第9話




 やっと夜になった。


 相変わらず通行人もまばらだし、僕を訪れるものもいない。


 そういえば桜ちゃんが来なかったこの一週間、僕の所にお願いに来る人間もいなかったことに今更気付いた。ひょっとしたら唯花ちゃんが怯えていたように僕についての悪い噂が結構広まってきているのかもしれない。どうやら僕は完全に願いを叶える樹から一転して呪いの樹になってしまったようだ。


 これで少しは面倒な願い事をする人間が来なくなるだろうか? 嬉しい半面、なぜかちょっと寂しい気にもなってしまう。無い物ねだりなんて実に人間っぽい考え方だ。僕は段々イチョウから遠ざかっているような気がしないでもない。そうなると僕は一体何なのだろう? 人間でもないイチョウでもない、わけのわからない存在。そんな僕の存在意義とは一体何なのか。恐らく一生答えの出ない難問であろう。それに頭を悩ませながら(だがそれは決して嫌な時間ではなかった)僕は静かに桜ちゃんを待った。


 完全に人の通りが途絶えた深夜、「トットット」と可愛らしい足音をさせながら桜ちゃんはやって来た。金物屋の角から現れたその姿は自らの名前を主張しているようなピンクのTシャツにデニムのパンツという格好だった。制服姿の彼女を見慣れている僕からすると新鮮ではあるが別に驚くほど珍しいという姿ではない。しかし彼女が目の前に近づいて来た時、僕はぎょっとした。「彼女の服に」ではなく「彼女が持ってきた物に」である。彼女は左手に紙袋を持っていたのだが、歩きながらその中身を取り出し確認しているところだった。


 軍手。ジャージの上着。……えっ、地下足袋? ……は? 縄!


 あまりに意表をついた持ち物だった。それらの持ち物から想像できるのはただ一つだ。足元まで彼女が来ると僕はこう言った。


『桜ちゃん、高校は辞めちゃうの?』


『えっ、なんで? 辞めないよ? 私、そんなこと言ったっけ?』


『じゃあ、卒業後か。ちょっとびっくりしたけど応援するよ。目指すんでしょ? とび職』


『ちゃうわ!』


『えっ、違うの? どう見てもそんな持ち物だけど』


『まあ、確かにこれからやろうとしていることは鳶みたいなことだけどさ。でも一夜限りの大勝負って感じだから。こんなことするのは今日だけなの』


『いったい何をしようって言うのさ?』


『君に登る』


 ……ふえ? もし今、僕の独り言を聞いている桜ちゃん以外の第三者がいるのならこう問いたい。あなたは「君に登りたい」などと誰かに言われたことがあるだろうか? そんなことを言われた時、どう返事をしたらいいのか、僕には全くわからない。恐らくそんな返事を前もって用意しているのは富士さん、じゃなかった、富士山ぐらいのものだろう。参ったな、山の気持ちなんて考えたこともなかった。さて、どう返事したらいいものか?


 時間にすると僅か数秒だったろうが僕の頭はめまぐるしく回転した。一応言っておくがもちろん比喩だ。ばっさばっさ音を立てて僕の枝や葉が回ったという意味ではない。思考回路が焼き切れる寸前に回転がようやく止まった。導き出された返事。僕はそれを発した。


『そこに山があるから? ……えっ、なにそれ?』


『……あのねえ、「なにそれ?」はこっちのセリフでしょうが。いきなり意味分かんないこと口走らないでよね。気味悪いじゃない』


『ごめん、山の気持ちとか考えているうちに頭が回り過ぎたらしい。ちなみに登山家のマロリーが言ったとされて日本では有名な言葉だけど本当に本人がそう言ったかどうかは実際はっきりしないらしいね』


『そんなこと聞いていないって。山って何よ? 私は君に登るって言ったのよ。聞いてた?』


『聞いていたけど意味がわからないから僕は混乱したんだよ。僕に登るって何さ?』


『そのままの意味だよ。そのための装備なの。わざわざホームセンターで買ってきたんだから感謝しなさい。私の小遣いがどれだけ少ないと思って……』


『そんなこと聞いていないって。……あれ、どっかで聞いたセリフだな? まあ、いいか。僕が言いたいのは何のために僕に登ろうなんて思ったのかってこと』


 そんな僕の質問に対する彼女の答えは思ってもいないものだった。


『カラスよ』


 カラス? 確かに僕の頭の上にはカラスの巣があるけど、まさか、そんな……。


『いくらお腹が減っているからってカラスはまずいんじゃない? いや、味の「不味い」じゃなくてさ。一応、街の中にいても野生の鳥だからどんな菌やウイルスがあるかわからないし、それに法律や条例なんかで勝手に捕ることは禁止されているはず……』


