きらきらと輝くもの。

ひどく背徳的ななにか

第1話 小さな恋のメロディ

 予鈴が鳴り、生徒たちは席につく。

 教室に入ったばかりのわたしは、自分の机の「折田春香おりたはるかは売女」という落書きを見て苦笑する。売女。辞書かインターネットで調べたのだろうか。低脳にしては手が込んでいる。

 今更、怒りなど湧いてこない。

 社会性の高い動物や昆虫には、自分の気に入らないものや不利益をもたらす同種、群れの中の異物を忌避し、排除する本能があるという。昔、家のケーブルテレビの動物特集で観た覚えがある。その番組の中では、不具ふぐに生まれた幼い猿が、群れのオス猿たちに弄ばれ殺されていた。結局のところ、人間も動物や昆虫と何ら変わらないし、そして、わたしはこのクラスという群れの中では異物だった。それだけの話だ。

「春香ちゃん、大丈夫?」

 隣の席の乃木由奈のぎゆなが心配そうに見つめてくる。

「別に。大丈夫。そんなことより、わたしに話しかけてるところを見られたら、由奈も虐められるよ」

 実際、わたしはそちらの方を懸念していた。もし由奈に標的が移るようなことがあったら──。考えるだけで、身体の奥底から殺意が音を立てて泡立つ。由奈には気取られないように無表情を保つ。

「春香ちゃんと一緒だったら、わたしは我慢できるよ」

 心臓のあたりが、きゅっと痛みを覚える。だがそれは、決して不快なものではなかった。険を孕んでいたわたしの心を、綿のような優しさで由奈の言葉が包んでいく。立ち上がって、この天使のような少女に覆い被さって、そして力の限りに抱き締めたい。そんな衝動に駆られる。由奈。わたしは心の中で名前を呼ぶ。ゆな。丸みを帯びた、柔らかい音。あなたの性質にぴったりな、良い名前。何度でも、口に出してみたくなる。

 わたしが由奈を親友ではなく、恋愛対象として見るようになったのは、いつの頃からだっただろうか。同じ中学を卒業し、同じ高校に入学した。家も近いし、いつも一緒に下校していた。いくら思い出そうとしても、友達と想い人を分かつ境界線は茫漠ぼうばくとしている。おそらく、ある日突然、由奈を好きになったのではなく、徐々に、湯の中で茶葉がゆっくりと開いて抽出されていくように、由奈に惹かれていったのだ。

 高校に入学してから二年が経った。念願の由奈と同じクラスになったが、待っていたのは猿どもからの排他だった。今里瑞穂いまざとみずほというボス猿が率いている群れは、わたしという異物の存在を許さなかった。今のところは落書きや陰口などで済んでいるので目を瞑っておいてやっている。暴行や傷害などの身体的接触や盗みや持ち物の破損などの経済的損失を含む行動、あるいは由奈に標的を移すことがあれば、わたしも容赦するつもりはない。

 午後の授業が終わって、下校の支度をする。由奈もいそいそと鞄に教科書や筆箱を詰めている。別に、置いていったりしないのに。だがそれはそれとして、由奈の焦る姿は小動物の毛繕いを見ているようで、癒される。

「じゃあ、帰ろうか」

「うん」

 わたしたちが教室を出ようとしたその時、誰かのひそひそ声が聞こえる。

「レズなんじゃないの」

 横目で、教室の端に猿どもがいるのを確認する。ああやって、聞こえるような陰口を叩いて、わたしがたじろぐとでも思っているのだろうか。しかし、悪意に満ちた言葉を由奈に聞かせたくはない。わたしは由奈の手を引いて、教室を出た。


 わたしと由奈の家は、高校の最寄り駅から三駅離れたところにある。電車では由奈が最近読んだ漫画や行ってみたい喫茶店の話をしている。由奈はどちらかというと内向的な子で、友達は少ない。自分から話題を提供するのは、心を開いた者にだけだ。わたしは優越感と独占欲を満たしつつ、由奈の話に相槌を打って聞いている。

 駅前のささやかな商店街を抜け、川沿いにある一軒家が由奈の家だ。その奥に公園があり、さらに道路を挟んだ向かい側にあるのがわたしの家のマンションだ。下校の際、お互いの家の間にある公園のベンチで、二人だけの時間を過ごすのがいつしかお決まりのルートになっていた。

「春香ちゃんは、辛くないの?」

 今まで軽快に話していた由奈の声が、唐突に真剣味を帯びた。

「辛いって、あの落書きとか、陰口とか?」

 由奈は頷く。大きくて黒い、由奈の眼差しがわたしをおもんぱかっていた。

「学校でも言ったけど、大丈夫。あいつらがやることで、わたしを傷つけることなんて出来ない」

「でも──」

 なにか言いかけた由奈を、わたしは抱き締める。甘いバニラアイスのような匂いが鼻をついた。

「わたしには由奈がいるから」

 耳元で囁く。由奈の耳は、真っ赤に染まっていた。あまりにも可愛かったので、耳たぶを甘噛みする。「ひっ」という声とともに、由奈が身震いする。わたしは逃すまいと抱擁している腕に力を込める。

「春香ちゃん、ともだち同士がこんなことするのって、おかしいよ」由奈は震えた声で、わたしを非難している。

「そんなこと、誰が決めたの。由奈こそ、早く慣れなさい。毎日してることでしょ」彼女の頭を撫でながら、耳に小さくキスをする。

 10分ほど経って、わたしは由奈を解放する。りんごのように頬を赤らめた由奈に、別れの挨拶をする。

「また明日ね」

「う……うん」

 由奈はまだぼーっとしている。

 わたしは自分の鞄を取り、歩き出す。

 ──レズなんじゃないの。教室での陰口を思い出す。そうだ。わたしはレズビアンだ。。わたしの邪魔をするな。わたしと由奈の幸福に、割って入ることは許さない。

 

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