じゅうろく
チンピラ三人組――のうちの一人が、必死に鉄格子を揺すっている。
僕はその光景から目をそらし、自分の胸元をぎゅっと握り締めて身をひるがえした。
「すみません、本当にごめんなさい……っ」
まさかこんなことになるなんて思わなかったんだと、誰に向けるでもない言い訳を脳内で繰り返しながら、事の次第を思い出す。
内線に応答したチンピラその一の彼は、電話越しにも関わらず受話器を取り落とす勢いで怯えた後、何か御用ですか、と震える声で問うてきた。
そんな彼に僕が告げたのは一言。
“ちょっと暇なので、将棋盤とか貸して貰えませんか?”
それだけである。
備品倉庫で見たから知っているが、ここに置いてある将棋盤は簡易的な薄いボードではなく、しっかりとした木造りのものだった。鉄格子の隙間からの受け渡しなんてとてもじゃないが出来ないくらい、厚みがある立派なものである。
そしてチンピラその一の彼が将棋盤を運んできてくれたところで、僕はまた一言告げた。
“あのへんに置いてもらえますか”と。
自分は入り口付近に待機したまま。
牢屋の中の、一番奥の隅を、指さして。
「だって、まさか、こんな」
二人以上で来られたらそれまで。自分で運べと言われればそれまで。動きを警戒されていればそれまでの、駄目元どころかもはや冗談に近い作戦だった、のに。
「……上手くいってしまうなんて思わなかったんです……!!!」
欠片も。これっぽっちも。
また誰にともなく懺悔しながら部屋を出て、背後から響く「おいちょっ、ここ開けっ、開けてくださいオラァ!」という懇願から必死に意識をそらしつつ、後ろ手に扉を閉めた。
ここまでちょろいと脱出の喜びより何かもう心が痛いが、もたもたしているわけには行かない。自分が利用したようにあそこには内線があるのだから、脱獄がばれるのは時間の問題だ。
出来れば旧印も回収していきたいが、ひとまず今は、追手が来る前に逃げ場の少ない地下から脱出しなくては。
通路の反対端にある鉄梯子を目指して迅速に、しかし慎重に進んでいく。
事務室を通り過ぎて、私室の前に差し掛かった。目前に迫った鉄梯子に「あと少し」と気が緩んだ一瞬。
そんなときにこそ何かが起きるのが、いわゆる世の常であった。
「ったくよぉ、あのオケラ野郎。またビールなんて持って来やがって。アニキはカルーアミルクしか飲まねぇって何度も言ってんのによぉ」
瓶ビール片手にぶつぶつとぼやきながら扉を開けたチンピラその二と、今まさにその前を通り過ぎようとしていた僕。
……時が止まったような静寂が広がった。
お互いが脳みそをフル回転させているこの時間が、そう長くは続かないことを知っている。
だから僕は、数秒の間にどうにか活路を見いだそうと視線を巡らせた。
狭い通路に山積みにされた荷物のせいで、開いた扉の横に通り抜けられるようなスペースはない。このままでは梯子までたどり着けない。来た方向に戻ったところで、そこには牢屋しかない。
前門のチンピラ、後門の牢屋(ここにもチンピラ)となれば、道はひとつ。
選べる選択肢が少ないからこそ、動き出すのはこちらのほうが早かった。
僕は即座に身をひるがえして、事務室に向かう。
「ちょっ、オイ起きろ大変だ!! あのお方が脱獄してんぞ!?」
「鉄格子ねじきったのか!!?」
「ねじきってませんから!!」
後方から聞こえてくる風評被害に反論しつつ、事務室に飛び込んで扉を閉める。鍵はかけない。ここで籠城したところで牢屋にいるのと変わらないからだ。
弾む心臓を宥めつつ部屋の中心を見ると、そこには執務机に積み上がった書類の山脈。
表から足音がバタバタと近づいてくるのを感じながら、僕は先ほどの鳶のように、その山脈の裏に隠れる。間もなく扉が開いた。
「どうすんだよ俺らが捕まえんのか!? 相手は戦闘狂一族の殺人マシーンだぞ!? どうせ連れてきたのはオケラ野郎で俺ら関係ねぇしマジこえぇし、もうほっとこうぜコラァ!!」
「でもアニキが復讐する前にあいつ逃がしちまったら俺らぜってぇ怒られるぜアァン!!? 見たろあの剣幕! 超こえぇんだもんよ!」
「あれ、つーかいなくね!? 本当にここ入ったのかよ!」
ぎゃんぎゃんと喧嘩しながら入室してきた彼らが、執務机の左側から回り込むように歩いてくるのに合わせて、僕は山脈の影に隠れながら右回りに移動する。
