第26話 真冬のアイスクリーム

 祖父のいる静かな生活と、兄の腕白な、学校に親が呼び出される高校生活、そして部活を終えた私の中途半端な受験生活の中、昭和55年は暮れていった。

 エジプトとイスラエルが国交を樹立し、韓国では『光州事件』が起こり、モスクワでは西側世界の多くが参加しないオリンピックが行われた年だった。

 新宿では西口バス放火事件が起こり、イラン・イラク戦争が勃発し、12月8日の真珠湾空襲の日にジョン・レノンが銃殺された冬、祖父と私たち家族は淡々と山形県の小さな市で暮らしていた。

 高校受験の勉強があっても相変わらずトイレや廊下を掃除し、消毒する日は続き、祖父はしっかりとした字で年賀状を書き上げ、出来る範囲で家の大掃除を手伝い、神棚にお燈明をともして祈った。

 その時何を祈ったのか、私たちにはわからない。

 母が言うには、それまで以上に祖母の仏壇の前に、ただ静かに座っている時間が多くなったそうだから、近々そちらに帰るよと夫婦の会話をしていたのかもしれない。

 昭和56年の年明け、祖父はお雑煮を食べ、三日とろろを食べ、家に来た年賀状を全部確認し、ああこの人には出していなかった、出さなくてはと改めて年賀状を書き増して過ごした。

 お正月の長時間の番組を見ては「この時期のテレビはおもしゃぐないな(面白くないな)」とこぼし、三が日を例年通りに送った祖父は、1月4日、市立病院に入院した。


 それからの日々は慌ただしかった。中学生もそう感じるのだから、両親はなおさらだったと思う。

 両親は交代で病院に泊まり込み、付き添い室などなかったから祖父のベッドの脇に布団を敷いて寝起きし、日中も自宅兼工場と病院を行ったり来たりした。

 急だった祖母の時と違い、祖父の病気発覚から入院までは大分時間があったし、その分両親も心の準備が少しずつできてきたのかもしれない。

 孫たち含め、「死」の受け止め方が、祖父の場合と祖母の場合では違っていた。

 私は一応受験生ではあったが、通っている中学から多くの生徒が通う市内唯一の普通高校であったため、妙な安心感があり、ろくに勉強をしなかった。

 だがそこは一応元々旧制中学で、山形の師範学校の予備校的な進学校。

 毎年受験で落ちる生徒はいた。

 母が病院への泊まりこみ当番の日、食事をどうしていたのか記憶はない。

 当時、私はメインとなるおかずの作り方をほとんど習っていなかった。

 母は何でも自分でやってしまう人で、私には「良いから勉強をしろ」という人だった。

 子供のころ料理が大好きで、当時も好きに変わりはなかったのだが、メインを作るのは母で、私はちょちょっと小さな副菜を作らせていただく、という形だったので、何を道徳ったらいいのかわからなかったのだ。

