第13話 菊と温泉

 父方祖父と祖母は1周り年が離れていた。

 12歳祖父の方が年上なのである。


 2人は昭和初期、当時としては珍しく恋愛で結ばれた。

 東京の蔵前にあった染色工科がある工業学校(後に東京工大となった) に通い、関東大震災を経験して卒業・帰郷した祖父は、実家の織物工場からのれん分けして独立し、同時に当時女学生だった祖母を見初め、熱烈な求愛の末に結婚した。

 当時の祖母は町で一番の美少女で、その美貌と成績の良さで市長から表彰されたという、嘘か本当かわからない話を何度も聞かされた。

 数少ない当時の写真を見ると、ほっそりと長身で、和服の襟からすうっと長い首、小さな顔の、正真正銘の美女が立っている。

 柳原白蓮という文人女性がいるが、その方そっくりである。

 父方祖母の家系は幕末の会津戦争を逃れて米沢に住み着いた士族だという。

 祖母の兄妹たちも皆色白で目の大きな美男美女ぞろいで、それは息子である我が父まで遺伝している。

 なぜその遺伝子が私まで来なかったのかは謎であるが。

 

 結婚し、祖父はバリバリ働き、祖母は奥様として祖父を支え三人の子をなしたが、無事に育ったのは三人のうち真ん中の子、父だけだった。

 祖母は身体が弱く、ありとあらゆる病気をした。

 結核、リウマチ、腎臓、肝臓、腸炎。そして何度も死線をさまよったらしい。

 上の子は母乳に交じっていた結核菌で死に、三番目の子は祖の産後の肥立ちが悪く高熱が続いたためが乳母を雇ってその家で育てさせたが、疫痢で死んだという。

 今仏壇には大層古い父の兄と弟、育たなかった二人の赤ちゃんの写真と位牌がある。

 そんな体の弱い祖母だったから、祖父は料理以外の家事を全てやった。

 手伝うとかいう以上のレベルでこなしたらしい。

 掃除、洗濯、干し物、庭の掃除。

 使用人任せでなく、自分も忙しい織物工房の仕事の合間に毎日こなした。

 私も、70代の祖父が着物の尻を端折って、股引姿で軽快に床を雑巾がけする姿を覚えている。

 父も美しく体の弱い産みの母を崇拝し、絶対視していた。

 優しく上品で詩歌に優れ教養もあり、お茶お花の師範、お裁縫はプロ級、そして身体が弱い。

 そんな無敵な母がいたら、息子はマザコンになること必定である。

 正しく、父は自分の母を絶対視するマザコンだ。

 

 熱烈な求愛をしたという祖父は、私から見て大層無口な男だった。

 そして夫が黙っているので、祖父の前の祖母も静かな女性だった。

 2人は元気な時はいつも一緒に茶の間にいたが、何の会話をするでもなく、沈黙だけがただ流れる、静かな空間だった。

 私や兄の声と、後にテレビが普及するとスポーツ中継やニュースが静かに流れるだけ。

 それでもなにをしてほしいか、お互いに阿吽の呼吸でわかっていたようだ。

 会話がなくともお互いの空気で滞りなく日々の生活が過ぎてゆく。

 そんな老夫婦を中心とした家庭だった。

 後年母はよく

「ああゆうぐ言葉なくても生活が進んでぐなんて、そっだなごどおらだには無理だごで」(ああいう風に言葉なんかなくても生活が進んでいくなんて、そんなこと私達には無理なんだよね)

 と言っていた 。

 父が自分の両親の夫婦関係を懐かしんで、チクリと要らんことを言ったのかもしれない。

 だが静かな生活を懐かしがってしまうのは、11人兄弟の末っ子として賑やかに育った母には酷な事である。

 

 秋になり涼しい風が吹き晴天が続くようになると、祖父母はよく温泉に行った。

 本格的な冬が始まると、根雪で、体の弱い祖母にとっては家の外に出るのも大変なので、その前の行楽だったのかもしれない。

 山形県はどの市町村にも温泉があるが、中でも歴史が古いのが米沢と、南陽市の赤湯温泉である。

 米沢は祖父母の郷里であるし、勝手知ったる出入りの宿屋も多かったが、なにしろ山の中にあるので、足腰が不自由な祖母には大変だったのだろう。

 必ず父が、車で1時間以上かけて送迎するのだが、それでも春や秋は行かなかった。

 米沢の山中、白布温泉や天元台温泉は夏の避暑地だった。


 秋の行楽の季節に行くのは、市内に温泉宿が固まっている赤湯温泉である。

 今でこそ、山裾から広がる平地を生かしてハンググライダーの北のメッカとして人気があるようだが、私が幼児の頃は山形県を南北に貫く国道が市のはずれを通る他は、中心地はひたすら温泉宿の続く狭い道の連続の旧い町だった。

 毎年恒例の温泉旅行に、祖父母はいつからか幼稚園児の私を連れていくようになった。

 宿屋に行っても小さなテレビがあるだけで、それさえも


「かっちぇわしい」(喧しい・煩わしい)


