ホップの緑の壁と枝豆
「伽耶子、豆むしり手伝ってけんにが(くれないか)」
母の声が台所から呼ぶ。茶の間に夏でもある炬燵の上には、毛玉むしり途中の、色柄様々な紬の反物。
几帳面な母が片付けもしないで腰を上げたのは、よほどあわてていたに違いない。
先刻隣家の人が
「うちの畑でいっぱい採っちゃもんだがら、少しばっかりだけんど、茹でてあがっとごやい」
と枝豆を持ってきたのだ。
母は愛想よく受け取りながら、小さなため息と共に納戸に面した北側廊下に置く。
そこには茄子、インゲン、トマトなど先客の夏野菜が鎮座している。
幼い頃よく見た光景だ。
我が家は山形県の米沢で代々続いた織物屋の分家だ。
戦後は最上川添いの長井市で織物業を営んでいた。
敷地に工場があり、数人の職工さんが朝から夕方まで、ガチャガチャと足踏み織り機で紬を織っていた。
織りあがった紬の反物は、そのままでは糸の塊がポコポコと表面に浮き出て肌触りが悪い。それを小さな鋏でほじり出し表面を均すのが、母の作業である。
従業員さん達とは別に「出しばたさん」と呼ぶ在宅の織り子さんが数人いた。
伝統的に農家の奥さんが多いので、父が車の後ろに大量の各家用の糸、図案、指示書を積んで配って回り、また出来た反物を回収していた。
郊外に散在する織子さん宅を回ると2・3時間はかかる。退屈しのぎに父は良く、幼い私を連れて行った。
車で走っていると、田んぼの中に突然緑の壁が現われる。
当時の減反政策とやらで、休耕田には様々な作物が植えられていたが、一際目立つのが巨大な空に突き刺さる、ホップの畑だ。
最後の織子さんの家に行くには、その緑の壁の間の細道を突っ切っていくしかない。私は胸を高鳴らせながら車の窓を開け腕を伸ばし、空高くから垂れ下がったしなやかなホップの細い枝や葉、柔かい松かさのような実に触れた。
実をもぐな。枝を折るな。巡査が来て連れていかれてしまうぞ。昭和40年代、父は幼い私をこう諫めた。
そう言いながら、父は車を減速してくれる。
いいお返事をしつつ、私は緑の暖簾を触り続けた。ホップ畑が切れる頃は、両手に何とも清々しい匂いが染みつく。
それを嗅いで余韻を味わっていると、すぐに出しばたさん宅に着く。
私を助手席に残し、父は糸の束と指示書、図案、そして織り賃を持って車から降りる。たちまちウサギや茶色い鶏が父の足元に寄ってくる。
その織子さんは他の人たちに比べて若く日焼け具合も浅い。父は書類や織り賃の茶封筒とは別に白い封筒を糸に忍ばせ、こっそり渡していた。
私は見て見ないふりをしていた。
先客の野菜たちはその織子さんが、帰りに持たせてくれるものだ。
母は忙しく立ち働きながら、陽気に私のおしゃべりに付き合い、祖父の相撲の話を聞き、風呂を沸かし、私の手を借りてむしった枝豆を茹で、酒の肴とする。
その野菜がどこから来るのか、多分知っていたと思う。父は嘘が下手な人だったから。
ある夜、酔っぱらって帰った父と母が大声で言い争いをしていた。
祖父と一緒の部屋で寝ていた私は体をきゅっと縮こませ、早く終わってと祈り続けた。父は優しいが、酒が入った時に嫌味を言われると癇癪を起す。
「伽耶子ちゃん、さすけねえ。心配すっこど無いから寝ろ」
祖父がゆっくり起き出して言い争いの続く台所へ向かう。
翌朝はバツの悪い顔をした父が、母と最低限の言葉を交わしていた。
刺々しくはあったが、それで私は安心する。
そして50年の月日が流れた。
「お母さん、婆ちゃんから送られてきた枝豆、出さなかったの?」
「ああ、ついつい茹でっぱなしで忘れてた」
夕飯後の台所で目ざとく見つけた息子は、二日後20歳の誕生日を迎える。
「これビールと食べたら最高のおつまみなんでしょ」
「そうだよ。食べちゃおうか」
「俺まだ誕生日来ないから呑めないよ。それにもう夜中だよ」
「いいからいいから」
私が重い気持ちで食べていた郷土の固有種の枝豆は、今は『馬の噛みしめ』という名前がついて、だだちゃ豆に対抗する名物として売り出されている。
「ちょっと飲んでみない? 」
「駄目だよ。犯罪だよ」
かたくなに誕生日にこだわる息子は、親に似ない真面目な坊主だ。
今なら思う。
あの時うつむいて、妻の視線を避けながら枝豆を少しずつ口に運んでいた父も、わざと強い地酒を出して口の端をゆがめていた母も、皆真面目だった。
真面目だから苦しくなるのだ。
「ビールって苦くない?」
と尋ねる息子と、2日後初めての晩酌をするのだろう。
お米の神様? 南 伽耶子 @toronamasan
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