わる雨が好きなのは当たり前なのかもしれない。でもそういう実用的な部分とは違う意味で僕は夜の雨の雰囲気に風情のようなものを感じてうっとりしてしまうのだ。街灯の光を雨粒がキラキラと街に装飾していく様子は得も言われぬ美しい光景だと思う。


 あっ、但し、そうかと言って雨なら何でもいいというわけではもちろんない。土砂降りなんかの時はうるさいし何も見えなくなっちゃうから普通にうざい。やはり今夜のように「しとしと」な感じの雨が最高だ。


 つまり肝心なのは適度な静けさってことだ。昼間のように不良やカラスや二日酔いがワーワー言わないからこそリズミカルで小さな雨音が楽しめて良い雰囲気を味わえるのだ。最近の夜はあまりに騒がし過ぎたのでこんな夜があってもいいかもしれない。


 さあ、クラシックに勝るとも劣らない雨のパーカッションを一人でのんびり聞くとしよう……、って、思った瞬間に人が来たよ。真っ直ぐこっちを見ているし、やはり僕に用があるみたいだ。ビニール傘を差した男、三十代半ばくらいかな? 短く刈り上げた髪型。チェックのシャツにジーパン。ちょっと猿っぽい顔。初めて見る人だ。表情は真剣だし都市伝説を面白半分で茶化しに来たって感じでもない。これは純粋に願いを叶えて欲しくてきた人間の顔だ。だからこそ厄介だった。


「……ここか。なるほど、確かに霊験あらたかな雰囲気のイチョウだ」


 霊験? いや、あなた、眼、大丈夫ですか? 眼科行った方がいいかもしれないですよ?


「あの占い師、よく当たるって評判だったし、アドバイス通り来て良かったな」


 ああ、やっぱり面倒くさい奴だ。占いとか簡単に信じちゃう人だな、これ。


「じゃあ、まず幹の周りを五周回るんだったな。その後、土下座の格好で五分、と」


 はあ!? 初めて聞いたぞ、そんな設定。おいおい、また新たなパターンかよ。どんな儀式だよ、それ? えー、本当にやっちゃうの? あっ、傘置いちゃった、雨降っているのに。……ん、何か迷ってる? 右回りか左回りか忘れちゃったのか。どっちでもいいよ。どうせ意味ないんだから。おっと、結局左回りにしたのか。……それってスキップ? しかも満面の笑みで。それも占い師の指示なの? 絶対そいつドッキリの企画者か何かで笑いを堪えながら隠しカメラの映像を見ているに違いないよ。あ、五周終わったみたい。ああ、木陰とはいえだいぶ下は濡れているのに正座なんかしちゃって。きっと後で後悔するよ? そんな人間、僕はいっぱい知っているんだから。


 ……長いな。目の前でずっと土下座されているこっちはどんな気持ちで見守れば良いんだよ? 妙な罪悪感を覚えちゃうじゃないか。そういえば占い師って言っていたよね? 何でその人から願いを叶える方法を占ってもらわないの? アドバイスって、たらい回しにされただけじゃないか。あんた騙されただけなんだよ、って土下座タイムは終わったみたいだな。


 男は顔を上げると神妙な面持ちで話し出した。


「イチョウ様、お願いがございます。し、小生、井田悟志と申します。歳は三十九、この近くの『丸』というスーパーで働いております。以後みし……、お見知りおきを」


 なに、その妙な言葉遣い。これもインチキ占い師に吹き込まれたのかな?


「お願いというのは他でもありませぬ。ある女性とのことでございます。遡ること、二年前、小生は同僚に連れられて、ある居酒屋に参りました。そしてそこで働いていた田辺美織という女性と出会ったのでございます。一目惚れでした。彼女に会うためだけに苦手なお酒を飲みにそこへ通いました。少しずつ彼女と話すようになって連絡先を交換してプライベートでも会うようになり、俺、いや小生は結婚を意識するようになったのでございます」


 この口調、怪談聞いているみたいで気持ち悪いんだけど。普通に話してくれないかね?