このままそっと退室したいところだけど、扉を開ければさすがにばれる。そうなれば僕では逃げきれないだろう。
ならば足止めするしかない、わけだが。
書類の山脈をちらりと見上げる。日々執務に追われている身として、こういう事はあまりやりたくないんだけど、と内心溜息を零す。柴が聞けば「そんな場合か」と怒られること請け合いである。僕は腹をくくった。
「本当に! 重ね重ねすみません!!」
その場で立ち上がり、反対側にいる彼らには見えないだろうがひとつ頭を下げる。
それから彼らがいる方向に向かって、僕はその山脈を、思いきり押した。
「え? ……は!?」
「ァアアアン!?」
一気に雪崩る書類の山。地下通路に響き渡る振動と悲鳴を背に聞きながら、扉を開け放って通路に出る。
このまま鉄梯子まで駆け抜けようと大きく踏み出した足が、一歩目で何かに躓いた。
「うわっ!?」
とっさに体勢を立て直すなんて真似が出来るはずも無く、その場に尻餅をつく。
「いったぁ、何……ビール?」
僕のスタートダッシュを阻止したのは、床に転がった瓶ビールだった。そういえばさっきチンピラその二が持っていた気がする。
おそらく僕を追いかけるために慌てて放り出したのだろうそれが、彼自身さえ意図しない形で見事なトラップと化したらしい。
「ま、待てコラ、お待ちくださいってんだコラァ……!」
事務室の中から聞こえてきた声にびくりと身をすくませる。
近づいてくる足音はひとつ。どうやらチンピラその三は運良く書類雪崩から逃れたようだ。
早く逃げないと、いや間に合わない、どうする、どうしたら。
自問しながらもとにかく立ち上がろうと床についた手に当たる、冷たい感触。そこには僕が躓いたビール瓶がごろりと転がっていた。
「そうだっ、ビール……炭酸だから、えっと……!」
慌てて鞄の中を探り、滑らかな楕円形をした鉄の蓋を引っ張り出す。
「てめぇコラァ……牢屋に戻れくださいコラァ……!!」
扉が開いた。
それを視界の端に見ながら、瓶ビールの蓋に、鉄蓋の端を引っかける。
そして瓶の口をすぐ半分ほど指で塞げるように準備しながら――勢いよくビール瓶の蓋を開けた。
「ちょ待っコラ、ァあぶぶああ!!!!」
噴き出すビールの凄まじさに、自分でやっておきながら思わず驚いて指を離す。
するとビールはすぐに勢いを無くして、瓶の口からしゅわしゅわと溢れるだけになった。
「目、目がぁぁあ!? コラァァァア!!?」
しかし最初の一撃をまともに顔面に受けたらしいチンピラその三が、目を押さえて床をごろごろと転がる。
もはや謝罪するほうが白々しい気がして、僕はビール瓶をそっと通路の端に置き、ついでにビールまみれになった鉄蓋もその脇に添えてから立ち上がった。
そして今度こそ辿り着くことの出来た鉄格子に手をかけつつ、ぽつりと呟く
「…………何が役に立つか分からないものだなぁ」
僕に栓抜きを使わない瓶の開け方を教えてくれたのはルイーゼで、ビールかけのやり方を教えてくれたのは柴だ。
まぁ前者が教えてくれようとしていたのは手刀で瓶を開ける方法で、後者は僕が実際に食らったことがあるというだけだ。いや、ビールでなくジュースだったし、そのあと大笑いしながらやり方のコツも教えてくれたけど。炭酸がこんなふうになる事を僕はそこで初めて知った。
普通なら子どもの頃に友達とかと遊びながら覚えるのかもしれないけど、この顔面ゆえ友達がいなかったのだから仕方ない。ビールを浴びてもないのに視界が滲むのは気のせいだ。
寂しい幼少期を振り切るように梯子を登りきり、頭上の蓋を開けて、給湯室に出る。
地下であれだけ大騒ぎした以上、もう一気に脱出するしかない。
すぐさま部屋を飛び出して、今度は転んだりしないように足元をしっかり確認しながら、最初に入ってきた扉を目指して狭い通路を走る。
そう、足元は、確認していたのだが。
「――ごっめんねー! にーちゃん!」
「うぇっ!?」
背中にすごいスピードで何かがぶつかり、勢いで前方に吹き飛んだ体が、強制スライディングのような形で床に叩きつけられる。
「~~ったぁ……!」
打ち付けた額を押さえようと顔に手をやったところで、眼鏡がない事に気付いた。転んだ拍子に吹っ飛んだらしい。
探そうととっさに立ち上がりかけた僕の背中に、何かがドスンと乗った。
