煙草

新樫 樹

煙草

 そのひとは、とても背の高いひとだった。

 細身で長身だから、まるで電信柱のようで。

 そのときはまだ幼稚園児だった少女は、いつも首が痛くなるくらいに見上げていた。

 すくっと真っ直ぐに伸びた立ち姿が、ひととなりを表しているようだったなと、今は脳裏にしか残っていないそのひとをぼんやりと思い出す。

 写真の一枚でもあればよかったのに。

 けれど、バス停で会うだけだったそのひとの、写真などあるはずもない。

 タカハシさん。

 今ごろどうしているだろう。

 最近、少女はあのひとのことを思い出す回数が増えた。



 少女は引っ込み思案だとよくひとに言われた。

 けれど、本当はもっと深刻だった。

 母はただ幼稚園に連れて行くだけで、その日一日の力を全部使い果たすくらいに疲れ切り、途方に暮れた。

 少女はひとを怖がった。

 もしかしたら対人恐怖症か何か、そんな名前を付けられたかもしれなかったけれど、少女はまだ自分のことを言葉で伝えることができなかった。使える言葉の数が圧倒的にすくなかったからだ。

 母は、いつもスカートの下にデニムをはいている。

 少女は母のスカートに入ってしまうから。

 入ることで安心する。

 母のスカートの中は少女の避難場所だった。

「こんにちは」

 細く長いシルエットから、とても優しい声がしたとき。

 少女はスカートの中に入りそこねていた。

 母が、少女の髪を少し直してくれていたからだった。

「今日はいいお天気だね」

 腰を折って話しかけるその先が、自分であることに少女はすぐに気が付いた。

「ところでお嬢さん。申し訳ないけれど、一本だけ煙草を吸ってもいいですか?」

 その声があまりに優しかったからなのか、見たこともないくらいの背高のっぽだったからなのか、少女はこの見ず知らずのおじさんの様子に一瞬心を持っていかれてしまって、逃げることなく、思わずうん、と頷いた。

「ありがとう」

 微笑む顔は、まるで絵本に出てくる……なんだろう。とにかく、そういう感じだった。コロポックルとかサンタとか、そういう……優しい……優しい。

 にこりと笑みを深くして、おじさんは煙草を吸い始めたのだけれど、その直後に少女は目を丸くした。

 煙が、丸い。

 輪っかになった白い煙が、そのまま円を大きくしながら空へゆくではないか。

「……!」

 ぎゅうっと母のスカートを握る。

 中に入るのはすっかり忘れていた。

 おじさんは何度も何度も、煙で輪っかをつくって空に放つ。

「まぁ、すごいわね。ユミ」

 母が気付いて少女に声をかける。

 少女はうんと頷く。

 本当に、なんていいものだろう。

 おじさんは一本すっかり吸い終わるまで輪っかを作ってくれて、そしたらバスがやってきた。

 にこにこと吸殻を片づけて、じゃあねとバスに乗り込む。

 そのバスに、少女と母は乗らない。

 直後にやってくる園バスを待っていた。

 おじさんはそれをよく知っているようだった。

 もしかしたら、毎朝泣き喚く少女を、バスを待つ列に並びながら見ていたのかもしれない。そうでなくても、母のスカートにもぐりこむ子どもの、異様な光景を見ていたのだろう。

