第3話 機械

 わたしは、由奈の家の前にいた。今日は日曜日で学校は休み。一昨日の早退と昨日の欠席の理由を訊かねばならなかった。学校側には体調不良と説明しているが、そんな筈はない。

 わたしが欲しいのは、証言だ。由奈から、今里らのグループからの干渉を確定させる証言があれば、あの猿山の存在を、。わたしは、意を決してインターフォンを押した。

「はい」由奈の母親が出た。

「こんにちは。由奈さんの友人の、折田です」

「ああ、春香ちゃんね」

「由奈さんが休んでた分の授業のプリントを持ってきました」

「ありがとう。今、開けるわね」

 ジィィ、という音とともにドアが解錠される。乃木家には何度も訪問させてもらっている。このタイミングでドアを開けるだけの信用は勝ち得ているつもりだが、ここでそれを試す必要性はない。少し待っていると由奈の母親が扉を開けた。

「どうぞ、入って」

「お邪魔します」

「由奈は二階よ。あとでお茶を持っていくわね」

「あ、お構い無く」

 言い終わる前に、母親は台所へ向かっていった。形式上、お構い無くとは言ったが、わたしは由奈の母親が淹れる紅茶が好きだった。クイーンメリーという、現行では入手困難なダージリンのブレンドだ。

 わたしは二階に上がり、由奈の部屋をノックした。

「由奈。わたし。春香よ」

「春香ちゃん」

 声が聞こえたので、ドアを開ける。由奈はベッドに横臥おうがしたままだ。

「まだ体調は良くないの?」

「体は別に大丈夫なんだけど……」薄いピンク色の布団から、顔だけ出して由奈は答える。

「けど?」

「う~~ん……」

 歯切れが悪い。何かを隠している。が、中断しなければ。扉の奥から足音が聞こえる。母親が紅茶を運んでくる。ノックが鳴った。

「由奈、春香ちゃん、お待たせ」

 扉を開くと、母親が盆にティーポットとカップを載せて現れた。

「ごめんなさいね、お茶うけはクッキーしか無かったの」

 にこやかに言いながら、母親は座卓に盆を置く。

「由奈は砂糖3つね。春香ちゃんはストレートで良かったかしら」

「はい。いつもありがとうございます」

「では、ごゆっくり」

 由奈の母親はおっとりしているが、他者に優しいし、気配りも上手い。まさに由奈の母親といった女性だ。成長した由奈は、こうなっていくのかと考えるとなかなか感慨深い。

 花柄のティーカップを手に取り、オレンジの薄切りが浮いたクイーンメリーを一口飲む。鼻孔を抜けていく華やかなダージリンの香り、濃い目に抽出した茶葉のほのかな苦味、柑橘類特有の酸味と甘味の見事なマリアージュ。

「美味しい」それ以外の言葉が出てこなかった。

 由奈は角砂糖3つをティーカップに落とし、マドラーで潰している。

「春香ちゃん」

 これから訊かねばならない話題のことを考えると、もう少しニュートラルな状態でこの紅茶を味わっていたかったが、由奈が話す決心をしたのならば文句は言うまい。由奈はマドラーを混ぜる手を止めずにいる。

「今里さんから、もう学校に来るな、って言われちゃった」

 由奈は微笑んでいる。それが精一杯の強がりであることは、誰の目にも明らかだった。

「それで、学校に来なかったの」

 努めて、冷静に訊く。カップを持つ手が震えている。クイーンメリーをあおり、カップとソーサーを盆に置く。由奈に悟られてはいけない。わたしが、

「わたしが学校に来なければ、春香ちゃんにはこれ以上手を出さないでやるって。わたし、春香ちゃんが机や教科書に落書きされてるの、もう見てられなくて……。わたしが我慢すれば、春香ちゃんの学校は元通りになるんだって。そう思ったら、わたし……」

 絞り出すように由奈は告白した。由奈は、わたしを守っていた。それがたとえ、帰結としては愚かな選択だったとしても、その優しさは愚かなんかじゃない。

「ごめんね。わたし、馬鹿だから。こういう風にしか考えられなくて」

 確かに、馬鹿だ。だが、この子が謝る必要性が何処にある。由奈はただ、他者に優しかっただけだ。

「紅茶、飲みなよ。冷めちゃうよ」

 由奈が紅茶を飲む間、わたしは深く呼吸する。わたしが目を瞑っていたせいで、由奈を捲き込んでしまった。世界の誰よりも大事な人を。

 わたしは立ち上がり、由奈の隣に座る。

「由奈、ありがとう。わたしのために、戦ってくれたんだね」

 頭を撫でる。よく手入れされた黒髪が、指先を滑っていく。

「戦ってなんかないよ」

「わたしが褒めてるんだから、黙って享受しなさい」

「うう……」

 由奈は恥ずかしさと照れで顔をうつむけている。

「由奈」呼び掛けに、ぴくっと反応する。

「月曜日も、学校を休みなさい」

「え?」

「学校を休むの。由奈が次にくるのは火曜日ってことになるわね」

「ちょっと、春香ちゃん?」

「いいから、言う通りにしなさい。そしたら、全ては元通りになってるから」

「言ってる意味がわからないよ」

「わからなくていいの。わたしを信じなさい。わたしとあなた、どちらが頭が回ると思っているの」

「それは……ううん……」

「決まりね、決まり。お母さんにも一言添えておくわ」

 由奈は黙った。昔から、丸め込まれたらこうなる。わたしは鞄の中からプリントを取り出して、座卓に置く。

「月曜日に、また来るわ」

「ええ……そんな勝手に……」

 わたしは有無を言わさず、部屋を出る。階段を降りると、母親と出くわす。

「あら、春香ちゃん、もう帰っちゃうの?」

「ええ、由奈さん、また体調が悪くなったみたいで。あんまり長居しても迷惑ですし……」

「あら、それは大変ね。朝は元気そうだったのに」

「お邪魔しました」

「また来てね」

「ええ、また是非」

 母親と別れの挨拶を終えて、わたしは玄関を出る。乃木家は本当に気が休まる。優しさに満ちた家庭だ。奴等は、こんなにも優しい家族に手を出したのだ。

 許せない。由奈の母親に見せた挨拶の笑顔は既に何処かに去っていった。

 

 ヘミングウェイの言葉を思い出す。

「世界は素晴らしい。戦う価値がある」

 ──

 

 



 

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