『食べねーよ! いや、その前に捕る気もないって』


『じゃあ、巣が目的なの? 桜ちゃん、勘違いしているよ。食べられるのはツバメの巣だからね。ああ、一応言っとくけど日本の燕が作る泥や草が混じった巣とは全く別物だし。中華食材として有名なツバメの巣は海岸近くの崖に巣を作るある種の鳥が唾液腺から出す分泌物で作る物で……』


『だから食べませんって! 巣の中に用事があるの。カラスは好奇心が旺盛で光る物を巣に持ち帰ったりすることがあるって話、聞いたことない? 昼間、君の話を聞いていた時、それを思い出したのよ』


『そうか! 皐月さんのペンダント! 確かにカラスが持っていったのなら見つからないわけだ。でもそんなうまい話が……』


『だから確かめてみればいいじゃない。無かったらそれで仕方ないし確かめもせずに諦めるなんて私の性に合わないの。本当はすぐにでも試したかったけど昼間じゃ木登りなんて恥ずかしくて出来ないし、よく考えたらそもそも木登りの仕方なんて知らなかったからネットで色々調べてきたのよ。ねえ、この縄どうやって使うと思う? 実はね、輪っかにして足に嵌めるのよ。えへへ、すごいでしょ?』


 これから危険な木登りをしようという割になんか楽しそうだな……。


 ん、あれ、そういえば大事なことを忘れているような気がする。……あっ、そうだ、昼間からモヤモヤしていたことがあったんだよ!


『ねえ、桜ちゃん。昼間さ、僕の言葉を聞いて何かに気付いたような感じだったよね? でも僕、カラスを思い起こさせる言葉なんか言ってない気がするんだけど?』


『ああ、あの時ね。言っていたよ。自分のセリフを思い出してみてよ』


『ええっと、「もっと考えてみよう。焦っても仕方ない。少し落ち着こうよ」でしょ?』


『ああ、それじゃ駄目なんだよ。「から」が抜けているもの』


『から?』


『あの時、君はこう言ったの。「仕方ないから少し落ち着こう」って。ゆっくり区切って読むとわかりやすいかな? 「しかたない、からす、こし」、……ね?』


『……はあ? 駄洒落かよ! 真剣に考えていた自分がアホみたいじゃないか!』


『何を怒っているのよ? こっちだって真剣よ。だってあの時、駄洒落の言い合いみたいになっていたでしょ? そのお陰で言葉に対して敏感になっていたからカラスって言葉に気付いてペンダントを持っていったのはカラスなんじゃないかっていう発想ができたのよ』


『はっ、そう、ですか。発想だけに』


『あのねえ、今はそんな駄洒落言っている場合じゃないでしょ? これから女の子が難攻不落のイチョウに登ろうっていうんだから緊張感を持ちなさいよ』


『え、あ、ごめんなさい』


 思わず謝ってしまったが、うーん、なんか理不尽だ。それと僕の体は枝打ち職人さんがたまに登っているので難攻不落というのは間違いなんだけどね。まあ、いいか。


『よろしい。じゃあ、準備するね。グズグズしていると人が来ちゃうかもしれないし』


 そう言った桜ちゃんは僕の目の前で地下足袋を履き始めた。ほお、もっと妙な感じになるかと思っていたが意外に違和感はない。うーむ、女の子に向かって地下足袋似合うねっていうのは失礼になっちゃうだろうか? 悩むところだ。まあ、本人はそんなことなど気にもしていないようで淡々とジャージに袖を通し軍手を装着していた。疑っていたわけではないがどうも本気らしい。僕は途端に心配になった。


『ねえ、桜ちゃん、危ないから辞めない? 誰かに頼もうよ』


『木登りなんて誰に頼むのよ? 余程の理由がない限り誰も登ってなんかくれないって。大丈夫よ、私、運動神経いいんだから。猿みたいにスルスル登ってあげるよ』


 それを聞いた僕が思わず「猿も木から落ちる」という不吉な諺を思い浮かべたことは彼女には内緒にしておいた。


『そうしたらさ、てっぺんで『へーい、イチョウに登るのなんか簡単だぜー、おまえ、さるすべり見習えよー』って叫んでやるから。アハハ』


 そんな憎まれ口を叩く彼女の足が少し震えているのを僕は見逃さなかった。やっぱり怖いんだろう。そりゃそうだ。僕だっていきなりイチョウに登れなんて言われたら怖いと思う。実際イチョウの僕がイチョウに登るシーンを想像してみたら……、ぷっ、おっと、思わず吹いてしまった。


