第18話 フルーツパフェと祖母のサヨナラ 

 3月31日。

 この日は父方祖母の命日だ。

 生まれて以来「おばあちゃん」と呼んでずっと一緒にいた、優しく穏やかな祖母が、私の目の前から永遠に消えた日でもある。


 昭和46年。

 祖父と祖母は二人きりで九州旅行へ行った。

 体の弱い祖母は万一の事を考えて遠出しない人だったのに、なぜ二人きりで九州に出かける事になったのか、当時幼稚園児だった私にはわからない。

 心配性の息子である父は反対しなかったのだろうか。

 後で聴くと、その直前まで体の調子はよさげで、どこも悪いようには見えなかったから反対もしなかったと言う。

 元々リウマチ持ちの祖母が歳と共に動けなくなる前に、一度南国を見せておきたい、という家族の気遣いだったのだろう。

 兄も小学校に上がり私も幼稚園に進み、帰宅後も友だちと遊ぶようになり、孫たちが祖母の手を離れたタイミングという事もあったかもしれない。


 冬の寒さが迫る前の秋の日だったと思う。

 父に駅まで送られて、祖父母は晴れやかに旅路に着いた。

 在来線を乗り継いで仙台の空港まで行ったのか、それとも半日以上かけて東京まで出て、羽田から飛行機に乗ったのか、それは私にはわからないが、祖父にエスコートされ、垢ぬけた洋装の祖母は旅だった。

 往復の移動を含めて一週間か十日くらいの旅の予定だったそうだ。

 ところが九州の宮崎に着いて間もなく、祖母が体調を崩した。

 腹痛と発熱で、宿で寝込んでしまったのだ。

 祖母は申し訳なさで

「私は酷くないし、宿の人たちに診てもらっていますから、あなた一人だけでも予定通り回って来て下さい。滅多に来られないのに私のせいでもったいない」

と言ったそうだ。

 宿の主人達も、いざとなったら責任を持って大きな病院に入院させますからと言ったが、そんなことを祖父が許すはずもない。

 結局滞在2日か3日ほどで、予定を切り上げて長井に戻ってきた。

 病人の祖母を抱えての旅なので寝台車を使い、時に車内から電話をかけて土地の医者に駅まで来てもらって診てもらい、入院させ、と数日かけての帰郷だったという。


 その日から、弱った祖母は入院した。

 だが長距離の移動でより一層弱っているはずなのに、祖母は九州で倒れた当初より何故か元気に見えたという。

 そして、市内で一番大きな総合病院への入院を拒み、いわゆる老人病院、町医者に緩い雰囲気の入院棟がついた個人医に入ることを希望した。

 知り合いが居たことと、大きな病院で検査の連続になるのが嫌だとの弁だった。

 父と母は最後まで渋った。

 祖母御指名の個人医は良い評判を聞かず、まめに検査もせず放置気味で、どうしようもなくなってから総合病院に送り込んで知らんふりを決め込む、というのがもっぱらの評判だったからだ。

 だが祖母は頑固に町医者を希望した。

 また、その院長は市のとある親睦団体の幹部で、父とも知り合いだったし、

「大丈夫です。責任もってお預かりします」

とわざわざ言いに来たそうだ。

 父もついに折れて、正規の料金以外に破格のお金を包みながら、おふくろを頼みますと頭を下げた。

 大丈夫、しっかり治してまたすぐ戻るから、と面やつれしてもなお美しい祖母は、車の後ろに横になりながら送られていった。


 だが、祖母は家に帰れなかった。


 責任もってお預かりする、などというのは嘘で、実態はろくに看護師も回って来ず、大部屋に寝かせられたまま、食事の時だけ来てくれる体たらくだったそうだ。

 始めは見舞いの父母に笑顔を見せていた祖母だが、さしたる治療も行われず腸炎の投薬だけが行われ、年を越す。

いつまでだらだらと無為な入院が続くのか、流石に両親が転院を検討し始めた矢先、ついに祖母は劇的に悪化する。

 同室の患者さんが苦しんでいる祖母のうめき声を聞き、大声で看護師を呼んでくれた。

 当時その個人医の病室にナースコールの設備があったかどうかは、父から聞いていない。

 もしあったとしてもすぐには来てくれなかったろう。

 具合が悪くなった時、祖母がそれを使わないわけはないのだ。

 個人医から「急変してうちでは手に負えません」の連絡を聴き、父は急いで救急搬送を頼んだ。

 行く先は祖母以外の家族が初めから推していた総合病院だ。


 救急車で転送された祖母の容体を見て、開腹手術をした総合病院の担当医は、なぜこんなになるまで放っておいたんだと怒りの声を上げたという。

 後に聞いた事だが、祖母は腸が破れ、膿と血液がお腹の中一杯に回り、かなり凄惨な状態だったという。

 長く結核を患っていたことも原因かもしれないが、先に入院していた個人医が診断と治療を怠っていたことは素人目にも明らかだった。

 父は家族が怯えるほどの剣幕で怒っていたが、もう遅い。

 祖母の症状は劇的に進んだ。

 祖父は一日中、両親は交代で工場をベテランの社員さんに任せて病院に泊まり込んだ。

 まだ完全看護などなかった時代だ。

 プロの付添婦派遣会社が病院提携で存在したが、頼まなかったらしい。

 もう長くないことが誰の目にも明らかな祖母の傍に居たかったのだろう。


 私と兄は同じ市内にある母の実家の豆腐屋に預けられた。

 小学生の兄は状況を分かっていたようだが、私は訳が分からず、日頃厳しい母方の祖母や伯父伯母が妙に優しく、私たちの気を紛らわすようにショッピングセンターに連れて行って絵本を買ってくれたり、ケーキ屋さんに連れて行ってくれたりご機嫌を取ってくれるのが嬉しく、何か妙だと勘づきつつもはしゃいでいた。

