第4話 野草のお澄まし
生まれてからずっと長井市から引っ越したことのない母と違い、父と祖父母は何度か転居をしている。
生まれた所は米沢市で、元々は直江兼続について越後から来た武士だったという。
上杉城址近くの五十騎町という古い侍町に一族の本家があり、その家と工房は今も立派なたたずまいを見せて健在だ。
父方祖父は次男だったから、本家から独立して米沢の西部、上杉家代々の城主が眠る『御廟所』の近くに家を構え、そこで地味に堅実に暮らしていたらしい。
戦中山形市に移り、祖父はそこで軍服の生地を作り、祖母は戦後まで華道の師匠をしていた。
布と言う農業生産者が喉から手が出るほど欲しい物資を作って、現物が手元にあったからできた生活である。
戦後、おそらく昭和26年ころ、元は画家のアトリエ兼住居だったという旅館のような洒落た家の、中庭に籐椅子とテーブルとスツールを出して、優雅にお茶を飲んでいる和服の祖父母と学生服の父の写真がある。
当時としてはすらりと背が高く色白で、女優の様に清楚で美しい祖母と、ジョン・ローンのような「美男子」の父は質実剛健な祖父の自慢だったらしい。
何故その遺伝子が私と兄まで来なかったのかと大変遺憾に思う。
柳原白蓮という女流歌人の写真を見たことがあるが、若い頃の祖母に瓜二つで驚いた。
そんな美しい祖母は若い頃から結核、腎臓病、リュウマチ、膵臓病、胃腸炎と次から次へと病気にかかり、三人生まれた子も胎内感染(と言われたらしい)や乳母が衛星管理を怠ったために疫痢にかかったりで、真ん中の一人だけしか無事成長しなかった。
それが私の父だ。
物心ついたころから美しく体の弱い母を支えてきたため、父は強烈なマザコンで、妻よりもまず両親と言う典型的な田舎の一人息子だった。
母は妻としても女としてもとても苦労したと思う。
だが孫の私にはそんなことは関係なかった。
祖母はいつも穏やかで、けして叱ることなく、いつもニコニコ、何を質問しても絶対に邪険にせずきちんとゆっくりと答えてくれる。
そしてやっと得た女孫だったからか、圧倒的に可愛がられた。
祖父は初孫で男の子の兄をより可愛がってた気がするが、三人生んだ子のうち上と下の女の子を赤ちゃんのうちに亡くした祖母は、幼児の私を宝物を扱うように大事にしていつも手元に置いてくれた。
幼い時に心から可愛がられたという記憶はとても強いものがあるが、私は本当に心底可愛がられたという記憶が敢然とあり、それは自分を非常に支えてくれた。
祖父母には心から感謝している。
欲を言えば祖母とはもう少し一緒に居たかったが、またそれは別の話である。
生け花をしていた祖母は織り子さんや近所の奥様達にお花を教え、また野の花や道端に生える草にも詳しかった。
私が近所で摘んできた(と言うよりむしってきたと言った方が正しい)雑草の小花も、受け取ると台所できちんと水切りして、見る間に葉っぱを整理して、丈の短いものはヨーグルトや牛乳の小瓶、ある程度茎の長い花は可愛い一輪挿しを押入れの奥から出してきていけてくれた。
そして窓辺や玄関に置いて
「伽耶ちゃんが摘んできてけだお花だも」(伽耶ちゃんが摘んできてくれたお花だもの)
と織り子さんやお客さん、父母や祖父に言って褒めてくれた。
幼い私は泥だらけ、虫食いの葉っぱまみれの雑草が、祖母の手にかかるとすっきりとあか抜けた生け花に変るのが不思議で、嬉しくてならなかった。
また、私は母や祖母が料理を作るのを見るのも好きだった。
台所には祖母が脚を伸ばせるように特注で作らせた、当時としてはハイカラな脚の長い高いテーブルがあって、立ち仕事は母が、座ってできる手仕事は祖母がまめまめしくこなしていた。
さやいんげんの頭としっぽとり、父が割ってくれた胡桃の中身を爪楊枝でほじくり出す仕事、カボチャの種とワタをスプーンでかきだし、野菜の皮をむいて食べられない部分を除く仕事がある。