『あー、笑ったな? どうせ女なんかに登れないと思って馬鹿にしているんでしょ? ひどーい、頭にきた! 意地でも登ってやるんだから』


『え、あ、あの、違うんだよ。僕が笑ったのは桜ちゃんのことじゃなくて……』


『言い訳なんかしなくて結構です。私が見事に登って降りてきた時は土下座して謝ってもらいますからね。覚悟していなさい』


 僕にどうやって土下座しろと? そう言いたかったが言えるような雰囲気じゃなかった。


 怒りのせいか、というより成果だろうか、すっかり震えの止まった彼女は輪にしたロープに両足を入れると僕に両腕で抱き着いてきた。「よいしょっと!」と声に出して気合を入れた彼女は腕にぐっと力を入れ、体を浮かせると、輪っかに入れた状態の両足の底で僕の幹を挟み込んだ。なるほど、輪で固定されることで足が開かなくなり足の底で挟んだ時の摩擦がしっかり効くようになるのか。感心した僕が感想を言う暇もなく桜ちゃんはまた腕を伸ばした。今度は「とお!」と声を出した彼女がまた体を持ち上げる。「やあ!」、「ほい!」、「うぬ!」と次々に奇声を発して登っていく彼女が僕は色んな意味で心配になった。


『ちょっと桜ちゃん、大丈夫? ペース早過ぎなんじゃない? もっと慎重に行った方が……』


「うわあ! び、びっくりしたー。ちょっと、急に話し掛けないで! 思っていたよりずっとキツイんだもん。慎重にペースを守ってとか、そんな悠長なこと言っていたら筋肉が持ちそうもないの! 取り敢えず枝のある所まで一気に行くから、それまで黙って応援していて!」


『は、はい……』(黙って応援って難しいな……)


 テレパシーを忘れるほどの彼女の気迫に押され、僕は黙った。筋肉がやばいって? だから言わんこっちゃ無い。ドキドキしながら見守る僕の体を彼女はハアハア言いながらもその後なかなかのスピードで登っていった。最初の枝に手が届く。「ふはあ!」と気合を入れ、どうにか体を持ち上げた彼女は枝に腰を掛けると足の縄を外し抱き付くように僕の幹に体を預けてフウっと息を吐いた。


『きっついよぉー! おかしいな? もっとスイスイ楽ちんに登っていけるはずなのに』


『君が調べたのってプロのやり方なんじゃないの? たぶん林業とかしている人でしょ。もっと楽に登る道具とか調べればあったんじゃない?』


『ああ、そういえばスパイク付きの足袋とかあったみたいだけど』


『さすがにそれは売ってなかったのかい?』


『売っていたとしても買わないよ。そんなの使ったら君に傷が付いちゃうじゃない』


 そのセリフに思わず僕は感動した。汗だくの彼女を見て思う。代われるなら代わってあげたいと。但し、そうなると僕が桜ちゃんを登ることになってしまうわけだが。


『これで上に何もなかったらがっくりしちゃうな。……ねえ、ここからじゃ君にはわからないんだよね? 巣の中にペンダントがあるかどうかは?』


『うん。もちろん巣があることは感覚として判るんだけど、その中までは見えない感じだね。ごめん』


『ああ、いいよ、謝らなくても。どうせ、無事に下に降りたら土下座してもらうから』


 ま、まだそんなことにこだわっていたのか。意外と根に持つタイプなんだな。ハンカチで汗を拭く彼女を見ながら僕は今度こそ発言に注意しようと心に決めた。


 五分ほど休んだ彼女は木登りを再開した。ここからは枝のあるゾーンになる。使わない縄を腕に引っ掛けた彼女は慎重に次のルートを見定めながら器用に少しずつ枝を掴みながら上へ移動していった。猿とまでは言えないが最初に心配していたよりずっと上手いものだ。だけど油断は禁物だろう。再度息が上がってきた彼女をさっきみたいに脅かさないように気を付けながら僕はそうっと応援をした。


『頑張って、桜ちゃん。でも無理しなくていいからね?』


『ハアハア、わかっているって。弘法も樹から流れるっていうからね。気を付ける』


『おいおい、弘法も筆の誤りと河童の川流れが混じっているよ。確かに弘法大師や河童は樹登りできなさそうなイメージだけどさ』


『えっ、何が?』


 僕は彼女のボケに突っ込んだつもりだったのだが彼女はきょとんとしていた。どうも計算されたボケではなく疲れから来た天然ボケだったらしい。桜ちゃんは結構体力的にやばい状態なのかもしれない。そろそろ止めた方がいいかな?


