じゅう
書斎机の上に、例の通達書もどきと、先ほど見つけたメモを並べる。
「ふむ。確かに同じ字じゃの」
僕の大声を聞いて扉をぶち破る勢いで……いや実際に書斎の扉を蹴破ってかけつけてくれたルイーゼが、双方を見比べてひとつ息をつく。
その後ろではニシキさんが蝶番の外れた扉の修復に取り掛かっていた。鳶は部屋の隅に座り込んで、大して興味もなさそうにレシピ本をめくっている。
「何でお前んとこのレシピ本から出てきたメモに、このヘッタクソな字が?」
メモには何種類かの食材名と、横にキロ数が書いてあった。買い足す必要のある食材を羅列したものなのだろう。
「これ、うちで働いてくれてたコックさんの字だよ。うん、領収書のサインとかで何回か見た……あーそうだ……そうかぁ~……」
どこかで見た気がしたはずだ、と頭を抱える。
一応言い訳させてもらうならば、ほとんど厨房にいるコックの字を見る機会というのは、“領主の息子”だったころにはまず無かった。
そして“領主”となってからはご覧の有り様で、山のような書類の狭間にほんのり気配を残すのみだ。いくら癖のある筆跡と言えど、さすがにはっきりと覚えてはいられなかった。
同じ使用人の立場であったルイーゼや柴も、持ち場が異なるためか見た記憶は無かったらしい。
「金目のもんばっか持ち出してった銭ゲバコックか。アイツが犯人なら納得だな」
「いや、まだ犯人かどうかは分からないけど……」
通達書もどきの筆跡は確かに元コックの彼と似ているが、断定は出来ないだろう。そう告げると、ルイーゼが「しかしジャック」と難しい顔で僕を見た。
「このような珍妙な筆跡の持ち主がそう身近にごろごろしておるとは思えぬ。
それに元使用人であれば、先の代替わり時のドサクサに紛れて、領主印を押した紙を持ち出すことも出来たであろう」
「だけど、昼間も言ったけど領主印はいつもちゃんとしまってあるし……いくら使用人でも難しいんじゃ」
食い下がる僕に、柴が眉根を寄せて首をかしげる。
「アンタ、やけにコック野郎の肩持つな。そんなに親しかったか?」
「……ううん。ほとんど話したことなかったけど」
うちの使用人は、中央の領主組合から紹介されてきた人達が大半で、彼らの性質はとにかくビジネスライクであった。
しかし父もコミュニケーションを重視する柄ではなかったため、“領主家”としては上手く回っていたが、“家庭”と考えると寂しい空間であったようにも思う。使用人のみんなと、業務連絡以外の会話が出来た記憶もあまり無い。
けれど、それでも。
「ずっと同じ家で過ごした、家族だったんだ」
たとえ彼らにそんなつもりがなくても、僕にとってはそうだった。
「アンタをあっさり見捨ててったバカ共でもか」
「……ぎりぎりまで疑いたくないよ」
小さく答えれば、柴は深く溜息をついてがしがしと頭をかいた。
そしてまた何事か言いかけたが、その前に「お話し中に失礼致します」と突如 耳元で響いた声にびくりと身をすくめる。
振り返ると、扉を直していたはずのニシキさんが、いつの間にかすぐ傍まで来ていた。相変わらず気配の無い人である。
「少々見せて頂いてもよろしいでしょうか」
そう言ってニシキさんが示したのは、通達書もどきだ。
断る理由もないので了承して手渡すと、彼はそれを少し眺めて「旧印でございますね」と言った。
「旧印?」
「こちらに押印されているものです。現在の領主印ではなく、一つ以前のものかと」
領主印はひとつ作るのにも時間とお金が掛かる。しかし逆を言えば、掛けるものさえ掛ければ、変更や新調は可能だということだ。
中には毎年変える領主もいるらしいが、申請にもかなりの手間が掛かるため、そういう家は本当にごく一部で、大抵は同じ紋を代々使っていく。
「……うちに旧印なんてあったんですか?」
「ぼっちゃまがまだお小さいころに、お父様が意匠を変更なさいましたので」
「しかも父が変えたんですか!?」
デザインに拘るタイプの人では無かったと思うのだが、何というか、とても意外である。