丸椅子に座って俯いて、器用に細い指で野菜を処理していくワンピース姿の祖母はとてもきれいで、透き通るように見えた。
幼い私は何でも手伝いをしたがり、辺りを散らかしては足を引っ張り邪魔するだけだったかもしれないが、それでもいっぱしの役に立っていると思い込んでいた。
中でも一番の好きな『仕事』はお料理のお味見だ。
煮詰めた美味しい煮汁をほんの少し小皿にとっては、フーフーして口につける。
味付けは祖母と母が相談し合って居た気がするが、恐らく祖母の味寄りだったと思う。
まだ「液体つゆの素」「出汁の素」がなかった時代、煮物や御浸し、煮びたしのつゆは、いちから調味料を計って味を決めていたのだ。
青臭い野菜も、多少アクっぽい野菜も美味しくしてしまう母と祖母は凄いと4歳くらいの私は思った。思ったら真似をしたくなる。
ある日私は私は家の裏の小川のほとりで摘んできた山菜(と思い込んでいたが本当はただの草)をぞんざいに洗って、小さな手で一生懸命にちぎって鍋に入れ、直接水を入れて醤油をぶち込み、自分なりの「おすまし」を作った。
ガス台に火をつけるのはマッチを使わなくてはならなかったので、そこは誰か大人に手伝ってもらったのだと思う。
背伸びをして機の吸い物椀におたまで注ぎ(盛大にこぼしたと思う)事もあろうに自分で味見もせずに、まず祖母に渡した。
「はい、ばばちゃ」
多分低い鼻の穴を膨らませた自信満々の顔をしていただろう。
優しい祖母はその洗い方もいい加減で、多分なべ底に砂粒が沈殿し、アクもえぐみもそのままの野草を煮出した汁を、嫌な顔一つせずに飲んでくれた。
そしてにっこりと笑って
「んまいごど、伽耶ちゃん。お料理上手になるねえ」
と言ってくれた。
私は優しく美しい祖母に褒められたのが嬉しくて、有頂天になった。
だが、祖母が席を外した後に、来て来てと引っ張ってきて無理やり汁を飲まされた母は、血相を変えた。
「お前はこんなものをばばちゃさ飲ませだなが。ばばちゃが体わりいの知ってっぺ。こんがな食べさせだらまっと体悪ぐなっこで」(お前はこんなものをおばあちゃんに飲ませたのか、おばあちゃんが体悪いの知ってるでしょう。こんなものを食べさせたらもっと体が悪くなるでしょう!)
そういってお椀に注ぎ、自分で飲んでみなさいと叱った。
恐る恐る飲んでみた私はたまらず吐き出した。
あく抜きもしない野草の煮出し汁は苦く、シソ科のイヌハッカやオドリコソウの歯磨き粉臭、むしったハコベ特有の埃臭さが全面に出て、温められた汁の中にむわっと匂う。
蛇が出そうな野原の奥に踏み込んだ時、足元から立上ってくる匂いだ。
そこに、分量を量りもしないでどぼどぼと注いだ醤油の塩分だけが濃くて、とてもとても口に入れるものではない。
私はこんな毒のように不味い、人が食べるものではないブツを祖母に上げたのかと思うと情けなく、申し訳なく、わあわあ泣きながら謝りに行った。
教育者でもあった穏やかな祖母はかえって驚いて、スカートのすそを涙と鼻水が汚しながら謝る私をなだめてくれた。
その夜私と兄が寝着いてから、母屋の方で父と母が言い争う声がした。
祖母は一生懸命になだめていたような気がする。
多分私を泣くまで叱ったと、母が父に非難されて言い争いになったのだろう。
母は自分で味見もせず人に食べ物を勧める危なさを、料理に興味を持ち始めた娘にまず教えようとしたのだと思う。
祖母は4歳の興味津々な私に料理嫌いにならないでほしいと願ったのだと思う。
それはどちらも大事なことだし、誰も悪くない。強いて言えばとんちきな物を作って味見せずに勧めた、危険極まりない4歳児の私が一番悪い。
大好きな祖母は大阪万博の次の年に亡くなってしまったが、私はいまだに料理は作るのも食べるのも好きである。
ばばちゃ、おしょうしなな(おばあちゃん、ありがとうね)
今回は失敗作なのでレシピ無しです
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