「彼女も僕のプロポーズには喜んでくれました。しかし結婚に関しては一つ問題がございました。彼女は亡くなった前のご主人との間にお子様がいらっしゃるのでございます。現在十一歳の女の子で難しい年頃です。初めて会った時から彼女は小生のことを快く思っていないようでした。それでも会う時間を重ね交流を続ければきっと心を開いてくれる、そう信じてきました。でも未だに駄目なのです。結婚したいという旨を娘さんに伝えた時も無言で彼女は家を飛び出して行ってしまいました。もうどうしたらいいのか、小生にはわからないのでございます。美織は結婚して一緒に住むようになればあなたのことを受け入れてくれるはずだと言うのですが、俺にはそうは思えません。むしろ唯花ちゃん、……ああ、娘さんの名前です、の意思を無視して結婚なんかしたら余計に彼女は心を開いてくれなくなるんじゃないかって思うんです。どう思いますか、……って、あれっ、俺、なんで樹に向かってこんなに真剣に話し掛けているんだろ? 答えてくれるわけ無いよな。ああ、やっぱり俺、疲れている。なんか占い師に言われるがまま来ちまったけど馬鹿みたいだ。誰かに見られたらいい笑い者だよ、ハハ」


 そう言って自嘲気味に笑う彼の相談に乗れないのが悔しかった。ただ、聞こえていないとわかっていてもひとこと言いたい。最後のざっくばらんな口調の方があんたには似合っているぜ。ひょっとしたら、その唯花ちゃんって娘にもいらぬ遠慮をして不自然に気を使った感じで接しちゃっているんじゃないの? 子供は大人の誤魔化しなんてすぐ見抜くんだよ。偽りのない言葉でぶつかっていかないと一生わかり合うことなんてできないよ?


 井田さんは立ち上がりズボンの汚れを払った。そして溜息を一つ吐き、傘もささずに胸の内ポケットから煙草を取り出した。僕の木陰で雨を避けながら火を点ける。煙草の煙は苦手だ。いつもなら文句の一つも言うところだが今日は許そう。暗い雨の中、ぽっと点いた寂しげな煙草の火はなかなか風情があるものだった。揺らめく煙は時間をゆっくり感じさせる気がする。


 いったい彼は今、何を考えているのだろう? 過去のことか、未来のことか、それとも現在のことか。煙草が半分ほどの長さになった時、彼は携帯灰皿を取り出した。溜息と一緒に彼がそこに仕舞い込んだものはたぶんもみ消した短い煙草だけではない気がする。内ポケットに携帯灰皿を仕舞った時、なぜか彼は少し吹っ切れた表情になっていた。


「悩みを口に出して話せただけでも随分すっきりしたな。迷ったらまた来てみるか」


 そう言うと彼は傘を取り、僕をちらりと見て「じゃあな」と大きく手を上げてから帰っていった。


 彼の背中を見ながら僕は思った。もしかしたら言葉が通じないからこそ思いをぶつける相手として役に立てる、そんなこともあるのかもしれない。眼から鱗が落ちるとはこのことか。


 すっきりさせてもらったのはこっちの方だった。もう迷うのは止めよう。小学生のホラから始まった都市伝説なのかもしれないが、誰かがそれを信じてやってくる限り、僕はここで彼らの話に耳を傾けよう。それが僕にしかできない役目なのかもしれない。初めてそう思えた。


 引き続きの雨。今夜はずっと雨か。梅雨は明けたはずなのに。


 名残惜しいのかな?


 ふとそんなことを考え、僕は苦笑いを浮かべた。名残惜しいのは僕なのか? それとも季節自身なのか? 或いは過ぎ去っていくものに対して寂しさを覚えるのは生ある者の性なのだから、この雨を見つめるみんながそう思っているのかもしれない。どれにしたって雨が降ることへの科学的理由にはなっていないわけだ。梅雨が名残惜しいから雨が降る、そんなことがあるはずない。本当のところは低気圧がどうしたこうしたという話なのだろう。しかしそんな理屈を付けるのはつまらないと思ってしまう。僕も随分と人間並みに矛盾した考え方をするようになったものだ。それがおかしくもあり、なぜか心地良くもあった。

 

 ……ん、足音? 


 雨音の中、確かに人の歩く音がする。ゆっくりだが、こちらに向かってきているようだった。


 ……よし、セーフ。


 下駄の音じゃなかった。取り敢えずひと安心。丑の刻参り女はもう御免だからね。この前は釘を刺される直前に間一髪助けられたけど、あんな奇跡はもう起こらないだろう……、っていうか、あのランニングおじさん大丈夫だったろうか? おじさん、あなたの死は無駄にしません。あっ、死んでない? そうだといいけど。あれだけ怖い思いしたらもうここを走ろうとは思わないだろうし、無事を確かめる方法ないんだよね。まあ、こんな田舎でそんな事件が起きたらニュースになっているはずだからうまく逃げ延びたんだろうな。あのおじさんに何かあったら寝覚めが悪いからそう信じようっと。いや、僕、寝ないんだけどね。


 さて、音が近くなってきたな。誰だろう? 少しずつ姿が見え……、えっ!?


