第16話 リテイク

 電車の座席に倒れこむ。シュンと呼ばれた男に膝を入れられた腹がずきずき痛む。骨折はしていないだろうが、あざくらいはできていそうだ。脚には、アスファルトを転がった勢いで擦過傷が数カ所確認できる。

 由奈に会いたい。わたしは、これほど傷だらけになってでもあなたが欲しい。あなたを独占したいのだ。そう伝えたい。築山も今里も、邪魔するものは総て排除する。プライドも尊厳もかなぐり捨てて、わたしはあなたと一緒にいたい。わたしの望みはただ、それだけなのに。

 窓から見える街並みを茫漠と眺める。ふと駅前のケーキ屋のことを思い出す。そういえば、由奈との帰り道にショートケーキをピースで購入して、彼女の部屋で食べたことがあった。彼女の母親がいつも通りクイーンメリーを淹れてくれて、他愛の無いおしゃべりをしていた。あの、愛すべき平穏な日常はいつ戻ってくるのだろうか。何かが、どこかで狂ってしまった。今里たちを粛清したことか、築山を誘惑したことか。それとも、由奈に恋心を抱いたのが間違いだったのか。

 今朝の由奈の泣き顔が脳裏をよぎる。もしも、わたしが男に生まれていたなら、由奈を悲しませずに済んだのだろう。わたしがこんなにも傷だらけにならずに、彼女と添い遂げていたのだろう。

 ショートケーキを買って行こう。そして、わたしの気持ちの総てを伝えよう。わたしが如何に勇敢にあなたのために戦ったか、わたしが如何にあなたを大切に想っているかを。そうしなければ――なにか少しでも報われなければ――わたしの心は今にも砕け散ってしまいそうだ。

 電車が、最寄り駅にゆっくりと停車する。わたしは、身体中に走る痛みを意に介すことなく改札に向かう。階段を降りて、構内を抜ける。少し歩いた先に、そのケーキ屋はあった。

 木目のドアを開けると、暖かい電球色に包まれた内装が目に入る。奥には、ショーウインドウがあり、そこには色んな種類のケーキがピースごとに陳列されている。由奈は、まるで宝物が入っているかのような目つきで、ケーキたちを食い入るように眺めていたものだった。久しぶりに来たが、このショーウインドウは相変わらず輝いている。思えば、わたしの人生を見渡しても、何も特に欲しいものは無かった。だが、きらきらと輝くもの――わたしの人生を灯してくれる存在だけは、この命と取り替えても捕まえたかった。

 店員にショートケーキを二ピースを頼み、店員に包んでもらう。薄いピンク色のケースに白いリボンがあしらわれている。由奈が好きそうな、可愛らしいデザインだ。そのケースを店員から慎重に受け取り、店を出る。出来るだけ揺らさないように、自転車や車に遭遇しないような道どりを選んでいく。駅前の商店街を抜けようとした時、ふとブティックのガラスが目に入る。光の反射でわたしが映っていたが、膝や脛に擦り傷があり、制服は乱れている。こんなボロボロの姿の女が可愛らしいケーキの箱を持っている。あまりのミスマッチに、わたしはたまらず自嘲の笑みを浮かべる。由奈の家に行く前に、まず自宅に戻り着替えるべきだ。

 由奈とわたしの家に続く川沿いを歩く。そろそろ由奈の家に近づく。遠くに、人影が見える。由奈と築山だろう。あの恥辱に満ちた夜のことを思い出す。わたしは、由奈の家の五戸前で裏道に入り、二人の様子を窺う。会話までは聞こえないが、距離感や表情から察するに、別れ話の延長といったところか。会って話すのは避けて欲しかったところだが、築山の頭の程度にもういちいち落胆はしない。

 もう少し近づいてみようと、家と家の隙間を行こうとしたその時、由奈が大声を張り上げた。

「わたしは、別れたくなんかない!!」

 築山に、泣きながら抱きついている。

 衝撃だった。

 今まで由奈は、わたしに意志を示したことなど一度もなかった。わたしの提案や決定に付和雷同していただけだった。築山に向けた言葉であることは当然のように承知しているが、それでもそれがわたしに突きつけられた通告のようなものに感じて仕方がなかった。

 築山は、抱きついた由奈にそっと両手を回す。

 わたしは、わたしを打ち砕くに充分な光景を、こんな薄暗いじめじめとした空間で見せつけられている。それも、二度も。

 由奈。わたしは、あなたのために自分の手を汚してまで戦ったんだ。その報いがなんて、あまりに酷い話ではないか。わたしを拒絶しないで。わたしだけを見て。わたしだけが、あなたを幸せにできるんだ。

 いつのまにか、後ずさりしている。

 由奈のことを親友や想い人のように考えていたが、その実、わたしは彼女のことをなにも理解できていなかった。振り返り見て、わたしは由奈とちゃんと向き合っていただろうか。由奈の意志を確認していただろうか。都合の悪いものに目を瞑り、奸計を弄するばかりではなかったか。

 由奈は、築山の首に手を当て、背を伸ばして口付けをする。

 わたしは、それ以上二人を見続けることができず、その場を去る。幽鬼のように、ふらふらと歩く。車のクラクションが聴こえる。そういえば、赤信号だったかもしれない。

 そのまま力なく歩き続け、自宅の目の前にあるセブンイレブンのゴミ箱に、ケーキの箱を放り投げた。無機質な金属の音が響く。終わりを感じさせる、虚しくて悲しい音だった。

 それがわたしの、初恋だった。

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