じゅうきゅう

 夜の闇に包まれた街の中。

 重い体を引きずり、もうほとんど歩くように走っていた一人の男性は、己の背後から迫る影が無いことを確認して、ようやく安堵の息を吐いた。その手の中でアヒルのオモチャがぷきゅうと音を立てる。


 ぐるりと周囲を見渡せば、この場所がどこかの広場であることが分かった。

 中央には大きな木が一本あり、その回りを生け垣がぐるりと円形に取り囲んでいる。木と生け垣の間は花壇になっていた。

 生垣の周りには、等間隔でベンチが設置してある。

 疲れた体を少し休めようとひとつのベンチに近づいたところで、彼は先客の存在に気が付いた。


 暗がりに目を凝らし、それが誰であるかを認識した彼の表情が、一気に驚愕へと塗り替わる。


「な、なんで……」


 呆然と零された呟きを聞きながら、僕はゆっくりと立ち上がった。

 そして、二度目となる問いを投げかける。


「自首をしてはくれませんか」


 彼はそれに答える前にきょろきょろと辺りを伺って、この場に僕の姿しかないことを確認すると、途端に余裕を取り戻した様子で胸を張った。


「おんや、今度こそご自分が優位に立ったつもりで? でもあの凶暴なお供のいねぇあんたなんか、顔以外は怖くねぇでやすよ」

「……顔に関してはもう何も言いませんけど」

「そっちこそ、あっしに旧印を返してもらいやしょうか」


 ルイーゼ達がいる以上、僕を捕らえておくことは難しいと分かったはずだ。それなのにどうして、と眉根を寄せた僕に、彼はニヤニヤと嫌な笑みを浮かべて言った。


「さすがにこの街ではもうムリでやすが、ちょっと田舎に行きゃぁソイツでまだまだ稼げそうなんでねぇ」


 確かに、領内全域に向けて通達を出したとしても、情報の巡りが悪い地域というのはどうしてもあるものだった。

 騙される馬鹿はいくらでもいるものでやすよ、と肩をすくめた彼を、僕は強く拳を握ってまっすぐ見据える。


「そんなことをさせるわけには行きません。領主として、……あなたの元家族として。この旧印は渡せない」


 取り出した旧印をそっとベンチの上に置き、その前に立ちふさがる。


「……とことん、あっしの計画を邪魔してくれるお人でやすねぇ」


 不愉快そうに顔を顰めた彼は「こうなりゃ仕方ねぇ」と呟いて、ポケットから何かを取り出そうとした彼の手中で、アヒルがぷきゅうと鳴く。


「だぁぁ! 邪魔でやんす!!」


 そこで初めて自分がオモチャを持ちっぱなしだった事に気付いたのか、彼がアヒルを地面に叩きつけた。ぷきゅぷぅ、と少々歪な音を立てて転がったそれには目もくれず、改めてポケットに手を差し入れる。