 僕がそう思った瞬間、突然、彼女がびっくりするほどの大声で叫んだ。


「……あった! あったよ、巣! あれでしょ?」


 喜びからか、興奮しているようだ。僕は慌てて彼女に『しー、まだ夜だよ』と注意した。


『うわ、ごめん、つい嬉しくて。よし! もう少しだね』


 目的の巣を見つけ彼女は元気を取り戻していた。さすがに疲れているのか、動きはゆっくりだったが確実に巣に近づいていった。


 数分後、彼女は見事に巣のある場所まで到達した。下からでも彼女が巣を覗きこむ様子がわかった。一週間ほど前に雛は巣立っているし親鳥も今はいないはず、つまりカラスの空の巣だ。そこに何かがあるのか。僕は息を呑んだ。答えはどっちだろう。あれっ、彼女の反応がない。ああ、やっぱり無かったのかと僕が諦め掛けた時だった。


「……うわあ、あった! ペンダント、マジであったぁー。うわー、びっくりし過ぎて一瞬固まっちゃったよ。やったー!」


『なっ……! マジで!?』


 驚いたな。まさか、本当にあったとは。僕は『良かったね』と声を掛けた。「うん、うん」と桜ちゃんはご機嫌の様子だった。


 それにしてもあんなに必死で探していたものが自分の頭の上にあったなんて笑い話もいいところだな。「灯台下暗し」ならぬ「イチョウ上見えず」という諺が出来そうだ。大切な物ほど身近にあるのに意外と気付かないものなんだな。


 いつまでも子供のように「やった、やった」とはしゃぐ桜ちゃんは可愛らしかったが、こんな風に緊張感が緩んだ時の方が危険な気がする。登山も登頂するまでよりも下山の時こそ事故が多いと聞いたことがある。念のため注意してあげなくちゃいけないだろう。


『桜ちゃん、そろそろ降りた方がいいんじゃないかな? 焦らなくていいから、ゆっくりね』


『うん、わかってるって。これで落ちて死んだりしたら洒落にならないもんね。「軍手、地下足袋を身に付けた美人女子高生が謎の死。事故か事件か、ポケットのペンダントとの関係は?」とか週刊誌に乗ったら恥ずかしくてあの世いけないよ』


『……今、どさくさに紛れて自分のこと美人って言ったでしょ?』


『えっ、空耳でしょ?』


『確かに聞いたけどな。まあ、そんなことよりとにかく気を付けて降りてね。君がちゃんと下まで降りたら土下座してみせるからさ』


『それは楽しみね。じゃあ、そろそろ降りますか。……あ、そうだ、忘れていた』


 そう言うと桜ちゃんはジャージの上着のポケットにペンダントを入れ、代わりに何かを取り出した。下からではよくわからないが紙切れのようなものだった。彼女はそれをカラスの巣の中に入れたようだった。


『ねえ、今、巣の中に入れたの、何?』


『えへへ、「怪盗さくら参上! お宝は頂いた!」って書いた紙』


『……枝打ち職人さん、それ見たら驚いて落ちるんじゃないかな?』


『プロだもん。大丈夫でしょ? じゃあ降りるね』


 彼女はそう言うと僕の体を降り始めた。頑張れと声に出し応援したかったが集中力を切らせてはいけないのでじっと我慢した。でもなかなかスムーズだ。少しずつ少しずつではあるが確実に降りてくる彼女の姿は登る時よりも安心して見ていられた。最後の枝に桜ちゃんの足が届き、僕はまずひと安心した。彼女は登った時と同じように枝に腰を掛け僕に抱き着いてきた。


