第14話 混ぜるな危険
月曜日、登校して早々に由奈に出会う。
カバンを肩から下げて、校舎に向けて歩を進めている。浮かない顔だ。
「春香ちゃん」
由奈の方もわたしを見つけ、今にも泣き出しそうな目でわたしに駆け寄ってくる。
「おはよう。由奈」
「春香ちゃん」
そうはならないように築山の行動を支配していたつもりだったが、彼がこの土日にあったこと全てを由奈に報告することも可能性の一つとして考慮していた。そうなると、一時的にしろ由奈との関係性に亀裂が入ることになるが――更に言えば築山の身には不幸な事故が起こる予定になったわけだが――わたしを見つけて自分から近づいてきたのであればどうやら杞憂だったらしい。
「どうしたの?嬉しいことがあったようには見えないけど」
「それがね……」
由奈はそこで少し黙る。そして、意を決したかのように話し始めた。
「誰にも言っていないんだけど、築山くんと付き合ってたんだ」
誰にも言っていない。そう、このわたしにも。
「そうなんだ。彼氏ができたんだ」わたしは努めて冷静に話を合わせる。
「うん、でも、昨日いきなり築山くんの方から別れようって言われたの」
「いきなり?なにか理由があったの?」
「それが聞いても答えてくれないの」
「ひどいことするね」
「うん。築山くんのほうから付き合ってほしいって言ってきたのに、変なの」
「それは変な話ね」なるほど。築山の方から言い寄ったのか。
「わたしも築山くんのことは嫌いじゃなかったんだけど、どうしてこんなことになったんだろう」
「それで、別れるの?」
「どうしよう。わたしが別れようって言ったら、もうそれで終わりなんだよね」
「別れたくないの?」
「わからない」
「わからない?」わたしは、思わず聞き直す。こんなにも明白な二択がわからないことがあるだろうか。そこまで考えて、由奈の変化に気付く。
――涙。
大きな黒い瞳が、揺れている。目頭に涙が溜まっている。
心臓の血管を鷲掴みにされたように、鋭い痛みが走る。それが何によるものなのかはわからない。由奈の涙の原因は他ならぬわたしだろう。その罪悪感だろうか。あるいは、築山に対して感情を揺さぶられている由奈の姿に狼狽しているのだろうか。それとも、その両方か――。
わたしは、改めて感情の不可解さを思い知る。わたしは、あらゆるものを犠牲にして由奈を取り戻す決意をしたはずだ。その犠牲の中に、由奈自身が範疇に入ることさえも含めて。それがわたしの出した帰結だった。だが、その姿を実際に目の当たりにすると、心が悲鳴を上げる。かつて「語り得ぬことについては、沈黙する他ない」と言った哲学者がいた。感情の前では、論理がいかに無力かを痛感せざるを得ない。そして、「築山と別れたいのかがわからない」と言った由奈に比べて、わたしは余りにも愚かな存在だった。
由奈の頬に掌を添える。今のわたしには、由奈の心に寄り添う言葉が見つからなかった。たとえあったとしても、わたしがそれを言う権利などない。
「春香ちゃん」由奈はわたしを見る。
「泣かないで、由奈」
本心だった。いかなる理由であっても、わたしは由奈の泣き顔など見たくない。
「築山くんがどういうつもりなのか、わたしから訊いてみるから」
わたしの申し出に対し、由奈は今にも消え入りそうな声で、「うん」と答えた。
昼休み。わたしの呼び出しを受けて、築山は人気の無い視聴覚室前の廊下にやって来た。
「築山くん、どういうつもりなの?」
「どういうつもりもなにも、おれは約束通り、乃木に別れようと伝えたよ」
「それは約束通り。だけど別れたい理由について、言えないとも伝えたそうね」
「ああ」
ああ、ではないが。そう伝えることによって由奈がどう思うかを想像できなかったのか。いや、違う。築山の頭の程度は想定内だった。非難すべきは、築山の想像力の無さと中途半端な誠実さを計算に入れず、彼への助言を怠ったわたしのミスだろう。
「まあいいわ」わたしは彼への怒りを、自己批判にすり替えることによってぎりぎり押し留めることに成功した。
「今日もう一度、別れを告げなさい。今のところ、由奈にはあなたの意図が伝わっていないようだから。今度は、他に好きな人ができた伝えなさい。自分の気持ちが整理出来ていなかったと、昨日言えなかった理由も添えてね」
築山は黙る。なにを考えている?わたしはそうしろ、と言ったのだ。返答は、そうするか否かの筈だろう。わたしは築山の沈黙に対し、また苛立ちを抑える努力を強いられていた。しかし、築山からの返答はわたしの予想を越えるものだった。下回る、と言い換えてもよい。
「折田、乃木と別れたら、おれと付き合ってくれるか」
唖然とする。こいつは、何を言っているんだ。
「おまえの言う通りにする。だから、おれと付き合ってくれ」
言う通りにするから付き合ってくれ、という言葉は、裏を返せば付き合ってくれなければ言う通りにしない、ともとれる。取引のつもりだろうか。おまえは、わたしと取引できる立場にない。おまえは、そうする他ないのだ。何故それが理解できない。だが、ここでこいつの心証を損なうのは不要なリスクだ。それも厳然たる事実。
「由奈と正式に別れたら、考えるわ」ここは、こう濁すしかない。業腹ながら。
「わかった」
そう言って、築山の手がわたしの肩に触れる。わたしはその手をすぐさま振り払う。
「ちゃんと別れたら、ね」
わたしの反応に対し、築山はばつの悪そうな顔で「ああ」とだけ答える。
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