「思ったより勢いついちゃったなー。それともにーちゃんがモヤシすぎ?」
「平均はあるよ!」
じゃなくて。
「鳶……」
「はーい安心安全信頼の運送屋さん、鳶でーす!」
僕の背にどっかりと座り込んだ鳶が、そう言って笑顔で敬礼をした……気がする。首をひねって後ろを振り仰ぐが、眼鏡が無いとぼやけてよく見えない。
とにかく眼鏡、と周囲に目を凝らそうとしたとき、扉の開く音が聞こえた。位置からして、僕が目指していた出口の扉だ。
「おんや、これはこれは、仕様の無い坊っちゃんでやすねぇ」
そして一人分の足音と共に響いてきたのは、こちらを馬鹿にするような声。
僕はぼんやりとした輪郭を頼りにそちらを見上げる。
「……オケラさん」
「だから誰がオケラでやんすか!! ていうかあんた、ホントはあっしの名前覚えてないんでやんしょ!?」
「いや、あの、ずっとあだ名で呼んでたら本名が思い出せない、みたいな感じで……」
「本当に覚えてなかったんでやんすか!!?」
しどろもどろになっていると、鳶のほうから「あんだけ家族家族言っといてまじかよ」みたいな視線を見えないけどひしひし感じた。いや、だって、皆コックとしか呼んでなくて。
書類のサインとかで名前を見るとそれが彼のことだって分かるんだけど、彼自身を見た時とっさにその名前が出てこないというか、何というか、すみません。
「こ……この際あっしの名前はどうでもいいんで! とにかくあんたには牢屋に戻ってもらいやすよ!」
「……自首をしては、貰えませんか」
「そういう事は自分が有利なときに言うもんでやすよ。あんたみたいな袋の鼠が出来るのは、せいぜい命乞いくらいのもんでさぁ」
彼がそう言うと同時に、また扉が開いた音がした。しかも今度は後方、給湯室のほうである。
それを理解した瞬間、じわりと冷や汗が浮かぶのを感じた。これは本格的にまずい。
「よくも閉じ込めやがっ……てくれましたなオラァ……!」
「紙の山めっちゃ重かったんでございますけどアァン!?」
「ま、まだ目ぇ染みるぜコラァ……」
案の定、それぞれの状態から何とか復活したらしいチンピラ三人組の声が聞こえた。
前門の元コック、後門のチンピラトリオ。
そして背中の上には鳶、と考えたところで、ふとその重みが消えて、軽快な足音が前方に駆けていく。
「ねーねーもういいよね? オイラこんだけ仕事したんだしさ、そろそろ今日のぶんの配達料金ちょーだい!」
「こら服をひっぱるんじゃあねぇ! このお人をまた牢屋にぶち込んだら払ってやりやすよ!」
「わーい、やったー」
再び戻ってきた鳶が、今度は背に乗らずにただ隣に立ったので、僕もゆっくり上半身を起こした。
この視界で立ち上がるのは不安だったので、その場に膝をついた体勢になる。さりげなく床を手探りしてみたが、眼鏡は見つからなかった。
「さっき言った通り、あんたはここで何日か大人しくしてるだけでいいんでさ。なに、きっと適当なところで出して貰えやすよ」
あの元締めの気が済んだ頃に、と付け足して、彼が堪え切れないように笑った。
「せっかく頂いた退職祝いだ。ありがたく有効活用させてもらいますよ、コイツをねぇ!!」
ぼんやりとした輪郭しか見えない人影が、ポケットから取り出した手のひらサイズの塊を掲げたのが分かった。思わずぐっと息を飲んで、そちらに身を乗り出す。
「お願いします、その旧印を返してくだ、」
「エッ」
「え?」
いきなり間の抜けた声を零した彼に、何事かと目を瞬かせたそのとき。
――――ぷきゅう、と甲高い音が辺りに響き渡った。
「……ぷきゅう?」
つい最近こんな音を聞いた気が、と記憶を探る僕の横で、誰かが盛大に噴き出す気配がした。
「ぶっ、くく……! あーもう耐えらんないや! あはは!」
「鳶?」
何が起きているのか分からずに目を凝らそうとすれば、「そうだそうだ、はいコレ」と鳶が手渡してきたのは、先ほど吹き飛んだ僕の眼鏡だった。
わけが分からないながらにお礼を告げて、眼鏡をかけてから、僕は改めて元コックの彼のほうを向いた。
「な、な、な、な」
彼が呆然と見つめている手元には旧印……ではなく。
「なんでやんすかコレはー!!」
手のひらサイズの、アヒルのオモチャが握られていた。
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