『ふうー、疲れた。でも私、結構木登りうまいかも。マジでとび職か庭師でも目指そうかな?』


『その時は僕の枝打ち頼もうかな? 本人に頼まれたって商店街の人に言えばいいよ』


『誰も信じてくれないって。あっ、完子さんなら信じてくれるかもね』


『今度、「私、この前、この樹に登ったんですよ」って言ってみなよ。完子さんがどんな顔するか楽しみだな』


『どうせ冗談だと思われるよ。さてと、それじゃあ、残りもう少しだね。頑張って降り……』


 会話の途中だったが桜ちゃんの言葉が止まった。僕もほぼ同時に気付いていた。誰かの足音が聞こえてきたのだ。桜ちゃんは咄嗟に立ち上がり一段上の枝に登り始めた。そこならまあまあ葉もあるし意識的に下から見上げない限り見つかりづらいだろう。賢明な判断だった。


 彼女が上に登り終わるのとほぼ同時に足音の主も金物屋の角からその姿を現した。それを見て思わず僕は声を出した。


『あ、唯花ちゃん!?』


『えっ! あれが唯花ちゃんなの?』


 桜ちゃんは口を押さえてテレパシーで驚きの声を上げた。ああ、そういえば話では知っていても桜ちゃんが唯花ちゃん本人を見るのは初めてのことだったな。息を呑む僕たちが見つめる中、唯花ちゃんはきょろきょろ辺りを伺いながら僕の足元まで駆け寄ってきた。いつもの野球帽こそ被ってはいたが珍しいスカート姿でいつもより女の子っぽい服装だった。


『なんだ、普通の女の子じゃないの。こんな可愛い子を男の子と間違うなんてひどくない?』


『いつもはもっと男の子っぽいんだよ。そんなに責めないでよ。悪いと思っているんだから』


 言い合う僕らにはもちろん気付かず唯花ちゃんは僕の足元に置いてある紙袋を手に取るところだった。桜ちゃんが地下足袋やら何やら装備一式を入れてきた奴だ。確か、今は空のはずだが……。


「あっ、靴が入っている! 誰か捨てたのかなあ。それともこれもお供え?」


『そ、それ、私のぉぉ!』


 桜ちゃんがテレパシーで叫んでいた。あ、そうか、今、彼女は地下足袋を履いていたんだった。紙袋には履いてきた靴が入っているのか。


「わあ、可愛い靴。こんなの捨てるなんて勿体無い。まだ履けそうなのに」


『そりゃそうよ! だって買ったばかりなのよ。前から欲しくてずっと探していた奴で偶然行った店で見つけて結構高かったけどお母さんに手を合わせて必死に頼み込んでやっと買ってもらった奴なのぉ!』


 半べその状態で彼女は必死に訴え掛けてきていたがそんなこと僕に言われても困る。


『そんなに大事なものなら家に置いてきて最初から地下足袋で来れば良かったのに』


『他人事だと思って勝手なこと言って! 誰かに見られたら恥ずかしいじゃん。下手したら「地下足袋女」とか言う都市伝説になっちゃうでしょうが!』


『いっそのこと、そこから飛び降りて「それ、私の!」って言っちゃえば?』


『唯花ちゃんを泣かす気か! 「地下足袋女」以上の都市伝説にされちゃうって』


 僕らがそんなやり取りをしていると唯花ちゃんは靴を見終わったようで紙袋を置いた。そういえば彼女、今日は何しに来たんだろう? そう思っていると僕を少し見上げた彼女の方から口を開いてくれた。


