ろく

 細い路地裏を、よっつの人影が駆け抜けていく。


 先頭を行くのはあの少年、少し遅れてその後を追うのが柴とルイーゼ、さらにもう少し遅れたところを息も絶え絶えに走っているのが僕だ。

 賭場から広場まで全力疾走した後、さほど休む間もなく始まった追いかけっこに悲鳴を上げる肺を宥めすかしながら、前の三人を見失わないよう必死に足を動かす。


「くそ、すばしっこいなあのガキ!」

「道の狭さを上手く利用しておるわ」


 少年は入り組んだ路地を迷いなく、小柄な体を活かしてするすると走り抜けていく。

 こちらは思うようにスピードを上げられないらしい柴が、苛立たしげに舌打ちをした。


 このままではすぐ振り切られてしまうだろう。

 何か方法は無いかと酸素の足りない脳を働かせていた僕の目の前で、ルイーゼが走りながら拾い上げた木箱を、思いきり少年に投げた。


「ぅぉわぁ!?」


 前方から悲鳴が聞こえる。だが少年はとっさに走る方向を変え、ぎりぎりのところで木箱をかわしていた。


「む、外したか」

「あのっ、出来ればもうちょっと、穏やかな方法で……!」


 上がる息の合間に制止の声をかけようとしたところで、ふとある事を思いつく。


「……いや、やっぱり投げてルイーゼ! 僕が言った方向に、今と同じ感じで、当てないように!」

「当てなくてよいのか?」


 不思議そうに首を傾げたルイーゼに強く頷いてみせると、柴も肩越しにこちらを振り返って目を眇めた。


「おいジャック、俺はどうする」

「柴は……」


 声を潜めて、それを伝える。

 すると柴はにやりと笑い、「了解」と言ってすぐ別の路地に姿を消した。


「ではジャック! 準備はよいか? 投げるゆえ指示を頼む!」

「う、うん! ……あの、弁償の必要がなさそうなもの投げてね!!」

「心得た!」

「本当にあの子には当てないでね!」

「うむ約束しよう! 見事仕留めてみせようぞ!」

「仕留めないで!!?」


 一抹の不安を残しつつも、ルイーゼは頼んだ通りの場所へ、見事なコントロールで物を投げつけていく。ちゃんと少年に当たらないギリギリのところだ。たまに本気で当てるつもりっぽい時がある気もするが、おそらく僕の思い過ごしだろう。そうに違いない。


「次は、左前方っ」

「せい!!」


 走りながら上半身を屈めて器用に拾い上げた石を、ルイーゼが少年の足元に投擲する。

 一歩先の地面でバチリと弾けた石に悲鳴を上げて、とっさに右へと曲がった少年が、「あ、やば」と小さく呟く声が聞こえた。


 気付いたみたいだけどもう遅い。

 辿り着いたのは、二階建ての家に挟まれた路地。正面にはそれなりの高さがある塀。


 そして。


「よう、待ってたぜ」


 行き止まりの道の奥で待ち構える柴の姿を見て、少年は表情を引きつらせた。迷いなかった足取りがそこで初めて、ためらうように緩む。

 その隙を見逃さず、柴が一息で距離を詰めた。


「これで仕舞いだ!!」


 その手が少年に届こうかというとき。


「にゃーん」

「は、」


 どこからか現れた一匹の猫が、柴の前を横切った。


「おやつ返せ! この泥棒猫ー!!」

「え、」


 間もなく怒鳴り声と共に片側の家から飛び出してきた女性が、桶いっぱいの水を、猫に向かってぶちまける。


 ……ひいては猫が逃げたほうにいた、柴に向かって。


「げ、ほっ!」


 さすがに驚いて足を止めた柴に、少年はきらりと目を輝かせる。緩めかけていたスピードをグンと上げて、途中で思いきり地を蹴った。


「ごめーん! ちょっと肩借りるねー!!」

「……っ!」


 そして柴の肩を踏み台に、一気に塀の上まで跳躍する。

 反動でよろめいたもののすぐに立て直してそちらを睨み上げた柴と、僕とルイーゼに向かって、少年はにぱりと笑う。


「あー! あっぶなかった! でもオイラの勝ちだね!」


 じゃあばいばーい、と手を振って、少年はひらりと塀の向こうへ姿を消した。


「ジャック、また先回りは出来ぬか?」

「うーん、ここからではちょっと……」


 あの身軽さを考えると、今から追いかけても間に合わないだろう。

 元からずぶ濡れの僕とルイーゼに加えて新たにずぶ濡れとなった柴は、少年が消えた方向を見たまま、後ろ姿でも分かるほど凶悪な気配をまき散らしている。水をかけた女性が、涙目でそんな彼に謝り倒していた。