 彼が取り出したのは小さな折り畳みナイフだった。

 その刃が迷いなく起こされて、こちらを向く。


「さて、そんじゃあ領主様。旧印を差し出したくなる程度に、かるぅく痛い目見てもらいやしょうか」


 地面に落ちたアヒルのオモチャを眺めていた僕は、ひとつ溜息をついた。


「……残念です」


 静かに首を横に振って、ベンチの影に置いておいた“あるもの”を拾い上げる。

 すると反対側の生け垣の向こうから鳶がひょいと顔を出して、僕に手を振った。


「開けたよー!」


 唐突に響いた第三者の声に驚いた様子だった元コックの彼は、しかしこちらが持っているものに気付くと、ひくっと口元を引きつらせた。


 僕の手元には、銅色のノズル。

 そこから伸びる長いホースは、生け垣の間を通って、鳶がいるほうへと繋がっている。


「あ、開けたって、何を、まさか」

「えっとねー消火栓のー、バ・ル・ブ!」


 にひ、と鳶が満面の笑みを浮かべた。

 それを聞いて、元コックの彼は弾かれたように動き出した。


 ホースを取り上げるつもりなのだろう、ナイフ片手にこちらへ向かってくる姿を視界に捉えながら、ノズルを持つ手に力を込める。

 地下でコーラをぶちまけた際はとにかく必死で、狙いをつけるどころじゃなかった。あれでうまく行ったのは、本当に奇跡としか言いようがない。


 だから今度はしっかりと狙いを定めて、噴射口を構える。

 奇跡ではなく、ちゃんと自らの手で決着をつけるために。


「――行きます!」


 ホースから伝わる振動と重みを受け、僕はぐっと足に力を入れた。

 そして彼の腕がまさにこちらへ届こうかという瞬間。


「そいつを離っ、うあべべぶふっ!!?」


 とてつもない勢いで噴出した水が、まるで衝撃波のように彼を吹き飛ばした。


 ……これは初期消火用のもので、消防団が使う本格的なものに比べると水圧はかなり落ちる。命には別条無いはずだ。たぶん。

 コーラの時と同様に自分でやっておきながらその威力に慄きつつ、鳶に水を止めるよう合図した。


 ノズルを置いて、旧印をもう一度自分のポケットにしまってから、少し先で仰向けに転がっている彼のもとへ歩み寄る。

 恐る恐る覗き込んで見れば、彼は完全に目を回していたが、特に怪我をした様子は無さそうだった。


 ほっと息をついていると、駆け寄ってきた鳶が「こんなの心配してやることないのに」と口を尖らせる。

 それに苦笑を返したところで、通りのほうから賑やかな声が近づいてくるのに気が付いた。


「犬コロのくせにご主人のニオイも追えないとか笑えるネー」

「うるせぇガチの犬と一緒にすんな。何の目印もなく長距離追えるかよ」

「む? ……おおジャック! 大事ないか!」


 広場の入り口から姿を現したルイーゼが声を上げると、その後ろで言い合っていた柴とリンさんもこちらを向く。


 おそらく……というか十中八九大丈夫だろうと思っていたものの、ルイーゼと柴の無事な様子に胸を撫で下ろした。

 そしてリンさんは、僕が何も聞かないうちから「猛獣コンビとたまたま行き会ったからネ! ご主人の行き先分からないって言うからネ! ワタシの耳で探してあげたヨ!! ちょっとした人助けヨ! 心配で帰れなかったとかじゃないのヨ!」と先ほどの放水もかくやという勢いで言い訳し始めたので、とりあえず色々ひっくるめて「ありがとうございます」と返しておいた。


「へえ、もう仕留めたのか」


 伸びている元コックを覗き込んだ柴が、感心したように目を丸くする。

 その言い方だと殺しちゃったみたいだから止めてほしいなぁと遠い目になっていた僕は、ふとナイフの存在を思い出した。


 周囲を見回せば、水の勢いで吹き飛んだのか、少し離れた場所に落ちているのを発見したのでそちらに向かう。


「っつーかしっかり拘束しとけよ。起きて反撃されたらどうすんだ」

「今からやろうと思ってたんですー! ……えーと、何で縛る?」

「お前、運送屋だろ。ガムテとかビニテとか結束バンドとか持ってねぇの」

「無いよそんなの!」

「……ふむ、それではわらわが」

「雌豹女が超のつく物理手段に出る前にあのホースでいいから持って来い早く」

「がってんです」


 いつもの日常を感じさせる騒がしさに、ようやく肩の力が抜けていくのを感じながらナイフを拾い上げる。

 彼の私物かと思ったら、ナイフの柄には“備品(果物用)”と書きなぐられたテープがべったりと貼られていた。賭場から持ち出してきたものだったらしい。


 とりあえず危ないので刃を畳もうとしたとき、あいや起きたネ、というリンさんの声が耳に届いて振り返る。


「ううう……何が……どうなったでやんすか……」


 ホースで肩から足首までぐるぐる巻きにされた元コックの彼が、うわ言のように呟く。それにしても巻き過ぎでは。鳶が達成感あふれる表情で額の汗をぬぐっていた。


「よう銭ゲバコック、気分はどうだ?」

「へ」

「年貢の納め時じゃな」

「え」

「お屋敷のコック? どうりで見覚えある顔だと思ったネ」

「なん」


 自分を見下ろす顔ぶれにしばらく目を白黒させたあとで、彼はようやく状況を把握したのか、悔しげに唸り声を上げる。


「ぐぐう、あっしの一攫千金の夢がこんなところで……いやまだまだ挽回のチャンスが……ピンチのときこそ勝負師の腕の見せ所でやんすぅ~」

「まだ諦めてないって逆にすごいよね」

「ポジティブにも程があるヨ」


 鳶とリンさんが呆れたように言い、柴が黙って肩をすくめた。

 ルイーゼはもうあまり興味のなさそうな顔で、「どうするのじゃ?」と僕を顧みる。


「うーん……」


 自警団に引き渡すのは確定として、その後どうなるかは被害者の人達との話し合い次第だが、お人好しばかりと噂の我が領民達だ。おそらくは騙し取ったお金の返却くらいで済ませてしまうだろう。