「……あの、お願いしたいことがあって来たの。あなたは呪いの樹でしょ?」


 それを聞いた桜ちゃんは「プッ」と吹いた。慌てて彼女は口を押さえていたが音が小さかったため何とか唯花ちゃんには聞こえなかったようだ。


『ちょっと、気を付けてよね、桜ちゃん』


『ごめん。だって面白かったんだもん。君、ついに呪いの樹だってさ。ウププ』


『まさか僕の都市伝説の元を創った人間から呪いの樹呼ばわりされるとはね』


『都市伝説としては出世したってことじゃないかな? 願いを叶えてくれるっていうより祟りがあるっていう方が何となく説得力がある気がしない?』


『悪いことの方が印象に残りやすいからね。危険な経験をした時の記憶の方が忘れないっていう能力は生物が生き残るために持って生まれるものらしいから』


『なるほど。楽しいだけじゃ駄目なんだね。生きるって難しいね』


『難しいから面白いのさ。まあ、ちょっと難しすぎるかなって思うことはあるけど』


『だよねー。……あっ、唯花ちゃん、何か、言いたそうだよ?』


 そう言われて僕は注意を唯花ちゃんに戻した。彼女は僕を呪いの樹と呼んでから黙ってしまい、モジモジと何か言いづらそうにしていたが、ついに意を決したようだった。


「……あのさ、実は呪って欲しい奴がいるの。『井田悟志』っていうおっさんなんだけど」


 子供らしからぬ怖い顔をした唯花ちゃんはそう呟いたのだ。ああ、なんてことだ! 僕は言い様のない虚無感を感ぜずにはいられなかった。


「あいつ、ママを私から盗っていくつもりなんだ。私とお父さんのママなのに」


 それは違うよ! そう言いたかった。もちろん僕は井田さんとは一度しか会ったことはない。会話を交わしたわけでもないし一方的に彼の話を聞いただけだ。それでも彼が誠実な人間であることはわかった。美織さんへの思いも唯花ちゃんへの思いも本物だと僕は感じた。きっと唯花ちゃんはお母さん、そして亡くなったお父さんへの思いが強すぎて井田さんのことを勘違いしているだけなのだ。なんて焦れったいんだろう。それぞれがそれぞれのことを大切に思い行動しているというのになぜかそれが噛み合わないなんて。


 何とかしてあげたい、僕がそう強く思った、まさにその時だった。


「呪うとか駄目! 馬鹿なことは止めなさい!」


 声の主はもちろん桜ちゃんだった。僕は心臓が止まるかと思うほど驚いた。もちろん比喩だが本当に心臓があったら止まっていたかもしれない。それ以上に驚いたのは唯花ちゃんだっただろう。「ひっ!」と声を上げた彼女はびくっと体を震わせた。縮こまって眼を瞑った彼女はゆっくり目を開けて声がした方、つまり頭上を見上げようとしていた。


「こ、こらっ! 上は見ちゃ駄目! 目が潰れるわよ! 目を閉じなさい!」


 恐ろしい言葉を頭上から浴びせられた唯花ちゃんはまた「ひっ」と小さな悲鳴を上げ慌てて下を向き直し、ぎゅっと眼を瞑った。可哀想に。震えているじゃないか。しかし目を潰すとは随分と物騒だな。ついさっき「呪いは駄目」とか言っていた奴と同じ人間とは思えない。


『もうー、桜ちゃん、声出しちゃうなんて。これからどうするんだよ?』


『しょ、しょうがないじゃない。唯花ちゃんがあんなこと言うから我慢できなかったんだもん。何とかするから黙って見ていなさいよ』


『わかったよ。お手並み拝見しますか。任せるよ』


 桜ちゃんがどんなことを唯花ちゃんに言おうとしているのかはわからなかったが、きっと彼女なら僕と同じ思いを持っていてくれると僕は信じていた。


「……さてと、唯花ちゃん。絶対に上を向かないって約束してくれたら何も怖いことしないから。ちょっと話がしたいだけなの。わかった?」


「は、はい、わかりました。あ、あの、あなたは誰? なんで、俺の名前を?」


「私には何でもお見通しなの。あなた、たぶん私が何者かもう薄々気付いているんでしょ? そう、私こそ『イチョウの使い』よ」


 な、何だってー? 唯花ちゃんより早く驚いたのは僕だった。


「や、やっぱり! 本当にいたんだ! ご、ごめんなさい。許してください」


「だから、怖がらなくていいって。君が悪い子じゃなかったら何もしないから」


 そう言った桜ちゃんは僕に向かってウインクしていたずらっぽく笑った。この言葉は効いたようだ。明らかに唯花ちゃんの震えは大きくなっていた。


「わ、私、悪い子じゃないもん。悪いのは井田って奴で……」


「言い訳しないの!」


「ひっ!」


「あなたね、やきもちを焼いているだけじゃないの? あなたのお母さんは井田さんを好きなんでしょ? それなのにあなたが我儘ばかり言っていたらお母さん可哀想じゃない」


「だって、私のママなのに……」


「ママは物じゃないの! 自分の意志があって生きているんだから。自由に生きる権利があるの。いくら子供だからってあなたの都合にばかり合わせて生きていくなんて出来ないのよ」


「だって、だって……」


 そう言ったまま唯花ちゃんは黙ってしまった。俯いているので表情はわからなかったが、時折彼女から聞こえてきた「ぐすっ……」という音が彼女の状態を示していた。そんな時間が二、三分続いた後、彼女は絞り出すようにある言葉を発した。


「……じゃあ、お父さんは? 死んじゃったお父さんはどうなるの?」


 その質問には桜ちゃんも少し戸惑ったようだった。






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