「面白いおじさんだったわね」

 こくっと頷きながら、少女はまったく気づいていなかった。

 今朝はちっとも泣かなかったこと。

 今朝はちっとも行きたくないと駄々をこねなかったこと。

 今朝はちっともスカートの中に逃げ込まなかったこと……。

 翌日もその次の日も、おじさんはバス停にいた。

 そうして、少女を見かけると、せっかく並んでいた列を外れて、少女と母の元にやってくる。

「おはよう」

 違うのは着ているスーツの色だけで、微笑みはいつも変わらなかった。

 煙草で輪っかをつくってくれることも変わらなかった。

 少女は本当に好きだった。

 すっかり気に入っていた。

 真っ白い煙の輪が空へのぼるさま。

 きれい、とも違う。面白い、とも違う。

 ただただじっと見ていたかった。

 特別で大切なもの。

 そのときの少女が、煙草の煙を何に重ねていたのか、今はもうわからない。

 けれどもそのときの、なぜだか心がふわふわの温かいものに包まれるような気分は、今でもよく覚えている。

 そのうち、母がおじさんと話しているのを聞いて、少女はおじさんがタカハシさんというのだと知った。

 毎朝、病院に行くために同じ時間のバスに乗っていて、家は少女の家とは反対方向の大通りの向こう側で、奥さんとふたりで暮らしている。入院しているのは奥さんだった。

「うちは子どもがいないんですよ」

 ぽつりと言ったとき、タカハシさんはとても寂しそうな目をした。

 高いところからふわっと大きな手がおりてきて、少女の頭をそっとなでた。

 そっとというよりも、おそるおそる、手はなでた。

 ハムスターを飼い始めたばかりのケンちゃんが、ちょうどこんなふうにハムスターをなでていたのを思い出した。

 子どもがいなくて慣れていないから、こんななでかたなんだ。きっと。

 どうしていないんだろう。こんなに優しいおじさんに。子どもが。

 少女は心底不思議だった。

 少女の父親は少女の頭をなでたことなどない。

 いつも怖い顔をしてパソコンをいじっている。

 そばに行くとたいてい叱られるから、少女は父親にさわったことがない。

 もっと小さいころはどうだったかわからないけれど、少女には自分の小さいころの記憶はない。

 記憶のはじまりから、父親は怖い顔をしていて、そばに行くと怒った。

 だから少女にとって、父親はそういうひとだ。

 頭をなでられながら、ふと少女は、目の前のスーツにさわってみたくなった。

 上着のすそを、さわったとき、まぁと母の声がした。

 いつもはビクッと手を引っ込めるけれど、今日はもうちょっとさわっていたかった。

 朝の外気を吸い込んでひんやり冷たく、ざらざらしている。

 ふっくり厚い硬い生地にふれていると、なぜだか少女はわくわくしてきた。

「すみません」

「いいんですよ」

 小さな声が頭の上でしたけれど、少女は夢中でなでたり掴んだりした。

 ものすごく広くて大きなぽかぽかしたものに、大事に大事に包まれているような気持ちになって、そっと見上げると、タカハシさんの笑顔がこちらを向いていて、ちっとも怒っていなくて、それがぽかぽかに蓋をしてくれた。

 少女はちゃんとくるまれて、蓋をしてもらって、だから今日はずっとずっとぽかぽかのままでいられる、と思った。

 その日も、タカハシさんは煙草を一本だけ吸って、輪っかをたくさん空に飛ばしてくれた。

「じゃぁね」

 タカハシさんがバスに乗る。

 ありがとうございますと、母が言う。

 少女に手を振るタカハシさんが少し驚いた顔になって、そうして笑った。

 少女はその日、はじめてタカハシさんに手を振った。



 やけに鮮明な記憶は、けれどもそこで終わっている。

 もしかしたら、あれがタカハシさんとバス停で過ごした最後の日だったのかもしれない。

 根拠はないけれど、少女はそんな気がしている。

 こわくて母にはタカハシさんのことを聞けないでいる。

 もうすぐ高校生になる少女には、タカハシさんがバスに乗らなくなることがどういうことなのか、もうわかるから。良いか悪いかしかない結末を、確認するのはとてもこわい。

 これから通う高校は、あのバス停でバスに乗る。

「ところでお嬢さん。申し訳ないけれど、一本だけ煙草を吸ってもいいですか?」

 耳に残る声は、いまも優しい。

 遠い遠い、煙草の思い出。

 少女の、宝物。

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煙草 新樫 樹 @arakashi-itsuki

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