第3話 くじらの味噌汁
山形には「くじら餅」という名の食べ物がある。
市内に何店舗かある「餅屋」で作られる、蒸したもち米に砂糖と味噌と混ぜて突き、なまこ型に固めた餅である。
四角く焼き餅に成形したものは胡桃餅とか味噌餅と言うが、このなまこ型の草履のような餅は「くじら」と称する。
母に「なぜ?」と聞いても形が鯨に似ているからと返事が帰ってきたが、図鑑で見るシロナガスやザトウクジラとは似ても似つかない。
実家では何種類かの鯨の惣菜が出た。
大型スーパーマーケットがまだ進出していなかった頃、市内の商店街には数軒の鮮魚店があった。
それとは別にするめやニシン等を扱う海産物の乾物屋も存在した。
淵が赤い鯨のベーコン、缶詰のヤマト煮、白いさらし鯨。
大半が祖父と父の酒の肴で、たまにあーんと口に入れてもらう事もあったが、ほのかに臭くてきしきしと歯ごたえがあって、あまり好きにはなれなかった。
こういうのが「酒飲みの味」「大人の味」なのだと中途半端に理解した。
だが祖父たちの酒の肴の鯨はまだいい。
子供の私にとって切実な問題となる鯨料理がある。
それが「くじらの味噌汁」である。
山形県の中でも豪雪地帯の県南は同時に心底冷え込む。
冬は台所の流しの水鉢の表面が蓋のように凍り、水道管や蛇口の水抜きという作業をしないと中までガンガンに凍り破裂するという事故も起こる。
日中ちょっぴりの雪解けの滴が屋根から垂れてできた小さなつららが、夜には固く凍り付き、またお昼間のささやかな融雪水をまとって次第に太く長くなり、京ニンジンのような長い氷柱は屋根から降り積もった積雪の表面まで届く。
屋根の傾斜に連れてずらっと並ぶ氷柱はさながら工場の通路で見る透明ビニールの仕切りの列だ。
陽の射さない濃い灰色の雪雲に覆われた冬は、朝になっても新しい一日が来たという感覚がなくなる。
冬の日光。太平洋側の仙台や南の福島県の晴れた冬の日の映像がテレビで流れるたびに、山を越えると違う世界が開けているのだなあと思ったものだ。
そんな身も心も凍り付きそうな日の朝ごはんには、決まって鯨の味噌汁が出た。
これがまた私の天敵と言っていい存在だ。
皮付きのまま塩漬けされだ鯨の厚い脂身を角切りにして、同じく角切りのジャガイモと玉ねぎと煮込み、具沢山の味噌汁にする。
朝起きて台所からこの鯨の何とも言えない獣臭さが漂ってくると途端に気分が萎えたものだ。
鯨は全部脂身なので、お椀の味噌汁の表面には一面に油膜。その下には熱々の味噌汁が保温されている。
この冷めにくさと体が温まるという点で、昔から東北地方ではよく食卓に上ったものらしい。
ただ、そのクジラの野趣溢れる匂い、思い切って脂身を齧れば口の中にあふれ出てくる鯨油。
作ってくれる母には悪いが吐き出したくなるほどに嫌いだった。
母も私が本当に食べられないという事を知っていたので、なるべく鯨はよけてジャガイモと玉ねぎだけよそってくれたし、脂ギトギトの汁も全部飲まなくてもいいと勘弁してくれた。
それでも作り続けるのは、私以外の家族が好きだからだ。
二歳違いの兄はクジラ臭さが気にならないという。
同じ兄弟なのになぜ私は食べられないのだろうと小さい頃は真剣に悩んだ。
母曰く、戦争中も戦後も当地で配給される魚は鯨の脂身の塩漬けが多かったので、歴史はあるのだろう。
母は娘に嫌がられても、この油膜で汁が冷めず熱々のまま提供できる汁を作り続けた。
だがその味噌汁は私には伝わらなかった。
新潟や福島の会津地方にも同じような味噌汁があって、そちらでは茄子や冬瓜、太い胡瓜を入れて煮込み、夏の暑い時期の滋養食としてよく食べられると、大人になって知った。
未だにクジラの脂身が嫌いな私に、夫は「給食に鯨の竜田揚げと言うのは出たよ。美味しかったよ」と教えてくれた。
私には想像もつかない味だが都会の小学校では思い出のメニューとしてよく聞く。
一度食べる機会があったら、脂身ではないクジラの肉を試してみたい。
もっとも父が分けてくれたクジラの大和煮の缶詰は嫌いではないのだから、私の味覚も相当いい加減なものであるが。
レシビ。
山形県南のくじらの味噌汁
塩漬けの皮付き鯨の脂身を太めの短冊もしくは角切りにして数時間水につけて塩抜きする。
ジャガイモ二個くらいと玉ねぎ一個も角切りにする。
鯨の脂身が苦手な人は一度茹でこぼすと多少あっさりになるはず。
水800CCほどに玉ねぎ、ジャガイモ、鯨を入れて芋が柔らかくなるまで煮込み、顆粒のだし少々と味噌おたま一杯くらいをとき入れて出来上がり。
七味を振ったりしてもいい。
新潟地方では茄子、キュウリ、みょうがを入れるそうです。完全に夏の味覚なんですね。
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