我が家のモチーフは
しかし言われてよく見てみれば、通達書もどきに押されている印は、今使っているものと模様が少しだけ異なっていた。
「旧印には、もはや領主印としての力はございません。新印の登録と同時にその権利を失効致します」
旧印を使って公文書を偽造しても各所の審査でバレて弾かれるから、持ち出したところで大規模な悪用は難しいだろうという。
「出来る事があるとすれば、このような……一時的なはったりに使う程度にございましょう」
そう言って通達書もどきを僕の手元に戻したニシキさんに、この筆跡に見覚えはあるかと問えば、我が家の厨房で働いていたコックのものだと断言された。
屋敷内の全てを長年に渡って取りまとめてきた執事の言を否定する材料は、新米領主のどこを叩いたって出てこない。
「……旧印って、取って置くものなんですか?」
「大抵は新印の登録後に処分いたしますが、記念にと保存しておく領主様もいらっしゃいます」
悪あがきのように話をそらしたところで、現実は変わらない。
管理の甘い旧印であれば、使用人なら二ヶ月前のどさくさで持ち出すことも出来ただろう。そして執事お墨付きの、当人の筆跡。
「決まりだな。こりゃ完全にクロだ、クロ。さっさと自警団の連中に投げちまえよ」
もう諦めろというように柴が告げるのを聞きながら、手にした通達書もどきをじっと見つめる。
そして頭で考えるより先に、僕の口は動いていた。
「……自警団の人には、これからお願いしに行く。明日の朝一で、領内に通達も出す」
「あぁそうしろ。こうなったらアンタの管轄じゃねぇよ。それでこの件は仕舞い、」
「――でも、自分でも動いてみようと思う。元コックの彼を探す」
言い切って顔を上げると、柴がぽかんと口を開いてこちらを見ていて、ルイーゼも驚いたように目を丸くしていた。
向けられた視線の圧力に負けそうになる心を必死に奮い立たせる。我知らず手に力が入って、通達書もどきがくしゃりと音を立てた。
「元コック、探してどうする」
短い沈黙の後、柴が静かな声で尋ねてくる。
最終的には、罪を償ってもらうことになるのだろう。けれどその前に、僕は。
「直接話を聞きたいんだ。彼が犯人だっていうなら、なおさら」
家族であり、新たな領主として短い間でも雇い主であった自分の、それが責任でけじめだと思った。
だがそんなのは全て、僕の個人的な我儘だ。
「あの、もちろん領主の仕事はやるし、バイトもちゃんと行くし、探すのは空いた時間だけにするよ。だから、」
「そうじゃねぇ。今はそんな話をしてるんじゃねぇんだよ」
柴の声がぐっと低くなる。
その平坦な響きに、あ、まずい、と思った次の瞬間。
「だから、何でアンタが……そうまでしてやる義理があんだっつってんだ!!!」
びりびりと空気を震わせる怒声と共に、書斎机の傍らにあった椅子を、柴が蹴り飛ばす。
盛大に吹き飛んだ椅子は、部屋の隅にいた鳶の真横をかすめて壁にぶつかって落ちた。「ひい!?」と鳶の引きつった悲鳴が書斎に響く。
それには一切構わずに、柴は険しい表情で、僕の胸元に指を突き付けた。
「いいか、アンタんとこの領地にはどうも平和ボケのお人好しバカが多いがな、世の中には救いようのねぇクズが五万といるんだ。
誰も彼もお涙頂戴の事情があって、話せば分かり合えるだとか夢みてぇなこと思うんじゃねぇぞこの甘ちゃん領主が!!!」
耳に痛いほどの正論だった。反論の余地なんてひとかけらもない。
「だいたい出てった時点でもう家族でも何でもねぇんだよ! セールスの電話も断れねぇヘタレが、詐欺師相手に何をどうしようってんだ!」
「……確かに僕は、勧誘の人にも泣かされるヘタレだよ」
だからこそ、これはふがいなくて情けない僕の責任で、けじめで、我儘で。
「でも、領主だ。
例え彼がもう家族じゃないとしても、僕には領内で起きた問題をきちんと把握する義務がある」
――決して譲れない意地だった。