 と言ってニュースや相撲以外つけない祖父母の事だから、さすがに場を持たせるために、大人しく一人で本を読んでいる子供だった私を同行させたのかもしれない。

 祖父母の泊まる宿はいつも決まっていた。

 建物の奥の駐車場から背後の低い山に登る階段が延々と続く、大和屋という老舗だ。

 父の車で送られ宿に入ると、祖父母は広い部屋で静かに茶を飲み、新聞を読み、持参した文芸誌なども読みながら静かに過ごす。

 着物を着た祖母は膝が悪く正座ができないから、家にあるより一回り大きな籐の長椅子に膝を伸ばして座り、そのうち静かな寝息を立てたりする。

 祖父は寝てしまった妻を起こさないように、静かに座っている。

 言葉もない、音と言えば日が沈んでからの虫の声以外遠くで行き交う車の音くらい。

 そんな家にいるよりずっと寡黙な時間が流れる。

 一度兄と私の二人を連れてきたことがあったが、退屈した兄が走り回ったり、一人で宿の裏山に上りたがったり、テレビのバラエティを大きな音でつけたりしたものだから、いつか兄は留守番で私だけ連れて来られるようになった。


 祖父母と温泉に来ても正直なにも面白い事はない。

 建物の探検に行く、と言って曲がりくねった宿の古い階段を上ったり下りたり、別棟の旧館に行ってみたり、そんな事しかない。

 絶対に宿の中で走ってはいけない。

 そう言われていた私は座敷童の様に子供用の浴衣に丹前を羽織り、ぱたぱたと歩き回って好奇心を満たしていた。

 宿の仲居さん達も皆、いつも来る老夫婦と孫を認識しており、気にかけて見守ってくれたらしい。


 温泉に入るのにも、とても時間がかかった。

 足が悪い祖母はゆっくりゆっくり、滑らないように壁に手をついて歩き、岩づくりの湯船に時間をかけて浸かっていた。

 私はのぼせないように、露天と内風呂を行ったり来たりしながら、真っ白い肌を湯に沈めて幸せそうな祖母を待っていた。

 湯から上がって三人で宿の御膳を頂く。

 祖父はいつもお酒をお銚子に2本。

 祖母もお猪口にほんの少し。

 私にオレンジジュース。

 御膳は秋のコースでアケビの皮の中にキノコの味噌炒めを詰めて揚げたもの、菊のおひたし、戻りアユの塩焼き、芋煮、葡萄の寒天など。

 ちっとも子供向けのメニューではないので、宿の人は気を使ってミニハンバーグやクリームコロッケをつけてくれたり、蜜柑の缶詰を添えてくれたりした。


 菊の花は秋になると頻繁に出るメニューである。

 山形県は食用菊の栽培が盛んで、家の近所の畑にも、細い竹で支えの支柱にした大きな食用菊が栽培されていた。

 花屋で売られている菊と違い、細い茎に大きな花を咲かせて、咲き切る前に一花一花鋏で収穫する。

 だから『きれいだな』と思って摘んだりすると叱られた。

 黄色い菊も多かったが、山形県で愛されているのは、淡い紅色で細い管状の花弁が密集した「もってのほか」と呼ばれる種類で、実によく食卓に上った。

 旅館でいただく菊は、おままごとのおかずの様にほんのちょっぴりの量がキュウリや蜜柑の缶詰と一緒に甘酢で和えてある。

 しかし家で菊を調理するとなるとそうはいかない。

 とにかく量が多いのだ。

 袋いっぱいに売られたり、ざる一杯に山盛りになった菊の花は、それだけでお盆や彼岸の仏壇のような匂いがして苦手だったが、お手伝いして、と呼ばれて菊むしりをするのは大好きだった。

