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ウンターデンリンデンのベンチまで

今回念願の、戦間期・戦中から戦後の復興期にかけての群像劇を描きあげられたのは、大変うれしいことだ。
もちろん自己満足だが、体力的にも気力的にもカクヨムコンまでというゴールを設けたことがいいきっかけになったと思う。

この話を書こうと漠然と思ったのは、前作の戦前戦後の日本の文士たちを書いた直後からで、その時はまだ、このように世界規模で影響の出る戦争が起こるとは思ってもいなかった。
そして書いているうちに「同士少女よ敵を撃て」が発表された。
正直『やられた』と思ったのは否めない。
これで、この時代の戦う若者たちという、題材へのハードルが果てしなく上がったことは確かだ。
でも自分は幸い素人である。
商業的に成り立たせるとか無縁であるのがありがたい。

舞台を戦前・戦中のドイツおよび占領地にしようと思った理由の一つに、1992年に行った新婚旅行という名目の東欧旅行中の出来事がある。
調度イースターの時期で、回るはずだった名所旧跡がぽつぽつと休みになっており、おまけにドイツは交通機関や公務員のゼネストに突入しつつあった。
もとよりスロベニアの独立を始まりとしたユーゴスラビアの内戦は進行中。
近隣の国へもざわざわと影響が出始めていた。
ネオナチの犯罪行為が多発していたのもこの頃である。

プラハでの時間が開いてしまった我々を、フランクフルト支社からきた添乗員は「本来ならあまり行かないところに特別に」と誘った。
ドイツ人バス運転手のハンスさんの丁寧な運転で行った先が、本作でも重要な位置を占める「テレジン強制収容所」ドイツ語で『テレジエンシュタット』である。
施設の入り口前の駐車場でバスを降り、我々が収容所の門をくぐるまで歩いたのは、周囲を緑の草地と、そこに並ぶ一面の白い十字架で覆われた墓地だった。
もちろん収容所で命を落とした人々の墓標である。
ボヘミアの平地に見渡す限りの白い十字架。
「働けば自由になる」という、アウシュヴィッツその他の収容所でもみるスローガンが掲げられた門をくぐると、そこは希望も自由も何もない、ただ行く手に死があるだけの牢獄だった。

シャワー室に模したガス室に、私たちは自由に入る事が出来た。
変色し、中の壁が傷だらけのガス室で、ノズルの真下に立って見上げて暗澹たる気持ちになっている私たち夫婦の所へ、同じツアーのご婦人たちが

「あら、ちゃんとシャワーがあるのね、なかなかいいじゃない」

と言いつつ入ってきた。
その時の衝撃は何とも計り知れない。
きちんと説明を聞き、冊子も受け取っているのに、耳にも目にも入っていないのだ。
それが人間なのだろう。
見たいものしか見えない。聴きたいものしか聞かない。
音楽もそうだ。受け取る人によって負の感情を昂らせる媒体にもなる。
そもそも音楽の目的とは何か。

旅の終点、東ベルリンのウンターデンリンデンのベンチで、旧共産圏の兵士たちが、おそらくくすねたであろう装備品を道に広げて売っている光景を眺めていた。
婦人たちが手作りのゴルパチョフやブレジネフのマトリューシカを並べている光景とあいまって、いつかこの衝撃を書こうと漠然と思った。

もう一つ、戦争と音楽人については昔から関心があった。
戦中戦後の音楽界は、それこそ戦勝国、敗戦国、非占領地と一つのオペラを上演するにも恐ろしく混じりあっていた。
ナチ党員だったドイツのソプラノはイギリスの世界的なレコード会社のボスと結婚し、その地位をゆるぎないものとして名花として君臨し続けた。
大学生だった名バリトンのディスカウはイタリアで捕虜となり、イタリアの輝かしいテノールのベルゴンツィはドイツの捕虜となり辛酸をなめた。
だが2人は舞台で幾度となく共演し、二重唱のアルバムも残している。
ソビエトから亡命してきた指揮者、歌手、時の独裁者に愛されたプリマドンナ。
ヒトラーに追われ亡命した作曲家や、共産政権から逃れて来た演出家。

カラヤンの観客無しコンサートの伝説の例を引くまでもなく、戦後のクラシック世界はそんなドロドロした感情の上に、この上なく美しい舞台を魅せていたのである。

ユーゴスラビア内戦の間、クロアチアのザグレブフィルの常任指揮者、後に芸術監督として演奏を続けていた大野和士氏の存在を知った事も大きい。
セルビア人、クロアチア人、ボシュニャク人、その他バルカン半島外からの演奏者たち。
皆が心をオープンにしているわけでもなく、葛藤や衝突もある中で、頻繁に定期コンサートを開き、戦火の中でも人々が詰めかける。

音楽の力は不思議なものだ。
人を救い、人を陥れる。
そんな物語を書きたいと思っていた。今は書き上げて一人満足している。

お読みくださった方々、陰に陽に応援くださった方々、まことにありがとうございました。

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