 となると彼は賭場に戻されるはずだが、あの様子だとすぐにまた何か企みそうである。

 少し考えて、僕はちらりと手元のナイフに視線を落とした。

 刃の表面に映る自分の顔と見つめ合い、深く息を吸って、吐く。


「くそぅ、覚えとけでやんすぅ、この屈辱忘れないでやすよぉ」

「……それで?」


 宵闇に落ちた声の冷たさに、皆の視線がこちらに集まるのが分かった。


 それには構わず、地面に転がる彼だけを鋭く見据える。ひ、と息を飲んだ音が聞こえた。

 その様子に目を細めてから、そちらに向かってゆっくりと足を踏み出す。


「僕が聞きたいのはそんな話じゃないんですよ」


 片手でナイフを弄びながら歩み寄って行くと、かち、と震えた歯の根がぶつかる音がする。


「もっと簡単なことです。払うものを払って、今まで通り平和に暮らすか」


 とうとう目と鼻の先まで辿りついた僕を、彼が青白い顔で見上げる。


「それとも」


 その横に膝をつき、鈍くきらめくナイフの腹をそっと彼の頬に沿わせて、薄く笑った。


「――今すぐ、僕の前から消えますか?」


 強い風が吹き抜ける。

 周囲の木々が軋むような音を立てて揺れる中に、ひゅう、と歪な空気音が混じった。


 それを境に、彼が微動だにしなくなる。

 え、と目を丸くして、僕はナイフを引っ込めた。


「あの、もしもし?」


 顔の前で手を振ってみると、その首がかくりと重力に従って傾いた。


「えぇ!? ちょっ、大丈夫ですか!?」

「……死んでねぇから落ち着けよ」

「うむ、気を失っただけじゃな」


 柴とルイーゼに言われてよく見れば、確かに彼はまた目を回しただけのようだった。何だか引きつった顔で魘されているものの、呼吸はしっかりしている。


「な、なんだ、良かった」

「やー良かったっていうか……にーちゃんアレなの? なんか、満月の夜に右手がうずいて闇の人格とか出てきちゃうタイプなの?」

「何その新たな風評被害!? 違うよ!」

「でもセンセ、今完全に週三ペースで誰かしら始末してるヤクザだったネ」

「だから!!」


 分かれ道の時とは反対にリンさんの後ろに隠れた鳶から、なんとも言えない顔を向けられて、僕は慌ててナイフを折りたたみながら弁明する。


「ただ、その、少し脅かせばもう悪いことする気にならないかなって……!」

「いやアレで少しってアンタ。オーバーキルにも程があんだろ」

「さっきのほとんど柴が書いた領主特訓の台本ままだからね!?」

「俺は顔面にナイフ突き付けろなんてヤベェこと書いてねぇし」

「つ、突き付けてはないじゃないか!」


 ほっぺたに沿わせただけだ。

 当然ながらそれ以上のことをするつもりは微塵も無かったのだが、物言いたげなみんなの視線から逃れるようにして、僕は「アヒル取ってくる!」と折り畳みナイフを柴に押し付けてから身をひるがえした。

 まぁアヒルのオモチャが落ちているのはすぐそこなので、ほとんど意味のない逃避だったが。


 背後で、柴がひとつ息を吐く。


「アレが普段から出来てりゃ完璧なんだけどな」


 アレ、というのは今やった台本のような領主の立ち振る舞いのことだろう。

 期待に応えたいのは山々なのだが、どうにも性に合わないというか、むしろ先ほど噛まなかったのがコーラの件と合わせて奇跡だ。


 父のような立派な領主への道は険しそうだ、と肩を落としながらアヒルのオモチャを拾い上げる。

 そしてポケットからハンカチを取り出してアヒルを拭いていると、ルイーゼが「ふん」と小さく鼻で笑うのが聞こえた。


「そんなこと思ってもおらぬくせに」


 愉快げで、からかうようなその声色のめずらしさに、思わずそちらを振り返る。

 だがその時にはもうルイーゼはいつも通りの真顔で、柴は柴でめずらしく言い返すこともせずに、黙ってそっぽを向いていた。


「……どうかした?」


 アヒル片手に彼らの元へ戻って尋ねてみると、二人は声をそろえて「何も」と言い、リンさんがやれやれというように肩をすくめた。

 その様子に首を傾げる僕を見上げて、いつのまにか隣に来ていた鳶が笑う。


「まー、ちょっとくらい頼りない領主様がいても良いって事かな!」


 その言葉の意味を問うより先に、「ほら行こ!」と腕を引っ張られて、前のめりになりながら走り出す。


「オイ、こら、先行くな! このホース巻き野郎はどうすんだ!」

「荷物運ぶなら犬ぞりが一番ネ。任せたヨ」

「じゃあソリ持って来いよソリをよぉ!」

「わらわがすでに担いだゆえ、そりは不要じゃぞ」

「……まじかよ」

「お嬢すごいネ」

「む?」


 走る僕の手の中で、アヒルのオモチャがまるで笑うように、ぷきゅぷきゅと鳴っていた。

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