第5話 くるくる少女 

 結局、腫れと痛みが治まることはなかった。

 学校帰りにコンビニで氷と包帯を買い、ビニール袋に氷を詰め替える。包帯を患部に巻きつけ、氷で冷やすと、痛みはかなり軽減できた。

 由奈には、月曜日にまた来ると言っておいたから、こんな腫れを見せるわけにはいかない。紅茶を溢したことによる火傷ということにでもしておこうか。

 わたしは、今日のことを振り返る。

 最上のように詰め寄っただけで謝罪した者、地面に組み伏せた時点で降参した者、殴られるまで自分の無力さに気付かなかった者、反応はそれぞれだったが、最終的には皆、わたしに対して一定以上の恐怖を覚えたことだろう。これで、わたしが知る限りの今里グループは全て片付けたことになる。

 仮に、わたしの暴挙が露見することになっても、大した問題ではない。わたしへの嫌がらせを見て見ぬふりをしていた日和見主義の教師どものことだ。処分を下せてもせいぜい停学どまりだろう。もともと教師連中と折り合いが悪い今里らのグループとわたしを天秤にかけて、どちらを選ぶかは火を見るより明らかだ。この高校は、5年前から進学コースを新設したが、進学実績はあまり芳しくない。模試成績などで全国でも上位に位置するわたしを、手放したくないだろう。万が一退学になっても同じことだ。大検など、もし今ここで受けたとしても合格できる。あの学校にいる大人たちの行動が、わたしの想定を超えることはない。これで全て終わったわけではないだろうが、当面の間は小康状態になるだろう。

 もうすぐ、最寄り駅だ。氷は、すでに溶け始めていた。水が滴り始めると面倒なので、構内のゴミ箱に捨てよう。

 由奈の顔が見たい。わたしが如何にあなたのために勇敢に戦ったかを教えてあげたい。きっと、目を丸くして驚くことだろう。わたしの愛に気付かざるを得ないだろう。でも、それはできない。彼女には、この世の醜いものや悪しきものとできる限り無縁でいてほしい。由奈は、わたしの中ででなくてはいけない。わたしは、彼女の輝きを維持するためなら、いくらでも汚れてやる。そう。、だ。

 電車が停車する。溶け始めた氷をゴミ箱に入れる。改札を抜けて、わたしは由奈の家に向かって歩き出す。辺りは、少し暗くなり始めていた。駅を抜けると、大きなバスのロータリーがあり、その奥には、地元の人たちがよく待ち合わせに利用する噴水がある。夜になると、酔っ払いのサラリーマンやナンパ待ちの汚らしい女がちらほら見え始める。

 わたしは、この街が嫌いだった。

 駅の周りにはパチンコ屋と居酒屋が立ち並び、すぐ近くには大型のショッピングモールがある。おそらく、生きていく上で必要なものはこの駅周辺でなんでも揃うだろう。なにも不自由することはない。ただ、この街は醜い。住んでいる人間も、街並みも。わたしはずっと前から由奈を、彼女の知らない、どこか遠くに連れ去ってしまいたかった。ふたりで進学する大学は、レベルなんてどうでもいいから、下宿が必要なくらい遠い方がいいだろう。

 この川を下っていけば、由奈の家が見えてくる。

 今日は、長い一日だった。

 わたしの戦いは、やっと終わる。

 胸を弾ませ、迅る気持ちを抑えながら歩を進めると、由奈の家の前に人影が見える。背丈からすると、男だった。

 ――嫌な予感がする。

 今里たちには報復の無意味さを説いたつもりだったが、万が一、ということもある。わたしはすぐに迂回して、裏道を通って由奈の家に近づくことにした。

 グループの誰かの男という可能性もある。ちっ、面倒な。わたしは思わず舌打ちする。右手は相変わらず痛むし、そもそも男の筋力相手では十全の状態でも分が悪い。

 辺りはもう暗い。わたしはいざという時のために、闇討ちする覚悟を決めた。

 そろそろ、家の裏に着く。家と家の間から、どういう体格の男なのかを知る必要がある。反撃の余地なく、背後から一撃で昏倒させるために必要な情報を得なければならない。

「えっ」

 思わず、声が出る。

 男は、築山だった。

 そして、由奈もそばにいた。

 いや、、というには近すぎる。ふたりは、抱き合っていた。

 膝ががくがくと震え出す。額からは冷たい汗が吹き出す。由奈と?築山が?なにをしている?――わからない。わかりたくない。右手が燃えるように痛み出す。世界がまるで音を立てて崩れていくように、視界が混濁し始める。溢れる涙のせいだと理解するのは、それが頬を伝ってからだった。

 気づけば、わたしは走っていた。何度も、足をもつれさせながら。

 心臓が、調子を外したリズムを刻む。脳が膨張し、破裂しそうなくらい痛む。耳からは、叫びたくなるような騒音が聞こえる。

 100メートルくらい走っただろうか。ふたりの姿はもう見えない。わたしは、橋の手すりに体を預ける。下には、夜のとばりを反射した、コールタールように黒い川が流れている。

 なんだ?今の光景は。わたしは、悪い夢でも見ているのだろうか。

 由奈と築山が抱き合って――。

「うえっ」

 考えを整理する間も無く、わたしは反吐はんとする。

 どろどろと、わたしの口腔から止め処なく吐瀉物が川に産み落とされていく。

 夜目にも、白々しらじらと流れる嘔吐。

 わたしは虚ろな目でそれらが流れていく様を眺めながら、声を上げて泣いた。



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