 時に兄に

「こんな時に調子さのってんでねえ」

と叱られたが、いったい何が『こんな時』なのか分からなかったのである。

 祖母が体調を崩して短期入院することは今までもしばしばあった。

 だからまたすぐよくなって、ごめんね伽耶ちゃん、おばあちゃんと遊ぼうねえ、と畑で草取りをさせてくれたり、虫の名前を教えてくれたり、そんな日が戻ってくると信じていた。


 だが、まもなくお別れの日は来た。

「かやちゃん、なおきちゃん、おばあちゃんのどごさ行ぐぞ」

 母実家に車で迎えに来た父は、ぎょろっとした目で顔色が青く疲れて見えた。

 支度も早々に急かされつつ車に乗せられ、私と兄は病院に向かった。


 連れて行かれた先は、総合病院の中でも通常の入院棟と違う、手術室の近くの大きな部屋だった。

 広いその部屋の奥に、大勢のお医者さんや看護婦さんに囲まれ、祖母は横たわっていた。

 体中から太いのやら細いのやら、色んな管がベッドの先まで伸び、顔は大きな呼吸器で覆われていた。

「お兄ちゃん、かやちゃん、お婆ちゃんさ顔見せであげて」

 父がベッドの近くまで私たちを連れて行ったが、兄も私ももじもじと尻込みをしていた。

 大嫌いな注射を思い出させる消毒薬と、独特の布類の匂い、お医者さんや看護婦さんの白い服、パタパタと急ぎ足で移動する緊迫感。両親のただならぬ気配。

 全てが恐ろしく、大好きなおばあちゃんの前ではあったが、ほっぽりだして早く帰りたかった。

 おばあちゃんは目をつぶり、うっ、うっ、とずっとうめいていた。

 私は

「おばあちゃん、苦しがってだぜ。声出しったぜ。治してけで(苦しがってるよ、声出してるよ。治してあげて)」

とお医者さんの白衣を引っ張ってせがんだ。

母がとんできて

「どうもぶじょうほな(本当にごめんなさい)」

と言いつつ、めっと叱って強く手を握った。

なぜ叱られるのかわからず、私は兄と一緒にしばらくベッドの脇に立ち、そして病室から出された。


  今思い出せば、呼吸器をつけているのだから声が聞こえたかどうか疑問だ。

 うめき声だと私が思ったのは、ベッドの脇にどんと置かれた心拍計の、ピッピッという嫌な音だったのかもしれない。

 現在でもドラマでこの音が鳴ると、私は耳を塞いでしまう。


「二人とも、こわかったよね(疲れたよね)」

「うん。こわかった(疲れた)」

「お姉ちゃんも疲れたから、何か食べて行こうか」

 後で来てくれた、母の実家のいとこのお姉ちゃんは、そう言って病院の食堂に連れて行ってくれた。

 総合病院の大食堂は、近郷近在で一番美味しいソフトクリームを出してくれる。

 痛い注射や治療のご褒美は、きまってそのソフトクリームだ。

 だがその日、いとこのお姉ちゃんは奮発して、私と兄にフルーツパフェをごちそうしてくれた。

 大きな花のようなグラスに盛られたフルーツソースにアイスクリーム、ホイップクリーム、メロンやリンゴ、缶詰ミカンにサクランボ。

 私と兄は目を丸くして、喜んで食べた。

 お腹が冷えて、しくしく痛くなっても食べた。

 先程の祖母の病室での怖い思いを打ち消すような、冷たく淡い甘味とフルーツの酸っぱさに夢中になった。


 帰りは本屋さんに立ち寄り「楽しい幼稚園」と「小学一年生」を買ってもらった。

 夕方のテレビに間に合うように母の実家に戻った瞬間、母方祖母の怒った声が飛んできた。

「どごほっつぎ歩いてたなや。なおちゃんとかやちゃんのおばあちゃんさっき死んだど。病院から電話かがってきて、おらだ探しったったどごだ」


 祖母は死んだ。

 私と兄が病室を後にして間もなくの急変だった。

 楽しみにしていた九州旅行にリベンジすることもなく、静かに旅立って行った。


 昭和46年3月31日。享年63歳。

 初体験のフルーツパフェの甘酸っぱい味は、色々な思いを呼び覚ます。



フルーツパフェ家庭版。

少しずつ色んなフルーツを飾ってみましょう。


(材料)

市販のカップアイス。バニラでもイチゴでもチョコでも、好みのものを人数分。

フルーツミックスやフルーツ蜜豆の缶詰1個

市販のフルーツソース。無ければイチゴジャム大匙4杯ととお湯大匙1杯

ホイップクリーム 適量

コーンフレーク 好きなだけ


(1)フルーツソースがない時は初めにイチゴソースを作っておく。耐熱容器に粒の残ったプリザーブタイプのイチゴジャムとお湯を入れて混ぜ、電子レンジで1分加熱。かきまぜながら冷やしておく。

(2)大きめの透明グラスの三分の一のくらいの高さにコーンフレークを入れ、ソースを注ぐ

(3)アイスクリームを半分入れ、缶汁を切ったフルーツミックス缶orみつまめ缶を重ねる

(4)残りのアイスクリームを盛り、市販のホイップクリームを絞り、好みの形に刻んだ果物を好きなだけ盛り付ける


フルーツはカットしておき、全部の材料を揃えておいて、グラスも冷やしておいて手早く作るのがコツです。

ジャムの代わりに生のイチゴやブルーベリーをつぶして、砂糖とレモン汁を混ぜたものならもっと美味しい。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る