 夕暮れの気配を帯びてオレンジに染まり始めた路地で、見事に水をかわしてみせた猫だけが、のんきな顔であくびを零した。


 *


「男で子供で、今朝あの婆さんのアップルパイを食べたヤツ。孫って可能性もなくは無かったが、カマ掛けてみたら逃げたからな。もうあのクソガキで当たりだろ」


 濡れ鼠が三人、それでも一応少年が逃げた方向に歩きながら、雑談ついでに情報交換する。


 少年と出会った経緯を説明するために、チンピラに絡まれて賭場に連れていかれた件をぼかしぼかし話したら、「アンタのツラは大人しく待つことさえ許さねぇのか」と呆れた顔をされた。そんなこと言われても。


「しっかし、あんな路地裏の行き止まりなんてよく知ってたな。俺だってこっちのほうは詳しくねぇのに」

「わかるよ。自分の領地だし」


 答えると、柴は丸くした目をひとつ瞬かせ、ルイーゼはなぜか小さく微笑んだ。

 二人の反応に内心首を傾げつつも、空を見上げ、太陽の位置を確認して溜息をつく。


「出来れば今日中に何とかしたいんだけどなぁ」

「あぁ、次のバイトまでにな」

「なんの。わらわと柴が断食をすれば、バイトをせずとも後三日は余裕じゃ」

「俺を巻き込むな!」

「ていうかそんな体張らなくていいから!!」


 ルイーゼは放って置いたら実行しかねない。いや有言実行で不言実行の子だから確実にやる。

 そもそも使用人に断食の決意までさせてしまう領主ってどうなんだと若干落ち込んでいると、軽い足音がぱたぱたとこちらへ向かってくるのに気が付いた。


 曲がり角の向こうから姿を現したのは、五歳くらいの女の子だ。


 ちなみに僕にとって、小さな子は鬼門である。

 別に嫌いなわけではない。どちらかというと好きなほうなのだが、チンピラも怯えるような顔をした人間が、子供にどういう反応をされるかといえば……推して知るべしだ。


 慌てて柴の後ろに隠れようとしたとき、その子供がふいに足をもつれさせた。あっと思う間もなく、小さな体がぱたんと地面に倒れる。

 それを見た僕は直前まで頭にあった配慮も忘れ、とっさに子供へ駆け寄ってしまった。


「きみ、大丈夫!? どこか怪我は……」

「ふぇ」


 転んだ事にではなく、明らかに僕を視界に映してから表情を歪めた子供に、しまったと思うも時すでに遅し。

 次の瞬間には、女の子は火がついたような勢いで泣き出してしまった。


「ご、ごめん! 大丈夫だよ怖くない……顔は怖いかもしれないけど怖くないから! 本当にごめん、えっと、えぇっとぉ~……!」


 あわあわと顔を背けたり手で隠したりしてみるが、女の子は一向に泣き止まない。恐怖の大本が目の前にいるのだから当然である。

 とにかく柴かルイーゼに交代してもらわないとまずい。何から何まで絵面がまずい。今までの経験上、こうなったら確実に、


「あの、うちの子に何か?」

「ひぃやっぱり!? 違うんです誤解です僕はそんなつもりじゃ、」

「…………領主様?」


 ぽつりと零された言葉に、え、と目を丸くして顔を上げる。

 そこには不思議そうに小首を傾げた、三十代くらいの女性がいた。


「ううん違うわよね。領主様はこの間亡くなられたはずだもの」

「……僕、領主の息子です」


 今は僕が領主なわけだが、それはとりあえず置いといて。


「領主様の、そう、あなたが……」

「あの……父をご存知なんですか?」


 納得したようにひとつ頷いて柔らかく微笑んだ女性に、そう尋ねたところで、女の子がむくりと起き上がり女性のもとへ駆け寄った。


 その胸に飛びついて改めて大泣きし始めた女の子を撫でながら、あらあら転んじゃったの、と女性が苦笑する。

 現状を正しく認識してくれた事に驚いていると、彼女はふと顔を上げた。


 そして僕と、後ろで様子を見ていた柴とルイーゼを頭からつま先までじっくりと眺めて「ねぇあなた達、うちで乾かしていったらどう?」と笑ったのだった。

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