ここで手を引いてしまったら、僕はきっと、自分が領主であることを許せなくなってしまう。
そんな思いで柴と睨み合ったまま、経った時間は数秒か、数十秒か。
先に目をそらしたのは柴だった。
彼はひとつ舌打ちを零すと、何も言わずに身をひるがえし、書斎を出て行ってしまった。
その背中を見送って、「やれ、困った犬じゃ」とルイーゼが肩をすくめる。
「ジャック、如何する? 連れ戻すかの」
「……いや、一回怒らせちゃうと、しばらく話聞いてもらえないと思うから」
少し時間をおいて、自分も頭を冷やしてから謝りに行こうと決めたところで、僕はルイーゼをちらりと見やった。
「ルイーゼも、やっぱり怒ってる?」
恐る恐る尋ねると、彼女は一度きょとんと目を丸くして、それから困ったように笑った。
「怒ってはおらぬ。少々寂しくは感じたがの」
「寂しい?」
「そうじゃな。ところで、あやつがなぜ怒ったのかは理解しておるか?」
「うん……柴が怒るのも当然だよ。何から何まで自分勝手な話だし。でも僕は……」
「そうではない。そういう話ではない、と柴も言っておったであろう」
ジャック、とルイーゼが優しく言い聞かせるように僕の名を呼んだ。
「おぬしはただ、手伝ってくれと言えばよかったのじゃ。さすればあの男は文句を言いつつも了承したであろうに、それを迷惑はかけぬ一人でやるとは、何とも水臭い話よ」
さすがのわらわも寂しく感じた、と言葉とは裏腹にからりとした笑みを浮かべたルイーゼの顔を見返して、僕はぐっと唇をかんだ。
目の奥が熱くて、そうしないと涙が出そうだった。
「……やっぱり僕はダメな領主だなぁ。あんなこと言っておいて、家族の気持ちをなんにも分かってないんだから」
これじゃみんなに愛想つかされて当然だ。ようやく押し出した声の響きの弱弱しい頼りなさが、まるで自分そのものみたいだった。
先ほど啖呵を切ったときに振り絞った勇気が、空気の抜けた風船のように萎んでいきそうになる。
「ジャック様」
呼ばれた名が自分であると、認識するのに少し時間が掛かった。
だってこの声の持ち主は、いつも僕を“ぼっちゃま”と呼んでいたから。
「畏れながら申し上げます」
彼は――ニシキさんは、一度恭しく頭を下げてから、真っ直ぐに僕を見た。
「はじめから立派な料理が無いように、はじめから完璧な領主もおりません。
時間をかけ、手塩にかけて、ようやく喜んで頂ける味になるのでございます」
僕が領主になってこの方、おそらく一番苦労をかけているはずの執事が、焦ることは無いのだと言う。
「のうジャック。辞めていった使用人さえ家族と思う心は、領主としては欠点とも成り得るかもしれぬ。
しかしまぁ……こうして使用人の立場として、実際言われてみると存外嬉しいものじゃ」
同じく苦労を掛け通しのあの子が、僕は僕のままで良いのだと笑う。
無理をするなと、頼ればいいのだと怒ってくれる人がいる。
情けなくて頼りなくてヘタレな新米領主は、どうも周りの人にはすこぶる恵まれているようだ。
空っぽの屋敷をすっかり棚上げしてそんな調子の良い事を思ってしまった僕は、泣き笑いのような顔になりながら、ありがとう、と言った。
そして目元をぐいと拭ってひとつ息を吐いてから、背筋を伸ばし、彼らに向き直る。
「僕は、やっぱり一度会って直接話を聞きたい。その結果がどんなものでも。それで、あの……力を貸して、もらえるかな」
「うむ! もちろんじゃ」
「ご不在の間、屋敷のことはお任せください」
躊躇いなく頷いてくれた二人に、また目頭が熱くなりそうなのを必死に堪えた。
泣いている場合じゃない。これ以上被害が広がってはいけないし、やると決めたからにはさっそく行動に移さなければ。
思考を巡らせようとした時、部屋の隅から不満げな声が響く。
「ねー! オイラいつまでほったらかしなワケー!?」
…………忘れてた。
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