第9話 日本印度化計画

 時計を見る。五分前だ。

 中央改札の前にある大きな柱にもたれかかり、わたしは築山を待っている。

 あの後、家に帰って考えたが、来ないという選択肢をとるほど築山が賢明な男には思えなかった。

 三分前。そろそろ電車が着く時間だ。これで来なければ遅刻ということになる。今里のように、とまではいかないまでも罰の方は用意してある。わたしは改札の方に目をやる。交通系ICカードのチャージ額が足らずに自動改札の扉に閉じ込められる築山の姿が、目に飛び込んでくる。

「ださ……」わたしは、思わず呟く。わたしはこんな男に負けたのか。怒りを通り越して滑稽さまで覚える。

「間に合った、よな?」

 チャージを終えた築山が改札から出てくる。予定の時刻から三十五秒オーバー。「でも遅れたら」と言ったのはわたしだ。許してやろう。

「じゃあ、行きましょうか」遅刻した時のために準備した、コンビニのレジ袋に小石をたんまり詰めたもの――わかりやすくいえば、簡略化したブラックジャック――を構内のゴミ箱に捨て、わたしは歩き出す。

「どこに?」

「どこって、昼ごはんの時間でしょ」

 続いて、築山も後を追ってくる。全ては予定通りだ。一寸の狂いもない。ついてくる築山にはばれないよう、わたしは静かにほくそ笑む。


 テーブルに共されたカレーを見て、築山は絶句する。しばらく皿の中身をじっと見ていた。

「折田、いつもそんなん喰ってるの?なんかここからでも目が痛いんだけど」

「あら、注文の時に聞こえてなかった?ほうれん草カレーの二十五辛、って確かに言ったんだけど」

「え?ほうれん草カレーってふつう、緑色してるよね?目がぴりぴりしすぎて色盲になったかもしれない。赤色にしか見えないんだけど」

「こんなものよ」

「そ……そんなもんか」

 陽気なスリランカ人の店員が築山の辛さ控えめのバターチキンカレーを運んできた。店内では店主の趣味だろう、ダイアナ・キングが延々と流れている。「シャイ・ガイ」が始まった。この曲は知っている。何度もこのカレー屋に来て覚えた曲だ。

 この店に初めて来た時を思い出す。わたしは、この店で出せる限界の辛さにしてほしい、と注文した。先ほどのスリランカ人はおどけながら言った。

「嬢ちゃん、二十五辛そいつはやめた方がいい。この店にAEDは置いてない。若くして人工肛門のお世話になりたいのか?おれはカレーを愛している。そしてもちろんカレーもおれを愛している。だからおれは愛するカレーで人が死ぬところは見たくない。だがもし、万が一、神の野郎がLSDでブッ飛んで、奇跡ってやつを嬢ちゃんのケツに突っ込む気になったら、平たく言えば、こいつを完食して正気を保っていたら、だ。これから嬢ちゃんのカレー代はでいいぜ」

 それ以来、わたしはいつでも無料でカレーが食べられる店を獲得したのだった。

 スプーンでカレーを掬い、サフランライスにかけて、口に運ぶ。舌にぴりぴりとくる辛味が心地よい。そんな当たり前の光景を、築山はマンゴーラッシーを飲みながら食い入るように見つめている。彼のプレートには、そこからはみださんばかりのナンが未だにその雄姿を留めていた。

「築山くん、手が進んでないようね。もしかして、口に合わなかった?」

「いや、美味しいよ。でもそれよりも衝撃的なことが目の前で起こっているんで」

「わたしがカレーを食べるのがそんなに珍しいの?」

「いや、おれが悪かった。もう、お腹いっぱいだ」

 人が、わけてもこのわたしが招待した食事の席で残すとは、失礼な男だ。

 わたしは、いつも通りカレーを完食し、レジを素通りして店を出た。築山がわたしの分の会計も出そうとして、あのスリランカ人に代金を突き返されているのがガラス扉越しに見える。

「お代はいらねえってよ。わけわかんねえ」

 築山は、首を傾げながら店から出てきた。


 腹ごなしに、少しだけ大通りを歩くことにした。

「彼女のどこが好き?」わたしは少しだけ気になっていた質問を、唐突にぶつけてみたくなった。

「どこって、えっと……」

 築山は顎に手をやり、視線を動かして考えている。こんな問いなど、即答できて当然だろう。優しいところ、大きな瞳、笑うときに顔がくしゃっとなるところ、努力家だが抜けているところ、体重を気にしているのに甘いものをやめられないところ、その他由奈を構成するもの総て。わたしは、おまえよりも由奈を理解しているんだ。

「わからない」

 築山からの返答は、かなりあっさりしたものだった。

「わからない?」舐めているのか?ついつい険を孕んだ物言いになってしまう。

「多過ぎて、わからない」築山は赤面し、はにかみながら小声で呟いた。

 なんだそれは。わたしは呆れたが、同時に少し満足もしていた。好きかどうかわからないような人間に由奈を盗られたのであったなら、わたしは怒りのあまり何をしでかすかわからない。それよりは今の回答の方が幾分マシな返答であった。


 それから、わたしはゲームセンターやショッピングなどに築山を連れ回した。

 あたりはすでに暗くなり始めていた。そろそろ、ディナーの時間だろう。

「築山くん、夜ご飯なんだけど、なにを食べたい?」

 築山の意見を伺う。

「え。夜飯も食うの?おれ、家に言ってないんだけど」

「じゃあ、早く言いなさい。そして、なにを食べたいかも早く決めなさい」

 築山はしぶしぶ携帯電話を取り出して、家に連絡を取る。何度かのやりとりを終えたのちに、苦々しい表情で「大変ありがたいお小言をもらったよ」と言いながらポケットにしまった。

 肉でも食って気晴らしがしたい。という築山のリクエストを了承し、チェーン店の焼肉屋に向かうことになった。食べ放題のコースがある店だ。土曜の夜ということもあり、店内はそこそこに混み合っており、二十分ほど待って席に案内された。

「お肉、好きなの?」

「激辛カレーよりはだいぶ好きだね」

「こういう質問には、いちいち皮肉で返さない方がいいと思うわ」

 他愛のない会話をしながら、築山が頼みたいものをタブレット端末で注文していく。わたしは、どちらかというと牛肉より鶏肉のほうが好きなんだけど、別に食べられないというほどでもなかったので築山の注文に合わせていた。

 わたしは今日のことを少し振り返る。

 築山は、事前の分析通り、最低限の気遣いもできるし、優しさも持ち合わせている。

 わたしがどこに振り回しても退屈そうに振舞ったりしない。

 考えたくないことだが、由奈とこのまま付き合っても、うまくいくだろう。

 決心が鈍りそうな自分を発見し、わたしは少し戸惑っていた。こんなことは初めてだ。わたしは人生のいつでも、自分の下した決定通りに計画を推し進め、自分を規定し続けてきたのに。

 ――

 わたしは大きく息を吸い、水を飲んだ。

「ねえ、築山くん」

「ん?」

「わたしが今日、帰りたくないって言ったら、どうする?」

「……マジ?」肉を掴んだ箸が、空中で静止する。

「わたしの目を見て。これは、マジよ」

 そう。これは遊びでも、冗談でもない。わたしはいつでも、真剣マジだ。

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