 たまにスーパーで買ってきたおかずに野菜を切って、冷蔵庫に母が作り置きして置いた常備菜を並べたり。

 そんな具合だったが、父も兄も落ち着かず疲れていたので、ささっとすこし食べると風呂に入って部屋に引っ込んでしまう。

 そんな風な日々だった。

 高校生の兄はお弁当も必用だったが、多分学校の売店でパンなどを買っていたのだと思う。私は中学生なので給食があった。


 その年はことさらに雪の多い冬だった。

 父は車で病院に行き、付き添いを交代できたが、母は余程吹雪だったら1メーターのタクシーか、それ程でもなければ雪をかき分けながらの徒歩だった。

 次第に疲れがたまり、工場の仕事もたまり、弱っていく両親を見ながらも、中学生と高校生には何もできなかった。

 学校を休んで病院で付き添うという事も出来ないし、仕事の帳簿計算、書類処理もできない。

 受験生の私には年始休み明け早々に模試もあったし、家の事を少しずつしながら淡々と勉強し、動揺しないことが一番求められていた気がした。


「伽耶子、じじちゃのどごさ行ぐか?」

 炬燵に入っていると、珍しく兄が話しかけてきた。

 1月15日。当時は固定だった成人の日。

 何となくつけていたテレビでは若者による「青年の主張」という番組が流れていた。

「今お母さん行ってだな?」

「んだ。お父さんは交代で帰って来て、上で寝ったがら、ひとこと言ってぐべ」

 当時反抗期真っ盛りだった兄がこんなことを言い出すのはとても珍しい事だ。

 それも一人でいる妹に自分から話しかけるなんて、中学入学以来滅多になかった。

 私たちはテレビの立派な主張を消し、父に内線電話を入れて、じじちゃのお見舞いに行ってくると言った。

「じじちゃさお見舞い持って行きたいけど、何が食べられるな?」

「何食べでも上手くないって残すげんど、多分アイスクリームだったらすこし食べられるんねがな(食べられるんじゃないかな)」


 私たちは、毛糸の帽子にアノラック、毛糸の手袋に長靴としっかり武装し、フードのひもをキュッと縛って吹雪に飛ばされないようにした。

 寒の最中、玄関のガラスはバシバシに凍り、樹氷のような氷の結晶の文様が出来ていたし、僅かな隙間から細かい風が入り込み、小さな雪だまりが出来ていた。

 玄関の引き戸を開けるとどっと細かい雪と氷の粒が全身をぱしぱしと諫め撃ち、自然の散弾に撃たれているような感触だった。

 幾らも進まないうちに顔が痛い。

 前が見えないので車もノロノロ運転で、歩いている人は皆ぽけっとに手を入れ、足元を見つめてゆっくり一足一足慎重に踏み出しながら進んでいく。

 幼い頃は兄の背中にしがみついて、守ってもらいながら吹雪の中は歩けたが、流石に中学三年生と高校二年生では、それは出来ない。

 兄と私は雪かきされた歩道を普段の半分以下の速度で歩いた。

 交差点ではろくに信号が見えない。

 白い雪の下からかすかに見える赤や緑の色を読み取り、周囲を見て車が来ないと、初めて渡る。

 だが、長井のドライバーも心得たもので、歩行者が渡ろうとしているときは信号がどうあれ止まって待っていてくれる。

 住民のほとんどが知り合いだからだろう。


 途中、全身雪まみれのまま小さなスーパーに入って、アイスクリームを買った。

 高い「アイスクリーム」ではなく、森永の『バニラエイト』ラクトアイスである。

 じじちゃへのお土産だった。

 これはまた、長井線に乗って他所に生糸の買い付けや、組合ぐるみの売り出しなどの仕事に行ったとき、私たちにじじちゃが買ってきてくれるものだった。

「おみやげだぞ」と言って紙包みごと渡されるが、みんなそれが、長井駅の売店で売られていて、じじちゃが帰りうちまでタクシーに乗る前に思い出して買ってくるものだと知っていた。

 木のへらもつけてもらって、私たちはそれを持って病院に行った。


 病院は祝日で外来が休み、裏の入院面会口から入った。

 雪に塗れたアノラックは一旦脱いで外で雪粒を振り落とし、長靴はスリッパに履き替える。

 だが靴下はぐっしょり濡れ、ジーパンの裾もぐしゃぐしゃだった。

 エレベーターで4階に行く。

 看護婦さんの詰め所に一番近い部屋。

 そこがじじちゃの病室だ。


 病室では、母がソファに座り、ボーっとしていた。

 じじちゃはベッドで眠っている。

 点滴をしているわけでもなく、色んな器械を装着されているだもなく、ただ寝ているのだ。

 疲れた顔の母は「お見舞いさ来たなが?これはまた大変な時に」と、ホッとした顔で言った。

「今じじちゃねったけど、起こして大丈夫だから、声かけてみろな。お母さんはお父さんに電話してくるから」

 やっと交代要員が来た、とばかりに母は部屋を出て行った。

 そのまま少し食堂ででも休憩してくればいい。

 私と兄はじじちゃに声をかけた。

「じじちゃ、かやこと俺来たがら」

 パチン、という音がしたようにじじちゃは目を開け、ベッドに起き直った。

 そんなに弱々しくはない。

「おお、お兄ちゃんと伽耶子か」

「アイス買ってきたけんど、食べる?」

 寒い時に冷たいアイス。

 でも祖父は欲しがった。

 ベッドの上のテーブルに置くと、自分でカップとヘラを持って、普通に食べていた。

 別に震えたり、とりおとしたりしない、しゃんとした姿だ。

「んまいな」

 でも、全部は食べられず、お兄ちゃんに「あとはお前食え」と言って渡した。


 また横になると、じじちゃは私の手を握って

「伽耶ちゃん、長井高校さ合格しろな。長井高校だぞ」

「うん。わかった」


 その間兄はにやにやしていた。

 兄は長井高を避け、もう一つ楽な高校に入って、青春を満喫してやんちゃしていた。

 長井高校は勉強が大変だ、勉強漬けだ、そう言われていたからだ。

 だが四年制の大学に行きたい私は他に考えていなかった。

 落ちる気もなかったが、こりゃ本気で合格しないとなあ、とじじちゃの声を聴きながら緊張した記憶がある。


 間もなくじじちゃがまた目をつぶって寝息を立てたので、戻ってきた母から父当てのメモを受け取り、私たちは帰った。


 じじちゃが死んだのはそれから4日後の1月19日。

 中学の帰り道、もうすぐ家だという十字路の先から、市役所勤務の10歳年上の従兄が歩いてきたのを見た時、ああ、じじちゃは死んだんだなとわかった。

 本来そんなところを就業時間中に彼が歩いていることはないのだ。

「伽耶子ちゃん、いい所であった」

「じじちゃ、死んだんべ?」

 従兄弟は驚いていたが、そんなことはわかる。

 不思議と哀しいという感情はなかった。


 これでばばちゃと一緒に居られるんだね、じじちゃ。

 ただそう思った。


「俺はこれから、弔電うちに電電公社さ行くところなんだ。伽耶ちゃんはこのまま家さ帰れ」

「あたしも電報うちに一緒に行きたい」

「駄目だ。お母さんだが、あぱとぱしてっぺ(慌てていろいろしてるだろう) 心配かけたらわりいよ」

「帰りたくないんだ」

 しょうがねえなと従兄弟は、角の文房具屋に入って電話を借り、家に伽耶子と合流したから一緒に電報うちに行く、連れて帰るから安心しろと伝えた。


 じじちゃは真冬に、私たちの前からいった。


 先年、父はじじちゃの享年を超えた。

 寒い冬にアイスクリームを食べると、凍えながら病院に通ったあの年の冬を思い出す。

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