 僕は絶句した。雨で煙る夜の商店街をとぼとぼと歩いてきたのは上下ジャージ姿の桜ちゃんだった。ところが明らかに様子がおかしい。俯き加減で表情もよくわからない。それに傘も差していなかった。


『ああ、もう、びしょ濡れじゃないか! いくら暖かくなってきたとはいえ風邪引くよ?』


 そう呼び掛けてみたが返事はなかった。もうとっくに僕の声が聞こえるはずの距離なのに。戸惑う僕を尻目に枝の下まで歩いてきた彼女は何も言わず、くるりと背を向け、そのまま僕の身体に寄り掛かった。無言。僕も話し掛けるのを止めて彼女が口を開いてくれるのをじっと待つことにした。


 雨音の中、どのくらいの時が経っただろう。俯いた状態のまま彼女がようやく口を開いた。


「……何も聞かないの?」


『話したくなったら話してくれると思ってさ』


「そうか。うん、そうね、じゃあさ、あるお伽話するね」


『お伽話?』


「そう。この物語はフィクションであり、登場する団体・人物などの名称はすべて架空のものでーす、って奴よ」


『じゃあ架空の話なんだね?』


「そうよ。じゃあ、話すからね。ある所に……、えーと、チェルという女の子がいたの。気が強い彼女は昔からトラブルを起こしてばかりだったけど、そんな彼女にも同じ歳の二人の親友がいた。一人は……、ニシキという名の優しくて恥ずかしがり屋の女の子、もう一人は……、ああ、ホクという真っ直ぐだけど鈍感で不器用な男の子。三人は子供の頃からどんな時もいつも一緒だった。でもある日チェルはホクが自分に好意を持っていることに気が付いてしまった。そして彼女はニシキがずっと前からホクを好きなことを知っていた。二人とも大事なお友達。彼女は困ってしまったの」


『……ねえ、僕、すごく似た話を知ってんだけど気のせいかな?』


「気のせいよ。そうそう、君はどっちかっていうと『木の精』って感じだけど。アハ、ハハ……」


 彼女はそう言って笑ったが顔は伏せたままだった。はあ、無理に明るくしているのがバレバレだよ。痛々しくて見てられない。


「じゃあ、話、続けるね。ここから先は君も聞いたことのない話のはずだから。ええ、それでは気を取り直しまして、ごほん、始めます。えーと、それで悩んでいたチェルに更なる試練が襲い掛かったわけ。気持ちを抑えられなくなったホクがついに告白してきたのよ」


『ああ、そうか、恐れていたことがついに……』


「な、何のことよ、恐れていたことって? お伽話、架空の話だって言ってるじゃん? もう! 続けるよ? えーとね、それで三人の関係は決定的に壊れちゃったわけよ。複雑に絡んでしまった人間関係という名の糸を三人とも解けなくなっちゃったの。チェルはさらに悩んだ。そして一つの結論に至った。三つの糸が絡んでいるならそのうちの一本の糸を切断してしまえば残った二本は解けるかもしれないって」


 嫌な予感しかしない話だった。切断する糸って、まさか……。


「チェルの計画には他の人間の手助けが必要だったけど幸いにも彼女は明るい性格で二人以外にも友人は多かった。親友とまでは呼べなくても話をよくする程度の友達ね。それで充分だった。チェルはまず二人がいない時にその友達たちの所へ行き、ホクの悪口を言った。『あいつ、ブサイクなくせして私に告白してきたのよ。鏡見たことあるのかな? アハハ』みたいなひどい悪口。噂は次の日にはクラス中に知れ渡った。全くの嘘じゃなくて真実が含まれた噂っていうのは信じる人が多いからね。それから数日後チェルは同じ方法で次の噂を広めた。『ニシキってさ、ホクのこと、好きらしいよ。似合いの不細工カップルだよね。アハハ』って奴。その噂も次の日すぐに広まった。放課後、見たことがないほど怖い顔をしたホクがやってきた時、チェルは自分の計画がうまくいったことを知った」


 桜ちゃん、涙声じゃないか。架空の話だって自分で言ったくせに。


「ホク……、貴明は『なんで真奈美の悪口を言うんだよ! あいつ、泣いてたんだぞ!』と怒っていた。私は『本当のことを言っただけよ』と突っ撥ねた。『何よ、貴明、私を好きって言っていたんじゃなかったの? 私が告白の返事をしないから真奈美に乗り換えたんだ? ひどい男。あんたがキモかったからさ、当り障りのない断り方を考えていた所だったのに。真奈美も真奈美だよ、勝手に私へ嫉妬して。悲劇のヒロイン気取りなの? 馬鹿みたい。あんたらのおままごとにはもう付き合っていられないっての。被害者ぶっているお二人はお似合いかもね。お馬鹿さん同士、付き合っちゃえば?』、そんな感じのこと言ったの。ああ、思い出すだけでもひどい女だね、私。親以外から引っ叩かれたのは初めてだったけど当然だよね」


