第2話 ノゾミカナエタマエ

「ちょっといい?」

 教室に入ると、最上知恵もがみちえに呼び止められた。最上は、猿どものグループでは下位のカーストに位置していて、今里らによくパシりに使われていた。

「なんの話?」

「あんたの話」

 少しだけ、身構える。ついに直接的な行動に出るのだろうか。だが構わない。わたしには迎撃の用意がある。

「あんたってさ、なんかムカつくんだよね」

 という名前の割には、知性の欠片もない物言いだ。であるのに下位カーストなのも皮肉が利いている。こんな人間を囲っている今里瑞穂も、程度が知れる。

「それだけ?」

「目障りなんだよ、あんた」

 おそらく、こいつは今里にけしかけられたのだろう。「ちょっとあいつにちょっかいかけてみてよ」といった風に。下僕である最上は断れない。その証拠に、わたしが距離を詰めるとその分だけ下がっている。

「わたしが目障りだからなに?あなたは、なにをどうしてほしいの?」

 最上の表情を観察しながら、問う。彼女は言葉に詰まっている。そう、答えられない。こいつには、主体性がない。今里に命じられるがままに行動しているだけだから、主張すべきものがなにも無い。

「話は終わった?じゃあ、席に戻るね」

 歯噛みしているであろう最上を背に、自分の机に帰る。もう少しをやってもよかったが、ボス猿に報告されると面倒だ。初撃は向こうに打たせないと大義を得られない。これは歴史の常だ。

 授業が始まる。由奈は板書を写している。こんなにも真面目にノートを取っているが、由奈の成績は悪い。進学を目指しているらしいが、このままではわたしと同じ大学にはいけそうにない。わたしが勉強を教えて由奈のレベルを引き上げるか、わたしがレベルを落とすか、またはその両方を強いられることになりそうだ。そうなったとしても、わたしは一向に構わないが。

 気付くと、自然と口許が緩んでいた。

 さて、そういう未来に進むためにも、を早めに済まさなければ。



 昼休み。わたしはいつも通り由奈とご飯を食べようと思っていたが、彼女はそそくさと出て行ってしまった。あの急ぎようは、お弁当を忘れて購買部にパンを買いに行ったのだろうか。

 一人でお弁当を食べていると、クラスメイトの築山勇斗つきやまゆうとがわたしの前に立った。

「折田、ちょっといいか?」

 今日はよく呼ばれる日だ。由奈が帰ってくるまでは、相手をしてやってもいいか。

「乃木は一緒じゃないのか」

 盲目なのか、はたまた見てもわからないのか。ついつい皮肉が口をつく。

「わたしと由奈、どちらに用があるの?」

「いやすまん。おまえにだよ」

「そう。で、なに?」

 築山は一瞬、左右に視線をやる。

「さっき今里のグループとすれ違ったんだけどさ、おまえのことシメるとか言ってたぜ」

 急に小声になった。築山の様子を見ると、演技で辺りを窺っているわけでもなさそうだ。シメる。なるほど。朝の下っ端が泣きついたのか。そこまで詰めたつもりは無いのだけれど。

「大丈夫なのかよ」

「問題無い」

 由奈も築山も、猿山ひとつが敵意を剥いたくらいで何をそんなに狼狽することがあるのだろうか。

「ちぇっ、心配して損したよ」

 築山はぬっと下唇を出す。心配していたのは本気だったのだろうが、心のどこかでわたしが慌てふためくことを期待していたのだろう。そんな顔だ。だが、それはさておき、築山のもたらした情報は有益だった。

「ありがとう。教えてくれて。助かったわ」

「ふん、何を企んでるかはわからないけど」築山は、そこまで言ってから一息入れて、先程より大きなトーンで「乃木を巻きこむなよ」と言い張った。真剣味を帯びた視線でわたしを見据えながら。

 ──

「そんなこと、わかってるわ」

 わたしも同じくらいの熱量で答えると、満足したのだろうか、築山は自分の席に戻っていった。

 築山は、由奈に好意を抱いている。親愛以上の好意を。勿論推測に過ぎないが、そう仮定すると最初に由奈の所在を確認したことと、最後の台詞に合点がいく。

 おそらく築山が心配しているのは、猿山に直接敵意を向けられているわたしではなく、折田春香わたしと仲の良い由奈に対してだ。そして、今の会話は、忠告。男子連中でさえ一目置く今里らのグループを相手取って、わたしが何かしでかすかも知れないという直感が働いた帰結だ。

 そうか。築山も由奈のことが好きなのか。

 許そう。由奈を好く権利は万人が持って然るべきものだ。独占する権利は万人にないものだが。

 それにしても、由奈の帰りが遅い。何をしているのだろうか。わたしは、既にお弁当を食べ終えて、午後の授業の準備に取りかかっているというのに。



 結論から言うと、由奈は帰ってこなかった。担任は早退だと説明した。そして次の日も、学校に来なかった。

 今里瑞穂に先手を打たれたのだ。

 そうと気付くのは、余りにも遅かった。

 

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