 左手で摘まれた花の茎とか芯の部分をつかみ、外側の瑞々しい花びらを毟ってざるに入れていく。

 中心部は苦く茹でても歯触りが良くないので入れない。

 一輪につき3秒くらいで手早くむしり、ざるに入れていく。

 花弁はみるみるふっくらとしたクッションの中身の綿のようにこんもりと山になっていく。

 花弁というのは摘むと空気を含んで、その中に飛び込みたいほどふんわりとするのだと、この時知った。

 摘んだ花弁は流してしまわないようにそっと水で洗い、ざるに上げる。


 菊をゆでるのはひとつのマジックのようだった。

 大鍋で沸かした湯の中に酢をたらたらといれる。

 鼻を突く匂いに顔を背ける間もなく洗った花弁を一気に入れ、手早く菜箸でかき混ぜるともう終わり。

 火を止めざるにとって湯を切り、冷水に晒す。

 もたもたしていると余熱で火が通り過ぎ、べたっとした口触りになってしまうのである。

 酢を入れるのは花弁の色を鮮やかに発色させるためらしい。

 薄紅色の「もってのほか」も、黄菊も、酢を入れないで茹でると色が抜け、うすぼんやりとした、ちっとも美しくない料理になってしまう。

 そうして夕飯の食卓に並ぶのは、おかず鉢にてんこ盛りの菊のおひたし、菊の酢のもの。

 他のものと合わせたりしない花びらのみの料理である。

 これは子供には辛かった。

 苦みと、花屋か仏壇の匂い。

 そしてシャキシャキした触感。

 他のおかずと全く調和しない、それだけで強烈な印象を与えるもの。それが菊だ。

 旅館で出てくる「季節のあしらい」程度の量なら幼児の私にも大丈夫。

 何故うちではてんこ盛りで菊だけが出てくるのだろう。

 そんなことを当時思っていたかは、わからない。


 ご飯を食べて、夜のニュース番組を少し見て、隣室に敷いてある布団でごろごろして、開け放したふすまの向こうでNHK特集など見ている祖父母を眺めているうちに、私は眠ってしまう。

 おじいちゃん、おばあちゃんの昔のお話しを聴かせてもらおうと、2人の時間が終わって寝室に来てくれるのを待っているのに、いつも私は先に寝てしまい、気が付くと家から連れてきたクマのぬいぐるみとおばあちゃんと、添い寝しているのだ。


 次の日はいつも、早めに迎えに来る父も一緒に「烏帽子山」という低い山に上った。

 車で上まで上ることができるし、展望台からは置賜地方が一望できるのだ。

 天気が良ければ米沢の向こうの、福島との県境の山まで見える。

 葡萄畑と田んぼとリンゴ畑と、市街の煙突から青い空に立ち上る温泉の湯気。

 そして帰り道は怖いものが待っている。

 毎年秋に展示される人気の「武者菊人形」である。

 展望台から駐車場に行く道のわきにずらっと屋根がかかり、何体もの等身大の武者人形が立っているのだ。

 武者の鎧や着物、兜の部分が色とりどりの菊の花で再現され、華麗な絵巻になっている。

 時には落ち武者なのかざんばら髪で血を流し、憤怒の形相の人形もあれば、まだ少年の若武者が従者に背負われて落ちのびるような場面もある。

 それは当時人気だった時代劇や小説の場面の再現だが、幼児の私は恐ろしく、いつも目をつぶって、祖母に手を引かれて通り抜けていた。

 だが祖父母はそれが目当てで来ているので、立ち止まってゆっくりと見物していく。

 私は眼に力を込めてつぶっているが、たまに瞬きしないともたない。

 ぱちぱちと瞬きすると、否応なくリアルな落ち武者の菊人形が目に入り、家に帰ってから数日は夢に出てくる。


 それでも祖父母との温泉は楽しかった。

 何をするわけでもないが、非日常の不思議な空気を味わうことができた。

 体の弱い祖母と温泉に行ったのは、実は2年間くらい。

 トータルでも数回に過ぎないのだが、もっとたくさん連れて行ってもらったような気がしてならない。

 小さい頃に上らせてもらえなかった大和屋の駐車場奥の石の階段に、小学生になって父母と来た時に上ってみた。

 あっという間に上に着いてしまい、そこは不思議なところでも何でもなく、温泉の湯元の手入れのための、従業員用の階段だった。


 あの音のない温泉の不思議な沈黙の世界は、祖父母と来なくなってから味わっていない。



 レシピ

「もってのほかの酢の物」

 赤い「もってのほか」という種類の菊を100gくらい、外側の花びらをむしり、酢を入れた湯でさっと10秒ほど茹で、冷水にとる。

 ぎゅっと水気を絞り、薄切りにして軽く塩もみしてしんなりさせたキュウリ、ほぐした蜜柑の缶詰適量と、蜜柑の缶汁に酢を入れた甘酢で和える。

 大根おろしと合わせても色がきれいでさっぱりする。

 


 レシピもう一つ「アケビの詰め揚げ」

 アケビ四個くらいの甘い中身はスプーンですくって食べる(種が多いが気にしない)

 残った皮に詰め物をする。

 舞茸やシメジなどのきのこ100gくらいを油で炒め、ネギのみじん切り10センチ分くらい、刻んだ胡桃、ニンジン少々など好みでまぜても良い。

 炒めあがったら酒大匙1、赤味噌か田舎味噌大匙2、砂糖大匙2を加え焦がさないように手早く充分に混ぜる。

 これで詰め物の出来上がり。冷ましておく。

 アケビの皮に作った詰め物をパンパンに詰め、糸をからめて結ぶ。

 かんぴょうや笹巻き用のイグサを使う事もある。

 ぎゅっと軽く握って(中身がはみ出さない程度)落ち着かせ、少なめの油で揚げ焼きにする。鍋の蓋をして中火で片面5~6分。

 糸を外し、半分に切って食卓に出す。ご飯のおかずにも、酒の肴にも。


 当地含め東北には、甘い味噌味のお菓子やおかずは多い。

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