『……お伽話のヒロインさん。もう少し上手い方法は無かったのかな?』


「あったかもしれない。でもこれしか思い浮かばなかった。ホクに負けないくらい不器用だからね、私は。でもうまくいったよ。貴明、『おまえがそんな女だとは思わなかった』って言っていたし。あれなら二度と告白なんかして来ないでしょ。あいつ、不器用なりにマメだから真奈美のこともうまく慰めてあげると思うし、それを切っ掛けに二人は良い関係になるんじゃないかな? そうなれば私なんかいない方がいいんだよ」


『そうかな? 二人とも大事な友達だったんだろう? 向こうだってそう思っていたはずだ。そんなやり方じゃ貴明君と真奈美ちゃんの方も傷付いちゃったんじゃないの?』


「そうかもしれない。でもね、私の方だって自分の心にけじめを付けなくちゃいけなかったの。真奈美の貴明に対する気持ちに気付いて、貴明の私に対する気持ちに気付いて、そして私も気付いちゃったんだもの。私が感じていたのはただの友情じゃなかったって。だから……」


『そうか。君も貴明君に恋愛感情を……』


「……それはちょっと違うんだ」


『違う? 何が?』


「あのさ、『二人に』なんだよ、私が『好き』っていう気持ちを持っていたのは。確かに貴明のことをいつの間にか恋愛の相手として意識していた。でもそれとほぼ同じ意味の感情を私は真奈美にも持っていたみたい。それに気付いちゃったんだ。自分でもなんでこうなったのか、よくわかんないんだけど。おかしいよね? でもさ、自分には嘘吐けないからね。だから私は二人から離れなくちゃいけなかったの。さっき、関係の糸が絡んだって言ったでしょ? あれは半分本当で後の半分は嘘なの。本当に絡んだのは私の感情の糸の方だった。今、それを解いておかないと取り返しがつかなくなると思ったの」


『……そうか、色々悩んでいたんだね、君も。わかった、君が自分で覚悟して決めたことならそれで良かったんだろう。でもそんな悪役引き受けちゃってさ、これから大丈夫なのかい?』


「まあね。クラスのみんなからは高飛車女っていう称号を頂いちゃったけど、まあ、何とかなるでしょ。卒業するまでの辛抱だし、今更あの二人以上の友達なんてできるわけないし一人の方が逆に気楽でいいかもね」


『……ねえ、一人じゃないよ? 僕がいるじゃないか』


 彼女は「えっ?」と言い、顔を上げ、こちらを振り返った。頬が濡れているのは雨のせいだけではないだろう。


『ちょっとだけ変わっているけどさ、僕だって君の友達だよ』


「……ぷっ、アハハ、『ちょっと』だけ?」


『うっ、少し、いや、だいぶ、まあ、かなり変わっているけどさ! 仕方ないじゃんか……』


「ごめん、ごめん。そんなに落ち込まないでよ。アハ、おかしいな、私の方が慰められに来たはずなのに。なんで私が君を元気付けなくちゃいけないわけ?」


『そうだよね。うん、やっぱり君は笑っている方が可愛いよ。樹の僕から見てもね』


「えっ、告白? うわあ、私、樹から告白されちゃったよ」


『ああ、いいね、デートとか一回してみたかったんだ。ここを並んで歩いたりさ』


「私と君じゃ腕は組めそうにないね。そうだ! 向こうのお寺に実をいっぱいつける健康そうなイチョウの雌株がいるんだけど紹介してあげようか? お似合いだと思うなあ。まあ、君と違って無口な娘なんだけどさ」


『話の合わない、というか出来ない相手なんて勘弁だな。大体イチョウの木が二本並んで街をノシノシ歩くなんてデートというよりホラーだよ』


「アハハ、そうだね。うん、やっぱり、君と話していると元気が出るよ」


『そうさ、その調子。君は元気で明るい方が似合うよ。でもね……』


「ん? でも、何なの?」


『こんな静かな雨の日の夜くらい我慢せずに思い切り泣いても良いんだよ?』


「えっ……、も、もう! せっかく我慢して、ん、う、うう……」


 そのまま彼女は僕の体にしがみつき、「うわーん!」と子供のように声を上げて泣き出した。


 こんな時だけは自分に腕が無いことを悔やまずにはいられなかった。







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